解き放たれた思いと未来への希望
泣く桃子を抱きしめてから、俺と桃子の距離はまた一歩近づいた気がする。桃子が俺のことを少し、頼ってくれるようになったのだ。
「私ね、高校を卒業したら、できるだけ早く自立しようと思うの。アルバイトを頑張ってるのも、その資金集めのつもり」
「桃子の選択を、俺は応援するよ」
桃子は嬉しそうに微笑み、俺の手をそっと握ってきた。柔らかな手が心地良く、彼女の信頼と愛情を感じて嬉しくなる。
「水樹は卒業後、どうするの?進学? 就職?」
「え、まだ具体的には……」
「私たちもう2年だよ? すぐに決めないといけないわけではないけど、もうちょっと真剣に考えないと」
「はい……」
信頼と愛情は感じる。うん、たぶん。
「桃子、写真部に行こうよ。今日は高階さん来る日だろ?」
話をごまかすように、写真部へ誘う。桃子の顔がぱっと明るくなり、楽しそうに俺の手を引っ張る。
「行こう、すぐ行こう!」
桃子は暗い表情をすることも少なくなっていた。悩みが消えたわけではないと思うが、俺と心を通じ合わせたおかげで落ち込むことが少なくなったと思いたい。桃子の悲しそうな顔を見るのは辛いから。
写真部へ行くと、桃子の憧れである写真家の高階さんが来ていた。うちの写真部からプロになった人で、彼に憧れて写真部に入部する人も多い。桃子もそのひとりで、俺は桃子に誘われて写真部に入部した形だ。特に動機があったわけではないが、今は写真を撮ることが楽しくたまらなくなっていた。アルバイトで貯めたお金を、全部カメラに投入したぐらい夢中になっている。
「やぁ、おふたりさん。今日は仲が良いね」
みんなの中心にいる高階さんは、偉ぶることなく穏やかな微笑みを浮かべている。知的で大人な男性だ。
「やだ、高階さん。からかわないで下さい」
「そうですよ、いくら俺と桃子が仲良くても他の部員の前でもありますし」
桃子に脇腹を小突かれる。
「いてっ! 事実だろ?」
「余計なこと言わないの!」
高階さんと部員のみんながくすくすと笑っている。顔が赤くなった桃子にさらに強く脇腹を叩かれ、脇をさすりながら、逃げるように高階さんのところへ走った。
「高階さん、撮った写真また見てもらってもいいですか?」
「ああ、いいよ」
高階さんはプロとして活動しながら、1~3ヶ月に一度、母校に来てくれる。今一番尊敬している人物だ。
高階さんに現像した写真を見せると、一枚一枚じっくり見てくれた。
「うん……いいね。水樹君の風景の写真は不思議な味わいがある」
「本当ですか? うわ、マジ嬉しいです!」
「今度、フォトコンテストに出してみるかい? 高校生の部があるから」
「はい、ぜひ!」
高階さんに誘われ、フォトコンテストに意気揚々と応募した。
結果は……惨敗だった。
初めての挑戦だったが、プロにも認められた腕だし! と少々鼻が高くなっていたのは認める。さすがにグランプリまでは望んでいなかったが、佳作ぐらいは当然もらえると思っていた自分が情けない。
写真を撮ることが楽しくて仕方なかっただけに、久しぶりに、これ以上ないというほど落ち込んだ。
桃子を初めて抱きしめた公園で、ひとりうなだれていると、いつのまにか桃子が側にいた。
「水樹、探したよ」
「桃子……俺、やっぱり駄目なヤツだ。何の才能もとりえもない……」
「残念だったね。高階さんも『コンテストは運もあるから。へこたれずに次も挑戦してほしい』って言ってったよ」
「俺、写真止めるよ……。俺に才能なんてあるわけないんだ」
「たった一回のコンテスト落選でそこまで落ち込まないの! 私だって応募したけど、ダメだったんだよ?」
「俺は写真しかないって思ってたし……」
「だったら、次こそはグランプリ目指しなさいよ!」
桃子の言葉に、少し苛ついてしまう。なぐさめてくれているのはわかったが、今はただ、黙って側にいてほしかった。なぐさめの言葉は鋭い刃となって、俺の心に容赦なく刺さっていく。
「うるさいな、ほっといてくれよ」
「ほっとけないよ。一緒に帰ろう。家まで送るから」
家に行けば、青葉がいる。勉強も家のことも、完璧にこなす双子の兄が。
やっと、青葉にも誇れる何かを見つけたと思ったのに、勝手な思い込みだったということか。
劣等感と挫折感で頭の中がいっぱいになっていく。感情の制御ができない。必死に隠していた奥底の感情が剥き出しになっていく。
「うるさいな! 桃子は本当は、青葉のことが好きで、俺に同情して付き合ってるだけだろ!」
自分が何を言っているのか、一瞬わからなかった。
青ざめた桃子の顔を見て、ようやく自分がとんでもないことを口にしたと自覚する。
「ご、ごめ……、おれ、なんてことを……ホントにごめん!」
一度口にした言葉は、どうあっても取り消すことはできない。それをこの時にになって、痛いほど自覚した。ごまかすことも、取り繕うこともできない。落ち込んでいたとはいえ、俺はなんてことを言ってしまったのだろう?
