突然の別れ
「こちらです」
看護師に通され、桃子が眠る場所へと通される。
嘘だと思いたかった。水樹が勘違いをしているだけなのだと。元気で明るい桃子が、母となって家族をもつことを夢見ていた彼女が、天に召されるはずがない。
「桃子……?」
呼びかけても返事がない。はにかむような微笑みを見せてくれない。
桃子は静かに眠っていた。二度と目覚めることのない、永遠の眠りに……。
桃子は難産の末に、女の子を出産した。
水樹が喜んだのも束の間、出産後の桃子の出血が止まらなくなってしまった。医師たちは必死に治療したが、そのまま目覚めることなく、亡くなってしまったという。
残念ですが……と言う医師の説明をぼんやり聞いていた。
ずっと側にいた水樹は、娘の誕生という喜びから一転、最愛の妻を亡くすという現実を受け止めきれず、「桃子、桃子」と呟きながら、空間を見つめたまま座り込んでいるのだ。その気持ちは痛いほど理解できた。
現実から目を背けたいのは、僕も同じだったから。
信じたくなかった。桃子がもう、この世にいないなんて。明るい笑顔で、僕たち兄弟の側にいてくれた彼女が、天国へ旅立ってしまっただなんて……。
「家族に連絡してきます……」
水樹が動けないなら、僕が動くしかない。
ふらつく体を支えながら、水樹に代わってなんとか対処しようとするが、体が言うことを聞いてくれない。何もない廊下でつまづき、頭を壁にぶつけてしまった。
鈍い痛みが頭部に拡がり、今起きていることは全て現実なのだと思い知らされる。
「桃子、桃子……なんで、おまえが……」
嗚咽と共に涙があふれだし、泣いてはダメだと思いながら、何度も何度も頭を壁に打ち付けた。頭を壁にぶつけてみても、涙は止まることはなかった。
桃子に、幸せになってほしかった。水樹と共に円満な家庭を築いてほしかった。願いはただ、それだけだったのに。それすら叶えられないなんて……。
堪えても止まらない鳴き声を少しでも抑えようと、壁に向かって泣き続けることしかできなかった。
それからのことは正直よく覚えていない。
それぞれの家族に連絡をとったことまでは覚えているが、母の側から戻ってきた父や桃子の父親が対応してくれた。
通夜や葬式がしめやかに営まれたのを、映画でも眺めるように上の空で見つめながら、世話しなく動いて手伝った。そうでもしなければ、水樹のように全く動けなくなってしまうと思ったからだ。ほんの少しでも気を抜けば、心の空洞に体が崩れてしまいそうだった。
水樹も少しずつ動けるようになってはいたが、その目は焦点が定まっておらず、目が離せない状態だった。終始ぼんやりしていた水樹が、感情を昂らせたのは、出棺前の桃子との最後の別れだった。
「なんで桃子をこんな箱に押し込めるんだよ! 桃子、動いてくれよ。俺はおまえがいないと生きていけない。頼むから帰ってきてくれ……!」
どれだけ泣いてすがっても、桃子は動くことはない。
あまりに痛々しい様子の水樹に、寄り添うことしかできなかった。
親族や葬儀社の手配のおかげで、まるで何かの行事のように、滞りりなく桃子が天へと送られていく。
周囲の助けはありがたいことだったが、人の死はこんなにもあっけなく済んでしまうものなのかと、やりきれない気持ちになった。
次に僕たちが考えなければいけないのは、桃子が自らの命と引き換えのように産んだ、娘の朱里のことだった。
小さな体で生まれた朱里は、しばらく入院が必要だったため、葬儀の最中に面倒をみる必要はなかった。しかし個人的事情で入院を長引かせるわけにもいかず、水樹と共に朱里をひきとりにいった。
看護師が抱きかかえてきた朱里は、僕たちが想像するよりずっと小さく、弱々しい赤ん坊だった。
「あの、この状態で退院させても大丈夫なんですか?」
思わず聞いてしまうと、看護師はマスクごしに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ミルクをしっかり飲めてますし、呼吸も安定していますから。頑張って生きようとしていますよ」
頑張って生きようとしている──。
母はもうこの世にいないのに、この子は懸命に生きようとしているのか……。
小さな赤ん坊の健気な強さに心を打たれた。
「頑張ってるんだな、この子は。朱里はやっぱり桃子の娘だ」
ぼうっと朱里を見つめていた水樹だったが、同じように桃子の面影を朱里に重ねたのだろう。その目から、ほろりと涙をこぼし、そうっと朱里の頬にふれた。
「やわらかいな、そして温かい……生きてるんだな」
「ああ、そうだ。朱里は生きてる。桃子のためにも頑張ろう。僕も手伝うから」
「……そう、だな……」
水樹はもう大丈夫だと思った。
桃子を失った痛みは簡単に消え去るものではない。僕でもそうなのだから、桃子の夫であった水樹はなおさらだ。けれど桃子が遺した娘がいれば、水樹はきっと立ち直れる。そう思った。水樹はひとりではない。双子の兄弟である僕がいる。桃子のためにも、二人で頑張ればきっと大丈夫だと。
けれどそれは、あまりに浅はかな考えだった。
水樹は僕が想像する以上に、現実に絶望していた。桃子がいないこの世界に、耐えられなかったのだ。
重い展開が続いて申し訳ありません。
もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。