溺愛路線はお断りです~顔を合わせれば口喧嘩不可避だった婚約者が、うっかり事故で惚れ薬を飲んだらデロ甘に口説いてくるようになった。戻して~
「――これはせいりゃくこんだ。おれがおまえをあいすることは、ない!」
「ええ、ようございます、でんか――」
今から十年ほど前、わたくしと婚約者の間に交わされた会話だ。
売り言葉に買い言葉とは言うものだが、それにしてもお互いかわいげがなさすぎて、思い出す度に苦笑してしまう。
わたくし達は第一印象から、相性の悪さを知っていた。
長じても改善はされず、むしろ年を経るごとにますます互いを見る目が冷ややかになっていった。
「王太子に踏み切る理由さえできれば、婚約破棄待ったなし」
いつ、誰が言い始めたことだったろうか。二人の関係を端的に表している言葉だ。
これは貴族社会で、そしてわたくし達が通う王立学校では、周知の事実どころかもはや人々の常識だった。
……そのはずだったのだけど……。
「ああ、テレージア……我が愛しの女神……!」
今わたくしの手を握り、熱烈な愛の告白を行っているのは、輝かしい金色の髪にエメラルドの瞳を持つ青年――王太子であるフリードリヒ殿下だ。
そう、初対面から未来の妻に愛さない宣言を投げつけ、昨日までずっと会えば辛辣な言葉をかけ続けてきた、我が愛しの婚約者様その人なのである。
わたくしの方は、いつも通りの社交的冷笑を取り繕っている。十七年間鍛えられた表情筋の優秀さに、感謝すべきなのか恨むべきなのか、悩ましい所だとはじめて感じていた。
「まあ、殿下。困ります、そのようなお戯れを……」
「戯れではない。本気だ。ずっとこうしたかった……!」
対して平常時であれば眉間に皺の絶えない男は蕩けきった顔になっており、握っていたわたくしの手に頬ずりまで始めそうな勢いだ。
実は別人と入れ替わっているのでは? と疑いたくなってくるほど、彼の人格は様変わりしていた。
だがこの症状はとある事故によって起きたものであり、今日中には治るものらしい。
(ああ、早く元の殿下に戻らないかしら……)
わたくしはこんな婚約者を望んではいなかった。
だって、わたくし。
――マゾ豚なんですもの。
***
テレージア=サンドラ=フォン=ハイツマン。それがわたくしの名前だ。
自分で言うのもどうかという所ではあるけれど、才色兼備で非のない完璧な公爵令嬢と言える。
黒髪に青い目、すらりと手足の長い容姿は、涼やかに整っている。
学業成績は文武共に昔から今に至るまでずっと優揃い、マナーとて抜かりはない。
立場ある人間として威厳を示しつつ、おごりすぎることなく親切心と寛容さも忘れぬよう日々努力を積み重ねている。
そんなわたくしとフリードリヒ殿下の婚約が決まったのは、六歳の年のこと。
王弟が隣国から迎えた元王女が、男児を生んだことがきっかけだった。
そもそも王子フリードリヒ殿下の母親――つまり王妃殿下は、男爵家の出身である。
一応爵位持ちと言え、ほぼ平民のようなものだったが、遡れば由緒正しい貴族でもあった。
隣国から縁談を持ち込まれた頃には、若き国王の心はすっかり男爵令嬢に向いていた。
結論を言えば、男爵令嬢が王妃に迎えられ、隣国王女は王弟に嫁いだ。政治的な事情としても、隣国王女より自国の名ばかり貴族の方が、王妃に据えるには都合が良かったということなのだろう。
国王夫妻はすぐ王子に恵まれたが、兄弟どころか姉妹も続かなかった。
そして六年後、隣国王女の血を引く甥が健やかに産声を上げた。
王弟も隣国も、表向きは今の国王と良好な関係を築いている。
だが、機会ができれば芽生えてくるのが“出来心”と呼ばれるものだ。
王子には後ろ盾が必要になった。
そこで選ばれたのがハイツマン公爵家だ。
我が家に白羽の矢が立てられたのは、単に同い年の娘がいたというだけでなく、少々独特な気風だったためだろうと推測される。
ハイツマンの男女に別なし。女子に謙虚さや遠慮を美徳と説かず、男子同様、未来の領主代行として育て上げる――それがハイツマン流というものだった。
国王は妃を一途に愛していたが、それはそれとして、妃の実家、妃自身の控えめな性格が政治向きではなかったこともまた、痛感していたのかもしれない。
さて、わたくしテレージアは、大人達の期待通り、ハイツマン流を体現するしっかりした子どもだった。
別の言い方をすると、かわいげのない六歳児だったということだ。
一方で所詮は六歳児――いや、生来の気質だったのだろうか。
わたくしはハイツマンの女にしては、少々ロマン主義だった。
白馬に乗った王子様にお迎えに来られたら、白けるのではなく、ときめいてしまうような人間だったのだ。
でもそんなことをうっかり現実主義のハイツマン家で口にしようものなら、まあ大人げなく論破される。夢を見るなら叶えよ、叶わぬ夢なら見るな。それがハイツマンルールである。
だからわたくしはお利口に、
「はい、しっています。はくばのおうじさまなんて、じっさいにはいません」
と悟り顔で言いつつ、
(ちょっといいなあとおもっているぐらい、いいじゃないの……どこかにはいるわよ、いないことがしょうめいされたわけじゃないんだもの)
などと心の中で反抗していたわけだ。
周りの空気を読まず自分の我を通していたという意味では、やはり実にハイツマン家らしい性格だったのかもしれないけれど。
そんなわたくしが初めて殿下とお会いした時、雷が落ちるような衝撃を受けた。
「――はじめまして。フリードリヒだ。いごよろしく」
(わたくしのゆめが、ぐげんかされている!?)
