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隻眼龍と赤鬼  作者: みのたかひろ
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新珠島物語

                      (5)

 昔々、瀬戸内海に浮かぶ島々の中に新珠島(しんじゅしま)と呼ばれる小さな孤島が有りました。讃岐国(さぬきこく)志度ノ(しどのうら)房前(ふさまえ)と言う地域の、半島に囲まれた湾の中に在って、天に向かって海面から先端を突き出すような尖った形状をした島でした。そして、他の瀬戸内海の島々に比べて、島とは呼び難い程に小振りで、島全体が岩場に覆われておりました。

 しかしながら快晴の温かな日差しに誘われて志度ノ浦を訪れる旅人は、海底が海面に隆起したような新珠島の黒い岩肌に、無数の海鳥と共に白い衣装を身に纏った沢山の海女(あま)達が、美しい歌声を呼応させながら作業をしている様に旅の疲れを癒され、故郷に帰る者達の土産話として広く伝わって行きました。

 新珠島と呼ばれるようになったのは、その華やかな風情と海女達が行っていた作業の故でした。

 瀬戸内海の穏やかで温かな海流が育んだ、アワビやアコヤ貝がその島の周辺に広く生息地を広げていました。

 男達は船に乗り込み近海へ漁に出掛け、女達は磯桶と共に波に身を委ね、讃岐岩(さぬかいと)を削って作った尖頭器を使って海底を泳ぎ、アコヤ貝などの貝類や海藻を採取して生活をしていました。

アコヤ貝から天然の真珠を取り出して、一つ一つ天に掲げて、美しい光沢に澄んだ空の青を映しながら選別する姿から、いつしかそう呼ばれるようになったのでした。

 ただ、その湾には(いにしえ)から或る言い伝えがありました。

雨の降る日には、海に潜る事は(もと)より海岸に近付いたり、海面を覗き込んだりしてはいけないというものでした。言い伝えを守らなければ隻眼の青龍に呑み込まれてしまうというものでした。

 或る春先の温かな日没時、何時ものように海女達は、新珠島に上がって軽快な調子に合わせて歌を謡って作業をしていました。

しかし、珠美(たまみ)と言う海女だけが、塞いだ表情で手を止めているのを気に留めて、幼馴染の(あかね)が声を掛けました。

「どうしたの、そんなに思い詰めた顔をして、また亭主に殴られたのかい。」

 同じ房前に住む女達でしたが、殆どの海女達は他の土地に生まれ育ち、真珠採取を目的として湾岸の漁師の元に嫁がされた者達でした。その中に在って、珠美と茜だけが幼き頃よりこの海に遊び、長く潜水する能力に長けていた為、成るべくして海女に成り、やがて同じ房前の漁師と同時期に夫婦と成りました。

 しかし、茜の亭主は、男の子を授かって直ぐに嵐の夜、岸壁から海に転落して命を失い、幼い男の子と共に暮らしておりました。

珠美の方はというと、いつまで経っても子宝に恵まれる事無く、漁の無い日に酒を煽ってばかりいる亭主と、刺々しく日々を過ごしておりました。

「暗い顔なんかして帰ったら、また殴られるよ。」

 珠美が、顔に(あざ)を作っている姿が頻繁で有った為、海女達の間では亭主の乱暴振りを知らない者は居ませんでした。子宝に恵まれないのはその所為であろうと皆、蔭で噂をしていました。その粗暴さは、漁師の間でも手が付けられない程で、誰もが関わりを避けて見ぬ振りをしていたのです。

「あの人は、私の顔を見ただけで殴る。きっと私の顔が気に入らないだけ。なのにさ、笑い掛けたりしたら余計に殴られるに決まっているよ。」

 珠美は、俯いたまま呟きました。

「そんなことがあるもんか。また私から好い加減、嫁に手を上げるのは止めなって、言っておいてあげるからさ。藤吉(ふじきち)も根が悪い訳じゃ無いのだけどねぇ。あんただって知っているだろ。藤吉が突然房前に現れた頃から、誰彼問わず手が早いのは有名だったじゃないか。(たま)ちゃんだって承知の上で、夫婦になったのじゃないか。」

 茜が優しく珠美の肩に手を伸ばそうとしましたが、珠美は激しく片手で払いのけました。

「承知だって?あの人は、この集落に来た時からずっと茜だけを見てた。茜の言う事には、何にだって耳を貸す。あの人はずっと茜に惚れていたのさ。それを知りながら茜が留吉(とめきち)に嫁いだ所為で、あの人は昼間っから酒を浴びるようになったのじゃないか。だから、あたいを嫁にしたのだって・・・。」

