皇帝の愛妾
俺はこれまで、普通の通路を歩いているつもりだった。それは、実は隠し通路だったという事実を表に出て、知ることとなった。だから、俺は誰の目にも移ることなく、皇帝アイオーン様の元に行けたのだ。
もうやらなくていいとはわかっていた。俺は堂々と表を歩いて、アイオーン様の元に行けばいいのだ。ハガルの使い、みたいな顔をしていればいい。
だけど、人目を避けた。夜遅かった。もっとはやく動き出したかったけど、やっぱり、私室で準備していれば、色々と悩んだ。
鏡に映る自分は男だが、男ではない。ハガルと同じ、どっちつかずだ。だけど、ハガルとは違い、俺は女の部分が目立つようになっていた。それをどうにか隠していて、それが息苦しいことがあった。
ハガルはいう。
「そんなことしなくても、偽装すればいいではないですか。体系の偽装は簡単ですよ。触った感触も偽装出来ます。顔はなかなか高度だから、お勧めしませんが」
ハガルの顔も偽装だと教えられたが、信じられなかった。触った感触も本物みたいだったからだ。
いつもの通り、胸を隠して行こうか迷っていたら、外は暗くなっていた。だけど、アイオーン様はすぐに死ぬなんて思っていない。言われた時は焦ったけど、まだ寿命がある。俺もそれなりの実力だからわかる。
結局、外は暗いから、秘密裡に隠し通路を使って、アイオーン様の私室に行く。
とても広くて、一人で暮らすには部屋数の多い私室をアイオーン様は使っている。後で知ったことだが、本来、ここは皇帝家族が暮らす場所だ。何か理由があったのか、アイオーン様とメリル様は別居状態だ。メリル様は別の所で子と孫と暮らしているという。
だから、夜遅くに俺がやってきても、妻メリル様に見とがめられることはない。
ハガルも予告なしに行くから、アイオーン様は怒ったりしない。皇帝と筆頭魔法使いは密な関係だ。お互い、約束なんかしない。時には友達のように過ごしている。
だけど、今、ハガルはいない。俺はいつもの通りに音をたてて入る。
アイオーン様は酒を飲んでいた。こういうのは、初めて見た。
「なんだ、ハガルか。今日は酒に付き合ってくれるのか?」
「ごめん、ハガルじゃ、ない」
「っ!?」
アイオーン様は机を蹴るようにして立ち上がった。そのせいで、酒が入ったコップも瓶も倒れる。高価な床の敷物が真っ赤になった。よりによって、赤ワインを飲んでたんだ。
帝国では、赤ワインは嫌われている。昔、帝国が滅びそうになったことがあった。皇族が乱れ、貴族の言いなりとなった。神殿は魔法使いよりも権威を高くしたいばかりに、貴重な書物を焚書した。そうして、どんどんと帝国は聖域を穢し、滅びようとしていた。そんな時、一人の皇女が立ち上がった。妖精憑きの皇族マリィだ。マリィは、赤ワインに魔法をかけた。一見すると普通の赤ワインだ。だが、罪をおかした者が飲むと毒杯となる。魔法の赤ワインを使って、マリィは罪をおかした皇族、貴族、聖職者まで殺したのだ。こうして、帝国は聖域の穢れを取り払い、蘇った。しかし、この事から、帝国では赤ワインは罪の飲み物とされ、嫌われた。
皇帝アイオーン様が飲むのだから、高価な赤ワインだろう。だけど、わざわざ好き好んで飲むものではない。ハガルは大好きだけど。
私はすぐに時間を逆戻らせ、汚れも、赤ワインが零れた事実もなくした。だが、さすがにそれを飲もうとは、アイオーン様でも思わない。ほら、一度は零れて汚れたんだから。
だけど、俺は気にしない。コップに戻った赤ワインも、瓶に入った赤ワインも飲み干した。
「こら、そんな飲み方をしない!!」
「本物のルキエルは、こういうことが平気だったんだ。だったら、俺もこう飲む」
「君は、言葉遣いを乱暴にしても、そんなことしても、女だ」
真っすぐ、熱く見つめられて、俺は全身が熱くなるのを自覚する。酒なんかでは酔わない。だけど、酒を飲んだから、酔った気分になる。
アイオーン様は俺を引き寄せた。胸に抱かれると、幸福を感じる。ずっと、ここで抱きしめられたい、そんな妖精憑きの本能が前に出てしまう。
「もっと、強く抱きしめてほしい」
「い、イヤ、ダメだ!!」
