決意と旅立ち
今回は少し長めです。
水樹はその日、帰ってこなかった。そして翌日も。
朱里がいては探しに行くこともままならず、じりじりと時間だけが過ぎていく。
今日帰ってこなければ、警察に捜索願いを出そうと思った日の夕暮れ。水樹は神妙な面持ちで帰ってきた。水樹が飛び出て5日が経っていた。
「水樹、連絡もなしにどこに行ってたんだ! 朱里も放ったらかしにして……」
「すまない。本当に悪かったと思ってる。青葉、朱里の面倒をみてくれて、ありがとう」
目を逸らすことなく、水樹ははっきりと謝罪と礼を口にした。
何があったのかわからないが、少し頭が冷えたらしく、まともに話せるようになったようだ。
「とりあえず家にあがれよ。いろいろ聞きたいこともあるし」
頷いた水樹は靴を脱ぎ、素直に家に入ってきた。
「朱里は?」
「座敷のほうで眠ってるよ。いつ目覚めるかわからないから、大きな声は出すなよ」
「顔を見てきてもいいか? 遠くからでいいから顔を見たいんだ。俺にその資格はないってわかってるけど……」
おずおずと遠慮がちに話す水樹の顔は、娘を案じる父の顔に思えたが、弟がしたことを考えると返答に迷ってしまう。かといって朱里は僕の娘ではないし、決定権は自分にはない気もした。
「戸を少しだけ開けてやるから、そこから覗くだけでいいか?」
水樹は静かに頷いた。朱里が眠る座敷の間の戸を少し開けると、すやすやと眠る朱里のあどけない顔が見える。水樹はその様子を目を細めて眺め、しばし見つめていた。それは娘を愛し、その身の幸せを一身に願う父親の顔に思える。
「ありがとう」
微笑んだ弟の顔は、幸福と迷いが混ざり合い、なぜだかすこしだけ、桃子の笑顔を思い出させた。
「青葉、話し合いたいんだ。これからのことを」
朱里の場所から少し離れると、水樹はきっぱりと言った。強い決意を感じられる眼差しだった。
「そうだな。俺たちが、いや、おまえがまず考えなくてはいけないのは、朱里のことだ。そうだろう?」
「そのつもりで来た」
どうやら、少しは父親としての自覚が芽生えたらしい。
「家を飛び出してから俺は、死ねる場所を探して彷徨っていた。その前に、お世話になっていた写真家の先生に詫びに行こうと思ったんだ。そうしたら先生は何も言わず、見せたいものがあるって連れて行かれた。そしてこれを渡された」
テーブルに無造作に広げられたのは、数々の桃子の写真、そして数通の手紙だった。
写真の中の桃子はとびきりの笑顔だった。楽しそうに笑う桃子、幸福そうに微笑み、手を差し出す桃子。はにかむように顔をほころばせる桃子。生き生きとしたその姿は眩しいほどに美しく、もうこの世にいないことが信じられないほどだった。
「これは、ひょっとして」
「そうだ、これは全部、俺が桃子を撮ったんだ。桃子は先生に、『これは私の宝物なんです。水樹が撮ってくれた私の写真。水樹はきっと、立派な写真家へと成長していきます。私はあの人の才能を信じ、愛しています。だからどうか先生、これからも彼のことをよろしくお願い致します』、桃子は何度も先生に会いに行き、俺がお世話になってることのお礼と、今後のことをくりかえし話してたって」
それはまさに桃子から水樹への愛だった。
「それを聞いて泣いた。情けなくなるぐらい大泣きしたよ。ああ、俺はなんて馬鹿だったんだろうって」
桃子を突然失い、絶望していた水樹を救ったのは、桃子の愛情だったのだ。
「俺さ、今だから言うけど。ずっと青葉にコンプレックスを感じてた。いつも真面目で正しくて、努力家で、優しい。俺はそんなおまえと双子の兄弟であることが嬉しくて、誇りだった。
でも反面、すごく惨めでもあった。俺はおまえの出来損ないの影みたいなものだって、ずっと思ってた。事実周囲もそういうふうに思ってたしな。青葉と一緒にいると嬉しくて楽しいけど、苦しい。ひとりで家のことを支えてくれる青葉に申しわけなくて、でもどうしたらいいのかわからなくて、ずっと辛かった。
そんなとき、桃子に出会った。桃子は俺と青葉を見間違えたことは一度もなくて、それぞれにいいところがあるんだって教えてくれた。そんな桃子を好きになった。だから気付いてたよ、桃子と青葉は惹かれあってるって」
それは初めて聞く、水樹の隠された思いだった。
「でも青葉も桃子も、お互いの気持ちにまだ気づいてなかった。だから俺は、先に桃子に告白した。桃子を俺だけのものにしたかったから。事前に青葉に話しておけば、青葉の性格なら一歩引くって思った。我ながら思うよ、俺、ずるいよな」
水樹は自嘲気味自嘲気味に笑い、天を仰ぎ見た。
「だから桃子が俺を選んでくれて嬉しかったけど、反面、すごく不安だった。いつか桃子は青葉のところへ行ってしまうんじゃないかって。桃子が家族を欲しがってるのは知ってたから、あいつと俺自身のために、できるだけ早く結婚しようと思った。