きりりと挨拶してきたのは、白馬の似合う金髪の王子様(六歳児)だった。
かように神話的な存在が実在した感動を、一体何に例えられよう。とりあえず、(おとなってやっぱりうそつきだわ、バーカバーカ!)と心の中で舌を出してやった。
麗しの美少年は、目の色だけセオリーの青色と違って緑色だった。でも、エメラルドグリーンなんて、神秘的でますます素敵だと思った。青ならわたくしが持っているのだし。
「未来の国王陛下である。妃として誠心誠意お仕えせよ」
父にそう言われ、神妙な顔で頷いて見せたが、心の中では踊っていた。
腐ってもハイツマン家の女なので、顔色には一切出さなかったけど。
(こんなにすばらしいかたが、みらいのはんりょだなんて、じんせいのかちぐみすぎるのでは? わたくしはこのひと、すきになれそうだわ。あとはあちらにすきになっていただければ、こっかあんたいね!)
二人で遊んでくるといい、と気を利かせた大人達に中庭送りにされた時は、こんなことすら頭の中を巡っていた。まさにこの世の春だったのだ。
まあ一瞬で終わったどころか、むしろ冬に逆戻りしたが。
子どもだけになった途端、彼はきっと眼をつり上げ、わたくしに指を突きつけて言い放ったのだ。
「かんちがいするなよ。おれはおまえにしたがうつもりはない。いいか。これはせいりゃくこんだ。おれがおまえをあいすることは、ない!」
エメラルドの目は燃え上がるように怒りに満ち、芸術品のように美しかった。
浮かれた気持ちに、すっかり冷や水をかけられた。
(ああ、そうね。それはそうだわ。ハイツマンのおんなはかわいくない。おとこがもっともつまにしたくないむすめ。……それが、おうこうきぞくのじょうしきだったわね)
けれどわたくしとて大貴族の端くれ、一瞬でたるんだ気持ちを切り替える。僅かの間浮かんだ未来への期待は捨て去り、私情によらず己の使命を全うすることに決めた。
少し前に舌を出した大人達には、(げんじつをみせてくれてありがとう。やはりりそうのおうじさまは、ゆめのなかにしかいませんでした。すくなくともハイツマンには、ひつようのないものだったわ)と謝っておいた。
「ええ、ようございます、でんか。わたくし、あなたのおかざりのきさきとして、せいいっぱい、はげみますわ」
貴族らしい冷笑を浮かべ、優雅で完璧な礼をして見せる。
そんなわたくしに、殿下はますます表情をゆがめ、殺してやりたいとでも言いたげな目でねめつけた。
けれど冷たい顔をしていても――いえだからこそ彼は芸術品のように美しく、わたくしの心のどこかがぞくぞくとした。
***
さて、こうしてわたくし達の冷えた婚約関係は始まった。
フリードリヒ殿下がわたくしのことを気に入らないらしいことは、徐々に、けれど確実に周囲にも伝わっていった。
だって、態度が違うのだ。
他者相手であれば、貴人らしくいくらでも心にもない笑みを浮かべ愛想良く振る舞うのに、わたくし相手となると険しい顔になり、無視するか挑発的な言葉を投げつけてくるかになる。
――例えばやりとりのワンシーンを抜粋してみる。
「最近顔を見ないな。俺に会うことを避けているのか?」
「今月は機会に恵まれなかっただけでしょう。わたくし、妃教育もございますし、それなりに多忙な身ですのよ」
「どうだか。俺は忙しくとも婚約者の義務を欠かすつもりはないが、君は俺のことが気に入らないから遠ざけているのでは?」
「殿下。そのような言動を繰り返すのであれば、確かにわたくしもあなたへの評価を変えざるを得なくなりますけれど。用心と疑心は異なりますのよ、無駄な詮索はおよしになってくださいまし」
「……お前は本当に、俺のことが嫌いなんだな。テレージア」
「きっと両想いなのでしょうね? ですがご安心を。わたくしは務めを果たすつもりです。代わりの女性を見つけたのであれば、あなたから陛下にお願いなさってくださいましね」
わたくしとて、これでも過去、自分の言動が癇に障るのかなと、関係改善を試みたこともあったのだ。
けれど態度を変えれば逆に彼は不審がった。
同意してみれば、「本心か? 心にもないことを言うな」
沈黙を貫けば、「何を企んでいる? 俺はお前の思い通りにはならないぞ」
嫌みを言われたら嫌みで返し、こちらからは下手に刺激しないよう、必要最低限の業務連絡のみ。
結局それが、不仲なりに一番安定する距離の保ち方だったのだ。
けれどどんなにわたくし個人を嫌っていても、フリードリヒ殿下が王太子として立つには後ろ盾が必要で、最も人を黙らせることに適しているのはハイツマン家なのだ。
わたくしもいくら嫌われている自覚があろうとも、自らに与えられた使命を投げ出す気はない。
王になるのはフリードリヒ殿下だ。彼の従兄弟は、両親や周りに可愛がられているのは結構なことだが、覇気がない。あれではいざという時、自信を持って判断を下すことができないだろう。
殿下はご自身で決断を下すことのできる方だ。だからわたくしは彼を王にしたい。
殿下もおかわいそうに、と何度か思った。これほど嫌悪する女を伴侶に迎えねばならないのだ。
お互い気の進まない次世代生産を試みるより、さっさと愛人の一人や二人囲っていただいた方がいい気がするが、わたくしが蔑ろにされたと感じれば、実家は黙っていないだろう。やられたら徹底してやり返せがハイツマン流だ。
ままならぬものだ。
そしてきっと、殿下の抱えるままならなさへの苛立ちの矛先になることこそ、未来の妻たるわたくしの役目というものなのだろう。
本当に、わたくしだけなのだ。こんなにいつも、会う度に喧嘩腰になるのは。その他の人間には、公正で礼儀正しい人だった。
……何故わたくしだけ、そうも憎まれるのか。
ハイツマン家の女としての役割を務めつつも、ふと心に隙間風が差し込んだような感覚に悩まされることもあった。