理性を総動員して、アイオーン様は俺を離した。だけど、俺は抵抗して、縋った。
「どうして? ハガルは言っていた。俺と皇帝は仲良くしたほうがいいって」
「っ!? あいつ、なんつうことを教えるんだ!! 仲良くする方法は色々とある。私とハガルだって、友達のように仲良くしている」
「俺は、こうしたい」
容赦なく、アイオーン様の胸に飛び込む。それがいい。とても気持ちいいのだ。
今なら、ハガルの気持ちがある。これは、もう、どうしようもない。肌を感じて、匂いをかいで、報われるように、全てを捧げたくなる。
最初は、アイオーン様は俺の両肩をつかんだ。どうにか、俺を離そうとしたのだ。俺はただ、くっついているだけだ。力もかけていない。アイオーン様がちょっと押せば、俺は簡単に離れる。
だけど、アイオーン様はそこから、両手を俺の背中にまわした。
「嬉しい」
そう言った途端、アイオーン様に激しく口づけされた。
早朝に起きてみれば、ベッドから離れた場所で、アイオーン様が頭を抱えていた。その向かいにハガルが優雅にお茶を飲んでいた。
「謀ったな!!」
「えー、そんなつもりはない、とルキエルにも言ったのにぃ」
「私とルキエルを弄んで、楽しんでただろう!!!」
「家族ごっこしてたのにぃ。私は、アイオーン様とルキエルを使って、家族を疑似体験していただけですよ。楽しかったですが、今日で終了ですね」
「っ!?」
ハガル、心底、残念そうに溜息をついている。本当に、俺とアイオーン様を使って、家族ごっこしてたんだな。相変わらず、ハガルのは、壮大だな。皇帝をも家族役にするって、普通、ありえない。
ハガルが疑われるのは仕方がない。ハガルの日頃の行いだ。人の弄んで、時には破滅させるのだ。そういう話を俺も聞いていた。
「それで、ルキエルとの関係はどうしますか? このまま、ルキエルを隠れた皇帝の娼婦にしますか?」
「それでも、ルキエルのことを娘と思っているのか!? 父親ならば、まずは、娘を傷物にした男を怒るくらいのことはするだろう!!」
「霞食べて生きているわけではありませんよ。赤ちゃんは鳥が運んでくる、なんて子どもだましを教えません。それを悪だなんていう奴らこそ、愛人やら娼館から、いっぱいだ」
嘲笑うハガル。それは、アイオーン様に言っているのだろう。アイオーン様は悔しそうに顔を歪める。
「ルキエルは魔法使いだ。男として表に出ている」
「また、旅に行かせればいい。魔法使いをしばらくお休みすればいい」
「男としての生涯をお前はルキエルに押し付けたというのに?」
「ルキエルを引き取った時、言ったでしょう。女になりたいというなら、裏方に回らせる、と。今も、その考えは変わっていません。ルキエルが望むなら、皇帝の側室を許します。いいではないですか。ルキエルは妖精憑きです。これまでの側室や愛妾のように、簡単に死ぬことはない」
「ルキエルを危険な目にあわせるわけにはいかない。だったら、隠れて」
「私だって、隠したくなかった。出来るなら、堂々と家庭を持ちたかった。だけど、筆頭魔法使いはそれが許されない。気づいたら、欲しいもの全て、隠して、囲っていた。ルキエルも同じです。あなたがそう言ったって、ルキエルは欲しがる。力の強い妖精憑きは、執着も恐ろしい。知っているでしょう」
「………」
生涯のほとんどを皇帝アイオーン様はハガルと過ごしている。逆を言えば、アイオーン様はハガルの良い部分も最悪な部分も見て、知っているのだ。
誰よりも、力の強い妖精憑きの執着をアイオーン様は知っている。
「ルキエル、いつまでも盗み聞きはいけません。こちらに来なさい」
「っ!?」
聞かれたという事実に、アイオーン様は赤くなったり青くなったりする。聞かれて恥ずかしいこと、まずいことを話してしまったのだ。
だけど、どんな話でも、俺は気にしない。俺のためを思ってのことだから嬉しくて、俺はアイオーン様の隣りに座る。
「ルキエル、ハガルの隣りに座りなさい」
「それでいいですよ」
「ここがいい」
私だけではない。ハガルにまで言われてしまったのだ。アイオーン様はそれ以上、拒絶出来ない。
