夕陽
翌日。
久々にのんびり寝て、美味しい朝ごはんを食べ、デザートのバナナを手に持ちながらナディアは解放感を味う。そのあと午前中いっぱいは剣の手入れをし、昼食を食べると、公爵邸を後にした。
東に向かって坂を下りれば高級品を扱う店が並ぶ大通りに出る。その通り沿いにある噴水に腰掛け、陽気な日差しの中、涼しげな水音を聞きながら待っていると聞き慣れた声がした。
「ナディア」
見れば畏まった装いのエドワードがいる。思わず二度見した。
「どうしたの?」
「二時間後に婚約者の家に行くんだ。お前のために着飾ったわけではないぞ」
「それを聞いて安心したわ」
そうかそうか、ともう一度エドワードの全身を眺め「いいと思うわ」と適当に声を掛けておく。宝石が見たいというので、手近な店から順に巡り数件目。いい加減退屈したところで、エドワードが真剣な目に変わった。どうやら気に入ったものがあったらしい。
自分の瞳の色と同じエメラルドの宝石を吟味するエドワードに、ナディアが最近聞いたばかりの宝石の蘊蓄を語れば、なるほどとやけに神妙に頷いた。
そこからさらに一時間、たっぷり時間をかけエドワードはエメラルドのネックレスを選んだ。給料から考えてかなり頑張った金額だった。
「ありがとう、助かったよ。まだ時間があるから、お茶ぐらい奢るよ」
「それならお酒がいいわ」
「……思考回路がオヤジだな」
婚約者に会いに行く前に飲むわけにはいかないし、と呟くエドワードの前に大きな影が立ち塞がる。
「なんだ、お前……えっ?」
「イーサン様?」
見上げた先にいたのは、マルシェに行った時と同じ庶民的な服を着たイーサン。とはいえ、体躯が良いので街に馴染んでそうで浮いている。
「どうされたのですか?」
「あ、あぁ……ちょっとこの辺りに用事があってな。ナディアこそ、珍しいな、その、こんな場所で」
イーサンはナディア達が出てきた店と、エドワードが手に持つ小さな袋を交互に見る。袋には今流行りの宝石店のロゴがしっかり入っているし、店先にも同じ看板が立つ。鋭い視線に危険を察したエドワードが慌てて口を開いた。
「あっ、これは私の婚約者へのプレゼントでして。その、ナディアに選ぶのを手伝って貰いました」
「そうか、ではもう用事は済んだわけだ」
「は、はい。では、その、失礼します」
エドワードは騎士らしく、ビシッと礼をするとかなりの早足で逃げて……立ち去って行った。あとに残されたナディアは、戸惑いがちにイーサンを見る。
「えーと、イーサン様のご用はもう終わったのですか?」
「あ、あぁ。そうだな、今終わった」
「今?」
はて、と首を傾げるも、金色の瞳があらぬ方を見ている。なんだかこれ以上聞いて欲しくなさそうだ。
「そうだ、せっかくだから、お茶でもするか?」
「お茶、ですか。イーサン様、甘いものがお好きですか?」
「……食べるときもある。ナディアは好きだろう?」
「いえ、辛党です。甘ったるいのは胸焼けがするので」
「そ、そうか」
周りにあるのは甘いものが売りのカフェ。さてどうしようと空を見れば、日は傾き始めている。ひとつ妙案が浮かんだ
「海に行きませんか? 私のお気に入りの場所をご紹介いたします。あっ、でも護衛が帰ってしまいました。護衛なしで出掛けてはいけないのですよね?」
「それなら俺がいるから問題ないだろう。今日は剣も持ってきた」
「……イーサン様は護衛される側です」
暫くの沈黙ののち、二人は海に向かって歩き始めた。どちらも、自分が護衛の役を果たせばよいかと結論づけたのだ。
海まで行くのに選んだ道は、庶民の住宅街を通る路地。細いけれど、東西南北に整備され、小さな庭のある青い屋根の家が立ち並ぶ。
「この街の中間層が暮らす区画です。海の仕事、商人が多く、あと職人も住んでいます」
イーサンが街の様子を知りたがっていたのを思い出し選んだ道だ。ついでに、と手頃な店で麦酒とつまみを買うと、港ではなく切り立った崖の方へとナディアは向かった。
崖の上には灯台がある。周囲をぐるりと石塀が囲み、その一部がアーチ状の扉になっているが、大きな錠が付いていた。
「こちらです」
ナディアは扉の右側に進むと、少し石が飛び出している所で立ち止まった。そしてそこに脚を掛けるとひょいっと身体を持ち上げ右手を塀の上にかける。そのまま左手も置くとあっと言う間に塀の上に飛び乗った。