***
十五歳になると、わたくし達は王立学校に入学した。身分問わずこの国の民の義務なのである。
とは言え、貴族は大抵、この年には必要な学業の基礎など家庭教師に習ってほぼ終わらせている。
学校に通うのは、常識のすりあわせや他者との交流――要するに社交界デビューを控えた若者達の、ちょっとした息抜き兼予行練習の場という意味合いが強かった。
学校通いが始まっても、殿下は相変わらずわたくしに冷たかった。
「ごきげんよう、婚約者殿。今日も俺の監視か? ハイツマンの期待にきちんと添えているか、不安で仕方ないのだろう」
「ごきげんよう、殿下。自意識過剰という言葉をご存じですか? 殿下に不安があるとすれば、学業成績ではなく、精神面ではないかと愚考いたしますけれどね」
まあ、顔を合わせれば相変わらずこうだ。
けれど一つだけ、今までと変わったことがある。
彼の周りに、女性の姿が絶えぬようになったのだ。
貴族であれば、王太子の婚約は国益に必要不可欠であることも、婚約相手の“ハイツマン”がこの世で最も喧嘩を売ってはいけない相手であることも、常識として知れ渡っている。だから殿下に表だってわかりやすい秋波を飛ばすような命知らず兼非国民は、今まで存在しえなかったのだ。
ところが王立学校は、未来の国政を担う優秀な学生を身分問わず集める場――つまりここには平民がいた。
彼らは我々の“常識”を知らない。
かつて美少年だったフリードリヒ殿下は、順当に美青年に育ちつつあった。
フリードリヒ殿下は真面目さゆえに厳しい所もあったが、誰にでも公正で平等、身分におごらず紳士的だった。彼が声を荒げる相手は、それこそ不倶戴天の敵たる婚約者のみなのだ。
まあ、こんな環境で、若い娘達に可能性を夢見るな、と言う方が無理がある。
「王太子様はいつ、あの高慢で冷淡な婚約者と別れるの?」
「あら、無理なのよ。あの人が弱みを握っているから、本当はしたくてたまらないのに、婚約破棄できないんだって!」
「まあ、なんておかわいそうな殿下。なんて非道な悪役令嬢!」
わざわざ目の前でさえずりを披露されたこともある。
まあ、やられたらやり返すが我が家の流儀なので、その場で言い負かしたら二度と同じことは起こらなかった。
でも、ちょっと自分たちの持っている手札の弱さを指摘してあげただけなのに、全員その場で声を上げて泣き出すなんて、自分たちで喧嘩を売ったくせにお粗末すぎやしないだろうか? 何を言われても懲りずに毎日突っかかってくる殿下のガッツを、少しは見習ってほしいと思ってしまった。
さて、これでひとまず学生生活は安泰かと思いきや、今度はごますり目当ての取り巻きという厄介連中が現れた。
いつの時代も、最大の敵は身内にあり、とはよく言ったものだ。
彼らは同情を顔に貼り付け、まあ親切に、王太子殿下がいかにわたくしに不誠実か説いてきた。
やれ誰とランチを一緒に食べていただの、相談に乗っていただの、果ては告白に呼び出されて抱きつかれていただの。
もちろん、殿下がどこで誰と何をなさっているか程度のことであれば、わたくしは部外者に言われるまでもなく、概ね把握している。我が家の諜報部隊は優秀なのだ。そして知った上で、よっぽど目に余る行いがなければ見なかったことにしている。
極論、わたくしは仮に決定的な浮気現場に遭遇しても、わたくし以外の誰もそのことを知らないのであれば水に流す所存だった。遊びなら発散結構、本気ならむしろお世継ぎ問題的には安泰ではないか。殿下の子であればわたくしの腹でなくとも何ら問題はない。
ところが彼はその辺、かなりストイックだった。あれほど女学生達に日々取り囲まれているのに、誰ともキスすらしておらず、あちらからの接触があれば丁重に断っているのだ。
ハイツマンの後ろ盾を失って一番困るのは殿下本人だから、なにがしかしたくともできなかっただけなのかもしれないが。
そんなわけで、殿下の女性関係についてわたくしに悩むことはなかった。
ああまた騒がれて追いかけ回されているなあ、面倒そうだなあ、なんだか一人になりたそうだ、それならたまには追い払ってあげるか、何しろ嫌われものの婚約者は虫除けに最適だから――まあ、そんな程度だ。
ちなみにそうやって気を利かせると、「余計なことをするな」とにらまれる。そして「殿下を困らせている悪役令嬢」の名はますます高まっていく。
はいいつもの。もう慣れた。どうせ元からハイツマンは嫌われ役だし、殿下の態度だって十年続けば今更直らないことはわかっている。
有象無象を適当にあしらい、殿下の辛辣な言葉は受け流し反撃し――それがわたくしの成すべきことと心得てはいても、自分の何かが徐々に、それでいて確実に削れていくような感覚はあった。
この先ずっと状況は変わらないのだという、緩やかな絶望じみた諦念が、積もり積もって無視できない大きさにまで育っていた。
だが、入学二年目にして、転機が訪れた。
来年には卒業と正式な王太子妃デビューを控えたわたくしは、その日図書室の地下蔵書庫に潜っていた。
図書室では私語厳禁な上に、一般公開されている地上部はともかく、地下蔵書庫まで訪れるのは目当ての専門書を探しに来る者ぐらいだ。
ご注進係達に追いかけられても、おしゃべりできぬ場所で難しい本を読み出してやれば、いい退散呪文になる。空き時間、わたくしは静かな時間を楽しむべく、地下に居座ることが多くなっていた。
そしてわたくしは、あの運命の書と出会ったのだ。
今日はこの辺りを読もうか、と棚から資料本を引っ張り出そうとしたとき、それは一緒に落ちてきた。真っ黒な装丁で、分厚く重たかった。拾い上げて埃を払った際、ふと中の一文が目を惹いた。
「刺激こそ成の源、苦痛こそ性の証明、悦楽こそ生の褒賞。己の中のマゾ豚を自覚せよ――」
(己の中の、マゾ豚……?)