「アイオーン様が決めてくれることでいいです。隠れた関係でも、魔法使いをやめることでも、何でもいい。アイオーン様を全身で感じていたい」
タガが外れた。甘えたように胸に縋ってしまう。
「朝、側にいなくて寂しかった」
「こら、ハガルの前で」
「気にしません。妖精憑きでは、これ、普通ですから」
「ただの人はそうじゃないよ!!」
「じゃあ、私が席を外しましょう」
「待ってぇ、行かないでぇ!!」
アイオーン様はハガルの腕をがっしりとつかんで止めた。それをハガルはイヤそうに見返す。
「えー、浮気と勘違いされるのはイヤなんですが」
「急に、こう、二人っきりにされると困るんだよ。ルキエルも、ちょっと離れてくれ」
「やっぱり、俺は父親に悪戯されていたから、汚らわしいと思われているか」
「そんなこと欠片も思っていないよ!! だいたい、ルキエルは、男が嫌いだろう」
「アイオーン様は大好きです。昨夜は、あんなに近くで、内も外も感じれて、幸せでした」
俺はお腹をさすった。中の奥底までアイオーン様を今も感じる。そんな俺の仕草一つ一つに、アイオーン様は耳まで真っ赤にして、片手で顔を覆う。
「そんな顔、人前でしないように」
「あ、すみません。私は出ます」
「ハガルは化け物だから除外だよ!!」
「はいはい」
ハガルが何かにつけて出て行こうとするので、アイオーン様は必死で引き留めた。もう、なりふりかまっていられない。ハガルのことを化け物と本音をぽろりと零してしまう。
化け物と言われたハガルは気にしない。実際、化け物だし、人を弄ぶ、最低最悪な男だ。父親とは思っているが、尊敬する所よりも、最低最悪な所が多いときている。
俺もハガルも本能に忠実だ。だけど、アイオーン様は過去に色々とあったようで、物凄く悩んでいた。
「アイオーン様、急いで結論を出さなくていいよ。俺は待てるから」
「私が待てないんだ!!」
「嬉しい」
「もう、ダメだ」
どんなに悩んだって、本能の前には、理性なんて紙屑だ。俺はもう、偽装もしない。体躯だって、そのまま晒してしまう。触れた感触も、もう、女だ。
俺が抱きつけば、アイオーン様の理性は崩れ、本音が前面に出た。
「では、ルキエルには、また旅に出てもらいましょう。どうせ、妖精憑きが長く不在となったって、誰も気にしません。先例がありますしね」
ハガルはそう言って、隣りに綺麗な男を出す。それは、優しい相貌の綺麗な男だ。
「いつ見ても、すごいな」
「私はアラリーラ様の側仕えを長年、こなしていました。誰よりも、アラリーラ様の幻を作るのは上手ですよ。触った感触も、完璧です」
ハガルが作り出した幻だというのに、それは、普通に俺とアイオーン様に触れる。その感触も確かに手だと感じる。これが幻だなんて、誰も気づかない。
「アイオーンを貶めようと、色々とされたが、ハガルの魔法で、全て、防がれたな」
「石が飛んできたら、返せばいい。泥をぶつけられたら、弾いてやればいい。妖精をけしかけられれば、盗ればいい。向かってきたら、吹き飛ばせばいい。簡単です」
「そうだな」
表向きは、大魔法使いアラリーラは生きていることとなっている。しかし、実際は随分と前に亡くなった。だが、帝国の中にいる敵国の暗部を騙すために、アラリーラが生きているように、ハガルが操作しているのだ。
アラリーラは妖精憑きではない。ただ、妖精に溺愛される奇跡の人だ。魔法だって操れない。ただの人だから、寿命だってただの人並だ。だけど、それを表に出すと、敵が妙な動きをする。それを防ぐために、ハガルがアラリーラを生きているように偽装していた。
ハガルは、懐かしい人となってしまったアラリーラの幻を操作しながら、子どものように笑っていた。ハガルにとって、アラリーラもまた、大事な家族のような人だ。
「まず、話し方はそのままでもいいですが、私、もしくは、アタシ、と統一しましょう。俺はいけません」
「最初から、私にしとけば良かったのに」
「使い分けなさい。それが出来るのが百年です」
「他人事だと思って」
俺は不貞腐れた。最初から、私、と呼称していれば、こんな苦労はなかった。
ハガルは、そんな俺の額を軽く弾いた。
