#00 Already Too Late
光が届きにくい地下室でありながらも血が乾いて出来た赤黒いシミがテーブルや壁、床に天井、至る所に飛び散っているのがわかる。シミが広く大きいほど、それと比例して鼻をつく鉄臭さは強くなる。
部屋の中央にぶら下げられた紐を引っ張ると何度か点滅してから弱々しい明かりが辺りを照らした。狭い室内にあらゆる物が散乱しており、床に張り付いたなんらかの書類は踏むと割れるように破けた。
隅に置かれた事務用デスクの上にはこれも赤黒くなった厚めの手帳があった。側にはUSBメモリーも置いてあり、それを見るためのパソコンには密閉性の高い袋がかぶせてある。何も付着していないことから、明らかにここで何かが起きてから置かれた物だ。
手帳を手にすると裏表紙がバリバリと音を立ててデスクから剥がれた。表紙には『折澤 智紀』と書かれているのがどうにか読み取れる。中のページも血の所為で乾いて張り付いてはいるものの、端をうまく剥がせば中身は読める様子だった。
ジャケットの内ポケットから折りたたみナイフを取り出して剥がすと、やはり乾いた血がパラパラと落ちてきた。手書きの日記のようで、全体的に丁寧な字で書かれている。書き始めたのは研究を始めた日からのようだ。
『2028年 9月28日
今日からある事象について研究することになり、そのチームの一員として私も組み込まれた。よって、進行状況とその時の私の思考を残すために、既に三十路の一歩手前になりながらも日記を書くことにした。
聞くところによるとどうやらつい最近出現した不可思議なナニカを持った人間についての研究らしい。同じ人間でありながらもさらに人間について研究する、というのは何か違和感を覚えるが、今はやるべきことをやるしかないだろう。この研究の取締役である男(名前は分からなかった)からはこれは研究とともに計画でもあり、〔能力者計画〕というらしい。私が少年の頃に読んでいた漫画なんかで出てきそうな計画名だと思ったことはここにだけ記しておく。
ちなみに、研究は極秘のため情報の漏洩は絶対に許されず、この研究所内で生活するようにとのことだった。正直外に出ることができないのは不満であるが、しょうがないことだろう。初対面ながらも同じチームメンバーとの交流が良いこと、一人一人の部屋が完備されていること、そして何より三食が私の好みに合っていることは報いだ。
初日だったせいか少し多くなってしまったため、今日はここで終わりとする。』
パッとしない内容かと思っていたが、途中でてきた[不可思議なナニカ]という言葉に不信感を抱き首を傾げた。地上を走る車のせいで時折揺れる明かりの下で読み進めるうちに、それまでとは違い少し筆跡が乱れ始めたことに気づいた。
『2012年 10月8日
数日間徹夜した成果は大きいものだった。今までの成功サンプルから摂取したDNAは外の空気に少しでも触れた瞬間に崩れてしまったが、今回は崩れなかった。摂取源はNo.29であり、“再生”を持っていたのが原因かもしれない。彼のDNAを摂取するためにはどうしても殺すしかなかったと柏木は言っていたが、元から温厚だった彼ならば殺す必要はなかったのではないか、そう思うと胸に不快感が残る。元々少ないサンプルを殺す、というのはあれだが、研究を始めてから早2年、ようやく摂取出来た貴重なサンプルだ。有効活用させてもらおう。』
『2012年 10月9日
今日1日だけで重大な事を発見した。やはり彼ら、少なくとも彼はは私たち人類が進化した、新たなる種族だったのかもしれない。
通常、人間のDNA構造はA,T,G,Cの4種類の塩基配列がA-TとG-Cの対となった二重らせんとなっており、それは2本しかないはずが、彼の場合は螺旋的に絡み合う2本の間にもう1本、構成物質が全く不明のヌクレオチド的なものが発見された。これは人類の進化につながるやもしれない。』
それからしばらくはどのような原因が関係あるのか、それらの考察が綴られていたが、それもまた筆跡が更に乱れていった。
『2014年 2月11日
私たちは踏み込んではいけない領域へと踏み込んでしまったのかもしれない。否、踏み込んでしまった。あんな事、するべきではなかった。研究を始めて2年も経てば研究チームは皆、彼らを人間として見ることはなく、私がおかしいと思われていた。だが、遂に今日、私もそう考えてしまった。彼は、もう人ではない。あれは、人間じゃない。』
『2014年 2月24日
死にたい
だれか殺してくれ
いっそのことひとおもいに殺してくれ』
『2014年 2月28日
自殺を試みた
失敗した
かくじつに舌をかみ切った
それでも、わたしは死ねていない
またアレがやってくる
死にたい』
字は掠れて乱れ、漢字を使う頻度が極端に少なくなっていく。この辺りから『彼』が『アレ』に変わっているが、一体なんなのだろうか。そして、不可侵領域へ踏み込んだとの記述も意味がわからない。
『今日はいつかわからない
どれだけしのうとしてもすぐにもとにもどろってしまう
初めてのせいこうしたサンプルがもっていた“再生”とおなじようなもどりかただ
かれらもこんなきもちだったのだろうか
しにたい』
もうほぼ全てが平仮名で記されてしまっており、震えた字は読むだけでも難しい。
しかし、急に筆跡が力強く、濃く、最初の頃の戻ったかのようになった。
正に、最後の力を振り絞るように
『これが最後の日記だ。もしもこれを読んだ誰かはすぐさま処置に当たって欲しい。ここまで全てを読んだのならば、彼らの恐ろしさもわかるのではないか。
率直に言えば、私たちはここで人体実験をしていた。内容は、なんらかの人知を越えた能力を持った人間について、だ。上の人間からは、能力の源が分かり次第、次は再現に挑めとも言われていた。
