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第57話 孤独な天才

 アリス・バルキュリエは幼い頃から天才と謳われていた。


 初めて箒に乗れるようになったのは六歳の時だ。競技魔術師をしている両親の影響もあったのだろう。アリスは気づけば箒に乗っていて、レースにも出場していた。


 領地で開催された五歳から十二歳までの子供が出場する小さなレース。そこでアリスは初出場ながら優勝を果たした。五歳も年の離れた相手に互角のレースを展開し、最後は僅差での勝利だったが、その大会の最年少優勝記録を大幅に更新するものだった。


 それから幾つかのレースに出場し、アリスはそのたびに各レースの最年少優勝記録を塗り替えて行った。地元紙の紙面で『天才現る』などともてはやされるようになったのはその頃からだ。


 いつしか勝つのが当たり前になっていた。とは言え、その頃はまだアリスは何ら重圧も感じていなかった。ただ思い通り空を飛んで、純粋にレースを……勝負を楽しんでいた。勝ち負けにこだわりはなく、外野の声などまるで聴いていなかった。


 だから、鮮明だったのかもしれない。


 敗北の恐怖……アリスに始めて負けを意識させたのは、彼女の妹だった。


 二歳下の妹。彼女はアリスよりも早く五歳で、しかもたったの三か月で箒に乗れるようになり、アリスと同じレースにまで出場した。


 結果は魔力切れによるリタイア。傍から見れば天才の姉を追いかけた身の程知らずな妹が無理をしてあえなく力尽きてしまったという構図。


 けれど本当は、そんな単純なものではなかった。


 アリスはレースで初めて必死になった。必死に、妹から逃げおおせた。妹が魔力切れを起こしてリタイアしたと聞いたのは、レースが終わった後のことだ。なりふり構わず、後ろを振り向く余裕すらなく、アリスはただひたすらにゴールを目指した。


 そうしなければ、負けると思ったのだ。後ろにピッタリとついて、追いかけてくるプレッシャーが恐ろしかったのだ。


 それから、アリスの孤独な戦いが始まった。


 紙面を賑わせる『天才』の文言。出会う誰もがアリスを称え、両親すらもアリスに大きな期待を寄せた。どんな時でも勝利だけを求められた。


 それだけだったなら、アリスはきっと何とも思わなかっただろう。


 周囲が何を言おうとどこ吹く風で、重圧なんて軽々と跳ね飛ばせたはずだった。何ならあっさりと、レース自体を辞めてしまっていた可能性すらもある。アリスはレースにそれほどのこだわりを持っているわけではなかったからだ。


 ……少なくとも、妹がレースを始めるまでは。


 気づけば、妹はすぐ後ろに居た。同じレースに出るたびに、妹に追いかけられる。そんなことが何度も続いた。アリスはそのたびに本気で妹から逃げた。誰に負けることよりも、妹に負けることが何よりも怖かったのだ。


 姉に勝つためにひたすら努力をする妹の姿を、アリスはずっと近くで見てきた。


 アリスから言わせれば、紙面で『天才』などともてはやされる自分よりもずっと、妹の方が天才だった。アリシア・バルキュリエは、努力の天才だった。


 他人よりもほんの少し才能があるだけの自分と、日々努力を積み重ね一歩一歩前へ進む妹。アリスは漠然と、いつか妹が自分よりもずっと先へ進んでしまうと感じた。


 それがとても、恐ろしいことのように思えた。


 妹の目標で居られなくなることが怖いと感じるようになった。


 それからだ。アリスはレースで常に勝ちを意識するようになった。レースを始めた頃の、ただ純粋にレースに抱いていた楽しさは、当然のように薄れて行った。


 そして天才を演じた。アリスはアリシアの姉として、天才であろうとした。


 練習時間をこれまでの倍以上……アリシアと同じかそれ以上にまで増やし、なおかつ周囲に悟られないよう人目につかない場所か夜中に練習するようになった


 それは姉としてのちっぽけなプライドだった。


 妹の目標であり続けるための、ささやかな抵抗だった。


「馬鹿みたいですね……」


 アリスは苦笑する。


 どこまでも青空が続いている。遠くには日の光を浴びてキラキラと輝くスペリアル湖の湖面が見えてきた。


 心地のいい風が髪を揺らし、頬を撫でる。


 前方には誰の姿もない。いつもと変わらない風景だ。追いかける相手は見当たらない。追いかけてくる相手だけが、後ろから迫って来る。


 ただ、今はそんな相手も居なかった。


 アリスはいつになく好調だった。序盤から快調な滑り出しで、折り返し地点では後続と十キロ近くまで差を広げていたほどだ。箒が思い通りに飛んでくれる。魔力の流れが手に取るように伝わって来る。こんな日は年に一回あるかどうかだ。


(できれば代表戦にとっておきたですが……)


 こればっかりは仕方がないと諦める。調子の波は気まぐれで、いくら調整に気を使ってもどうしようもならないことが往々にしてあるのだ。


 アリスはペースを維持しながらゴールを目指す。コースの残りはおよそ四分の一といったところだ。後続との距離は十分にあり、唯一注意するべきはシユティの魔術くらいだろうとアリスは高を括っていた。


 だから、


「姉さまっ‼」


 後ろから聞こえてきた妹の声に、アリスは素直に驚いた。


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