その出会いは奇跡のようで
「花村さん、今日は助けてくれてありがとう」
花村桃子のことが気になって仕方ない俺は、その日のうちに思い切って声をかけてみることにした。
いつ声をかけようかと迷っているうちに、やっと声をかけられたのは下校時だった。花村は足を止め、不思議そうな顔をする。あれ、ひょっとして俺のこと、忘れてる?
「昼休み、音楽室で会ったよ」
大きな目をぱちくりとさせた花村は、一瞬考えた後、両手をぽんと叩いた。
「芹沢兄弟! えっと、弟くんのほうだよね。たしか、水樹くん」
いとも簡単に、俺が誰なのか言い当てる。やっぱりこの子は、俺と青葉の見分けがつくんだ。
「俺が水樹だってよくわかったね。みんな青葉とまちがえるのに」
「そうなの? たしかに顔はよく似てるけど、雰囲気ちがうのにね」
ああ、この子はわかってくれるんだ。俺と青葉が同じではないことを。それは俺にとって、飛び上がって喜びたいほど嬉しいことだった。
「あのさ、一緒に帰ってもいい? 花村さんともう少し話したいんだ」
花村桃子のことを、もっと知りたい。自分から女の子に声をかけたことなんてないのに、花村と話してみたくてたまらなかった。
「いいよ。私も学校のこととか、この辺りのこと教えてほしいし」
「花村さん、転校生だもんね。俺に教えられることなら何でも教えるよ」
「ありがとう」
少し茶色い髪を揺らし、にっこりと笑う花村が輝いて見える。顔が熱くなるのをごまかそうと、慌てて話を続けた。
「あ、あのさ、花村さん、なんで音楽室の倉庫にいたの?」
花村の歩みは少し遅くなり、その表情から笑みが消えた。
「楽器をね、見てたの。最後にもう一度だけ触りたくて」
「最後って?」
「楽器とお別れしたの」
「お別れ? 楽器と?」
変わったことを言う子だと思った。でもその顔は真剣で、冗談で言ってるようには思えなかった。
「私ね、転校する前は吹奏楽部だったの。わりと名門でさ。でもここに来る前に止めたんだ」
「なんで、止めたの?」
「私、お父さんと二人暮らしでね。お父さんと暮らすには私が家事とかしないといけないし、部活に力を入れてる時間ないんだ」
「でも家庭に事情があっても部活はできるでしょ? 顧問の先生に事情を話せば……」
「やるならきちんとやりたいの、私。家庭に事情があるからって私だけ特別扱いしてもらってたら、他の部員は納得しないし、第一楽器たちにも失礼でしょ」
「楽器に失礼……」
意志のこもった眼差しで、力強く、自分の意見を主張する少女だった。こんな女の子は初めてだ。
「楽器たちとの最後の時間を、俺たちが邪魔しちゃったんだね。ごめんな」
本当に申し訳ないと思ったのだ。本来なら、転校する前に気持ちの整理はついていただろう。それでも転校先で音楽室につい来てしまったのは、花村に楽器を恋しがる気持ちが残っていて、決意が揺れてしまったんだ。最後にもう一度だけ……そんな貴重な時間を、俺たちが阻んでしまったのだ。
ふと気づくと、花村が大きな目をぱちくりとさせながら、俺をじぃっと見つめていた。
「なに?」
「水樹くんって優しいね」
「優しい? 俺が?」
そんなことを言われたのは初めてだった。青葉は優しいけど、俺は身勝手。周囲も、俺自身もそう思っていたから。
「だって、変な女扱いされるだろうなって思いながら話したのに、ちゃんと話を聞いてくれて、おまけに『ごめんな』って謝ってくれて。それってかなり優しいよ」
「そ、そうかな?」
人から、「優しいね」って言われることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。花村に言われると、本当に俺は優しい人間なのかもしれない、って思えた。
「花村さん、友だちになってもいいかな?」
何でもいいから、花村と繋がりたかった。少しでも彼女の側にいたかった。
花村は一瞬きょとんとした顔をして、にかっといたずらっぽく笑った。
「友だち? もう、なってるじゃない。水樹って呼んでもいい?」
彼女の笑顔が、ただ眩しかった。
「じゃあさ、俺は花村のこと、『桃子』って呼んでいい?」
「え~いきなりそれは、馴れ馴れしいな~」
「ええっ、そりゃないよ。俺のことは、『水樹』って呼ぶんだろ?」
「ふふっ、冗談、冗談。桃子って呼んでいいよ~」
楽しげに笑う桃子は、暗く淀んだ世界で、ただひとつ輝く太陽のようだった。桃子の側にいられたら、俺の世界はきっと変わる。そう思った。彼女の、桃子の隣にいたい。ずっと一緒にいたい。
初めて出会った時から、俺にとって桃子は特別で、奇跡のような少女だったのだ。