神様なんて基本的にいないものだと思っているけれど、このときだけは天啓という言葉を信じてもいい気分になった。それほどその本――『マゾ豚の品格』の内容は衝撃的だった。
「人間には三種類ある。まだ自分がマゾ豚であることを知らない人間と、認めたがらない人間と、認めた人間だ――」
「叩きたいと思っている人間は、同じぐらい叩かれたいと思っている。少なくとも、誰もおらず、何もされないよりは、何ものかに嬲られる方がまし。それが我々という生物の在り方だ。人間は無関心と孤独によって生の意味を失う――」
「感じることから逃げてはならぬ。己の豚を受け入れよ。汝の欲望の否定は、汝の生への否定。自らの立つ場所と目的地を知らぬ者は、どこにも辿り着くことあたわず――」
わたくしは世界の広さを知った。まさに未知との遭遇だった。
過激で、低俗で、まあむちゃくちゃなことを言っているくせに、それでいて誇り高く、気品に満ちている。くだらないと一蹴できそうな内容なのに、なぜかページをめくる手が止まらない。
わたくしは没頭し、瞬く間に読破してしまった。そして本を閉じたとき、一つの真理を得た。
(そうか――わたくしもまた、マゾ豚の一人なのね)
常に冷静であれ、敵は情でなく理性で殺せ。
それがハイツマン流であり、わたくしは貴族として、いついかなる時でも冷静なよそ行きの仮面を装うことに慣れきっている。
だが、仮面の下にはまだ、感じる心が残っていた。慣れきっているはずなのに、たまに古傷が痛むように、じくじくと存在を訴えてくるものがあった。
その、押し殺しきれない感情を、秘めて誰にも明かせぬ悩みを、肯定されたように思えた。わたくしはきっと、それがとても嬉しかったのだろう。
くだらないプライドを脱ぎ捨て、マゾ豚である自覚を持ってしまえば、刺激は全て快楽に通じ、苦痛もまた悦楽と書は説いていた。
――ということは、つまり。
わたくしは殿下に冷たくされて傷ついていたけれど、あれは喜びに通じるということなのだ。
まさに発想の転換! 天啓! そうか、世界はそういう風にできていたのか……!
(殿下がわたくしを嫌っていることはもうどうにもできないけど、わたくしが殿下に嫌われていることを喜べるなら……胸を張って王太子妃になれる!)
新たな世界の扉を開いたわたくしは、それ以降、殿下になじられるとむしろ微笑みすら浮かべられるようになった。社交辞令ではなく、自然な笑みだ。
顔を見るなり罵倒されても、気にしない、へっちゃら、と言い聞かせる必要がなくなった。むしろもっと来い。どんと来い。どうしたその程度か。わたくしのぞくぞくはまだこんな程度では満たされなくてよ。
わたくしはマゾ豚なんだから、あなたが何をしたって問題はないのよ。
――たぶん、きっと、おそらくは。
そういうことのはずでしょう?
