第3話 変化と、今後のこと
ディーンさんたちとのお話にひと段落がついた後、お茶を入れるシリウスさんに頼んで、トイレの場所を教えてもらう。催した……というわけではないが、今だにごちゃごちゃの頭を、一度冷やしたいと思ったのだ。
ちなみに、入ってみてわかったのだが、どうもこの世界のトイレ、というか水回りは、現代地球のそれとほとんど遜色ないレベルのテクノロジーで作られているらしい。便器の横には、水を流すためであろうコックがあったし、鏡付きの手洗い場にはしっかりと、ライトに照らされて鈍色に輝く「蛇口」が据え付けられていた。
どういう原理なのかはわからないが、今考えても詮無きことである。深く考えるのは後にして、俺はひとまず、当初の目的を果たすことにした。
「ぷはぁっ」
蛇口から吐き出される水を顔に叩き付けて、頭と顔を急速冷却する。心地よい冷たさを顔全体で感じれば、夢から覚めたかのように、さっぱりとした気分になれた。
もっとも、顔を拭い、瞼を開いてみても、そこに在るのは現代様式の洗面台ではなく、ディーンさんの邸宅に設置されたトイレの手洗い場。さすがに、今の状況そのものが夢だった……なんて、笑いどころの分からない微妙なオチはなかったらしい。
安堵すべきか落胆すべきかわからないまま、何ともなしに鏡を見やる。水に濡れた自分の顔は、俺が知っている俺の顔と寸分たがわずに――
「……あれ?」
そこで、ふと違和感を覚える。
何気なく見つめた、鏡の中の自分。見知った顔であるはずのそれにはしかし、一つだけ「明らかな違い」があった。
少々不健康そうな顔色に、日本人特有の幼さの残る顔つき。邪魔にならない程度に切りそろえられえた、濡れ烏色の黒い髪は、紛れもなく「俺の顔」だった。
――だが、違う。鏡の中の自分を見つめ、鏡の中から自分を見つめ返してくる俺の「瞳」だけは、確かに違っていた。
「……緑?」
本来ならば、髪の毛と同じ黒を湛えているはずの、瞳の色。今の今まで黒いままだと思っていた瞳はしかし、上質な宝石と見紛うほどの鮮やかさと、色の深みを湛えた「緑色」へと変わっていたのだ。
何度かまばたきしたり、目をこすってみたり、備え付けのタオルで鏡を拭ってみても、鏡の中の姿は変わらない。どこか人ならざる物のようにも思える緑色の瞳は、俺の眼孔に収まったまま、静かに俺を見つめ返していた。……どうやらこれは、目の錯覚や鏡の異常などではないらしい。
奇妙な変化に首をかしげるが、特に視界への影響は出ていない。これからどうなるかはわからないが、ひとまず気にするほどのものではないということで結論を出した。
「ディーンさんに聞いてみる、か」
早々に考察を諦めた俺は、改めてタオルで顔を拭う。さっぱりした頭に新しい疑問を積み重ねながら、俺はディーンさんたちの待つ客室へと戻っていった。
***
「お待たせしました」
客室へと戻ると、お茶を淹れに出ていたシリウスさんはすでに戻っていたらしい。テーブルには、俺とディーンさんのものらしい、湯気を立ち上らせるカップが置かれている。
「おう、戻ったか。どうだ、頭の整理はついたか?」
「はい。一応、頭は冷えましたけど……ちょっと、一つお聞きしてもいいですか?」
「ん? あぁ、構わんぞ」
承諾を得て、俺はいましがた生じた新たな疑問について尋ねてみる。
「ディーンさんたちには、俺の目って何色に見えます?」
「目? そりゃあ、緑色じゃないのか? なぁディーン」
「そうですね。私にも緑色の瞳に見えます」
「……俺が最初に目覚めた時から、ずっと緑でしたか?」
「はい、最初にこの部屋で目を覚ましている貴方様とお会いした時から、エイジ様の瞳は緑色でしたよ。……改めて拝見すると、とても綺麗な瞳ですね」
やはり、この瞳は錯覚でも何でもなく、現実のものらしい。もっとも、途中で変化したのなら二人が気付いてもおかしくないので、その点に関してはある程度わかっていたのだが。
「瞳が、どうかしたのか?」
「えっと……変わってるんです、色が。こう、感情的な意味じゃなくて、物理的、虹彩的な意味で」
そう告げると、二人は狐につままれたような表情になる。
「……もとからその色じゃあなかった、ってことか?」
「えぇ、元は黒色です。少なくとも、俺の記憶では黒でした」
「ふぅむ……? ってことは、世界を渡った時に何かがあった、と考えるのが妥当か。さすがに、それの原因まではわからないな」
彼らならば或いは、と思ったが、やはりディーンさんたちにも原因はわからないようだ。大元の原因が不明な以上、当然と言えば当然なのだが、詰みあがっていく無数の謎には、自分で首をかしげざるを得なかった。
「すまないな。せっかく頼ってもらったのに、助けになってやれずに」
「と、とんでもない。こっちこそ、急に変なことを聞いてすみません。……えぇと、本題を聞かせてもらっても?」
「おっとそうだった。続きを話し合うとするか」
まぜっかえして続きを促すと、ディーンさんも便乗するように追随する。カップに注がれた暖かなお茶で口を湿らせたディーンさんが、改めて口を開いた。
「えぇと、何処まで話したか……っと、そうだそうだ。とりあえず、目下の問題は、お前さんの処遇についてだな」
切り出された話は、実に頭の痛くなりそうな問題に関するものだった。
――ディーンさんの言う通り、現在の俺は見知らぬ土地にたった一人で放り出されて、途方に暮れている身である。しかも、ここは元いた地球とは違う世界であり、元の世界で通じるような身分証明の手段も役に立たない。つまるところ、今の俺には何も頼れるものが存在しないのだ。
