第2話 「これが走馬灯ってやつなのか」
吹き込んだ突風がカーテンを翻し、机の上のプリントを舞い上げる。
床を滑っていくB5サイズの紙を目で追っていると、ボンヤリとした頭の中で不意にある単語が閃いた。
「トラバーチン、だ」
意識が途切れる直前に考えていた、天井の模様を呟いてから周囲に視線を走らせる。
大きな黒板、数十セットの机と椅子、ズラッと並んだロッカー、壁に貼られた掲示物。
左側は一面に広い窓が並んでいて、右側は廊下につながる引き戸が二箇所。
どうやら病院ではない――というか学校の教室だな、この独特の雰囲気は。
半袖シャツの自分と、肌で感じる気温からして、季節はおそらく春と初夏の間だ。
ピーッ! ピピピピッ!
ホイッスルの音が、どこか遠くから聞こえる。
体育の授業をしているのかと思ったが、黒板の上の時計を見るともう放課後だ。
どこの部だかわからないが、校庭で運動部が練習中なのだろう。
風に飛ばされたプリントを拾い上げると、数学の小テストだった。
一年三組、薮上荊斗――俺の名前が、俺の字で書いてある。
数学は得意じゃなかったから、75点は健闘していると言っていい。
「テストの内容からして、高校……か」
半世紀前に自分が通っていた、神楠高校。
教室はこんな感じだった気もするし、全然違っていたような気もする。
全ては遥かな昔の、余りにも遠すぎる記憶の中にしかない。
当然ながら懐かしさはあるが、それとは別の感情が心を占めていた。
哀しさというか、寂しさというか、遣る瀬なさというか。
どれだけ望もうと、もう――戻れない場所、帰れない時間、届かない物事。
そういったものに直面させられ、感情が激しく乱されているのを自覚する。
「これが走馬灯ってやつなのか」
死ぬ間際のサービスにしては、随分と意地の悪い内容だ。
もっとこう、楽しかったイベントの最中とか、嬉しかった瞬間の再現とか、そういうのを用意してくれてもいいんじゃないか、と思ってしまう。
もしかすると、これは「やり直したい」と強く願っていたから、だろうか。
人生をやり直せるポイントはココだ、と深層心理が余計なお世話で教えてくれているのかも。
プリントを畳んでポケットに入れ、半分ほど開いた窓の方へと近づいていく。
ガラスに薄っすらと映る少年は、微かに見覚えのあるかつての自分だ。
短くも長くもない髪を軽く掻きあげると、柔らかな感触が指の間をサラリと抜けていく。
この十年ほど付き合ってきた、強く短い白髪頭とはまるで別物だ。
肌にはシワやシミもなく、目の周りに居座っていた黒ずみと弛みも消えている。
この頃の顔立ちはそう悪くはないと思うが、客観的な評価はどうだかわからない。
鏡で見慣れたジジイな姿との落差もあって、自己採点はだいぶ甘くなっているかも。
身長も五センチか六センチ低いし、筋肉量は全盛期の半分以下といった辺りか。
手の平にバーベルダコがないし、手の甲の拳ダコも存在せず、どちらもツルツルだ。
試しにハイキックを放っても、思ったように脚が上がってくれない。
それどころか、バランスを崩して尻餅を搗いてしまった。
十五歳だった自分は、こんなにも頼りない生物だったのか。
パパラパ・パ・パ・パ・パラパパ・プワワァ~ン♪
吹奏楽部の誰かが吹いていると思しき、トランペットの音色が流れてくる。
単に下手なのか、ふざけたアレンジを入れているのか、ヘボい感じになっている『ゴッドファーザー』のテーマ。
ああ、そうだ――半世紀前の今日、ここで確かに、この曲を耳にした。
当時は雑音でしかなかったであろう、記憶の澱の中に沈んでいる、本当にどうでもいい一シーン。
こういう、どうってことない日常の一場面を振り返るのが、最後の瞬間を彩るのに相応しく思えてきた。
不意に視界が滲んで、全てがボヤけていく。
生ぬるい雫が何滴か、左右の頬を流れ落ちていった。
何年ぶり――いや、何十年ぶりかで経験する、感情の乱れで湧き上がる涙。
死を目前に感傷的になっているのか、それとも何か別の理由があるのか。
にしても、このシチュエーションで誰も出てこないのはどういうことだ。
最期に会いたい相手すらいない人生、ってのは流石に虚無すぎるだろう。
とはいえ、どんな同級生がいたのか思い出せないし、担任の性別すら記憶にない。
やはり俺みたいな男は、独り淋しく終わるのがお似合いなのか――
と、そこで廊下を走ってくる何者かの気配を察知し、反射的に警戒態勢をとる。
ただ急いでいるのではなく、追われていたりパニックになっていたりの、焦燥感に囚われた人間に特有の乱雑な走り方――
いや、走馬灯の中でも反応するほど、異常事態に敏感なのは我ながらどうかと思う。
軽く自嘲していると、教室のドアが勢いよく開かれて派手な音を立てた。
ポニーテールの黒髪を揺らして駆け込んで来たのは、制服姿の少女。
この学校の女子用の制服なんだろうが、記憶が曖昧なので定かではない。
年齢的には今の自分と同じくらいなので、たぶん同じクラスの生徒だろう。
荒く息をしているのは全力で走ったせいではなく、混乱した心理状態が表出しているように見えた。
誰かと喧嘩したとか、先生に怒られたとか、そんなところだろうか。
こちらに気付いたらしく、驚いた様子で赤らんだ顔を跳ね上げた彼女は――
唇を震わせ、洟をすすり、両目を充血させて泣いていた。
濡れた瞳に正面から見据えられる俺もまた、流れた涙を拭わないままだ。
二人で顔を見合わせ泣いているのは、傍から見ればかなり異様な絵面だろう。
ついつい笑いそうになるが、対面している相手の纏った深刻な気配に、緩みかけた表情を引き締めた。
ただのクラスメイトではなく、もう少し濃い関係性の相手に思える。
さて、この子は誰だっけ……と、記憶の底の堆積物を掻き混ぜていたら、向こうから鼻声で問いかけてきた。
「なっ……何でっ、泣いてん、のっ」
「それはこっちのセリフ、でもある」
鼻声でこそなかったが、昔の俺はこんなだっけ、と困惑する声が出た。
記憶が曖昧だから、適当にそれっぽい声で再生されてるのかもしれないが。
いや、今は俺のことより、この何となく見覚えがある女子高生についてだ。
走馬灯がワザワザ登場させたってことは、俺にとって重要な人物に違いない。
泣き顔でも不細工絶好調にならない辺り、容姿はかなり整っていると予想される。
親密さに乏しい空気からすると、恋人や友人の距離感ではなさそうだ。
しかしながら、こんなイベントは過去にあっただろうか……
「んっ、なっ、泣いてっ――ふっ、うっ、ないしっ」
「お、おぅ。そうか」
ツッコむまでもなく、まぁまぁのマジ泣きだ。
だが、逆らっても仕方ない気配を読み取り、否定しない返事をしておく。
泣く子とチートには勝てぬ、みたいな諺もあったしな。
このまま立ち去るのも何か違う気がして、グズグズと泣く少女が落ち着くのを待つ。
自分よりダイナミックに取り乱している相手がいるせいか、いつの間にか俺の涙はすっかり乾いていた。
二分ほど待って、泣き声から湿度が減ったと判断した俺は、改めて質問を投げる。
「何か、あったのか?」