前述の“アレ”、それを私たちはNo.99と呼んでいたが、彼は私たちで実験を始めた。私たちと同じ人体実験を。そうして、能力の再現に成功してしまった。No.29が持っていた“再生”の能力は傷つくとその部分の肉体的な再生が行われ、外的要因によって死ぬことはない。これが私に宿ったせいで、自殺しようとしても死ねなかった。No.29もこんな気持ちだったのかもしれない…だが、今は伝えねばならない。
今日、私は殺されてしまう。No.99にならば私を殺せてしまう。彼は絶対に外に出る。どうか、彼が第二の〔能力者計画〕を完遂する前に、止めて欲しい。無茶なお願いだということはわかっている。それでも、どうかたのーー』
最後の文章は途中で終わってしまっている。誰かに引きずられるのを必死に耐えようとしたのかボールペンが深く刺さった跡がある。が、ページの一番下には次のページへ進むことを促すように、小さな矢印が書かれていた。
恐る恐るページをめくると、指で書き殴られたような荒々しい血文字が書かれていた。
『Look At The USB memory!!』
いきなり現れた異質な文字に促されるまま手帳を閉じ、袋に入っていたUSBメモリーを取り出す。電源を入れると、少し埃を被ったパソコンのモーター音がしばらく聞こえ画面に初期の背景画像があらわれた。どうやらパスワードは既に解除されているらしく、Enterキーを押すだけですんなりと入り込むことができた。藍色のカバーを取りUSBメモリーを差し込むと、読み取り音の後、勝手に画面が黒くなり一本の動画が再生され始めた。
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おそらくこの研究所の一部屋、乱雑にどかされて空いた中央のスペースには四つ脚の椅子が、そこには白髪の男が座っているのが映し出された。口にはガムテープが貼ってあり、声が発せられないようにされている。きっとあれが日記の著者である研究員の折澤なのだろう。
カツカツという足音とともに画面左側から青年が入ってきた。
短く切りそろえられた黒髪を上に掻き上げており、顔は口を裂くようにして笑う白い仮面で隠されている。この研究所のどこにあったのか、中世の貴族のような黒いタキシードコートに白い手袋をつけ、右手にはシルクハットを持ち、それを被るとくるりとターンして画面へと向き直った。仮面のせいでくぐもりはしているものの、若々しい声が発せられる。
「どうも、はじめまして。僕の名前は…あー…何だろうね。もう忘れてしまったよ。それもこれも全部この人たちのせいで。いやぁ、悪いねぇ。日記を書いてる途中でいきなり連れ出してしまって。安心して、この動画は正面のカメラで撮っていて、しっかりと残るからさ」
そういうと青年は折澤の口に貼られていたガムテープを勢いよく剥がしとった。水から這い出たように息を吐き、青年を見る。何か話すように促す青年を横目に息も切れ切れに話し始めた。
「ーー日記を…先に読んだなら…私が折澤だ…私たちはここで…人体実験をしていた…それによって「折澤さーん、さっさと言うこと言ってくれないとさ、時間ないよ?」…彼の言う通り、私にはもう時間がない。彼の持つ能力なら…私の“再生”を無効化できる…あなたには…彼の計画を止めて欲しい…勝手なことだとはわかっている。そうしなければ、この世界は……彼の計画はこーー」
「ダメでしょ?いきなり教えたんじゃ面白くない。気づくのを待って、そこからがお楽しみなんだから」
青年の計画、それについて話そうとした瞬間に折澤が宙に浮き始めた。首を透明な何かが締め付けているかのように必死にもがく折澤を青年は高笑いしながら見ている。これも彼らの言う“能力”なのだろうか。青年が右手を下ろすと大きな音を立ててスチールの椅子は落ち、同時に折澤も呻き声をあげた。
「はぁ、面白くもない反応だし、そろそろいいかな。折澤さん、もういいよね?」
「ハァ……ハァ……」
「あーあ、ホント面白くない。じゃ、僕も外でしたいことがあるし、じゃあね〜」
青年がフィンガースナップの構えを取ると折澤は大きく目を見開いたが、既に遅かった。パチン、と響く音が聞こえ、瞬間、折澤の身体が膨張して爆発した。そこら中に血肉が飛び散り、辺りを赤く染める。何故か青年に汚れはなかった。しばらくそこに立ち尽くし、ゆっくりと歩いて動画を撮るカメラへと向かってくる。
「本当に悲しいよ…折澤さんはいい人だったから。でも、反省はしない。僕はそんな人間だ。で、これを見てる君はどうするのかな?正義感で警察に届けるか、自分可愛さに見なかったことにするか、僕はどちらも人間味があっていいと思うんだけど、できれば警察にでも届けて欲しいね。
僕はね…追われる身になりたいんだ。いわば鬼ごっこをしたい。鬼は君たち、逃げるのは僕。鬼は増えるし、僕らも増えていく。さぁ、ゲームを始めようじゃないか。君の参加を待ってるよ?」
その言葉を最後に動画はプツリと切れた。
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再び静寂に包まれた研究所で先の動画を見終わり、パソコンの前でため息を吐く人物がいた。藍色のコートはがっしりとした体を包み、鋭い目つきの顔には無精髭が生えている。
USBメモリーを抜き取ってパソコンの電源を落とし、それらを持ったまま階段を上る。長い階段を上る足取りは重いが、出口が見えた。錆びれたドアは嫌な音を立てて開き、そこから暗い光が差し込んだ。出た先は森で、空は雨雲で濁っている。
「ったく…どうしろってんだよ…」
片桐哲也はポケットにUSBメモリーを入れ、天を仰いだ。
大きく吐かれた二度目のため息は曇り空に溶けていった。