「水樹、やっぱりそう思ってたんだ」
やっぱり……? それは一体どういう意味だ?
桃子の意外な言葉に、おそるおそる彼女のほうへ顔を向ける。ややひきつった顔で、桃子は穏やかに微笑んでいる。
「水樹、私が青葉に惹かれていたこと、気付いてたんでしょ?」
「も、桃子。俺は……」
「いい機会だから、私の青葉への気持ちを話すね。酷いことを言って申し訳ないと思うなら、私の話を黙って聞いてくれる?」
受け入れるしかない。悪いのは俺なのだから。小さく頷き、桃子の話を待つ。
「ありがとう。じゃあ話すね」
にかっと笑った桃子は、もう普段の元気な彼女だ。
「私は水樹の言う通り、青葉に惹かれてました。でもね、今になって思うのは、私の青葉への思いは憧れだったんじゃないか? って思う」
「憧れ……?」
「両親が離婚したとき思ったの。『ああ、私に頼れるお兄さんがいたら』って。ひとりぼっちなのが不安で、寂しくて、心細くて。そんな時、青葉に出会った。青葉は私が憧れる理想のお兄さんそのものだった。私、青葉の妹になりたかったって思う」
そんなはずない。桃子は青葉のことを好きだった。憧れなんかじゃない。
黙って話を聞く約束だったから、何も言わず、唇を噛みしめながら俯いた。
「だいたいね、私が青葉を本当に好きだったら、もっと全力でぶつかってたよ。後先考えずに、「好き!」って伝えたと思う。私の性格、知ってるでしょ?」
桃子の性格を考えれば、納得できる話ではある。でもすぐには受け入れられなかった。
「私はあなたを選んだの。水樹の隣にいたいから、あなたを好きだから。それに同情で水樹と付き合うほど暇じゃないよ、私。知ってるでしょ?」
「じゃあ、桃子は本当に……」
顔をあげた瞬間だった。柑橘系のシャンプーの香りと共に、温かくてやわらかなものが俺の唇にふれた。
それがキスだと気付くのに、しばしの時間を要した。え……? と思った時には、彼女は俺から身を引いていた。
「ふふっ。水樹のファーストキス、私が奪っちゃった」
いたずらっぽく笑う桃子を、夕焼けが遠慮がちに照らしている。顔も体も朱く染まり、彼女が照れているのか、余裕なのか、全くわからない。
「も、もう一回!」
「ダメ。今日は今のでお終いです。でも水樹がもう一度、写真と向き合ってくれたら、考えてもいいよ?」
「やる! やりますっ!!」
我ながら、なんて単純なんだろう。桃子のキスでやる気が出るなんて。でも男なんて、たぶんそんなもんだ。
「よろしい。では次のコンテストで、それなりの結果が出たら、私からご褒美のキスをあげましょう」
「そんなぁ。今してくれよぉ」
「ダメ。それだとご褒美にならないでしょ? 水樹が本気で撮った写真を、私に見せて。あなたの世界をもっと知りたいの」
少し上目遣いで俺を見つめる。甘えたような仕草に、心がどうしょうもなく高鳴る。
「はいっ、頑張りますっ!」
「わかればよろしい。では今日は一緒に帰りましょう」
照れた顔を隠すように、俺の腕にしがみつく。火照った彼女の体の熱を感じ、その場で抱きしめたい気持ちになる。
ダメだ、今は我慢。彼女は約束したんだ、コンテストで結果を出せたら、キスをしてもいいって。そして、「あなたが好き」って言ってくれたんだ。この言葉だけで、俺は天に向かって叫びたいほど嬉しかった。
仰いだ夕焼けの空に向こうに、星がかすかに、けれど確かに煌めいていた。