 茜は、珠美の言葉に目を丸くして驚いていましたが、見る見る目尻を吊り上げていくと、憎々し気に背後から珠美を睨み付けていました。

「子供の頃からそうさ。あたいの顔を見ればみんな殴る。叔母ちゃんだって、叔父ちゃんだって殴る。殴られれば殴られるほどに、あたいは自分が何の為に此処に居るのか分かんなくなって、どうでもよくなっていく。茜に問ってのあたいが、どんな存在なのかも分かんない。」

珠美は茜を鋭い眼差しで見上げました。

「でもね、今あたいが悩んでいるのは、その事じゃない。最近、同じ夢ばかり見るようになった。毎晩毎晩・・・。それが、あたいは怖くて仕方ないんだ。何か良くない事が始まるのじゃないかって・・・。」

「だから、あたしが言ったじゃないか。あの龍・・、嫌、あれに逢うのを止めろって。」

 龍と言い掛けて茜は口を塞ぎ、珠美の咎めるような視線を躱すように、視線を泳がせました。

 他の海女達は、距離を置いて二人の様子を心配そうに伺っていましたが、一人の海女が興味深そうに声を掛けてきました。

「何だい。面白そうな話じゃないか。なんだい聞かせておくれよ。どんな夢だい。」

 珠美は顔を顰めて、茜から海面へと視線を移して、話し始めました。

「気が付くと、いつも同じ洞窟の中に立っていてね。暗くて良く見えないけど、何やら壁にキラキラした苔のような植物が生えている不思議な洞窟なんだ。でもね、行った事も無い場所なのに・・・何だか懐かしい気持ちでいっぱいになるんだ。それからね、目の前に大きな真っ黒い水溜りが有ってね、覗き込もうとすると、水の中から女人が浮き上がって来るんだ。覗いちゃダメだって思っても毎回覗いてしまう。そしてその度にその女人は、私の手を引いて水の中に引き込もうとするんだよ。」

 気が付くと、珠美の話に引き寄せられて、全ての海女達は作業を止めて一心に耳を傾けて居りました。

「気持ちの悪い夢を見るじゃないか。それで、結局あんたは水の中に引き摺り込まれてしまうのかい。」

「怖くって、あたいは必死で抵抗するけど、誰かが背中を押すのに驚いて振り返ったら、青い鬼がいてね。笑いながら大丈夫だよって笑いながら押して来るんだ。」

「鬼だって!笑っている鬼だなんて、ますます気持ち悪いじゃないか。それでそれで、あんたはどうなっちまうんだ。」

 海女の一人が、珠美の背中を揺すって先を促しました。

「その女人があたいを抱き締めて、ふうって顔に息を吹きかけて来るとね、何故かあたいは力が抜けてしまう。『お前が出て行ったのは、帰る為だったろ』って言うと、あたいを抱き締めたまま水の中に滑るように落ちてしまうのよ。そこで決まって目が覚める。」

「おお・・・。」

海女達は、一斉に口を窄めて感嘆の声を上げました。

「でもね、目が覚めてから気が付くのも変だけど・・・、その女人の顔も声も、茜にそっくりなの。」

 突然、海藻が飛沫を飛ばしながら、珠美の首筋に投げ付けられてきました。新珠島の尖端付近に群れた海鳥たちが、一斉に甲高い声を発して飛び立ちました。茜は一瞬、飛び立った海鳥を見上げましたが、一羽だけ飛び立たずに残った白い鳥に目を遣ると、珠美に向き直って激しく罵倒しました。