「イーサン様、麦酒を」
右手を差し出し、イーサンから麦酒を受け取るともう一度手を差し出しす。
「手を御貸しいたします」
「……紳士的な態度は見習うべきものがあるが不要だ。というかその細腕では俺を持ち上げるのは無理だろう」
イーサンは苦笑いを浮かべるとナディアと同じようにして塀の上に乗った。塀を乗り越えた二人は、灯台の扉の前に立つけれど、こちらもやはり鍵がかかっている。
ナディアは扉の上の小窓を指さした。
「私があそこから中に入って内側から扉を開けます。今日はスカートですのでちょっと後ろを向いててください」
扉の上の窓は小さく、イーサンの身体では入りそうになかったので素直に後ろを向いた。
一応目も瞑っておく。こういう生真面目さが時折自分でも嫌になると一人ごちる。
ナディアは扉の取っ手に脚を掛けると窓枠に手をかけ、身体を持ち上げるとするりと中に入った。内側から鍵をあけ、イーサンを中に招きいれる。
「すごく手慣れた様子でここまで来たけれど、どう考えてもこの灯台は立ち入り禁止だよな」
「そういうことになっています。でも、結構皆使っていますよ。不埒な方々が夜になると彼女や彼女じゃない方を連れ込んだりしていますから」
イーサンは思わず眉を下げ首を傾げる。
(だとすれば俺は連れ込まれた側になるのだろうか。それは嬉しいのか情けないのかどっちなんだ)
もちろんナディアにそんな気がないのは十分理解している。
ただ、ナディアといると、紳士として男としての振る舞いを全て先にされているようでいたたまれない。しかもそれが格好良くて様になっているときた。
今もナディアは先に立って階段を上がっている。
見るつもりはなかったけれど、その細い腰にどうしても目がいく。
今日も脚に剣を付けているのだろうかと思うと、次は太ももに目がいく。
不埒な男が女を連れ込む……そんな言葉が頭をよぎれば形の良い尻に……
ばしっ
後ろから皮膚を叩く音がして、ナディアが慌てて振り向くとなぜか右頬を赤くしたイーサンがいる。
「……どうしました?」
「ちょっと頬に虫がいたから叩いたのだ」
「虫ですか……」
首を傾げるルナディアを見ながら、まさか邪な虫を叩いたとは言えずイーサンは口をへの字にした。
くるくると螺旋階段を上った先に扉があり、外に出ると強い海風がナディアの髪をはためかせた。高さ十数メートルの灯台の周りをぐるりと囲むように、幅三メートルほどの足場がある。一応、腰の高さほどの柵はあるけれど、錆びていて体重をかけたら柵ごと下に落ちそうだ。
海は東側にある。すでに夜のとばりが降りていて、薄っすらと空と海の境界線が分かるぐらい。空には小さな星が一つ見えた。そのまま反対側に向かえば、夕日が公爵邸の後ろに沈もうとしている。丘の公爵邸から海にかけてはなだらかな坂となっていて、白壁に青い屋根の家が立ち並んでいた。
この国は夏場気温が高く、室内の温度を下げるために家屋は石灰をもとにした白壁で建てられる。屋根や窓枠が青いのは、それが一番手に入りやすい染料だからだ。
「綺麗だな。城も街並みも絵になる」
「全てイーサン様の領地です」
「別に望んだわけではない。俺は異国の地で、独りで生きたかった」
(以前も、家族を持つつもりはないって仰っていたわね)
夕陽を受け、金色に輝く瞳はとても辛く寂しそうに見える。
ナディアは黙って麦酒瓶を手渡すと、灯台の壁を背にぺたんとその場に座り、イーサンにも隣を勧めた。
「一番上の兄の子供は双子の男の子だ。あと数年して彼らが成人したらこの国を任せたいと思っている」
「イーサン様はどうされるのですか?」
「カーデラン国は俺にとって生きやすい場所ではない。また、異国に行くか、船乗りになってもよい」
(それは、イーサン様が悪魔と呼ばれる悪評が関係しているのかしら)
ナディアは、強面ではあるけれど、不器用で生真面目な男の横顔を見ながら、様々な言葉と感情を一緒に麦酒で流し込んだ。安易に踏み入ってはいけない気がしたからだ。
海から山に向けて吹く風が心地よい。
夕陽を背景に白壁と青い屋根が連なる景色を二人は黙って眺めていた。
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