聖霊祭2
涼しい夕風がナディアの部屋に入ってきた。バルコニーは東向きで、海が見える。日はあと二時間程で背後の山肌に沈み、空と海の境界線は曖昧になるだろう。
トントンと扉を叩く音がしてイーサンが入って来た。
ナディアはその姿をみて目を丸くする。
「変装するとは聞いていましたが、随分本格的にされたのですね」
洗いざらしの色あせたブルーのシャツに、少し薄汚れたカーキのズボン、それにくたびれたこげ茶色のベルトを付けている。立派な体躯も相まって、海の男、もしくは荷夫といったところだろうか。
極めつけは、少し斜めに目深に被った赤茶けた帽子。つばの広い帽子はイーサンの眼帯をうまく隠している。その変わり右顎に作った傷が目立つ。四センチほどの古い傷のように見えた。
普段の正装より鍛えられた体躯が露わになり、粗雑な色気を孕んで妙に似合う。さまになる。
ナディアは少し顔を近づけ、顎につけられた傷を目を凝らして見る。やや赤みを帯びて膨らんでいるのは刀傷を模しているのだろうか。
「その傷はどうしたんですか?」
「キャシーの化粧だ。俺は眼帯のイメージが強いから、それを隠して代わりに目立つ傷をつければ気づかれないだろうと」
「確かに、今のイーサン様の印象は『傷の男』です。なるほど、そういう変装の仕方もあるのですね」
ナディアは関心して頷く。とてもよくできていて、やはり普通の侍女の技ではないと思った。
「ナディアはその姿で行くのか?」
「はい」
色あせた紺色のワンピースに底がすり減った靴。海の食堂で働く娘か、船乗りの妻といったところだ。
もちろんスカートの下には短剣を忍ばせている。
髪は梳かしただけで、飾り一つつけていない。こちらはいつもと変わりないが。
「ではお二人ともごゆっくり楽しんでください」
スザンヌに笑顔で見送られ、ナディア達は公爵邸を後にした。
露店が多く出ている船着き場まで徒歩で四十分ほど。馬車は使わずに歩いて行くことにした。
イーサンがさりげなくナディアを道路の内側にエスコートする。そのことに、ナディアはなんだかむず痒く下を向く。
(イーサン様といると普通の令嬢になったみたい)
継母には可愛げのない容姿と言われ育った。
騎士団は温かく迎え入れてくれるも女扱いされない。
イーサンとはこの数ヶ月、毎日のように顔を合わし
剣を振るった。食事も共にし、いろんな会話を交わした。
ナディアが呼べばいつでも振り返ってくれる金色の瞳は、今は興味津々といった感じで街の様子を眺めている。その横顔が少し幼く見え、思わず頬が綻ぶ。
「カーデラン国では教会で賛美歌やミサが行われるとか。そこまで大規模ではないですが、バザーをしたりシスター達がクッキー焼いて配ったりしています。立ち寄りますか?」
「……いや、教会はいい。このまま、まっすぐ海に行こう」
ナディアは小さく頷いた。
カーデラン国の人間は信心深いと聞いていたけれど、イーサンが教会に立ち入ったという話は聞いたことがなかい。
今も、賑やかな教会には目もくれず歩いている。
(イーサン様は教会を嫌ってらっしゃる気がする)
そっと横目で覗き見ると、教会の前を通る時だけ表情が硬い。感情が読み取れない。
(私からその話題に触れるのはやめよう)
そう心に決めた。
ナディア達は傾いた太陽を背に長く伸びた自分の影を踏むように緩やかな坂を下っていく。
「これは、数ヶ月前に行ったマルシェより活気にあふれているな」
イーサンは港に所狭しと並ぶ屋台に目を見開いた。色とりどりの屋根の下、様々な品が並ぶ。マルシェよりやや質が落ちるも賑わいはそれ以上だ。
一番多いのは飲食店。夕食になりそうなフィッシュフライや貝のマリネもあれば、生クリームたっぷりのクレープや、冷たいゼリーも売っていた。
