第十二話 真野実言①
【真野実言】
──どうして?
声が聞こえる。
──どうしてそんなことを言うの?
誰かの声が聞こえる。
誰だろう。
僕はこの人を知っている…………気がする。
でも思い出せない。
誰だった?
──実言くんって、ずるいね。
──え?
閉ざされていた視界が、ゆっくりと開かれる。
ここは…………学校?……でも高校じゃない。
僕の正面に立つのは、髪の短い女の子。
けれど、顔が見えない──いや、思い出せない。
頬に伝う雫が、オレンジ色の光に照らされて光っている。
どうしてこの子は……泣いているんだろう────。
──お前はいいよな。なんでも手に入るんだからさ。
場面が変わった。
いつの間にか女の子は消えていた。
代わりに、学ランの少年が立っている。
ボタンを全開にして、鞄を肩に担いだ少年。やはり顔は見えない。
──何とか言えよ。
──えっ……と……。
──お前はいつもそうだよな。
──ごめん…………。
──なんで謝んだよ。俺が悪いみたいだろ。
──ごめ……あっ……。
──もういい。お前なんかと友達になんて……ならなきゃ良かった。
黒い背中が、徐々に小さくなっていく。
夕日が眩しい。視界が細くなる。
ふと、景色がぼやけた。
…………違う。景色がじゃない。
目を擦る。
彼と同じ黒い袖に、じんわりと薄くシミがついた。
(!!)
多分、目が覚めた。“多分”というのは、布か何かで目を覆われている感触がしていて、瞼を上手く開けられないから。
夢──を見ていた……気がする。はっきりとは覚えていないけれど、懐かしい夢。懐かしくて、忘れたかった夢────。
──そういえば、ここはどこだろう?
口を開こうとした。けれど、喋ることができない。
口にも強く何かが巻かれている。
(なに、これ……どういうこと?)
あ、と気が付く。
もしかして一昨日(?)のあの<招待状>で書いてあったこと…………宴……だったっけな。みんなが言ってたように、複瀬さんと夜部さんが音信不通っていうことと何か関係あるのかな……。
(あれ……?)
ひょっとして僕……今かなり良くない状況……? というかなんでこんなことに────あ、たしかあの時……。
(僕は……誰かに後をつけられていた──そのことをとっさに透に伝えて……………………どう、したんだっけ)
そこからの記憶が無い、ということは……どうやら僕は、僕の後をつけていた人に“拉致”というものをされてしまったらしい。
(そんな…………)
梅葉ちゃんは能力が関係しているとかどうとか話していた。つまり僕は、心から念じて口にした言葉が事実となるこの“真言”の能力のせいでこうなっているのか。
いつもそうだ。僕の超能力が、自分自身を──そして周りの人達を、不幸にしてしまう…………。
自分が超能力持ちだと知ったのは、中学二年生の頃。
それまでは、ごく普通な日々を過ごしていた。
ただ今思い返してみれば、僕はそれ以前から知らず知らずのうちに“真言”を使っていた。
本当に欲しい物は、自然と何度も「欲しい」と声に出していたし、「やりたい」と感じたらそう口にしていた。そして実際に、手に入っていた。
新しいゲーム機が欲しいなと思っていたら偶然家族が買ってくれて、リレーの選手になりたいと願ったら本当に選ばれ、成績を上げたいと強く祈ればテストで良い点数をとることができ、成績もうんと上がった。
何故かいつも、自分の思い通りになることが多かった。いつしか、世界は自分を中心に回っている──とまではいかなくても、『僕の願い事はほとんど神様が叶えてくれているんだ』と、そう錯覚していた。
それがただ願いが叶っているというだけではない、と知ることになるのは、僕が十四歳の誕生日を迎えた一ヶ月後──十一月上旬に起きた、ある出来事による。
──三年前──
僕に初めて、気になる女の子ができた。同じクラスの、前の席の子だ。焦げ茶の長い髪が綺麗で、笑顔が素敵な女の子。名前は──何と言ったか。
ほんの少しでも恋心を抱いていた相手だというのに、顔が思い出せない。でも、当時の僕にとって、彼女は他の誰よりも輝いて見えていた。“花”のような子だった、ということは覚えている。
転校生だけどクラスの人気者だったその子は、多くの人から好かれていた。
けれども。
ある日を境に、彼女はいじめられるようになってしまった。
理由はよく分からないが、その子を好きになった者の中に彼女持ちの男がいたらしい。それを理由に別れを切り出されたとかで、男と付き合っていたという女子がその子に嫌がらせをし始めた……だった気がする。要するに痴情のもつれということだ。
相手に何の非が無くても、理不尽にいじめというものは起こる。
初めは影口を言ったり物を隠したりわざとぶつかったりといった、ただの“嫌がらせ”の範疇だった。しかし段々とそれはエスカレートしていき、体育着を切り刻む・持ち物を捨てる・上履きを汚す、等の“いじめ”に変わった。
