第31話 「平晟、ってのは何なんだよ……」
村雨姉妹の救出から五日が経った、連休最終日の昼前。
ここまで来ると、現状は臨終前の走馬灯や昏睡中の幻覚とは考えづらい。
その一方で、自分が半世紀前に戻っている、とも言い切れないのが困りものだ。
ここ数日で激増した溜息を吐きながら、リビングのテーブルを眺める。
そこには、姉の鵄夜子が作ってくれたらしいラップで包んだオニギリと、今日の朝刊が置いてある。
そして新聞の日付欄には、今日も見慣れない文字が印刷されていた。
「平晟、ってのは何なんだよ……」
新聞の日付は1993年――平晟五年の五月五日。
読み方は俺の知る「へいせい」と同じなのに、漢字が微妙に違う。
最初に気付いた時は誤字だと思ったんだが、新聞もカレンダーも本の奥付も保険証も、全てがこの元号になっていた。
この成の上に乗っている余計な日は、一体どこから来たというのか。
「元号の字が違う、ってだけならいいんだが」
この数日、現状把握のため図書館に通って色々と調べてみた。
とりあえず、基本的には俺が知る歴史と殆ど変わらないようだ。
細かい部分に変化があったとしても、大筋は一緒と考えていいだろう。
昭和・大正・明治といった、過去の元号には変化がない。
第二次大戦で日本は負け、明治維新は薩長主導で起きている。
関が原では東軍が勝つし、応仁の乱は何が何だかわからない。
日本史と同様に、世界史でも違和感のある記述は特になかった。
大河の流域から文明が生まれ、西暦はキリストと共に始まる。
ローマ帝国もモンゴル帝国も第三帝国も、全て出現して全てが滅ぶ。
各国の畜生丸出しな植民地政策も、世界の特高警察アメリカも相変わらず。
大戦後の東西冷戦も、ベトナム戦争も、各地の独立闘争も起こるが……
「ズレ始めるんだよなぁ、ここ数年で急に」
1990年前後から、知らない人物や出来事がチラホラと混ざり始める。
人物ならば、極右文化人の海鹿島公紀、新興宗教『浄玻璃清々道』教主の迩天八洲、人気アイドルグループのテールラリウムなどは、俺の知っている歴史には登場しない。
出来事としては、犯人が未逮捕のまま犠牲者が二十人に達した『首都圏連続殺人』が進行中。
あまりの発生頻度に、犯人は複数いるのではないかとの説が流れ始めている。
後の世で「脱法ドラッグ」と呼ばれるような薬物が、早くも流通しているのも気がかりだ。
その他、記憶にない事件や事故は結構な数が存在している様子。
海外ではまず、イラクのクウェート侵攻が起こらず、湾岸戦争が勃発していない。
ドイツは統一され東欧での民主革命は続発したが、ソヴィエト連邦は危うい状況のまま崩壊を免れている。
他にも細々と、南米やアフリカで謎めいた革命が起きて国名が変わったり、聞いたことない選手が百メートル走の世界記録を更新したりと、俺を混乱させる情報が山盛りだ。
「パラレルワールド、ってやつかね」
古いSF作品によく出てきた、並行世界という概念。
物理学的な話になるとついていけないが「現実によく似た別の現実」や「あり得たかもしれない可能性の世界」と考えるなら、納得はできないが理解はできる。
どうして自分が巻き込まれたのか、についてはサッパリわからないが。
過去世界ではなく並行世界ならば、時間移動SFの障害として定番の、タイムパラドックスについては悩まなくてよさそうだ。
瑠佳の運命を盛大に変えた時点で悩んでも無駄、ってのはあるがそれはそれ。
未来がどう捻じ曲がるかわからない、という理由でコチラの選択肢を減らされるのは厳しいので、それを気にしないで済むだけでもデカい。
自分の感情を最優先に生きる姿勢を貫けば、この先も何度となく荒事に遭遇するだろう。
そこで、命のやり取りにまで縺れ込んだ時、迷わず「ぶっ殺す」を選べないと、コチラの不利は計り知れない。
事後処理が面倒だから、可能な限り死人を出さないつもりではある。
だが、「なるべく殺さない」と「絶対に殺せない」の違いは莫大だ。
「とにかく、やれることやっときますか」
永遠にループしそうな思考を断ち切るため、決意の言葉を声にした。
鵄夜子は友人と会う予定があるとかで、朝から出かけている。
俺の予定は、電話帳で調べた近場の店を回っての、自宅用防犯設備の調達。
性能や価格や評判をすぐに確認できて、注文も数回のクリックで終わるネット環境のある生活が、とんでもなく便利で快適だったと思い知らされる毎日だ。
インスタントの味噌汁を用意し、鵄夜子のオニギリを片づける。
一つは焼きたらこ、もう一つは肉味噌と変化をつけてくれたり、男子高校生の食欲を想定して大きく作ってあるのが有難い。
気にもしていなかった細かい工夫が、今となってはやたらと沁みた。
歯を磨き、寝間着から適当に着替え、髪に櫛を入れて簡単に整える。
昔の自分がどんなファッションだったか、正直よく覚えていない。
クローゼットの中身からして、動きやすい、汚れが目立たない、周囲から浮かない、といった基準で服を選んでいるのは、過去でも未来でも変わらないようだが。
ジーンズにカエルが池で溺れてるイラストのTシャツ、その上に薄手のリネンシャツを羽織り、無難な恰好に落ち着かせる。
Tシャツはあまり無難じゃない気もするが、何でか変な柄しか見当たらない。
走ったり跳んだり蹴ったりする可能性も考慮して、足元には履き慣れているであろうスニーカーを選ぶ。
バッグは必要ないだろうから、財布とスマホ――を探してしまい、苦笑しながら頭を振った。
スマホが一般化するのは、今から十五年くらい先だ。
「ポケベルでも用意するべきか……PHSはまだサービス開始前だっけ?」
スマホどころか、携帯電話すら特殊なガジェット扱いな時代に戻ってきた事実に、中々馴染めないままだ。
しかし、今更ポケベルの使い方を覚えるのも、ちょっとどうなんだ感は否めない。
中高生の頃に使ってなかったから、文字への変換とかサッパリわからないぞ。
携帯電話を買ってしまう手もあるが、アレも今頃はレンタルのみだったような。
こういうのも調べておかないとな――本当に何だかんだと、やることが多すぎる。




