かすかな不安
「桃子、大丈夫か!?」
桃子が入院する病院へ駆け込んだ時には、すでに夜になっていた。かけもちでバイトしていることあって、俺との連絡がなかなかつかなかったからだ。
「水樹、来てくれたの……」
弱々しく体を起こそうとする桃子を制し、そのまま休むように伝えると、おとなしく従った。
「ごめんね、心配させて。貧血がひどかったみたい。このところ、あまり食べられなかったからかな……」
「『悪阻が軽いから助かる』って言ってたのに、そうじゃなかったのか?」
「最初は軽かったんだけど、だんだんひどくなってきて……。最近はほとんど食べられなかったの……」
初耳だった。意地っ張りな桃子のことだから、俺に心配させたくなかったのだろう。修行やバイトで忙しかったとはいえ、桃子の話をうのみにしていた自分を恥じた。
「ごめんな、体調悪いのを気付いてやれなくて」
「ううん、隠してた私が悪いの。水樹には夢に向かって頑張ってほしかったし……」
桃子は自分のことより、周囲の人を大事にするタイプだ。そうと知っていたはずなのに。
「しばらく入院しないといけないみたい。ごめんね、入院してたら余計にお金がかかるのに」
体調が悪くて辛いというのに、桃子が心配するのは我が家の家計のことだ。
「そんなこと気にしなくていい。あとは俺に任せろ。桃子に必要なのは、休息と無事に赤ちゃんを産むことだ。余計な心配してると、それがストレスになるだろ? 今はただゆっくり休め」
できるだけ力強く、笑顔で伝えるようにした。そうしなけば、桃子が心配してしまう。
「ん……。ありがとう、水樹」
必死に笑顔を浮べようとする桃子が切なく、悲しかった。この笑顔を守るには、どうしたらいいのだろう。桃子に心配させないように、俺がしっかりしないといけないことはわかっているし、頑張るつもりだ。それでも、かすかな不安を拭い去ることができなかった。
その後の桃子の担当医師から、出産まで管理入院したほうがいいかもしれないと言われ、俺は「お願いします」と頭を下げることしかできなかった。
『桃子が入院!?』
『食欲がないし、顔色も悪くて……。出産まで入院していたほうがいいみたいなんだ』
まず、話を聞いてほしいと思ったのは青葉だった。過去のことを考えれば、青葉に相談すべきではないとわかっているのに。青葉ならきっと俺の気持ちを理解してくれると、救いを求めるように電話をしてしまった。
『そうか……。でも病院にいるなら安心だよ。桃子はきっと大丈夫だ』
自分自身に言い聞かせている言葉でも、信頼している人から言われると妙に安心してしまうのは何故だろう。自分の感覚が間違ってないと感じるからかもしれない。
『ありがとう、青葉。あまり心配しすぎないようにするよ』
『お見舞いに行ってもいいか?』
『桃子も喜ぶよ』
俺が青葉の言葉に安心したように、きっと桃子も青葉に会うと安心できると思う。俺と桃子にとって、青葉はそんな存在だ。身勝手な感覚と理解してはいるが、もっとも信頼できる存在であるところは昔から変わらない。
それから数日後、「青葉が病院に来てくれたのよ」と桃子が嬉しそうに話していた。その顔は明るく、やはり会わせて良かったと思った。
「ねぇ、水樹。お腹の赤ちゃんの名前、考えた?」
「名前……そういえば、あんまり考えてなかった」
「もう! お父さんになるのにしっかりしてよ。でも安心して。私が考えといたから」
「へぇ。なんて名前?」
「女の子なら、朱里ってどうかな」
「朱里……桃子の娘だから?」
「そう。私と水樹と青葉、ちょうど色にちなんだ名前でしょ? だから朱い情熱をもった女の子になるように。そしてその『あかり』でみんなを明るく照らしてくれるように」
「うん、いい名前だ」
「でしょ」
桃子は手を合わせ、嬉しそうに笑っている。久しぶりに見た桃子の明るい笑顔だった。
「ねぇ、水樹。ひとつお願いがあるんだけど」
「なに?」
「もしも、もしもよ? 私が危ない状態になったら。私より、お腹の赤ちゃんの命を優先してほしいの」
「もしも、なんて考えるなよ。怖いだろ?」
「だからもしもの話だってば。一応考えておいたほうがいいと思うから。お願いね、水樹」
桃子は少し照れくさそうに、でも元気よく笑った。いつもの桃子の笑顔だ。桃子の明るい表情は、俺の希望の明かり。桃子が笑っていてくれる限り、きっと大丈夫だ。
病院で安静にしていなくてはいけないものの、桃子は比較的安定した状態で過ごしていた。食欲がないため点滴に常に繋がれているのが痛々しいが、それも出産までの辛抱だとお互いに言い聞かせた。
「ただいま」
桃子のいない暗い自宅アパートに帰るのも少しずつ慣れ始めたある夜のこと、疲れた体でうとうとしていると、突然一本の電話がかかってきた。
『すぐに病院にいらしてください』
それは悪夢の始まりだった。