しかし、冷たくされても密かに楽しむ方法を発見すると、わたくし達の溝はますます深まったらしい。
まあ、今まで真顔で言い返していた場面で、慈愛の聖母がごとき微笑みを浮かべるようになったのだ。気持ち悪がる殿下の心境も、わからないわけではない。
「なんだその掌の返し方は……心境の変化でもあったのか!?」
「ええ、ございましたのよ、素晴らしい出会いが! ですから殿下におかれましては、今まで通り、いえ、今まで以上に、わたくしを冷遇なさってよろしくてよ。もう何もかも、大丈夫ですから」
わたくしがにっこりと答えると、彼は唖然としていた。よろめくように数歩下がってから視線を落とし、やがてごくごく小さく、地を這うような声を漏らす。
「……男が、できたのか? 俺以外の、男が……」
わたくしは思わず、きょとんとしてしまった。それからまた、一際大きく胸がずぐんと痛みを訴えるのを感じた。
(ああ、やはり、そのように考えるのね。十年間一言もあなたに嘘を言ったことはないのに、わたくしが隠れて不貞を働くような女だと思っているのね。フフ、そんなに疑わずとも――かわいげのないハイツマンの女を愛人にしたい男なんて、どこにもいないというのに)
目覚める前のわたくしであれば即座に否定し、「自分だって学校に来てからはいつも平民女子を侍らせているではないか」とか返したことだろう。
けれど、このときは、もう殿下のことで悩まなくていいのだと気が緩んでいて、高揚感もあって――いつもと少しだけ、違うことを言った。
「わからないわ。あなたはわたくしに、何を期待して尋ねてきているの? わたくしが何を言おうと、自分の偏見以外信じる気持ちなんてないくせに」
――あなたとの会話はキャッチボールじゃない。壁打ちだ。打てども打てども響かない。きっとお互いに。
エメラルドの目が、かつてないほど開かれて揺れている。彼は口を開いたが、言葉は出てこない。
わたくしは少しだけ待ってから、ふう、とため息を吐き出す。
「それで、他にご用件は?」
「…………」
「ないのであれば、本日はこれで」
優雅にお辞儀をしてから踵を返す。
背後で彼が動いた気もしたが、結局その日は、そのまま別れ。
――そしてその数日後、わたくしは正気を失った彼から熱烈に口説かれることになったのだ。
***
「テレージア、今日も美しい。お前のような婚約者がいて、俺は本当に幸せだ」
顔を合わせるなりわたくしの手を取って口説き文句じみた言葉を並べ始めた殿下に、最初は新手の嫌がらせかと思った。けれどすぐ、「あっこれ目が本気だ正気じゃないけど本心だ」と、異常事態を悟った。
不幸中の幸いとして、殿下はどうやら朝一番にわたくしの所に来たそうだ。狂人の自称なので後で裏取りは必要だが、今のところこの明らかに頭のおかしい状態を他者に見られていないなら何よりである。
わたくしは急遽各所方面に二人分の欠席を連絡してから、校内のとある場所に彼を引きずってきた。まあべったりくっつかれているので、わたくしが歩くと必然的に彼も移動するような状態だったのだけど。
「メルヒオール、寛大なわたくしは釈明ぐらいはさせてあげますから、首と胴をまだ繋げていたいならいますぐ土下座なさい。あなた何をとち狂って、こんなことをしでかしたの」
「朝っぱらから何ですか、テレージア閣下。ボクは至って正気だし、何もしてないけど」
扉を開けるなりぴしゃんと言い放つと、がらくたの中からひょっこり丸眼鏡の学生が顔を出す。
そこは実験室の一つであり、今わたくしに睨みつけられてもへらりと笑い返した男、メルヒオールによって占有されている。
彼はさる伯爵家の三男坊であり、魔法薬の研究については教師も舌を巻く才能を発揮するも、それ以外は大体駄目というまあお手本のような一点特化型の天才だ。今日も冴えないくしゃくしゃの頭で、テリトリーの研究室はぐちゃぐちゃに荒れていた。
わたくしのことを、まるで将軍みたいなしゃべり方だからと閣下呼ばわりする命知らずっぷりも健在で何よりだこと。けれどもし、この男まで殿下と同じふわふわ空間にいたら、わたくしは校内で爆発事故を起こしかねなかったから、その意味では平常運転っぷりに少し安心した。
「わたくしじゃないわ、この人よ。どう見たって様子が異常です。精神錯乱しているのだわ。あなた、殿下と仲が良いし、こっそり一緒に飲みに行ったり、実験に付き合わせたりもしているでしょう。昨夜一体何を盛ったの――」
話を始めようとした途端、わたくしの腰に手を回していたひっつき虫が不穏に蠢きだした。
「テレージア、俺がお前に愛を告げていたのに、他の男と話し始めるだなんて……!」
「殿下。戯言の連呼であれば聞き流すだけですが、わたくしのうなじに顔を埋めて匂いを嗅ごうとするのはおやめくださいな。その綺麗なお顔を扇子ビンタで吹っ飛ばしますわよ」
「だって、テレージアが足りないんだ……!」
「まあそうですの、でもわたくし、お行儀の悪い犬は嫌いなの。ステイ」
「わん……!」
「ええ、そうね、大人しく離れてくださるのはとても嬉しいのだけど、ついでにちょっとしばらく黙っていてくださる? そろそろ血管が切れそうだわ」
元の王太子殿下であれば、わたくしの言葉に素直に従うことなどあり得ない。そもそもゼロ距離でうなじに顔を突っ込んでくること自体があり得ない。誰ですの、平民女性にしなだれかかられようと一切手出しをしなかった男をこんな変態にしたのは。
ああ、律儀に犬のまねまでなさって……何故無駄に再現度が高いんですの、耳と尻尾が幻覚で見えそうじゃない。今日のわたくし、絶対夢見が悪い自信があるわ。
人間らしい距離感に戻ったわたくし達を見て、眼鏡顔はかっくり首を傾げる。
「あれ、ボク、てっきりうまくいったものと……仲良くなったんじゃなかったの?」
「あなたその視力矯正具が実はただの板だったりしますの? これのどこが仲が良いんですの?」