「何だって夢の中にまで私を出して、魑魅魍魎に仕立てる必要がある。この性悪女が。」

珠美は、茜の方を見る事無く海面を見詰めたままでした。

「藤吉の話だっておかしいじゃないか。つれなくされても、殴られても一緒に暮らしているのは何故だい。あんたが藤吉を初めてみた時から、惚れているからだろうが。」

 茜は、磯桶に採取した自分の取り分を荒々しく放り込むと、そのまま海水に足から飛び込んで、岸に向かって泳いで行きました。

それを見送っていた海女達は、茜が小さくなると、ほっと胸を撫で下ろして、一斉に珠美の周りに腰を下ろしました。

「あの娘は、昔っからああなのかい。」

 海女達は次々と口を開いて、珠美を慰めるように話し掛けました。

「あの子の気性の荒さは、並外れているよ。ちょっと手に負えないね。」

「あの女、亭主亡くしてから急に色気付いたと思わないかい。見境なく男に色目使ってさ。気持ち悪いったらありゃしない。」

「亭主が死んだのだって、怪しいじゃないか。龍に襲われたなんて言ってはいるが、私の見立てじゃ、あの女が突き落としたのさ。」

「珠ちゃん。あんたの亭主も気を付けた方が良いよ。あの女と二人で居る処を、見た者も私だけじゃないよ。」

 珠美は、首に貼り付いた海藻を丁寧に取りながら、皆の喋るのを黙って聞いていましたが、砂浜に辿り着いた茜を見遣りながら寂しそうに言いました。

「子供の頃、早くに両親を亡くした私に、いつも傍にいて優しくして呉れたのは茜だけだった。浜で綺麗な貝殻を見付けても、いつも駆け寄って、私に呉れたのも茜だった。海流に呑まれそうになった時、自分の磯桶を捨てて助けてくれたのも、茜だった。」

「何だい珠美。心配して遣っているのに、茜の肩を持つのかい。」

 一様に、珠美を取り囲んだ海女達の目の色が変わりました。しかし、珠美は気にも留めずに呟くように続けました。

「・・・でも、変わってしまった。十歳になった頃、突然。」

「何か、思い当たる節が有るのかい。」

「あたいが預けられていた遠縁の家では、いつもあたいは居場所が無くて、小言ばかり聞かされるのが嫌で、良く独りで半島の裏側の岩盤の上に上がって、海を見てたの。雨の日を選んでね・・・。」

「雨の日だって!」

 一斉に、海女達は仰け反って驚きました。

「あんた大丈夫だったのかい。」

「雨の日だと、誰も海に近付かないから、独りで居られるって・・・思った。」

「龍に襲われなかったかい?良く生きて居られたねぇ。強運じゃないか、龍に出くわさずに済んだなんてさ。」

 腕を組んで真剣な眼差しを珠美に注いでいた海女達は、顔を見合わせたり、深く頷いたりしていました。

「その頃、茜にも同じ事を言われた。もう行くなって言われた。何でって聞き返したら、珠美はあの青い龍と関わってはいけない定めだからって言われた。知らない筈の茜が、あの青い龍を知っているみたいな言い方をしたから、あたい向きになって言い返したのよ。あたいの定めはあたいが決める。知ったかぶりは止めてってね。青い龍は、みんなが思っているような怖い生き物じゃないし、今までに何度もあたいの前に現れたけど、何も言わずに綺麗な目で優しく私を見て呉れるだけだった。それから、ある時、龍があたいの心に呼び掛けて来た事が有るのよ。白いカラスに気を付けろって・・・。それを茜に話してから茜の様子が変わった・・・。」

「気でも違ったのかい、この娘は!何を言い出すかと思えば、この子も茜と同じだよ。気が変になっちまっている・・・。」

 恐る恐る立ち上がった海女達は、珠美に向かって次々と誹謗を浴びせながら、皆一斉に海に飛び込んで新珠島から逃げるように泳ぎ去って行きました。四方に小さくなっていく磯桶と白い頬被りを目で追いながら、珠美は龍と初めて出会った時の記憶を思い出していました。


それは初冬の冷たい雨が何日も降り続いた日の事でした。

冬場の海中は冷たく海女達は磯桶を持たず、男たちは言い伝えを恐れて長く漁に出る事が出来ない所為で、夕食時に珠美の膳はその家に用意されることは有りませんでした。

囲炉裏端から離れた、少量の藁くずを寄せただけの冷たい土間の上で、湿った藁を着物の中にねじ込んで横になり、抑えきれない空腹に耐えていた珠美は、自分の白い息の向こう側の叔父一家の団欒をただ無心に見詰めていました。

その時、屋根を一段と強く叩く雨音を耳にした珠美は跳ね起き、逃げる様に表口を引いて外に飛び出しました。背後からがなり立てる叔母の声が聞こえた気がしましたが、珠美は顔を叩く雨粒を避けようともせず、ひたすらに暗闇の中を素足のままで掛けて行きました。

