第4話 異世界での朝
*
「――クソガキが。こんくらいも出来ねぇとか、お前生まれた意味あんのかよ…?」
「だからあたしは堕ろそうって言ったじゃないの! ただでさえ育児なんて面倒なのに、こんな子供に価値なんて無いわよ!」
鈍く世界に反響する、両親の言葉。
「エイジや。これからは、私たちの家に住みなさい」
「辛かったでしょう。これからは、なんの心配もしなくて良いからね」
祖父母からかけられた、温もりを持った言葉。
「――よっし、変わり者どうし、今日からオレたちは友達だ!」
「これからよろしくね、エイジくん。仲良くしてくれると、うれしいな」
記憶の彼方に声を無くした、友達の言葉。
〈ごめんなさい。わたしはあなた達と一緒にいる資格を無くしてしまいました〉
〈あいつの異変に気づかなかった責任取って、あいつに詫びを入れてくる。どうか、お前は気に病まないでくれ〉
俺に宛てて遺されていた、2人の最期の文書。
「日下部さんとこのご夫婦も亡くなっちまったんだってなぁ。寂しくなるね」
「お孫さん、天涯孤独になってしまったんですってね。まだ高校生くらいなのに、大丈夫なのかしら……」
どこかで見かけた人たちの、話し声。
自分自身の価値。
生きている意味。
それを見失ったのは、いったいいつからだっただろうか――――
*
ぱちり、と目が覚める。
仰向けに布団に収まっていた俺の視界に映るのは、見慣れた我が家の天井――とは違う、どこか上質そうな木材で作られていると思しき、見慣れない天井だった。
ちらりと視界を横にずらせば、そこにあるのはリング状の蛍光灯ではなく、水晶のような何かで作られたライト。明かりは落とされているが、部屋の中は、カーテン越しに差し込むまばゆい光によって照らされていた。
「……あー……っと……?」
一瞬、脳が混乱を起こすが、ほどなくして昨夜の出来事を思い出す。
――俺、こと日下部瑛司は、「異世界転移」という実にファンタジックな現象に遭遇した。
突然の転移により飛ばされた、現地の人々から「エルフラム」と呼ばれる世界。そこで出会った、ディーンと名乗る貴族のご厚意によって、しばらくの間ここに住まわせてもらえるのみならず、この世界で生活できるようになるための便宜を図ってくれる……と進言してくれたのだ。
現在の俺は、その進言を受け、ディーンさんの邸宅に用意された客間で、就寝から目覚めた状態である。この部屋には時計の類が無いため、具体的な時間は分からないが、外の光景や目覚めの感覚から、少なくとも昼を過ぎているようなことはないはずだ。
「……やっぱり、夢じゃないんだな」
ゆるゆると身を起こしながら、ひとりごちる。
眠りにつく前、これが夢だったら、と考えはしたが、どうやら現実とは、不出来な小説よりも突飛さに富んでいたようだ。
(……にしても、懐かしい夢を見たな)
ベッドの縁に座り直しながら、俺は夢の光景を頼りに、過去の記憶を辿っていく。
今の自分が自分たる所以。生きている意味もなく、その存在に価値のない、何者にもなれない俺の過去。
俺によくしてくれた人たちの存在にケチをつけるつもりはないが、それを加味しても、俺という人間が送ってきた日々は、あまりにも無意味でつまらないものだった。
(なんで、俺なんかが異世界に来たんだろうか)
過去を辿って胸中に湧き上がるのは、疑問だ。
何かを成すこともできない存在であるはずの俺が、こうして世界を超えた意味。あまりにも現実離れした現実を目の当たりにすることになったその意味を、俺は掴み損ねていた。
……いや、ひょっとすると、そんなものはないのかもしれない。
異世界というものは当たり前にあって、異世界トリップという事象も、語るべき人間がいないだけで、世間一般には当たり前のこと。今のこの現状は、単に俺が知らない現実の一側面を知ることになった、それだけのことにも思えた。
(この世界でなら――やり直せるんだろうか)
だけど、もしも仮に、この現在に意味があるとするならば。
それはひょっとすると、世界から俺に与えられた「チャンス」なのではないだろうか。
今まで生きてきた世界と隔絶されたこのエルフラムに、かつての世界で生きてきた俺の常識や来歴は通用しない。それはとどのつまり、新たな人生といっても過言ではないだろう。
