第1話 「ここで終わり、か……」
眠りから目覚めたのか、それとも気絶から回復したのか。
どちらかわからないけれど、とにかく意識があるのは間違いない。
低く響いている空調のモーター音が、やけにうるさく感じられる。
消毒液と猫の小便と古い油を混ぜて、水で薄めたようなニオイが鼻についた。
見舞いの花なんて意味ないと常々思っていたが、この不快なニオイを軽減する効果はあるのかもしれない。
そもそも入院して以来、誰も見舞いに来ちゃいないが。
苦笑混じりの溜息を吐こうとするが、浅く短い息が吐き出されるだけだった。
「ふっ、んくっ……ブフッ、ゲホ、ゲッ、エッホ、ゴッ、ゴフッ、グブッ……」
咽喉に何か詰まった感覚の後、勢いのない咳が連続して出て、いつまでも止まらない。
苦しいのだけど、この苦しさにも慣れてしまって、ただ治まるまで耐えるばかりだ。
今回は二分ぐらいで落ち着いた――強張っていた筋肉が緩むのを感じながら、ゆっくりと呼吸を整える。
咳と共に胸の奥から滲み出てくる鈍痛が、いつもより重たさを増しているようだ。
数年ほど前から、加齢に伴って進行する心身の衰えは自覚できていた。
にしても、そこに病気が重なった途端、ここまで酷い有様になるとは。
高齢者扱いされる歳にもなったし、自分の最期についても何度か思い巡らせていた。
おそらくは癌やら脳溢血やら心不全やら肺炎やら、老人にありがちな死因が待っているのだと、そう予想していたのに。
「どう、して……こんな……」
行き場のない恨み言が、嗄れた声になって漏れる。
拗れた風邪みたいな症状が出始めたのは、半年ぐらい前だった。
いつまでも治らないんで、近所の病院で診察を受けてみたのが三ヶ月前。
要領を得ない説明の後に言われたのは、ヤブ医者の常套句である「しばらく様子を見ましょう」だ。
危険を感じて別の病院に行くが、そこでも匙を投げられたようで、デカい病院への紹介状を渡されてしまった。
血を抜かれたり尿を調べられたり全身をスキャンをされたりと、様々な検査の果てに医者から告げられた病名は、聞き覚えのない長々とした横文字だった。
程なくして入院することになり、それから一度も自宅に戻れないまま現在に至る。
未だに覚えられない、俺を蝕んでいるうんたらかんたら症候群は、とにかく致死率が高くて有効な治療法がない、最近になって存在が確認されたレアな難病らしい。
治らないのに症状の進行は緩慢で、患者はただ痛み止めや睡眠薬を大量に処方されながら、日に日に衰弱して死に至るのを待つしかないそうだ。
スマホで病名を検索した後、流石にしばらく落ち込んだ。
どうせなら、数日で死に至るとか昏睡状態に陥るとか、そういう劇症型であってくれた方が、ジワジワと嬲り殺されるより幾分マシだ。
こんな半死半生の状態がいつまで続くんだ、と思っていたんだが――
「そうか……ここで終わり、か……」
そんな確信が胸の内を染め上げ、途切れ途切れの小声になって紡がれた。
さっき咳き込んでから、どうにも上手く息が吸えなくなっている。
放って置けば薄れるはずの痛みが、いつまでも居座って消えてくれない。
ここ最近では珍しいほど頭が冴えているのに、四肢に力がまったく入らない。
指先は辛うじて動かせるけれど、ナースコールまでは届かなそうだ。
急激に落ちた視力は、見飽きた天井の模様すらハッキリと認識してくれない。
昼なのか夜なのかも曖昧な、薄暗い病室のベッドで一人きりのまま、俺は臨終の瞬間を迎えるようだ。
あっという間だったような気もするし、やたらと長かったような気もする。
人生について語った言葉は無数にあるが、自分のこの心境を過不足なく表現できるものは、きっとどこにもありはしない。
悲しい。
寂しい。
虚しい。
苦しい。
各種の思考が渦巻いているが、どれも今の気分とイコールとは言い難い。
何というか、様々な負の想念が寄り集まった中心に、もっと大きなものが居座っているような。
これもどう言えばいいのかわからないが、たぶん「失望」とか「後悔」とか、そんな感情に近いんじゃなかろうか。
ここまで独身を通してしまい、家族はおらず親戚とは絶縁状態。
恋人やそれに類する相手も、友人と呼べるような存在もいない。