それに、ディーンさんたちだって、見ず知らずの人間に施しを与えるほどの余裕はないだろう。彼らにも彼らの生活があるし、そもそも自分にそんな施しを受ける価値があるかと言われると――
「……正直な話、俺としては、しばらくお前さんの面倒を見るのもやぶさかではないと思ってる」
「え?」
なんてことを考えていた矢先、ディーンさんがそんなことを口走る。
予想だにしなかったその言葉に、俺は思わず面食らってしまった。
「まぁ、こっちにもいろいろと都合はある。お前さんを養う、なんてことまではできないが、俺もこれで権力者の端くれだ。最低限の社会的な地位を築けるようになるまでは、こっちで色々と工面しようじゃないか」
黙りこくる俺の態度を是と捉えたのか、ディーンさんは実にスムーズに話を進めていく。
「え、えっと」
「ん? あぁ、もちろんこちらで束縛するような気はないぞ? 何かやりたいことができたならそれをすればいいし、好きな仕事に就いてもいい。まぁ、流石に国外となると、〈冒険者〉にでもならないと難しいかもしれないがな。もちろん、冒険者を目指すんなら――」
「そ、そうじゃなくって!」
気持ち強く叫んだおかげか、なおも続くと思われたディーンさんの言葉は、怪訝な表情と共に中断された。
「あ、あの、えぇっと。そう言ってくださるお気持ちは、すごく嬉しいです。……けど、いいんですか? こんな、どこの馬の骨とも知れないような奴を助けるなんて……」
不愉快な思いはさせまいと、言葉を選びながら問いかける。
俺の言葉を意外そうに聞いていたディーンさんだったが、俺が話し終わると同時に、
「何言ってるんだ。こうして拾ったんだから、助けるのは当然だろう?」
と、当然とばかりに言い放つ。――再び面食らうのは、俺の方だった。
「いきなり知らない世界に飛ばされて、身寄りも頼る所もない。それに、お前さんはこの世界のあれこれに関しても、まるで知らないだろう? そんな奴を拾っておいてわざわざ見捨てるほど、俺はささくれた根性しちゃあいないぞ」
唖然とする俺をよそに、まるでそれが一般常識であるかのように、ディーンさんは事もなげに語る。そのからりとした口ぶりから邪念は感じられず、何よりその顔に浮かべた、強面に似合わない愛嬌のある笑顔が、その言葉にいっそうの信憑性を与えているような、そんな気がした。
「……と、旦那様はおっしゃっていますが、本音はただの好奇心と思い付きによる行き当たりばったりな行動です。私としても異論はありませんが、もう少し順序を考えて提言して頂きたいものですね」
そこにすかさず、シリウスさんからの横槍が入る。
言葉の節々にはディーンさんに対する毒が混じっているような気もしたが、シリウスさん自身もディーンさんの提案には賛成らしい。呆れたような表情をしつつも、それが当然というような表情をしている。
「人聞きの悪いことを言うんじゃない、シリウス。別に、俺の言ってることだって間違っちゃいないだろうに?」
「ええ、その点に関しては私も同意させていただきます。……ただし、旦那様の行いは、常識的に考えても少々突飛が過ぎます。理由も何もなく相手方に益を差し出すなどすれば、多かれ少なかれ疑われるのは必然かと」
「そりゃま、そうだが……」
棘のあるシリウスさんの言葉にたじたじのディーンさんが、大きな体躯を丸めて縮こまってしまう。
ただ、シリウスさんの言うことはもっともだ。俺だって、いきなり無条件の善意を差し出されて全面的に信用するほど、出来た人間ではない。採れる手段も吟味できる情報も少ない今、彼らがやろうと思えば、俺みたいな奴はどうとでもだまくらかすことはできるのだ。
今のこの提案だって、見方を変えれば彼らが仕組んだ巧妙な罠と取ることだってできる。シリウスさんの言葉は、その当たりを踏まえたものだろう。
「だけどよぅ? せっかく助けた奴をのたれ死なせるなんて事しちゃあ、気分が悪いじゃないか」
……もっとも、委縮したままか細い声でそう呟くディーンさんのその様子を見ると、不思議と「彼らは信用に値する人物なのだろう」と、そう思えてしまった。
「はい。私も、同じようなことは考えておりましたよ。なので、彼の保護については、私からも賛成させていただきます」
そう言って微笑むシリウスさんの笑顔にもまた、ディーンさんに対する若干のトゲこそあれど、邪念は感じられない。
――自分自身、悪意以外の他人様の感情の機微に鈍い人間であることは、充分知っているつもりだ。だがそれを差っ引いても、彼らの言葉には、裏に含んだ別の思惑とでも呼べるようなものを感じ取ることは、終ぞできなかった。
「最初からそう言えばいいじゃないか……。ま、まぁ、そういうわけだ。お前さんが信用しきれないのは分かるが、俺たちとしては、お前さんを利用するような腹積もりや打算は、一切ない。――それにどうせ、今のお前さんには行く当ても寄る辺もないだろう。思い切って俺たちを頼るのも、悪くない選択肢だと思うぞ?」
確かに、今の俺には寄る辺もないし、頼れるような人間も目の前の二人しか存在しない。
真っ向から全てを信用するにはまだ遠いが、彼の言う通り、思い切って彼らの庇護下に入るのが、今のところ一番の得策だろう。
「……そう、ですね。わかりました。ディーンさんたちがご迷惑でなければ、宜しくお願いします」
「おう、歓迎するぜエイジ。しばらくの間、よろしくな」
差し出された大きな腕を握り返すと、ディーンさんはまた暑苦しく、しかしとても爽やかで、人の良さそうな笑みを浮かべた。