鉱山6
ジルの声が闇夜に響いた。
「馬車内で入れ替わったのか? いや、この際もうなんでもいい! とにかくあの男を連れて来い。そうでなければこいつを殺す」
男はさらにナディアの首に刃を突き立てた。鋭い痛みが走る。首筋を生暖かい血が流れるのを感じた。
乾燥した夏の風が三人の間を吹き、ジルの長い前髪を揺らす。その広い肩をゆっくりと上下させ息を吐くと、数歩さらに歩み寄ってきた。男はナディアを抱えたまま数歩下がる。
「お前が探している男は俺だ」
ジルの言葉に男は動きを止めた。それを確認するとジルは右手で顎髭を掴み、ベリッと剥がし、次いで、長い前髪を後ろに掻き上げる。
「…………!!」
ナディアは息を飲んだ。
現れたのは深い海のような青い右眼と、月の光を浴び金色に輝く左眼。
――オッドアイ――
「悪魔だ! 海の魔物だ!!」
ナディアの背後で男が叫ぶ。
海と月を支配する魔物。
海と月の色、両方の瞳を持つ魔物を見た者は石となり海に引きずり込まれるといわれている。
聖女によって滅せられた忌むべき存在と同じ瞳を持つ男が、月明かりを浴び立っている。
「う、うわ! ち、近づくな!」
男はナディアの首にまわしていた腕を解くと数歩退いた。ナディアに頬を切られた男に至っては腰を抜かしてしまっている。
「誰の依頼だ? 答えろ!」
「わ、分からない。本当だ! 信じてくれ。フードを被っていて……」
男はさらに数本後退りしたところで、くるりと踵をかえすと、脱兎のごとく逃げて行った。
「ま、待ってくれ!!」
倒れていた男達も仲間に肩を貸りながら、這々の体で逃げ出した。
森は再び静寂に包まれた。残されたのは二つの人影。
「……イーサン様」
ナディアが近づくと、イーサンは数歩後ろに下がった。その顔が苦しくそうに歪められている。
「騙していて悪かった。だが、ナディアにまで恐れられると考えただけで俺は…………うっ!?」
そこまで話すとイーサンは突然蹲った。ナディアが慌てて駆け寄ると、額に脂汗を滲ませていて、呼吸も荒い。
身体についた刀傷は二箇所。そのうち、左肩の傷が紫に変色していた。
「毒!!」
あの大きな身体をした男は剣に毒を塗っていたようだ。ナディアはイーサンの上体を起こすと、近くの木にもたれかけた。
「シャツを脱いでください!」
言うが早いか、イーサンのシャツの釦を外す。色褪せたシャツの下から、鍛えられた身体が月明かりに照らされた。
傷口は五センチ程度、しかし深い傷だった。
ナディアは戸惑うことなくその傷口に唇をつけた。毒を吸い出し、近くの草むらに吐き出す。そしてまた唇をつける。それを何度も繰り返す。
どれだけそうしていただろうか。傷口の変色はなくなり、イーサンの呼吸も落ち着いてきた。
次いでナディアは辺りを見回す。ちょうどよく真ん中が窪んでいる石を見つけると、そこにペンダントを置いた。そして躊躇いなくペンダントトップの白水晶もどきを手頃な石でたたき潰す。そしてポケットから出したオリーブオイルと混ぜた。
暫く石でねると、粘り気のある軟膏のようになった。
「これは簡易血止めで、一時的に傷口を防ぎ化膿を防ぐこともできます。白水晶もどきは海水には溶けませんが、真水には溶けるので簡単に剥がすことができ便利なので、騎士団では応急処置として使われています」
ナディアはそれを中指と薬指で掬うと傷口に塗った。そして、着ているシャツの袖を破ると歯で裂き包帯がわりにしてイーサンの肩に巻いていく。
「大丈夫ですか?」
紫の瞳を不安でいっぱいにしてイーサンを見つめる。まだ脂汗の滲む額を手で拭ってあげると、それまでずっと下を向いていたイーサンが顔を上げた。青と金の双眸と目が合う。
「……ナディアは怖くないのか? 俺のこの瞳を。実の母親まで忌み嫌ったこの瞳を」
海の底のように深い青い瞳と、月の輝きのような金色の瞳。
海の悪魔の象徴とされるこの瞳こそが、イーサンが「悪魔」と呼ばれていた理由だった。
ナディアは黙ってその双眸を見つめる。
「イーサン様を苦しめていたのは、この瞳だったのですね」
どれほどの苦しみや悲しみがあっただろう。
どれだけの人が彼を傷つけたのだろう。
どれだけの期間、悪意と誹謗の眼差しに耐えたのだろう。
視界が歪む。
紫色の瞳には今にも溢れんばかりの涙が浮かんでいる。
ナディアは両手でイーサンの頬を優しく挟んだ。
とうとう耐えきれずに涙が溢れて頬を伝う。
「イーサン様であることに変わりはありません。どうして私が貴方を恐れることなどありましょうか」
小さく笑うとナディアは膝を立て、イーサンに顔を近づけた。間近で見る瞳はどちらもとても綺麗だと思った。
「知的な青い瞳も、神秘的な金色の瞳も私は両方とも好きです」
まず右眼の眦に、次いで左に唇で触れる。イーサンは驚いた表情でナディアを見つめていた。
「私が貴方を愛する気持ちに変わりはありません」
イーサンの両目がはっと見開かれると、長年押さえつけていた涙が堰を切ったように滲んできた。
ナディアはそれを細い指先でそっと拭う。温かい気持ちがイーサンの胸に広がり涙が次から次へと溢れていく。
異国では、母国のように恐れられることはなかった。でも、それは母国と風習が違うからで、もし彼らが母国の宗教観を知ったらどうなるのだろうかと思うと、心の中の不安は消えなかった。
戸惑うことなく、当たり前のように受け入れてくれたナディアの存在が、イーサンの中でどんどん膨らんでいく。
イーサンの震える手がナディアの髪に触れた。そして僅かに力を込めて自分に引き寄せる。
木々の葉から溢れ落ちる僅かな月明かりの下で、唇がそっと重なり合う。
深い森の中、二人はお互いの心の傷を埋めるかのように寄り添った。