無意味で無価値な存在だった自分に別れを告げて、新たな人生を歩んで行くことができたなら。それは、とても素晴らしいことなのではないだろうか。
(できるだろうか。こんな俺にも)
そう考えて、かぶりを振る。
できるかできないかなんて、きっと関係ない。こうして現実に異世界へとやってきた以上、俺に採れる選択肢は「やる」ことだけなのだ。
「――頑張って、みるか」
不安は尽きないが、何もせず悩んでいても、現実は待ってくれないということは、身に染みて理解している。
何もしないまま、何もできなかったと嘆くような人生は、もう終わりにしよう。
そうして、1人心を決めた頃。
まるでタイミングを見計らっていたかのように、客室の扉からノックの音が響いた。
……いや、ノックなんて生易しい物じゃない。ドンドンドンッ! と荒っぽく叩かれるそれは、失礼ながら「催促に来た借金取り」という文字を脳裏に踊らせる、そんな音だった。
「起きてるかー? 入らせてもらうぞ」
声と共に、ノブが周り、扉が開く。
現れたのはもちろん、建築業のおっちゃん――ではなく、昨日俺を助け、ここに保護してくれると進言してくれた貴族の男性、ことディーンさんだった。後ろには当然、燕尾服を纏ったシリウスさんもいる。
「よう、おはようさん。どうだ、昨日は眠れたか?」
「おはようございます。はい、特に問題はなかったです。……今は、朝でいいんですよね?」
「ああ、日が出て少し経ったくらいだな。……ふむ、特に問題は起きてないみたいだな」
顎に手を当て、俺の顔をつぶさに観察していたディーンさんが、満足そうにそう言って頷く。
「なにぶん、異世界人の保護なんて初めてだからな。世界の違いが身体にどんな影響を及ぼすかとか、そういうことがまるでわからんのは厄介なもんだ。……何か異常があったら、すぐに知らせてくれよ?」
どうもこの人は、朝一番から俺のことを心配してくれていたらしい。思ってもなかった言葉に面食らうが、それが善意100%の言葉であることは、すぐに伝わってきた。
「ありがとうございます。今のところ……まあ、目の色が変わった以外は、特に何もないですよ」
異世界にやってきた影響なのか、本来黒かった俺の瞳は何故か、鮮やかな緑色に変色している。一夜明けても視界に影響は出ていないようだし、ひとまずこれは問題のうちには入らないだろう。むろん、今後何か変化をきたすかも知れないことは、頭に入れておかなければならないが。
「そうか、ならよかった。――んじゃ、朝飯にするか。お前さんも、そろそろ腹が減ってるだろう?」
言われ、そういえば昨日はいくつかパンを頂戴しただけの、簡素な夕食だったのを思い出す。
異世界にやってきて初の食事だったため、こちらの食事が問題なく食べられるかを検証するため、簡素な食事を頂くにとどめていたのだが、そのことを思い出したせいか、ひどい空腹感が俺の腹を刺激していた。
「せっかくだ、親睦を深めるためにも、一緒に食おうじゃないか。……あぁ、別に貴族だからって遠慮はいらんぞ? 確かに権力者の端くれだが、俺だって元は一介の〈冒険者〉だったんだ。食事作法なんぞとやかく言う気はないから、お前さんも気にせず、食いたいように食ってくれ」
「そう、ですか? じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
上流階級のテーブルマナーなんてびたいち知らない人間なので、ディーンさんの言葉は素直にありがたかった。
朝一番に容体を心配してくれた事実と言い、こうした細かい気遣いと言い、やはり彼らは、心からの善意で、俺のことを保護してくれているのだろう。
いちいち人を疑うのは疲れるし、もともとそんな性分は持ち合わせていない。自分の精神衛生上のためにも、彼らを疑うのはやめにしよう。
そんなことを考えながら、俺はひとまず、身支度を整えるため、ベッドから立ち上がった。
***
こちらの世界に来てから二度目の食事は、かなり驚きにあふれていた。
食事の内容は、実になんてことのないものばかり。だが、その「なんてことのないもの」の質が、想像していたものより数倍は良いものだったのだ。
読みふけったファンタジー小説の知識にも、貴族階級なら比較的食の自由も効くとあった覚えがある。だが、ファンタジー世界の食事といえば、現代のそれに比べれば質が落ちる……と言うのが、さまざまな創作物における、共通見解だった。