「フリードリヒはまあまあ顔に出るけど、閣下はいつも真顔か鼻で笑ってるかだし、言うこと大体辛辣なんだもん。あとなんだかんだフリードリヒの言葉、今まで通り全部返してるよね。本当に嫌なら無視すればいいのに」
わたくしは雑談はそれぐらいにしろという意図を込め、手の中でスパン! と扇子を打ち鳴らした。薬マニアはうひーと首をすくめる。
「まあ、うん。一応フリードリヒのその状態にね、心当たりはあるよ。なんか昨日さあ、夜にふらふらーっと来てさ。すっごい荒れてて……えーと、その、ヤケ酒? いや未成年だし、ヤケノンアル? まあ、そんな感じでさ。んでその時……あーっと、アレなものも誤飲したんじゃないかなーって……」
「アレなもの?」
なるほどカクテルパーティーみたいなことをしていたのだな、そしてこの生活力皆無な眼鏡のことだから雑に適当に飲み物を並べたのだな――概要を把握できたわたくしは、ごにょごにょ濁された部分について速やかにつつく。丸眼鏡は言いづらそうに目を泳がせてから、ぼそっと漏らした。
「……試作中の惚れ薬」
「……………………」
わたくしが「視線だけで誰か殺せそう」と評判の冷笑を向けてやると、彼はあわあわと言い訳を始める。
「いやだって……ねえ? 研究者としてはこう、行けるのかなって、好奇心が……一回は作ってみたくなるじゃん?」
「その研究者としての好奇心で、被害が出ていることについて何か」
「ははは。ボクは何も害ないし。むしろ大分面白いもの見れてるなあ、的な」
「突然ですが今からここで花火大会を開きませんこと? 後始末のことはご心配なさらず、一切の痕跡を残さないことを保証いたしましてよ」
「まあまあ……落ち着いて。そんな長引くものじゃないよ。置いとけば、今日が終わる頃にはもう元に戻るはずだからさ。後遺症とか体への悪影響も特にない。ちょっとウザいかもしれないけど、今のフリードリヒってすごい素直になってるし、むしろ扱いやすいでしょ?」
「嫌ですけど。速やかにやめていただきたいですけど。鳥肌が止まりませんけど。こんな様子、周りに見られたらなんと言われるか」
「じゃあ、君が面倒見るしかないんじゃない? どうせたった一日だし。いやほら……帰るまでに治らなければ、一応解毒薬も用意しておくからさ」
薬馬鹿はこのような騒動を引き起こすやらかしはあっても、腕は確かだし、何より自分の作った薬に対しては誠実だ。説明に嘘はないと思っていい。
「……今日一日放っておけば、収まるものなのですね?」
「君がそれを望むなら……?」
眼鏡は首を傾げて何やら妙な言い回しではあったが、重ねて結果を保証した。
やはり、正気の殿下がわたくしに愛の言葉をささやくなんて、あり得ないことなのだ。
わたくしはため息を吐き出し、肩を落とした。
安堵したはずなのに、どこか残念な気分でもあり、早くこのモヤモヤを全て気持ちいいものと認識してしまえる高見まで上りたい、などとほんの少し思った。
***
そのまま実験室に引きこもっても良かったのだけど、「薬の調合に邪魔だから出て行って」と追い出されてしまった。
他に人の来ない所をいくつか思い浮かべたが、妥当なのは殿下の私室かわたくしの私室だ。王立学校は貴族の子ども達も通ってくるから、貴人用のプライベートスペースがいくらか存在する。
図書室の地下なども考えられないではなかったが、公共の場であるからにはリスクもあった。あとあの神聖なリラックス空間にこんなノイズを持ち込みたくない。
なんだこの究極の罰ゲームじみた二択は、と思いつつ、もちろん自室を選択した。こんな発狂状態の男の部屋に足を踏み入れるなんて、どう考えても自殺行為である。自室も自室でどうなのかと思うが、まだ勝手知ったる空間である分こちらに利がある。
「念のため言っておきますけど、口説くだの抱きつくだの程度でしたらかわいいものと見逃しますが、万が一それ以上の不埒な真似を働こうものなら、わたくしも本気で正当防衛しますからね」
「う、うん」
わたくしのプライベートルームであれば、むろん暇つぶし用の趣味のあれこれを置いてあるし、好きなときに飲食だってできる。この男を入れることに内心相当な抵抗はあったが、今日一日の辛抱だ。
「ここがお前の部屋か……!」
「わたくしの部屋なんかに、ご興味がありましたの?」
「行きたいなんて言っても、蔑んだ目を返されるだけだと思っていたからな」
殿下は興味深そうに、ぐるりと室内を見回した。
「お前のことをもっと知りたいと思っていた。今日早速こんな経験ができて、嬉しくて仕方ない。結構可愛いものも好きなんだな」
「…………」
わたくしがそっとぬいぐるみやクッションを片付ける様子を、無言のニコニコ顔で見守る殿下。
……本当にやりにくい。けれど惚れ薬の力なのだ。正気に戻ったとき、一番ショックを受けるのは殿下だろう。
そう思うと、多少は溜飲が下がるし我慢もできるような気がする。
わたくしは適当に本を開いた。文字が頭に入ってこなければ裁縫道具を取り出した。刺繍が捗らなければ楽器を取り出した。弦の調子が悪ければまた本を開き、書き物を取り出した。
「暇を持て余しているならダンスの練習でもするか?」
「結構よ。お構いなく」
その間、王子は大人しく言われた通りの場所に座って、幸せそうにわたくしを眺めていた。時折声をかけてくるのをぴしゃんとはねつけても、全く退屈そうな様子は見られなかった。
お昼は適当に軽食を手配し、午後になり、夕方になってもまだ王子の様子は戻らなかった。
お茶を入れるのもこれで本日何度目だろうか。これが飲み終わったら実験室に彼を連れて行こうかなと、傾いた日を見て思う。
昔ちょっとこだわりを持とうとして自分で用意できるようになっておいて良かった、と思いながら、ついでに殿下にも出すと、彼は優雅にティータイムを楽しんでいる。
