決断とブラックコーヒー
「はい、どうぞ。ミルクティー好きだったよね?」
「ありがとう。いくらだった? お金払うよ」
「いいって。おごりだって言ったろ?」
「ありがと。うれしい」
はにかむように微笑む桃子が、妙に可愛らしい。これは気のせいだと自分に言い聞かせながら、桃子の隣に座って再びブラックコーヒーを口に流し込む。
「あれ? 青葉ってコーヒーはブラック派だった? いつもは砂糖もミルクも入れてたよね?」
「初めて飲んでみたけど、結構美味しいよ。これからはブラックでいこうかな」
本当は苦くて苦くて、「マズイ!」と叫びたいぐらいだったけど、口中に拡がる苦みとコーヒーの香りが、不思議と僕の心を落ち着かせてくれた。
「青葉って、やっぱりオトナだね。甘いミルクティーが好きな私や水樹とはちがう」
「そんなことないよ。で、相談って?」
あえて少し気取った様子で、桃子の言葉を待つ。そうすることで平静を保つことができる気がしたからだ。
「あのね、水樹に、『好きだ、付き合ってほしい』って言われたの……。水樹のこと、そんなふうに思ったことなかったからビックリしちゃって。すぐには返事ができなかった」
「桃子は水樹のこと、どんなふうに思ってたの?」
「うーん、弟? みたいな?」
「弟……」
どうやら、ひとりの男子とは思われてなかったらしい。水樹のことが、ちょっと気の毒に思えた。
「でもすぐには断らなかったんだろ? だったら、少しは男の子として意識してたんじゃない?」
「ん……告白してきた時が、妙に男っぽくて。少し水樹にときめいた」
ますます顔を赤くする桃子は、初めての恋に恥じらう少女そのもので、微笑ましく思える。共に照れ屋で、少し意地っ張りな水樹と桃子は、お似合いのふたりだ。
「なら付き合ってみたら? 僕はお似合いだと思うよ? 水樹と桃子」
「そうかな?」
「そうだよ」
桃子は口をつぐんで俯き、何事か考えている。
「青葉は……?」
「え?」
それは元気な桃子の声とは思えない、微かな声だった。顔を上げた桃子が、僕を見つめている。その顔は夕焼けに負けないぐらい、紅く染まり、煌めいていた。
「青葉は……私のこと、どう思ってるの? 私が水樹と付き合ってもいいと思うの?」
少し茶色い髪が風になびき、桃子の赤い頬を彩る。治まっていた胸の鼓動が、再び早鐘を打つ。
僕は桃子をどう思っているか……?
それは水樹にも聞かれたことだった。
高鳴る心臓に手を添え、軽く目を瞑りながら、今一度考えてみる。
僕にとって桃子は友達で、苦楽を共になる仲間だ。彼女がいたから、僕と水樹は再び絆を取り戻せた。
僕にとっては家族も同然の存在だ。だからかもしれないが、桃子を女の子と意識したことはなかった。
けれど今日彼女と会って、思い知らされた。桃子は女の子なのだと。彼女への認識を改めたほうがいいと思った。
では桃子に恋をしているか? と問われると、それは違うような気がした。一緒にいると楽しいけど、ずっと側にいたいわけではない。でも桃子には幸せになってほしい。そして水樹にも。僕にとってふたりは、かけがいのない存在だから。
ゆっくり目を開けると、視線を桃子へ向ける。
「僕にとって桃子は、親友で、家族のように大切な存在だよ。ふたりには幸せになってほしい」
「家族……」
桃子の表情がわずかに硬くなった。大きな目をさらに見開き、僕の顔をみつめる。その瞳が揺れ、少しずつ潤んでいく。
もしかして、泣く──?
一瞬、そう思ったが、桃子はすぐに笑顔を見せてくれた。けれどその笑顔は、これまでの元気いっぱいの笑顔とは違っていた。切なくなるような、大人の微笑み。桃子のそんな微笑みを見たのは初めてだった。
「そっかぁ。青葉にとって私は家族なんだ。うん、嬉しい。ありがとう」
桃子はミルクティーをぐいっと飲むと、「あ~おいし~」と呟き、しばし俯いた。
「桃子……?」
なかなか顔をあげようとしない桃子が心配になって声をかける。僕の声に応えるように、勢い良く彼女は顔をあげた。
「私ね、青葉と水樹が仲良くしてる光景を見るのが好きなの! こういうこと言うと、ふたりは嫌がるかもしれないけど、双子っていいな、って思う。特別な繋がりがあるような気がするの。私も青葉と水樹と同じ兄弟になりたかったかもね」
「三つ子とか?」
「そうそう、三つ子。青葉と水樹と三つ子の兄妹になれたら良かった。そしたらずっと、青葉と水樹を見ていられるもの。ああ、三つ子になりたかったなぁ……」
桃子の得意の冗談だと思った。その目は遥か遠くを見つめていて、彼女が何を考えているのかわからなかった。
桃子は残った残ったミルクティーを一気に飲み干すと、元気いっぱいに立ち上がった。
「私、決めた。水樹と付き合ってみるよ。それが青葉の望みでもあるんでしょ?」
「え? ああ、うん……」
「明日、水樹に伝えるよ。私もう帰るね。ミルクティー、ごちそうさま!」
桃子は買い物した荷物をもつと、にかっと元気いっぱいの笑顔を見せ、風のように去って行った。
公園にひとり取り残された僕は、茫然と桃子を見送った。手にあるのは、苦いブラックコーヒー。少し残ったコーヒーを最後の一滴まで飲み尽くす。
「にが……でもいけるかも……」
慣れてきたのか、苦みが少しだけ心地良かった。苦いからコーヒーは良いのかもしれない。
「これで良かったんだよな……?」
黄昏に向かって呟いた。答えは返ってこず、代わりにカラスの鳴き声が、カァーカァーと木霊する。
「カラスたちも家族のところに帰るのかな……」
立ち上がってスーパーの買い物袋を持つと、その重みがずしりと手に響いた。
「今度、家でもコーヒー淹れてみよう」
誰に言うでもなく、ひとり呟くと、家に向かってゆっくり歩いて行った。
その後の僕の人生に、ブラックコーヒーは良き友となった。