ペットは飼っていないし、後世に残したい逸品なども未所有だ。
貯金は結構あったけれど、今回の入院と治療で殆どが消滅した。
仕事の引継ぎは終わっているし、葬式や墓などはどうでもいい。
やり残したこともなければ、会って別れを告げたい人もいない。
あとは静かに消えるだけなのに、何故に落ち着かないのだろう。
俺には何もなくて、何者でもないのだから、どうして後悔など――
「何も、ない……のは……何も、しなかった、から……」
目を逸らしていた事実は、言葉にすると存外に重たい。
こうなるのも覚悟して、自分で選んだ道のはずだった。
孤独も退屈も、当然の結果として受け入れていたのに。
底無しの空虚を直視させられ、今更ながらに焦っているというのか。
湧き上がってくる失望や後悔は、虚ろな日々を歩んだ自分への感情だ。
かつての俺は、いくつもの挫折や喪失を味わい尽くした末に、色々なことを諦めてしまった。
人生を楽しみ、日常の中に喜びを見出す。
理想を追って、心の赴くままに行動する。
信念を曲げず、自分なりの正しさを持つ。
幸福を求めて、なるべく平穏に生活する
誰かを愛して、愛される存在でありたい。
希望を抱いて、物語の主役だと自覚する。
これらは全て、自分には無縁なのだと言い聞かせて。
深く考えず、感情を抑え、流されるまま、ただ淡々と生きる。
与えられる仕事をこなすだけで、他には何も必要としない。
そんな環境を当然だと受け入れていたが、ただの自己暗示に過ぎなかったようだ。
この期に及んで、歪められた魂が血を流しているのを感じる。
今更になって気付いても、どうしようもなく手遅れなのだが。
雑に生きるにしても、多少なりと自分で選ぶべきだった。
次から次に現れる障害も、逃げずに蹴飛ばすべきだった。
子供の頃は、それなりに恵まれた環境で、自由に暮らしていたハズだ。
だが中三の時に両親を事故で失い、翌年には姉も失踪して家族を全て失う。
その後、タチの悪い親戚に家や財産を奪われ、大学への進学も不可能になって。
目的もなくフリーター生活をしながら、恋人や友人に騙されたり裏切られたり。
いつの間にか連帯保証人にされていて、数年間漁船に乗せられるハメにもなった。
そこで船員のまとめ役だったのが、各種格闘技をマスターしたと自慢している男だ。
俺より十歳くらい上で、本名か綽名か不明だがチャクラと呼ばれていた。
下っ端だった俺は、訓練の相手としてチャクラにロックオンされてしまう。
そして毎日のように、殴る蹴る締める投げるの暴行を受け続けていたのだが――
「あれ、で……鍛え、られる……とは、な」
やがて、チャクラの動きに対応できるようになり、反撃すらも可能になった。
背負わされた借金の大部分を返した頃、チャクラから新たな仕事を紹介される。
それは派遣型の用心棒といった形態の会社で、主な業務内容は警備や護衛。
断る理由もなかったのでそこで雇われ、あれから数十年が経ってしまった。
社長の指示で様々な武術や格闘技を学びながら、あちらこちらに派遣される日々。
仕事相手はワケあり芸能人、潜伏中の詐欺師、反社集団の家族、正体不明の老人など。
報酬は良かったが、自身の技能をフル活用したことは一度もなかった。
入院直前まで鍛錬を怠らなかったが、それも結局は無意味に終わるようだ。
思い返してみれば、この半世紀ほど延々と流され続けているような。
それなりに浮き沈みはあっても、自発的に事を起こした記憶がまるでない。
自暴自棄と思考停止に身を任せていたら、ちょっと荒事が得意な脇役のまま全てが終わってしまった。
一言で表現すれば「ハズレ」とか「カラッポ」とか、そんな感じの人生。
薄暗い感情が泡のように湧いては、次々に弾けて頭を濁らせる。
「せめて……あの時、に……」
あの時とは、いつのことだろう。
どこからなら、やり直せるのか。
意識の濁りが徐々に酷くなってきて、どうにも考えがまとまらない。
息苦しさと胸の痛みも、これまでに経験したことのない強烈さだ。
視界が狭まり、フッと暗転したかと思うと、全てが白く染まった。
そういえば、いつも見ている天井の、あのグネグネな模様は何て名前だったか――