他に、ミサンガがずらりと並ぶ店や、化粧品、ガラス細工が並ぶ店の向かいには古本屋の屋台まである。お小遣いを握りしめた子供が、飴細工ができるのを真剣に眺めていた。
イーサンが一軒の店の前で足をとめる。
そこには大小様々な白水晶もどきが並んででいた。
聖女が零した涙は白濁した水晶――白水晶――だと言われていて、教会の祭壇にはそれが飾られている。露店で売っているのは白水晶を模したアクセサリーだ。
「これは白水晶ではないんだな?」
「ああ、海の底に転がる石を俺が加工したんだ」
カーデラン国では見たことのない石をイーサンは興味深そうに眺める。しかも材料は海底に転がっているときた。ほぼただではないか。
「俺が聞いた話ではずーっと昔に海底噴火があって、その時に貝とか石灰岩とかがくっついて海底に白い岩のような物が幾つもできたらしい。潜ってそいつを削り取って加工したんだ」
「あぁ、海底の白い岩なら知っている。それを使ったのか」
イーサンはペンダントを摘みあげる。その先には直径二センチぐらいの白水晶もどきがついていた。
「魔除けのお守りとして人気があるんだよ。チェーンが長いのが男性用、短いのが女性用」
ナディアはイーサンに少し屈むように頼むと、その首にネックレスをかける。男性用はチェーンが長いから頭を潜らせるようにしてつけることができた。にこりと微笑むと老店主を振り返り銀貨を差し出す。
「店主、これをお願い。イーサン様、ルシアンでは親しい者同士で送り合います。受け取って頂けますか?」
ナディアの涼しげな目元が柔らかな弧を描く。少し頬が赤く見えるのは夕焼けのせいだろうか。
銀貨を受け取った白髭の老店主は苦笑いを浮かべる。男性がするのなら何度も見たことがあるも、女性は初めて。イーサンも額に手を当て、これまた苦笑いを浮かべる。
「ナディア、前にも言っただろう? それは俺の役目だ」
そう言うと、自分の首にかかる物より少し大きい石がついているネックレスを手に取り、チェーンを外しナディアの後ろに立つ。
背後から腕をまわし、不慣れな手でチェーンを止めるとナディアの肩を持って自分の方を向かせた。
「よく似あって……えっ? ナディア?」
イーサンは首まで真っ赤になっているナディアを見て目をパチパチとさせる。視線は定まらず、頬は夕陽のせいだと誤魔化せないほど赤くなっている。
「ど、どうしたんだ?」
「いえ、こういうのはあまり慣れていなくて。する分にはいいのですが、されるのはどうも」
ナディアは赤くなった頬を両手で覆い、困ったように眉を下げる。
「うっっ……」
その顔があまりに可愛く、イーサンが呻く。
女性扱いされ慣れていなくて、どうしたら良いかと頬が真っ赤になるナディア。
その可愛い反応に狼狽えるイーサン。
「……なんだい、あんた達。まるで十代半ばの子供のようじゃないか」
老店主が、呆れながら歯の欠けた口でニヤニヤと笑うので、イーサンは決まり悪そうにコホンと咳を一つして体裁を取り繕う。その時、ふと、拳ほどの大きさの白水晶もどきが目に入った。
「店主、こんな大きな物もあるのか」
「もっとデカいのもあるよ。見るかい?」
店主は台の下を覗きこむと、両手で抱えるぐらいの白水晶もどきを幾つか取り出した。こんな大きなものがと、イーサンが物珍しそうに手にする。
「イーサン様、私、斜め向かいの古書を見ていますから、ゆっくりご覧になってください」
ナディアは自分がいない方が気兼ねなく見られるだろうと、向かいの露店へと向かう。
本はプリシラから取られない数少ない物。大衆小説が並ぶその中で、幼い時に読んだ冒険小説を見つけ思わず手に取る。
バードン・オズワルドが世界を冒険しながら隠された宝を探す話で、お気に入りだったなと懐かしさに思わずページを捲っていると、背後から突然名前を呼ばれた。
「お姉さま」