珠美は全身ずぶ濡れ状態で通い慣れた岩場に辿り着くと、手探りで海に大きく突き出した岩の下に体を折り畳むようにして、膝を抱えて座り込みました。その辺りでは唯一、雨を凌げる場所でした。月が隠れて、何も見えない暗闇の海から聞こえる波音とも雨音とも区別のつかぬ音を聞きながら、凍り付いた膝小僧を抱き締めていた珠美は、急激に全身を襲う悪寒に、ガタガタと顎を鳴らしておりましたが、何時しか意識を失っていきました。

 どれほどの時が過ぎたのか、柔らかな春の日差しを浴びているような安心感に、珠美は意識を取り戻しました。暁時の朝日だろうかと、珠美は眩しく強烈な光に薄目を開けて、辺りを伺い見ました。空の群青と海の碧が一点に集結したかに思える程に美しく輝く珠が宙に浮いているように見えました。

やがて、その珠を中心に渦を巻いて流れて行く青紫の煙が、その正体を明らかにしていきました。それは、海面から突き出た輝く隻眼を持つ龍の頭でした。

思わず息を飲んだ珠美は、恐怖で膝小僧に指の爪を立て、滲んでくる血にさえ痛みも感じないほど凍り付いていました。

良く見ると、龍は口元から青紫の息を珠美に向けて、盛んに吹きかけ続けていました。最初は、毒のガスを吹き掛けて居るのかとガタガタと震えて見て居ましたが、嗅ぐとその息は心地よい潮の薫りがして、浴びる程に暖かく、体中に力が漲って来るのを感じました。

岩に弾ける雨の飛沫も、吹き付ける風も、逆に優しく感じられる程、その龍の息は珠美を包み込んで、心が和んでいくようでした。

「また会える事を、信じていたよ。」

 突然、珠美の心の中に優しく囁く声が響いてきました。

「今、あたいに話し掛けたのは貴方。」

 再び珠美の中に言葉は還らず、龍の隻眼が緑色に濡れて行くのが分かりました。

「思い違い・・・。そうだね、龍が人の言葉を話すなんて聞いた事ないしね。寂しくて独りで居るのが怖くて、泣いてばかりいる泣き虫だから、あんたと話がしたくて聞こえたのかも。今あたいが見ているのも幻・・・。でも、幻でも消えないで。朝まで私の傍にいて、何にも言わなくて良いから。」

 龍は頭を天に向け、大きく咆哮しました。

すると龍の眼光が、鋭く天空の雨雲を切り裂いて、月が姿を現しました。激しく降り付ける雨を生む雲をくり抜いた所為で、龍と珠美の上空に雨粒は無くなり、月光を降らせてきました。その余りに神秘的で美しい光景に、轟く龍の咆哮を聞きながら、何故か珠美はそれが哀愁に満ちた断末魔に聞こえて、龍をとても愛しく感じました。

「あんたも寂しいの。悲しいの?この広い海原の中、独りで住んでいるの?友達も居ないの?・・・そう。でもね、あたいにはね、茜って友達がいるの。とっても優しくて、あたいをいつも見ていて呉れる、たった一人の友達。」

 珠美は、岩壁から身を乗り出して、龍の方へ手を伸ばそうとしました。

「あたいがあんたの友達に成ってあげる。また、雨の夜は此処で待っている。良いでしょ。」

 青龍は、珠美の方に向き直りました。

「いいか。白い三本足のカラスには気を付けろ。何を言われても耳を貸すな。これだけは忘れるな。」

 再び心の中に言葉が飛び込んで、珠美の動きが止まった瞬間、龍は海中へと消えて行きました。

         ★

 飛鳥時代と呼ばれ、大和の国を都としていた頃、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)天智(てんぢ)天皇に即位して間もなく、腹心として蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し大化の改新など行政の改革を為した中臣鎌子(なかとみのかまこ)が、右大臣に任命された翌日、急逝しました。そして死後数日経ったある日の事、中臣鎌子の妻女によって、臥した夫の平癒を祈願して建てられた山階寺(やましなでら)、後の興福寺(こうふくじ)に鎌子の次男である不比等(ふひと)が呼び出されました。

 不比等は、誰が何の為に自分を呼び出したのかを知らぬまま、突然の父親の死去に依る中臣家の慌ただしさから逃れて、独り山間に出掛け、川釣りを楽しんでいました。

 幼少の頃より、父親の才知にたけ武にもずば抜けた才能を見せた為人には、言い知れぬ抵抗を感じていましたので、血気にはやった者達が盛んに家に集結していても、心惑わす事無く、その度に家からふらりと出掛けては何日も野山に籠る事が多い少年でした。

