猿と呼べば鬼と化す
この世には摩訶不思議な妖怪が住んでいる。妖怪は人を襲い、餓鬼が住宅を占領し、鬼がビルを粉々に破壊していく。普通の暮らし、普通の過ごし方をしていても妖怪は容赦なく日常を変えていく。
あるいは胸を引き裂かれ、あるいは蹴り飛ばされて粉々に。そんな化け物が活発に活動し、まさに地獄絵図と化したこの時代を人は【陽餓鬼時代】と呼んだ。異様な物が蔓延る時代の中、バカか間抜けか、それとも現実逃避か、なんの変哲もない日常を謳歌しようとするものも少なからずいる。
少年、威垣早輝もその一人。
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「お兄ちゃーん! 待ってよ! 置いてかないで!」
「わかってんよー! 待ってるから慌てずこーい」
寂れたアパートの一角から飛び出してきたのは高校一年生の少女。そして二階から階段を降りていくと、その先で威垣早輝は待っていた。
威垣の風貌はいかめしく、眉が毛先で二股に分かれていたり、目の下にクマができていたりとイカツイ顔をしている。しかし全体的には精悍な顔つきに、毅然とした立ち姿である。服装は黒一色の制服姿だ。
「おら、忘れもんないか」
「うん! 大丈夫!」
「はははっ! 今日からお前は高校生だからな! 先輩として色々教えてやるぞ」
「いい気になっちゃって。いいもん! お兄ちゃんの助けなんて必要ないもん!」
「ほーう、なら今後一切手伝わないからな。言ったからにはちゃんと一人で学生生活と言うものを送れるんだろうな」
「一人でって限らないじゃん! 友達作るし、時には助けてもらうよ! お兄ちゃん以外に!」
「はっはっは、そりゃあいい」
兄妹並んで通学路を歩いていく。他愛もない会話をしながら道を進んで行くと、途中で急に威垣は立ち止まった。何かを感じ取ったかの様に鼻をぴくりと動かして、空を見上げる。
妹が不思議そうな顔で兄を見る。
「どーしたのお兄ちゃん」
「んー? あー、血の匂いだ」
「へぇっ⁉︎⁉︎ ちょ! まさか!」
妹が取り乱して周りを見る。しかし目立った騒ぎはない。
けれど威垣は確信を持って、今起こっている事を冷静に判断していく。
「妖怪だろうな。んでお前の安否をどうしようか今悩んでるんだが、一旦家に戻ってもどっち道被害は変わらんと思うし……」
「な、何言ってるの! 逃げようよ! もしかしてまた無茶する気⁉︎」
「俺が時間稼いでお前一人を逃すのなら容易いんだよ。でももう間に合わん」
「え? お、お兄ちゃんの言う妖怪はどこにいるの⁉︎ どこにもいないじゃん! ならまだ遠くなんでしょ、早く行こ!」
「いや……“空なんだ”」
妹が驚いて空を見上げようとしたところで、威垣は咄嗟に妹の体を担いでその場から離れる。すると2人のいた所に一陣の突風が地面を突き刺した。アスファルトがえぐれて粉々になる。
かわさなかったらぐちゃぐちゃになっていただろう、恐怖しながらも攻撃してきた相手を確認するために妹は今度こそ空を見上げる。
『よくよけたな、中々の俊敏さ。下劣な人間にしてはやるではないか』
男と女の声が同時に聞こえてくる異様な声色が頭上から降ってくる。
バサッバサッ、と大きな黒い翼を広げて空中に浮かんでいるのは、真っ赤な顔に長い鼻をした人ならざるもの。妖怪だ。
血濡れた下駄、竹の絵が彩られた着物、赤い顔と長い鼻。妹はその姿形に見覚えがあった。
「あ……あれは天狗だよ!」
「天狗?」
「空を自由自在に跳び回り、竹藪の中も猛スピードで飛べるって言う風を操る妖怪だよ……」
黒い眼球を動かして、天狗は妹の方をギョロリと見る。
『よく知っているな、どこで知った』
その言葉に妹は歯を食いしばり、天狗を睨みつける。
「アンタが……アンタ達天狗が殺してきた人間が、死に目に遭いながらも研究し、受け継ぎ、残していった妖怪達の戦い資料! アンタら妖怪と戦い続けた人間は妖怪を分析してるのよ! お兄ちゃん、アイツの弱点はあの長ったらしい鼻よ! へし折ってやって!」
「へいへい、お前に言われなくてもやるよ」
ダンッ!と天狗が何かを思う前に、威垣はその場で思いっきり飛び上がった。人間とは思えない脚力。
猛スピードで天狗にまで辿り着いた威垣は、長い鼻を殴りつけようと拳を振るう。
しかし威垣の身体能力に驚いた天狗だったが、威垣が攻撃してこようとしているのを見ると、腰から団扇を取り出して一振りした。
「【山メ巻】!」
「ぐおっ⁉︎」
団扇の一振りで威垣の体を吹き飛ばすほどの風が巻き起こった。空中にいる威垣は掴まるものがなく、なす術なく飛ばされた。
地上に打ち落とされる。
真っ逆さまに地面に落ちようと言う所で、両手を地面について、腕の力だけで落下の衝撃をなくした。ドンッ!と落ちた衝撃で鈍い音がする。
『……段々と、お前の“正体”がわかってきたぞ。お前アレだな、前々から巷を騒がせている怪物並みの怪力を持つと言う人間か』
「怪物とはお前ら妖怪に言われたくねーな」
地面に手をついて着地した体制から、腕を曲げて押し上げ、またも威垣は飛び上がる。
