第18話 「刺さってるなぁ、ヌップリと」
「あぐっ――」
蹴り飛ばされた俺は、短い滞空時間の後で床を転がり、背中から壁にぶつかって止まる。
衝撃を和らげるために自ら跳んだら、勢いをつけすぎてしまった。
ガードしたせいで、左腕が少し痺れているようだ。
肩を回しながら立ち上がると、全身をプルプルと震わせている芦名と視線がぶつかった。
「んおっ……なっ、なななななっ……」
「なんじゃこりゃあ! はヤメとけよ。腹でもないし」
「おまっ、ふざっ……なん、何でこんっ――刺さってるじゃっ⁉」
「刺さってるなぁ、ヌップリと」
芦名と対峙しながら後退していたのは、漠然と逃げていたワケじゃない。
さっき投げ捨てたスギの短刀を、さりげなく回収するのが目的だった。
芦名が蹴りのモーションに入る直前、左腕でガードを固めながら右手で刃を構え、脚が来るであろう位置で待つ。
その結果が、右の脛を刃渡り二十五センチが貫通している状態だ。
「あああっ、ありえねぇ! マジでっ! マジありえねぇ、コイツッ!」
「現実を直視しろ。ゴリラでも思い付く程度のイカサマは、人間サマも使うんだよ」
蹴りが苦手な演技を見せた芦名と同様に、俺も怪我したフリをしていたのだ。
左腕と右膝にダメージが入っているように、動きを鈍らせたりワザと転んだり。
こうした欺瞞は「騙せたら儲けもの」くらいの感覚で使う基本的な技能。
芦名にしてやられたムカつきもあって、即興で速攻のリベンジを仕掛けてやった。
「どうすっ、どうすんだぁこれ⁉ ぅおおぉおい、おぉおおおおおい!」
「でけぇ図体して、ピーピー喚くな」
蹲ってジタバタしながら喚き散らす芦名が、ちょっとばかり鬱陶しい。
貞包が入れた何かしらのスイッチは、いつの間にかオフになってしまったようだ。
傷を無視して暴れるような暗示を重ね掛けされても困るので、コイツには退場してもらうとしよう。
「めぉおおおおおっ――」
「シッ!」
これもさっきのお返しだとばかりに、左側頭部にミドルキックを一閃。
現在の俺の筋力では、頭蓋を砕いたり首を折ったりには至らないだろう。
だとしても、脳を盛大にシェイクして意識を消失させるには十分だ。
芦名が白目を剥いて沈むのを確認した俺は、部屋を見回して違和感に気付く。
「一人、足りないな」
芦名と同じく、スギも俯せに倒れたままで動かない。
とはいえ、背中が僅かに上下しているので、息はしているだろう。
というか、最後に見た時の姿勢と、微妙に変わっている気がする。
下手に動くと追撃が来る、と判断しての狸寝入りだな、これは。
門崎は書類棚の陰に体を張りつかせ、茫然自失の体で視線を彷徨わせている。
だがその姿は実のところ、とにかく自分に矛先が向かないようにしている、小狡い計算に基づいた擬態だろう。
瑠佳はそんな連中を撮影しているが、何故かテンション高めだ。
暴力や流血を至近距離から目の当たりにして、怯えるかドン引きするかのどちらかだと予想していたが、どうやら変な扉を開けてしまったらしい。
汐璃は室外に避難させたのでいないのは当然として、貞包はどこに消えたのか。
いや、逃げた先は隣の部屋だとわかってはいるが、この期に及んでその選択をする理由がわからない。
「脱出用の縄梯子でもあんのか、なっ、とっ」
「んごっ、がぬっ――」
独り言ちながら隣室へと向かう途中、気絶したフリを続けるスギを仰向けに転がし、鼻面とアゴに爪先を突き込む。
再び鼻血を噴いて動かなくなったスギから離れ、門崎の方へと近づく。
自分が次の標的だと察知した門崎は、直前までの呆けた演技を捨て去ると、寸毫の迷いもなくスピーディな土下座を決めた。
「……何のつもりだ」