桃子との生活は本当に幸せだったよ。でも経済的に不安定な俺を支えるために、桃子は無理して働き過ぎた。そのことが桃子の死に関連してる気がして……。もしもあの時、俺が告白せずに、桃子が青葉を選んでいたら。きっとこんなことにはならなかったんじゃないか? って思うんだ」
水樹がなぜあれほど自暴自棄になっていたのか、ようやく理解できた気がした。桃子を突然失った痛み、そして激しい自己嫌悪と後悔。水樹は誰よりも自分を責めていたのだ。
「でも先生から渡された桃子の写真と手紙で、目が覚めた思いだ。桃子は俺を、心から愛してくれていた。勝手に不安になってたのは俺のほうだ。本当に馬鹿だよな、俺。桃子がいなくなって死ぬほど悲しいけど、それでもあいつのために前を向かなくてはいけないんだ。そして、娘の朱里を守らないといけない」
悲しげに微笑む水樹の顔に、桃子の面影が重なって見える。桃子は今も、水樹の側にいるのだ。なぜか、そう思った。姿は見えないけれど、水樹と朱里の側にいて、夫と娘の幸せを願っている。
桃子らしいな……。あいつはいつだって、自分より人や家族のことを大切にしていたから。
「水樹、おまえの思いと決意はよくわかった。ひとつだけ、言っておくよ。水樹を選んだのは桃子だ。確かに僕も桃子に少し惹かれていたけど、何が何でも欲しかったわけじゃない。
それでも思うよ、『もしも、あの時』って。でも誰しも過去には戻れない。どれだけ後悔しても、過去に戻ってやり直すことを願っても、どうにもならないんだ。僕たちは迷いながらも、それぞれの道を自分で望み、決断したんだよ。その結果がどうであれ、誰かだけの責任ってことはあるはずがない」
そう言いながら、自らにも言い聞かせていた。桃子と男女の仲になることはなかったけれど、弟の嫁という形で、彼女と家族になれたのだ。桃子と家族になることは、自分が望み、決めたことなのだから。
「青葉、ありがとう……」
水樹の目から涙がこぼれ落ちる。僕も泣きそうになったけど、どうにか堪えた。
「泣いてる場合じゃないぞ、水樹。それで、朱里のことはどうするんだ?」
「わかってる。朱里のことで、青葉に頼みたいことがあるんだ。俺が写真家になるこことを願った桃子のためにも、もう一度頑張りたい。先生は海外から誘いがあって、近いうちに拠点を海外に移すそうだ。俺は先生についていきたいんだ。出来ることは何でもやって、必ず一人前になる。どんな小さな仕事でも請け負って、朱里を養育する金も用意する。でも、あちこちに移動するだろうから、朱里を連れていけない。だから……」
水樹はそこで一旦、言葉を止めた。伺うように僕を見つめている。
「だから? だから何だ、水樹」
「だから……俺に代わって朱里を育ててほしいんだ。施設に入れることも考えたけど、俺がこの世で一番信頼してるのは青葉だ。青葉に朱里を託したい」
「どれだけ自分勝手なことを話してるか、理解してるか? 俺だって今後も学生生活があるし、父さんや母さんのことだってある。それを全部、僕に押し付けるって話だぞ」
「ごめん、勝手なことはよく理解してる。でも桃子がいなくなった今、頼れるのは青葉しかいないんだ。どんな理由があっても、俺は朱里をこの手で殺そうとしたんだ。俺に朱里を育てる資格はない。お金だけで済む話じゃないけど、必ずお金は送るから。一人前になったら、必ずお返しはする。だから、頼むよ、青葉。この通りだ!」
深々と頭を下げる水樹の姿を見て、思わず笑ってしまった。
本当にこの弟は手がかかる。桃子も苦労しただろう、きっと、幸せそうに微笑みながら。
「一つだけ条件がある。僕が朱里を育てても、父と名乗るつもりはない。朱里の父親は水樹、おまえだ。一人前になったら、必ず帰ってきて、朱里に事情を話せ。わかったな?」
「青葉、それじゃあ……」
我ながら人が良すぎるって思うよ、つくづくと。自ら苦労を背負い込むなんて、僕もまた根っからの馬鹿なのかもしれない。しばらく面倒をみた朱里に、愛着が湧いてしまってる。今更手放したくないんだよ。だから仕方ないんだ──。
「朱里は僕が育てる。だからおまえは必ず約束を果たせ」
「ありがとう、ありがとう。青葉……」
むせび泣く水樹を見ながら、弟の側にいるだろう、桃子を思った。桃子の願いも、きっと同じだろうから。
「不思議なもんだな、僕たち兄弟は。桃子に出会って変わり、そして桃子を失って、それぞれの道が決まった。不思議な運命だよ、本当に……」
泣き続ける水樹に声をかけることもなく、窓から見える空を眺めた。青空はどこまでも青く透き通り、水樹の泣き声も、僕いあったわだかまりも、空に溶けていく気がした。
あと一話で第二章完結予定です。