こうして黙り込み、目を閉じて味と香りを嗜んでいる様子は、確かにいつもの殿下だ。わたくしがじーっと眺めていると、視線に気がついたらしい彼が苦笑した。
「テレージアは俺に好きだと言われるのが嫌なのか?」
「ええ、嫌よ」
「俺のことを嫌っているから?」
「――いいえ」
はい、と答えなかったためだろうか、しゅんとうなだれていた彼はぱっと顔を輝かせる。一方でわたくしは、きっと苦虫をかみつぶしたような顔になっている。
「嫌ってはいない?」
「……ええ」
「本当に?」
「わたくし、あなたに嘘をついたことはございませんのよ。あなたが信じてくださったこともなかったでしょうけど」
「それなら……好きな人が他にできたから、笑うようになったわけじゃないのか……?」
「恋なんてしないことに決めています。わたくしに変化が訪れたように見えたのだとしたら、読書の結果です。それ以上のことはありません」
ああ、調子を崩されているせいか、また一つ本音がほろりとこぼれる。
今更期待なんてしたくない。
はじめて出会った時のように、勝手にのぼせ上がって、失望して。もうあんなことは嫌なの。
殿下はわたくしの話すことに、一喜一憂しているらしい。そわそわと落ち着かなさそうに、けれど楽しげに言葉を続けていく。
「俺のこと……好きな部分はないのか?」
「お姿はずっと好ましいと思っていますよ。それこそ出会ったあの日から」
「……中身は?」
「会えば喧嘩腰な方の中身をどうやって好きになれと?」
「それは……その通りだな。今更ずっと好きだったなんて言われても、信じられないか」
「当たり前でしょう。第一、あなたのそれは薬物作用。明日には覚める幻です」
エメラルドが輝いている。その中に、わたくしの姿が映り込んでいる。
だけどこれは夢。もうじき覚めることが約束されている、うたかたの幻想。
わたくしはせめて夢ぐらい楽しもう、なんて器用な人間ではない。
夢の幸せを噛みしめるほどに、覚めるのが辛くなるだけ。
「そうだな……それに、今はこうして好きだと確信が持てるが、少し前の俺は、俺自身のことがわからなかった。ただ、いつもお前を見ていた。お前に……振り向いてほしかった」
「わたくしはいつだって、あなたのことを気にしておりますでしょう?」
殿下が何か言おうと口を開く。けれど言葉が続かない。
エメラルドの瞳の色が、何か変わった。熱が冷めていくのが目に見えてわかる。
「――あ」
時が来たのだ、とわかった。また、ほっとしたようながっかりしたような、おかしなもやもやが胸を渦巻く。
わたくしは深呼吸してから、いつもの冷笑を浮かべてみせる。
「薬の効果が切れたのですね。殿下、ご安心なさいまし。今日のことは誰にも口外しませんし、わたくしの記憶からもなかったことにいたします。あなたは何も話していない、わたくしは何も聞いていない。余計な勘違いなんかしませんから、今まで通りわたくしは鬱憤をぶつける相手とみなしなさいまし。それで構わないと――」
ガタンと物音がして、わたくしの言葉は途切れた。殿下が椅子から立ち上がり、わたくしの手をつかんでいたのだ。
どちらも驚きで大きく目を見開いている。けれどわたくしが体をこわばらせ、迎撃体勢に移るほんの一瞬先、殿下が声を上げる方が早かった。
「待ってくれ、テレージア……お願いだ。もう少しだけ、待ってくれ」
――お願いなんて、この人からされたことがあっただろうか。いつもわたくしに弱みを見せまいとしているような、この人が借りを作るなんて。まだ夢の続きなのでは? いいえ、瞳を見れば、彼が正気であることはわかる。薬でおかしくなった時、すぐにそうと見抜けたように。
わたくしは思わず、そのまま硬直してしまった。
殿下は額に汗を浮かべ、肩で息をしている。おそらく、急に下がった自分の熱に混乱しつつも、思考をまとめようとしているのだろう。その、予想外の事態に冷静に対処しようとする姿は、紛れもなくわたくしの知っている婚約者の姿だった。
「――きっと、今じゃないともう言えない。だから、全部言ってしまう。夢を見ているようだった。夢の中で、俺はただ、君の隣にいられるだけで幸せで……君にどう思われるかより、自分がどうしたいかがずっと強くて。だから、俺は……」
「それは、そういう風に感じるお薬を飲んだからで、」
「違う――いや、薬の効果はあった。だけど、それだけじゃない……違うんだ。頼む、聞いてくれ。俺はずっと……ずっと君を見ていた。最初に会ったあの日から」
今日一日、知らない殿下を見続けてきた。今は、知っている殿下と知らない殿下が両方とも目の前にいる。わたくしもまた、困惑したまま彼を見上げた。
おかしな熱が消えた今、一体何を言おうとしているのだろう?
「……出会った時。俺の未来を決める女だと紹介された君は、綺麗で自信に満ちて完璧な令嬢で――俺を値踏みする大人達と、同じ顔をしていた。俺は舐められてはいけない、と思った。俺が取るに足らない存在だと思ったら、君はすぐに切り捨てるだろうと……そう思って、必死だったんだ」
ごくり、と喉を鳴らしたのはどちらだっただろう。
わたくしは思い出していた。初めて会ったあの時のことを。
そういえば、彼は最初、わたくしを見てぽかんと口を開いたのではなかったか。
わたくしはそんな彼に、笑みを向けた。
ハイツマンで叩き込まれた、感情を隠し、他者を圧倒するための冷笑を。
それから、エメラルドの目が強くわたくしを睨みつけて……。
「君はいつでも表情が変わらないから、何を考えているのかわからなくて。俺ばかり必死で、どれほどの成績を修めても、ずっと半人前だと笑われているような気がして、俺は……怖かった。自分一人では王になる力もないくせにと、いつも君に見下されているように感じていた」
見下したことなんて一度もない。
……本当に?