しかし先程と全く同じ、飛び上がって天狗に迫る動きが通用するはずもなく、またも団扇の一振りで地面に叩きつけられる。が、そのたびに腕で着地して何度も何度も飛び上がっていく。
途中、天狗は風を巧みに操り人間の皮膚を切り裂く風を起こしたが、威垣には全く効いていなかった。それどころか。
『ぐおっ!』
「はっはー! 届いたぞ出っ鼻野郎!」
威垣は天狗の生み出す風の流れを利用して自分の体を回転させ、その回転の力のまま隠し持っていたアスファルトの瓦礫を投げつけた。瓦礫が天狗の鼻に当たりそうになり、天狗は避けたが目の下に当たってしまった。
顔を抑えて怯んでいる所に、威垣は地上に早く着地するとまた飛び上がった。天狗は反応が遅れたが団扇から風を起こす。しかし発動が遅かった、威垣はすでに天狗の足元まで到達していた。
そして血に濡れた天狗の下駄を掴む。
「なんだー! この血は! どこでつけた!」
『貴様には関係ない事だ!』
「どうせどこぞで意味もなく人間を殺してきたんだろ。意味のねぇ暴力を振るうのがおめーら怪物だからな! はっ、底が浅いぜ」
『なんだと! この天狗に向かって侮辱するとは!』
天狗は下駄を掴んでくる威垣を振り落とそうとするが、威垣は離れない。それどころか足を伝ってさらに天狗の体に接近する。そして一気に詰め寄るとまずは団扇を持っている腕を横から殴り付けて機能停止にする。次に天狗の腕を足場にして踏みあがり、背中の翼を掴む。
そして両腕でガッチリホールドしたまま体をひねる。ゴグギィ!と天狗の翼が折れた音がする。
『ぐぎゃあああああ!!』
「ハッ、悲鳴だけは一丁前に叫ぶんだな! 今まで散々殺してきた人の悲鳴を聞いてきたくせに、やれ自分の番になると情けなくなりやがる! かっかっか!」
『ぎ、貴様!』
片方の翼だけでは2人分の重さを空中に浮かばせる事はできず、天狗と威垣は地面に落下する。
背中を強く打ち付けて天狗は仰向けに倒れる。間髪入れずに威垣は天狗の弱点である鼻を両手で掴む。
そして引き裂くように両腕で引っ張り、鼻を折ろうとしたが……
「ん? あれ?」
折れない。二冊の本のページを一枚一枚重ねていくと万力でも剥がせないように、全然折れない。
『お、お前らが我らを研究していたのは知っている。何年人間達と戦い続け、付き合ってきたと思っている。だから克服したよ、鼻はもう万力でも折れない!』
天狗は威垣の拘束から力押しで抜け出すと、片手を地面について体全体を回転させた。今までにない突風が吹き荒れ、それは小規模の竜巻となり威垣を吹っ飛ばす。
「ぐあっ! ちきしょう、なめやがって……!」
吹っ飛ばされた威垣はすぐに体制を立て直して向かっていく。
そんな威垣に対して天狗は嘲笑った。
『先程から散々コケにしてきた割には情けない結果じゃないか、なあ人間! 妖怪と人間では元から力量差があったが、こうして妖怪が一度鍛えれば、越えられないものとなるのは必然!』
「いーや、テメェをぶっ飛ばすのは俺だ」
『ハッ、家畜から進化した程度で調子に乗るんじゃない! “猿”畜生が!』
猿畜生、天狗の言葉に威垣は目を見張る。そしてずっと戦いの行方を見守っていた妹は、その言葉を聞いてなりふり構わずその場から逃げていった。
「だれがーー」
『ん、どうしたーーッ! く、空気が変わった?』
「だれが、カラフル目に痛ェど畜生くそ猿だゴラァああああああああああああああああああああああ!!!!!」
『そこまで言ってねぇよ⁉︎』
怒髪天。髪が地獄の針の山のように逆立ち、口角が顔の半分を覆い尽くして凶悪な牙を露出させ、全身の筋肉が膨張する。体内の熱が上昇していき、それを表すように汗が吹き荒れる蒸気となり、皮膚が赤く染まっている。目の下にあった黒いクマも顔全体に広がっていき異形のものと化す。
威垣の怒りを表すかのように地面が激しく揺れ、この事象はまさに修羅の如く。
『な、なんだこのチカ
チュッゴン!!
一瞬。猛然。獰猛。
万力でも折れない鼻を一撃でへし折り、天狗の体を吹っ飛ばし、住宅街の家々の壁を貫きなぎ倒しながら遥か彼方までぶっ飛んでいく。
天狗が話している途中で一気に詰め寄り、なんの躊躇いもなく威垣は怒りそのままに天狗の顔面を殴り飛ばした。その様はまさに獰猛。
「クソ猿と一緒にすんな、無礼者が」
怒りのまま、唖然とせざるを得ないパワーを出した威垣早輝を妹はこう評する。
【猿と呼べば鬼と化す】、威垣早輝に対し猿と言えば威垣早輝は鬼となる。
「あ……相変わらずおっそろしい……」
妹がへたり込んで唖然としている中、天狗を吹っ飛ばした結果、家々をなぎ倒された住民達がこちらにやってくる。
「こらぁ! またお前が威垣!」
「餓鬼よりも厄介だ! オメーがいると家を軒並み揃えても足りねーんだよ!」
「ああっ⁉︎ んだとゴラァ! テメェらも天狗の仲間か!」
未だ怒り治らぬ威垣は文句を言いにきた街の住民達に向かって突進していく。人達を天狗のようにぶっ飛ばそうとしていた所を、なんとか妹が食い止めたが、住民達の不満は募るばかり。威垣の悪口ばかり出てくる。
しかし決して【猿】とは呼ばない。決して【鬼】を呼ぶ愚行はしなかった。