しかし、実際に供された白パンやサラダ、細かく切った野菜をたくさん入れたスープなどを食べてみると、その味は現代の食事になれた舌を持って「美味い」と断言できるほど、レベルが高いものばかり。もっと質素で味気ない食事をイメージしていた俺は、軽いカルチャーショックを受けることとなった。
ディーンさんから聞いた話曰く、この世界の食事情は、ここ百数十年の間で、劇的に改善されたらしい。
なんでも、その時代に活躍していたとある異世界人が、食に対して非常に強いこだわりを持っていたらしく、食文化の改革を強く訴えた……というのが、事の始まりだと伝えられているそうだ。
さまざまな料理の文化や調味料の製法に始まり、痛みやすい食材の保存法や、それらを実現するための各種道具の開発。果ては、食材輸送のための交易ルートを自分で開拓するなどした結果、この世界の食事事情については、俺の知る現代と遜色ないレベルまで押し上げられたらしい。
ずいぶんな情熱だったんだなあ、と感心してしまうが、結果として、俺も良い食事にありつけているのだ。件の異世界人には、多大に感謝しなければならないだろう。
「ごちそうさまでした」
なんてことを考えながら、俺はこの世界二度目の食事を終える。
眼前に並ぶ食器類は、舐めたように……とまではいかないが、しっかり綺麗に完食してある。俺自身、腹が減っていたというのもあるが、先に述べた通り、想像以上の美味しさに、ついつい手が進んでしまったのだ。
「お粗末様でした。……テーブルマナーをご存じないとおっしゃられましたが、非常に綺麗な所作をなさっておりましたね。旦那様とは大違いです」
給仕の代わりをしていたシリウスさんが、そんなことを漏らす。さりげなく貶されたディーンさんが「うるさいぞシリウス。俺ぁ堅っ苦しいのは苦手なんだよ」と不満げに漏らしていたが、シリウスさんは涼しい顔でスルーを決め込んでいた。
「ありがとうございます。――たとえ学がなくても、礼儀と食事の作法だけはしっかりしろ……って、育ててくれた祖父母に教わったんです。それに、俺自身としても、汚く食べるのは好きじゃありませんので」
俺を育ててくれた祖父母は、どちらかといえば教養よりも礼節を重んじる人たちだった。そんな祖父母が特にうるさかったのが、礼儀作法と食事の作法だったのだ。
あいさつは怠るな。施しを受けたなら必ず礼を返せ。出された食事を汚く食べるな。幼少の頃より入念に叩き込まれた世渡り術は、今も俺の中にしっかりと息づいていた。
「素晴らしい教えでございますね。なるほど、そう教えられたのなら、貴方様の所作にも納得がいきます」
「まあ、褒められるほど大したことをしてる自覚はないですけどね。外面だけ綺麗な人なんてごまんといますから」
曖昧に笑ってごまかすと、不意に頭上からわっしと頭を掴まれる。シリウスさんのそれとは明らかに違う大きさの手は、紛れもなくディーンさんのものだ。
「ははっ、やっぱり俺の目に狂いはなかったらしいな。……それはともかく、エイジ。少し付き合っちゃくれないか?」
「付き合う……って、何処かに行くんですか?」
「おう、ちっと村の視察にな。ついでと言っちゃなんだが、お前さんにこの世界のいろんなことを教えてやろうじゃないか」
ディーンさんの口から出た願っても無い申し出を受け、俺は即座に頷いてみせる。
「そういうことなら、ぜひお願いします。何をするにしても、まずは色々と知りたいです」
「よしきた。んじゃ、俺は支度してくる。シリウス、誰か使用人を当ててやってくれ。出かけるんなら、エイジのその格好は流石に悪目立ちしちまうからな」
言われ、俺は自分の身なりを見直す。
昨日、あてがわれた客室で目覚めた時は気にしていなかったが、今の俺の格好は、無地のTシャツに長めのスエットという寝間着スタイルだ。これ以外に手持ちの服がない、ということもあって、ひとまずはこの格好のままでいてくれと言われたのである。
「かしこまりました。ではエイジ様、お部屋でお待ちください。後ほど、使用人とこちらの世界の服を当てさせて頂きます」
「あ、わかりました」
ディーンさんの補佐をするらしいシリウスさんに促され、俺は一度客室へと戻ることとなった。