 葬儀の式場で、父親の死後に天皇から授かった、藤原姓をどう扱うのかとか、右大臣職就任を妬んでの毒殺ではないかとか、病に倒れたのは権力争いの果てに死んでいった者達の呪いだとか、集まった親族達は父親の死に顔にさえ興味が無さそうでした。不比等は居た堪れない虚無感に葬儀の式場からも抜け出してしまいました。

 そんな自分を誰が呼び出すのかと、考えれば考える程、厄介な立場に誘い込まれるような気がして疎ましく、忘れていた態にして川面に遊んでおりました。

しかし、不比等が川に糸を垂らして直ぐに、川岸に迫り出した頭上の枝が、大きく葉音を立てたのに驚いて顔を上げました。

するとそこには大きな白いカラスが、不比等の頭の直ぐ上で、見下ろすように枝に止まっていましたので、思わず竿を手放してその場を飛び離れました。その様子を見た白いカラスは、すぐさま飛び上り、宙より小さな炎の塊を不比等の足元に口から吐き飛ばしてきました。

不比等は、突然見舞われた危険に、剣を持って来なかった事を悔い、辺りに立ち向かう為の木切れを探しましたが見当たらず、河原の小石を拾っては宙に羽搏カラスに向けて、一心に投げ付けました。

しかし、避けるでも無い標的に一石も命中させる事が出来ませんでした。その間も絶え間なく足元を狙って、炎を吐き飛ばして来る状況に耐え切れず、不比等はカラスに背を向け、必死に川沿いに駆け出して行きました。

家に向かって駆け出した不比等でしたが、何故見た事の無い鳥が、自分に向かって信じられないような攻撃を仕掛けて来るのか考える内に、最早、自分の力ではどうにもならない、何か大きな力が既に降り掛かって来ていると感じました。そして、不比等は進路を変え、山階寺に向かって飛ぶように駆けて行きました。

 不比等が山階寺に漸く着いた時、まだ陽は高いというのに境内に人影は見当たりませんでした。

その敷地全体から漂う不自然さは、これから不比等を待ち受ける事態の重大さを思い知らせました。不比等はその事態に対面すべく、正面の扉を力を込めて引き開け、注意深く中に入って行きました。

暗闇に目が馴れず、隅々まで見通す事が出来ないままに草履を外に放り投げ、目を細めて慎重な足取りで内部に足を進めて行きました。まるで人の気配が感じられず、取り戻しつつある視力を頼りに奥へと進み、本殿の一番奥に位置した本尊である釈迦三尊像を祭った間へと辿り着きました。

「遅かったではないか不比等。」

 不比等は、釈迦三尊像が喋ったのかと思い、身を固くして身構えました。

「俺だよ。不比等。」

 声の主は、像の前に胡坐をかいて、軽く片手を挙げた姿勢で座っていました。

「中大兄様。いや、今は天智様。貴方様が私を・・・。」

 質素な衣装に身を包み、長髪も整えず垂らしたままの、何処から見ても天智天皇とは思い及ばない風貌で座していて、表情も崩して微笑みながら語り掛けてきました。

「中大兄の叔父さんで良いよ。今日は天皇としてではなく、お前の父親の親友として頼みが有って呼んだのだ。久しく逢わぬ内に随分逞しくなったではないか。さすが鎌子が自慢していただけの事は有るな。」

「父上が、私を自慢?それは兄の間違いでは御座いませんか。私は跡目とも関係なく、放任して育てられました。叱られた記憶さえも御座いません。恐らく、私を意識して見た事も無かったのでは・・・。おそらく体躯だけの話かと。」

「親とは、そういうものだ。目で見える物だけを見ている訳では無い。血はあらゆるものを巻き込み、縛り付け狂わせる。」

「中大兄様、そんな事より身分を隠してまで私に頼事とは、どのような要件で御座いましょうか。」

「ふむ、そうであった。お前は承知して居らんと思うが、鎌子には唐の三代皇帝高宗(こうそう)に密偵として嫁がせた娘が有る。お前の腹違いの姉になる女だが、この度の鎌子の死去に際し、追善の意を表し山階寺に三種(さんしゅ)の宝を賜った。」