彼女へのいじめが始まって数ヶ月後には、ドラマとかでよく見かけた、絵に描いたような酷いものになっていた。それこそ、いつ自殺に追い込んでしまってもおかしくないような。いじめの主犯が議員の娘だったからか、教師は黙認していた。
では僕は何をしていたのか? 最初の頃はやめるように言っていた。が、自分や自分の妹や家族にまで危害が及ぶかもしれないのが怖くて、途中からは周囲と一緒になってただ見ないようにすることしかできなかった。
僕は本当に最低な人間だと思う。好きな人が痛めつけられるのを見て見ぬふりするなんて。
そしてあの日、事は起きた。
放課後、彼女の綺麗だったあの髪が、切られた。
彼女にとっての自分の髪は、何よりも大切なものだった。
以前、彼女は病気で入院している妹や妹と同じ境遇の子供達に、自分の髪を寄付して作ったウィッグをあげたいと言っていた。それを聞いた時は、なんて優しいのだろうと思った。
その髪が、切られたのだ。
たった一瞬で。
その瞬間の、その子の絶望した顔が見ていられなくて、目を背けたのを覚えている。
それにより彼女は、壊れた。
長い間溜まっていたものが、爆発したかのように。
長い間耐え続けていた糸が、ついに切れたのだ。
相手が持っていたハサミを奪い取り、それを。
それを──自身の首に突き当てた。
さすがにそれは周りが無理矢理止めたが、次の日から彼女は学校に来なくなり、その後間もなく、転校していった。
彼女が不登校になる前の日──事件の日、皆が帰った後に、僕は独りで泣き続ける彼女に声をかけた。
『だ……大丈夫……?』
返事は無かった。
いや、大丈夫なはずがない。何を言っているんだ僕は。
もっと他の台詞をかけるべきだろう。
……でも、次の言葉が出てこない。
迷っていると、彼女は立ち上がってどこからかビニール袋を取り出し、床に落ちた自分の髪を拾い袋に入れ始めた。
黙々と、淡々と……拾っては入れ拾っては入れという作業をしていく。
顔は見えなかった。けれど、大事だった髪を拾い集めるその背中はひどく悲しそうに感じた。
ほうきとちりとりも使い全て集め終わると、彼女はビニール袋の口を縛って校舎裏のゴミ箱に捨てた。
『なっ……何してるの……?』
思わず尋ねてしまった。しかし返ってきたのは、驚く程低くて冷たい声だった。
『見れば分かるでしょ』
『捨てちゃって良かったの……?』
『ゴミをゴミ箱に捨てるのがおかしいの?』
こんな彼女は初めてだった。
『そうじゃなくて……でも、大切なものだったんでしょ……?』
『こんなんじゃもう、意味なんて無い』
目は合わせてくれなかったが、その瞳は何も映していなかった。まるで何の感情も無いかのような……。
『…………ごめんね』
『……は? 何が』
『僕……何もしてあげられなかった』
口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。
『…………』
『僕はずっと、見て見ぬふりをしてた……』
『…………』
『……えっと…………あ……で、でもあの子も酷いよね、髪の毛を切るだなんて……その…………』
『……どうして?』
あ。
『どうしてそんなことを言うの?』
思い出した。
さっき僕が見ていた夢は、この時のことだった。
『今まで一度も……一度も、こうやって声をかけてくれたこと無かったのに……』
『……それは………………』
『助けてほしいとまでは思わなかったよ……何されるか分からないし………………でも……でもさ……メールでも、電話でもいいから、一言ぐらい、一回ぐらい……何か言ってほしかった…………』
『…………!』
『……実言くんって、ずるいね……』
『……え?』
『今更謝られても、同情されても……もう遅いよ…………』
ふと、頭の中に、名前が浮かび上がってきた。
目の前にいる、この子の名前──。
『花──ちゃん……?』
『…………遅いんだよ────』
靄がかかって上手く見えなかった花ちゃんの顔が、夕日に照らされてはっきりと見えた。
泣いていた。
不揃いな毛先が静かに風に揺れる。以前のような、艶やかに……さらさらとはなびかなかった。
背を向けて歩き出す彼女を、当時の僕はただ呆然と見つめていた。
今になって思う。
何故引き止めなかったのか。何故追いかけなかったのか。
引き止めて今度はちゃんと、ちゃんと向き合おうとすればよかった。
結局僕は、逃げただけなんだ。
何でも手に入れてきた僕は、この時相手が望むことを……どうすれば元に戻れるのかという術を、知らなかった。
運動ができて成績が良ければ、自然と周りに人が集まった。けれども、本当の意味で僕は、人との繋がりは無かったのだろう。僕が他人に歩み寄ろうとしないから。
誰かが落ち込んでいる時、なんて声をかけるべきなのか。誰かが泣いている時、どのようにして慰めればいいのか。──誰かが傷ついている時、自分はどうするのが正解なのか。僕は、知らなかった。