やられたらやり返すのがハイツマン流だ。
王子がわたくしに侮られまいとしたのであれば、わたくしもそう返してきたはずだ。
わたくしが言葉を失っていると、殿下はふっと息を吸い、一度腕をつかんでいた手から力を抜く。
「テレージア、覚えているか? 確か九歳の時だった……俺は少し無理をして、風邪を引いた」
また、話が変わったようだ。
ぼんやりした頭で、わたくしは記憶をたどる。
――ああ、そういえばそんなことがあったような気がする。
あの頃からこの人は真面目で頑張り屋で、子どもの頃はかなりの無茶をして、予定を積み込みすぎていたのだ。
そして案の定倒れ、わたくしはお見舞いに行った――。
「あのとき、体調管理の一つもできない婚約者に、今度こそ君が失望の顔をすると俺は思った。だが君は――」
『どりょくはさいのう、けれどすぎたるは身をほろぼします。あせりすぎることはありません。わたくしは一生、あなたをそばでおささえします。ですからくれぐれも、お体おいといになって、またわたくしににくまれ口をたたけるぐらい、元気になってくださいましね』
「――そう言って、額を撫でてくれたんだ。あのときだけは、君の本心を感じられた。だけど、次に会ったときはまた、君は元通りで。俺も、すぐに態度は変えられないし、何より君に元通りになるぐらい元気になれと言われたから。俺は……俺は、わからなかった。俺自身のことも、君のことも、何も……」
ああ、そうだったかしら。そんなこともあったかしら。
だってあのときの彼は弱り切っていて、柄にもなくべそをかいて、ぐしゃぐしゃのぐちゃぐちゃで、今にも消えてしまいそうにすら見えた。
熱を帯びた潤んだ目で、わたくしを見たのだ。これから捨てられることを理解している子犬のように。
だから、釣られて調子が崩れて、仮面も剥がれて。
でも。これじゃあ、まるで。まるでお互いにずっと、相手のことしか眼中になかったような――。
「――優しくなんてしてもらえるはずがないなら、無関心よりは、冷たくされている方がいい。わたくしにだけ冷たいのは辛いけど、態度が違うなら、それはある意味特別だということで……有象無象扱いよりはいいと、割り切ろうとした。だって、あなたがわたくしを見ることなんて、あり得ないと……」
ああ、いけない。いついかなる時も冷静沈着、感情は表に出すものではない。御し方を心得て安泰だと思ったのに、こうもたやすく、引きずり出されてしまう。いつの間にか殿下同様立ち上がり、彼と向かい合っている。
エメラルド色の目に見つめられている時、わたくしは絶対に嘘がつけないのだ。
「……テレージア。俺たちは……」
「こんなの――信じません。十年以上、人生の半分以上! 憎まれていると思っていた、憎み合っていると思っていた、それで良かったはずでしょう!? そんな簡単に、お互いに誤解して意地を張っていただけだったんですねなんて、今更――」
言葉が切れたのは、抱きしめられたからだ。
最初は同じ目の高さだった。むしろわたくしの方が常に先を行っていた。
なのに今は、わたくしより彼の方がずっと大きくて――。
けれどわたくしは、思い切り彼を突き飛ばした。
「嫌い! 殿下なんて大嫌い! ずっとずっと嫌い!」
「テレージア……」
――絵本に出てくるみたいな、理想の王子様を、いいなと思った。
現実はそう甘くなかった。王子様もお姫様もいなかった。
けれど、一生懸命、泥臭くもがいている彼を見ていたら、とても放っておく気になんかなれなくて、隣にいるのは自分しかいないと、自負して、認めさせたくて――。
「――っ、出て行って! あなたみたいな未熟で身勝手な人、わたくしが好きになるわけないんだから!」
殿下はわたくしの剣幕に押されたのか、言われたとおりにした。
けれど部屋を出て行く寸前、捨て台詞を残していく。
「また明日、テレージア」
ごきげんよう、といつも言い合っていた。次に会いたいなんて思っていないはずだったから。
なのに彼は、素っ気なさの中に柔らかさを残した声音で、今日初めてそう言った。
わたくしは「明日の予定なんてありません!」とふわふわクッションを投げつけてやったけど、当たらなかったようだった。
今度投擲技術も磨いてやろうと、心に決めた。
***
テレージア=サンドラ=フォン=ハイツマンは、才色兼備だが近づきがたい人物とみなされていた。
冷ややかな美貌に、冷ややかな正論。だからこそ負けず嫌いな王太子には張り合いがあるだろう、と婚約者に選ばれた。
狙いは的中し、王太子はそれはもう期待以上のやる気と頑張りを見せてくれた。しかしその原動力は憎しみ由来、未来の妃も相手を快く思ってはおらず、王室史上最も露骨な仮面夫婦になりそうだと当初人々は思っていた。
けれどあるときから、「お似合いの二人」に評価が変わる。
逃げ回るテレージアを王太子が追いかける様子や、「甘い言葉をささやかないでって言ってるでしょう!!」などとテレージアが真っ赤になって王太子に柔らかクッションを投げつける姿を見ていれば、もう彼らのことを「婚約破棄待ったなし」と考えるような者は、誰もいるはずがなかった。
また、ほぼ時を同じくして、学生達の間で密やかに「恋を成就させる妙薬」なるものが流行りだしたのだが――怒れるテレージアにすぐ全没収されたとか、王太子が宥めすかして再入手したとか、今もまだどこかに在庫が残っているだとか――そんな噂話が、長く王立学校には残ったのだった。