「バカにするな。俺は平民家族で育ったんだぞ。こういう話し方だって出来る。ルキエルは知らないだけで、平民に混じって、色々とやってんだよ」
「は、ハガル?」
「これが、化け物の才能です。魔法使いの才能は、同時にいくつかの行動が出来る、ということです。あなたは、百年の妖精憑きですから、簡単ですよ」
すぐにいつもの話し方に戻すハガル。だけど、俺には、ハガルのあの乱暴な話し方は衝撃的だった。
そういえば、俺とハガルが初めて出会った時は、ハガル、確かに平民っぽい話し方をしていた。たった一回のことだから、忘れていた。
「私は皇帝の相手、大魔法使いの側仕え、見習い魔法使い、平民の家族とたくさんの顔を持っていました。その場その場で言葉遣いも使い分けていました」
「ややこしくない?」
「馴れです。幼い頃からずっと続けていました。その場その場で使い分けないと、不当な暴力を受けることもありましたよ。見習い魔法使いの時は、生傷が絶えませんでしたね」
「信じられない」
今では、誰もがひれ伏すほどの人だ。魔法使いたちは、絶対にハガルには逆らわない。困らされて、泣かされることはあっても、それで逆らったり、敵意を向けたり、なんて誰もしない。
「私が筆頭魔法使いになったばかりの頃は、色々とありましたよ。逆らう魔法使いは、最後、有効活用しましたけど。ただ殺すのは簡単です。殺さず、有効活用ですよ」
「………」
この穏やかな笑顔で、どんな恐ろしいことをしたのやら。あえて、俺は聞かないことにした。きっと、後悔する。
そんなやり取りをしつつ、ハガルは俺、もとい、私を養女として表に出した。
ルキエルとしては、顔立ちや体躯を偽装していた。それを外した。
「筆頭魔法使いが養女だなんて、通例を破ることをするとは」
もちろん、敵意を持っている皇族メリル様がハガルを責めた。
「私の皇帝アイオーン様が、随分と情を傾けた娘です。立場がないまま、皇族の側室や愛妾にして、また、帰らぬ人になっては、アイオーン様が泣いてしまいます。今回は、私もお手伝いします」
にっこりと笑顔で迎撃するハガル。
「ふーん、アイオーンと共有するのね」
あえて、悪意ある言葉を吐き出すメリル様。あれだ、私はハガルの愛妾か何か、と言っているのだ。
ハガルはというと、私を上から下まで見て、呆れて、溜息をつく。
「好みじゃない。私の女の趣味は、帝国中、有名な話だ。真逆だ。俺は、こう、可愛い感じがいい。この娘は、美しい」
「趣味は変わるというでしょう」
「他にいうことがあるでしょう。皇帝がまた愛妾を迎え入れたんだから、妻として、嫉妬するべきだろうに」
「何を今更!! わたくしとアイオーンの仲はとっくの昔に冷え切っていることなど、皇族で知らぬ者はいない!!」
「実の息子に皇位簒奪させようとするのですからね。アイオーン様がお優しい方で良かったですね。私は今も、お前の子も、孫も、処刑することを諦めていない」
「っ!?」
冷たく見下ろすハガルに、皇族メリル様は悔しそうに顔を歪めるも、それ以上、口答えしない。下手なことを言って、ハガルが実力行使に出ることを恐れたのだ。
ハガルはわざわざ、私の肩を叩いて、皇族メリル様の前で、仲良しを見せつける。
「彼女は、妖精憑きです。これまでのようにはいきませんよ」
「な、妖精憑きですって!?」
驚愕するメリル様。
私はよくわかっていなかった。メリル様とアイオーン様は夫婦として冷え切っているな、程度に見ていたのだ。
実際は、血で血を洗うような関係である。それも、メリル様から一方的に攻撃しているだけだ。
アイオーン様の実子は、一人のみ。愛妾も側室もいたというのに、全て、死産である。しかも、愛妾も側室も皆、今は生きていない。
全て、メリル様によって殺されたのだ。愛妾はただの人だから、毒を使った。側室は、皇族である場合が多いので、メリル様自らが動いて殺したのだ。
嫉妬からの凶行、と何も知らない者たちはいう。だけど、実際は、メリル様がアイオーン様の子を増やさないように動いているだけだ。
アイオーン様の唯一の実子と言われる男は、アイオーン様の子ではない。メリル様が浮気で作った子だ。だから、孫も、アイオーン様の孫ではなかった。




