ただ君を守るために
その電話は、冬のある夜にかかってきた。
時間に驚きつつ電話に出ると、電話をしてきたのは桃子だった。
「水樹……ごめん、遅くに。声が聞きたくて」
「桃子、泣いてるのか?」
人に心配をかけたくない桃子は、人前ではあまり泣かない。そんな桃子が泣きながら電話してくるということは、ただ事ではない気がした。外から電話しているのか、様々な車が走り去っていく音が聞こえる。
「ちょっと、父親ともめちゃって……ね。でも、水樹の声が聞けたから……大丈夫……。おやすみ」
涙を必死に堪えながら、必死に事情を伝えようとしている桃子が痛々しかった。少しも大丈夫そうではなかった。
「桃子、外にいるんだろ? ひとりにしておきたくない、今からそこへ行くよ」
「でももう、遅いし……」
「俺が、会いたいんだよ、桃子」
「水樹……」
それ以上、桃子は何も言わなかった。「今から行く」と最後に伝え、電話を切った。
手早くジャンパーをつかみ取り、腕を通しながら、マフラーやひざ掛けなどをリュックに詰め込む。
「青葉、俺ちょっと桃子のところへ行ってくる」
「今から? もう遅いし明日でもいいだろ?」
「そうなんだけど、桃子、泣いてるみたいで」
「もしも行くところがなかったら、うちに連れてきてもいいぞ」
青葉と言葉を交わして簡単に事情を伝えると、自転車に飛び乗り、桃子の元へ向かった。
吐き出す息は白く、息を吸い込むと身震いするほど冷たい。こんな夜に桃子がひとりで泣いていると思うと、胸が張り裂けそうだった。
桃子と約束した場所へ着くと、彼女は電話ボックスの中で寒さを堪えるように膝を抱えている。俺が来たことを確認すると、目を赤くしたまま電話ボックスから飛び出してきた。
「水樹!」
小さな子供のように俺の胸に飛び込び、しがみついてくる。
「桃子、もう大丈夫だから」
ふるえる彼女を抱きしめながら、もってきた防寒具を桃子にかけてやった。小さな体は芯まで冷え切っていて、少しでも早く温めてやりたくて、背中をさすり続ける。
ようやく気持ちが落ち着いたのか、桃子はゆっくり顔をあげた。
「ごめんね、みっともないところ見せて」
「いいって。誰でも泣きたいときはあるんだから」
ようやく体が温まってきたのか、嬉しそうに微笑む桃子の顔はほんのり赤い。
「あのね、水樹。うちに来てくれる? ここじゃ寒いし」
「でもお父さん、いるだろ?」
「いないの、お父さん。出てちゃった。私を捨てて恋人のところへ行っちゃったの」
父親と不仲になっているのは聞いていたが、とうとう決別することになってしまったのだろうか?
彼女のアパートに到着すると、2DKのアパートはひんやりと暗く、心まで冷たくなりそうだった。
「あがって、水樹。たいしたものはないけど、お茶入れるから」
「あ、うん。ありがとう。お邪魔します」
父不在のアパートに、男の俺が入るのは少し躊躇したが、いまだ不安定な様子の桃子をひとりにしておけなかった。
「水樹、お茶どうぞ」
「ありがとう」
温かなお茶と暖房の温もりで、ようやく体が温まり始める。ほっとしたのは彼女も同じようで、「お腹空いちゃった」とはにかむように笑いながら、菓子の袋を開けた。適当に菓子をつまみながら、桃子は話し始めた。
「些細なことでお父さんと口喧嘩になってね。私が高校を卒業するのを待ってから、恋人と再婚するって約束だったのに、もう待てないって言われて。恋人に子どもができたんだって。父親のいない子にしたくないから、もうこの家を出るって言われた。このアパートの部屋はおまえにやるって。私、捨てられちゃった」
桃子はぺろっと舌を出し、いたずらっぽく笑った。
「よく考えれば、たいしたことじゃないよね。思ったよりも早くひとりになっただけで。お父さんだって、幸せになりたいだろうし。でもさ……私、いままで何やってたんだろね? お父さんを支えたくて苦手な家事も頑張ってたのに。別れた妻によく似たおまえと暮らしていても、責められてるみたいで、何にも楽しくなかったって。私は……お父さんにとって、娘じゃなかったみたい」
他人事のように、あえて明るく話そうとする桃子が切なく、悲しかった。
そっと手を握ると、彼女の手はまだ冷たく、心はまだ冷え切っているのが伝わってくる。
「私、家族が欲しかったの。だから、お父さんとふたりで頑張ってるつもりだったのに……」
「もういい、桃子。それ以上話さなくていいから」
彼女の目から再び涙がこぼれ始める。一生懸命頑張ってきたことを全て否定され、桃子はどれぐらい傷ついただろう。
「ごめんね、水樹。今晩だけはあなたの胸で泣かせて……。ひとりになりたくないの」
頷きながら、震える彼女をそっと抱きしめた。桃子は俺の胸元に顔をうずめ、声を殺すようにむせび泣く。痛々しい彼女の側にいてやることしかできない自分が歯がゆい。どうして、俺には何の力もないのだろう? 桃子を守ってやりたいのに。こうして抱きしめてあげることしかできないなんて……。俺にできることは何だ? 彼女のために一体何ができるのだろう?
気付けば、生ぬるい部屋の中で目が覚めた。暖房は、自動でスイッチが切れてしまったらしい。泣き続ける彼女を抱きしめながら、うたた寝をしてしまったようだ。桃子も俺の腕の中で、すぅすぅと軽やかな寝息を立てている。外はすでに明るくなり始めていた。彼女に上着をかけてやると、桃子もかすかに目を開けた。
「ごめん、起こしちゃったみたいだな」
「私こそごめんね。もう朝? やだ、全く気付かなかった」
泣きはらした目をこすりながら、はにかむように笑う桃子の笑顔が眩しく、切ない。この笑顔を守りたい。
「今から朝ごはん作るね。水樹、良かったらシャワー浴びてって。体が温まるから」
何事もなかったように日常生活を始めようとする桃子に、一晩考え続けたことを伝えようと、軽く深呼吸をした。
「俺たち結婚して、ふたりで暮らさないか? おまえの本当の家族になりたいんだ」
カーテンの隙間から朝日がさしこみ、光りが彼女を包み込む。嬉しそうに微笑む桃子は、朝日のベールを身にまとい、清らかな花嫁のように輝いていた。