「僕はね、争いごと全般に向いてないんで……だから、こういう場面ではすぐに白旗を上げるんですよ」
「娘の見ている前でも、お構いなしに土下座か」
「プライドなんて、一文にもなりゃしませんからねぇ」
顔は見えないが、声色からは自分も含めた何もかもを突き放した、投げ遣りな気配が伝わってくる。
この濃厚な虚無感と厭世観がどうやって熟成されたのかは興味深いが、おそらく本人に聞いても説明できる類のものではないだろう。
瑠佳を見ると、苦虫をダース単位で噛み潰したような顰めっ面でビデオカメラを回していた。
「なぁ、さっきコイツを思いっきりブン殴りたいって言ってたけど」
「んー……今はあんまり、そういう気分でもない、かな」
無様に土下座をキメる父親の姿に、感情の行き場を失っているのだろうか。
身を起こした門崎は、正座を崩さないまま瑠佳の方を向いて、真心の一ミリも籠もっていない微笑みを浮かべる。
「はぁ……」
こちらに歩いてきた瑠佳は、溜息を一つ吐いて門崎を見据える。
それから無言で俺にカメラを手渡すと、不意に歩幅を大きくして駆け出す。
そして、父親の顔にローファーの靴底を真正面から叩き込んだ。
「殴るよりも、蹴っ飛ばしたい気分だった!」
「その気持ちはまぁ、わからんでもない。もう一発、いっとくか?」
「汐璃の代わりに、やっときたい気もするけど……それだと、もっとフルパワーで行く必要があるかも」
「じゃあ、プチサメ子の分は俺がやっておこう」
「いや待った、おいっ――」
娘の蹴りで顔面の右半分を汚したクソ親父が、抗議しながら立ち上がる。
いちいち同情心の湧かない野郎だな、と思いながら両手をクロスさせるようにして顔を守る門崎を見据え、少し腰を落とす。
「うっぼ――」
ガードの下を潜り、鳩尾を狙って右のアッパーを撃ち込む。
そして素早く腕を引くと、前のめりに倒れこんでくる門崎のアゴを目掛け、右肘をカチ上げた。
「もんっ!」
叫び声にもならない変な声を漏らし、門崎はグルッと半円を描いて転倒した。
口を開けた状態でエルボーが入ったせいか、唇が裂けて血塗れの歯の欠片がいくつか散らばり、中々に猟奇的な絵面だ。
まったく受け身を取らずに床で後頭部を打ったせいか、手足がビクンビクンと嫌な感じに痙攣している。
「……やりすぎたか?」
「このクソ馬鹿は、あんまり痛い目に遭ったことがないから、調子乗ってたんだと思う……これも、いい薬になるんじゃないかな?」
「そうなれば俺も、薬剤師として鼻が高いな」
調剤した身としては、劇薬もしくは毒薬という気がしなくもないが。
とにかくこれで、応接室の敵対的な存在は全員が行動不能だ。
念のため、下の事務所から持ち出しておいた結束バンドでもって、全員を後ろ手に回して両手の親指を縛っておく。
その最中に、スギの左の小指が欠けているのを発見した。
今回の不始末の責任を取らされたら、ここからあと何本指が減るのだろうか。
「さて、あとは逃げた社長をブッ飛ばしたら大体終わりだ」
「うん……でも、ホントにそれで終わりになるの、かな」
「まぁ、復讐だの何だのが不可能な状況にしとくから。もし不安だったら、物理的に何もできないようにする、って方向性もあるが?」
「それってつまり……こういう?」
首をサッと掻き切る悪役レスラーっぽいジャスチャーに、俺は黙って頷き返す。
瑠佳は舌を噛んだまま笑おうとしたような、味わい深い表情で頭を振った。
「この方向は、よくないんじゃないかな」
「同感だ。とにかく、心配はいらん。俺が大丈夫って言ったんだから、もう大丈夫」
「ははっ、頼りにしてるよ……ケイちゃん」
久々に普通の笑顔を見せながら、瑠佳が背中を軽く叩いてくる。
その柔らかい手に押されるようにして、俺は貞包が待つ隣室へと足を踏み入れた。