絶望の果てにあるもの
ふらつく体で彷徨っていると、いつの間にか高階先生のスタジオに着いていた。毎日通っていた場所だから、自然と足が向いてしまったようだ。
桃子のことがあって以来、スタジオには来ていない。写真も撮ってない。体調が安定するまで仕事を休ませたいと青葉が連絡してくれたらしいが、それでも高階先生に合わせる顔がなかった。桃子との結婚記念写真を撮ってくれた先生に、なんと詫びたらいいのだろう? 今の俺には写真を執る資格さえない。
しばしそこで立ち尽くし、ふらりと体の向きを変えた時だった。
「水樹君!」
背後から声をかけてきたのは、高階先生だった。
「挨拶もなしに行ってしまうつもりかい?」
俺の憧れであり、師匠でもある高階先生。その声には逆らえなかった。
「君に見せたいものがある。こっちへ来なさい」
言われれば従うしかなかった。もう写真を撮ることはなかったとしても、俺に修行の場を与えてくれた恩人なのだから。
高階先生のうしろをふらふらとついていくと、案内されたのは高階先生のプライベートルームだった。弟子である俺でも部屋に入ったことはない。
「入りなさい」
戸惑いながら入室すると、促されるまま椅子に座った。
「桃子さんのこと、お悔やみ申し上げます。青葉君から事情は聞いているよ。君のその姿を見れば、その悲しみがどれほどのものか想像できる。水樹君……辛いね」
高階先生に優しい言葉をかけられ、一度は止まっていた涙が再びあふれてきた。
「せ、先生……。俺はもう、カメラをもつ資格は、ないです。桃子を守れ、なかった……」
むせるほどの涙を流しながら、ぽつぽつと話した。写真を撮る機会も、その道に進むことも、全て桃子が与えてくれた。その姿をずっと、カメラに収めていきなかったのに、もう写真を撮ることは叶わない。カメラをもつ勇気はなかった。
「君の悲しみは深い。水樹君が写真家への道をあきらめると言うなら、止めはしないよ。でもね、最後に君に見せたいものがある」
先生は書棚からひとつのファイルを取り出し、俺に差し出した。
「中を見てみるといい」
言われてファイルを開けると中にあったのは、数々の桃子の写真だった。
「こ、これは……」
それは俺が撮ったものだった。桃子をモデルにして、くり返し写真を撮った。修行であり、愛する人をカメラに収めたかったからでもある。
「これは桃子さんが『私の宝物です』といって持ってきた。水樹君がアルバイトで多忙な時も、桃子さんはうちのスタジオにたまに来ていたんだ。差し入れと一緒にね。具合が悪くなってからも手紙を送ってくれていた」
初耳だった。桃子が俺のために……?
「桃子さんは君という人間とその才能を誰より愛し、未来を信じていたよ。その手紙と写真を見て何を思うかは君次第だ」
写真の中の桃子は、誰より輝いていた。はにかむような笑顔、いたずらっぽい顔、少し切なげな顔、横から見たアングルに後ろ姿……。桃子はもう、この世にはいないというのに、写真の中では生き生きとその命を輝かせている。俺が撮ったものと信じられないぐらいだった。
手紙には何度も、『水樹のことをよろしくお願いします。彼はきっといい写真家になれます』と書かれていた。字が少し震えているものもあり、体調が悪い時も手紙を書いていたのだ。それは誰のためなのか、考えるまでもなかった。
「桃子が、桃子が俺のために……っ」
そこまでしか、言葉にならなかった。涙が止めどなくあふれ、気付けば写真と手紙を胸にかき抱いていた。桃子を抱きしめていた時のように。
「ももこぉ……!」
桃子という光の存在は、消えてしまった。それでも希望という明かりは、まだ俺の中にあったのだ。
大切な人を守れなかった自分を恥じて、ひたすら自分を責め続ける日々だった。心を閉ざし、闇の中に沈んでいく自分をどうすることもできなかった。けれど絶望の果てに、かすかな光を与えてくれたのは、俺を愛してくれた桃子という存在だった。
「君はこれからどうするんだい?」
桃子の写真と手紙を抱きながら、むせび泣く俺に、高階先生が声をかけてきた。ゆっくりと顔をあげ、涙を手で拭い取った。
「生きて、いこうと思います。何があっても」
高階先生は、穏やかに微笑んだ。先生は気付いていたんだ、俺が死ぬつもりだったことを。
死ぬ場所を求めて彷徨っていたが、そんなことをしても桃子は絶対に喜ばないと、ようやく気付いた。俺にできることは桃子の思いに精一杯応えてやること、そして娘の朱里を守ることだ。
「実はね、友人の誘いで海外に拠点を移そうと思ってるんだ。水樹君が望むなら、弟子としてついて来るといい。ただし、これまで以上に大変になるから覚悟が必要だよ。桃子さんが遺したお嬢さんのこともあるし、決めるのは君だ」
桃子の思いに応えるためには、どうすべきか。迷うまでもなかった。
「先生、少しだけ時間を下さい。娘の朱里のことを家族と相談してきます」
先生の仕事についていくとなると、海外での移動が多くなる。幼い朱里を連れていくことはできない。俺にできることは、せめて養育費を稼ぐことだ。
病んでいたとはいえ、朱里の首を絞めてしまった俺に、朱里を育てる資格はない。ならば、誰にどこで朱里を育ててもらうか。思い浮かぶ人は、たったひとりだけだった。身勝手すぎる頼みだが、アイツなら受け入れてくれると、なぜか予感していた。
ああ、俺はきっと永遠に青葉に足を向けて寝られないな……。
「先生、俺は必ず写真家になります。これからもどうかよろしくお願いします!」
力強く宣言した俺の言葉に、高階先生はにっこりと笑った。その笑顔は眩しく、優しかった。
青葉に朱里のことを頼むため、必死に頭を下げた。これまでの思いや懺悔を全て青葉に話し、心をさらけ出した。それぐらいしか俺にはできなかったからだ。
青葉に朱里を託すのは、とても身勝手な話だと理解している。しかしどれだけ考えても、桃子の娘である朱里の養育を頼めるのは青葉しかいなかった。そして、桃子もそれを望んでいるように思えた。
「ひとつだけ条件がある。僕は朱里に父と名乗るつもりはない。朱里の父親はおまえだからだ。一人前になったら、必ず帰ってきて、朱里に事情を話せ。わかったな?」
青葉からの要求は、ただそれだけだった。
「ありがとう、青葉。ありがとう……」
簡単な言葉で済ませられるものではない。それでも感謝の言葉を伝えることしかできなかった。
海外へ行く前にすることは沢山あった。落ちていた体力を整え、英語を勉強し直し、最低限の会話はできるようにした。これまでの貯金を全額引き出して、ほとんどのお金を青葉に託して桃子の養育費に充てるよう頼んだ。俺は着の身着のままでも大丈夫だったし、必要なものは働きながら買っていけばいい。
桃子を失い、我が子を傷つけてしまった痛手と激しい後悔は、癒えることはない。時折酷く傷んでは、その絶望感に涙する。きっと今後も消えることはないだろう。忘れてはいけないし、忘れるつもりもない。痛みに耐えながら、目的をもって行動するうちに、少しずつ前を向けるようになっていった。
人はこうして悲しみや激しい後悔を背負いながら生きていくのかもしれない。どれだけ悔やんでも、時間を戻すことは決してできない。哀しみを心に抱えながら、それでも前を向いて立ち上がる。きっと希望はその先にあると信じるために。