「初めて耳に致しました。そのような姉が私に・・・。しかもそのような賜りを受けていたとは。」

 中大兄皇子は、何時しか表情を変え、鋭い眼差しを不比等に向けて、傍に依れと言わんばかりに手招きしました。

「それはそうじゃ。誰も知らん話じゃからな。嫁がせた娘の事を知る者さえ、儂以外おらぬ。」

「そのようなことが・・・・。」

「その三種の宝を積んだ船が、瀬戸の海を渡る途中で青龍に襲われた。そして、面向不背(めんこうふはい)の珠が奪われた。この事は、唐と我が国の国交に関わる話じゃから、事は伏せて居る。不比等よ、心得よ。」

「・・・分かりました。」

 不比等は、いつしか背中が汗でぐっしょりと濡れて、冷たくなっているのに気が付きました。そして、自分の予想を超えた事態へと巻き込まれていく焦燥感に陥っていきました。

「面向不背の珠とは・・・。」

「珠を覗くと、どの方向から見ても釈迦が正面に見えると言われている。儂も見た事が無いから楽しみに待って居ったのだが・・・。

そもそもその珠は元々この国に在った物で、その昔雄略天皇が所持して居り、漢の国との友好の証として送られた物であった。言伝えに依れば、因幡(いなば)の国で雄略天皇が海神(わたつみ)より授かった物と聞き及ぶ。」

「もしや青龍が、取り戻したと言う事でしょうか。」

「分からぬ。授けた物を取り返すとは、どのような経緯が、その珠に有るのか・・・。そこで頼みであるが、不比等よ。それを龍より取り戻して来い。」

「へっ!」

 不比等は、素っ頓狂な悲鳴を上げて転がるように引っ繰り返りました。

「わ、わたしには、そのような事は出来ません。」

「儂も、そう思う。」

 余りにも素直に頷く中大兄皇子の腕を組んだ姿に、再び不比等は呆気に取られて呆然と中大兄の表情を伺い見ていました。

「では・・・、では、何故にそのような事をおっしゃるのか。」

「お前が、此処に来るのに随分と時が掛かったが、相手が儂と知らず今まで何処で何をして居った。」

「申し訳ございません。相手が貴方様とは知らず、川で釣りをしておりました。」

「そうか・・・其処で、不可思議な出来事に会いはしなかったか。」

 不比等は、驚きました。自分が出会った不可思議な出来事を、予測していたかのような口振りに聞こえたからでした。

「はい。白いカラスに攻撃されました。見た事の無い不思議な鳥に・・・。中大兄様はご存じなのですか。」

「やはり来たか。あれは八咫烏じゃ。」

「八咫烏?神武(じんむ)天皇がこの国を治める際に、熊野で道案内をしたと言われる、あの伝説の鳥ですか。」

「不比等。あれは伝説ではない。お前の父親が鎌子(かまこ)と名付けられた訳を知っておるか?鎌子の母が、出産を迎えた夜に白狐が突然鎌を咥えて現れ、鎌を母に向かって放り投げた。それでお前の父親は、鎌の子として名付けられる事になったのだ。蘇我入鹿の暗殺を果たした夜、鎌子と満月を肴に酒を酌み交わしている時、酩酊に至った鎌子は、恐ろしい事を口走り始めた。その白狐が、実は八咫烏の化身であった事、幼き頃から鎌子は常に八咫烏と共に在って、未来に定められた宿業を教えられ、障害となる者の排除を八咫烏が画策し実行して来た事。・・・儂は、あいつが怖くなった。親友で居なければ、いつか鎌子に殺されると思って来た。お前には言い難いが、あいつが死の床に就いた時、儂は正直言って漸くその呪縛から解かれた、と心が安らいだのだ。だから、謂れの無い怨恨を残さぬように死の直前、枕元にて鎌子を右大臣に命じ藤原の姓を与えたのだ。」

 不比等は静かに話を聞きながら、幼少より父親に対して感じていた血生臭い妖気めいたものが、何であったのか分かった気がしました。そして、苦痛に歪んだ表情で語る目の前の男の様子から、死に逝く者に何故に位と姓を与えたのかを理解しました。

「なのに・・・昨日の暁時、息苦しさに儂が目覚めた時、足元から蚊帳越しに儂を見詰める八咫烏を見た。儂としたことが、身動きの取れないままに奴の言葉を唯、聞く事しか出来なかった。奴はこう言った・・・。讃岐の国は志度ノ浦の房前に、龍と心通じた海人の女が居る。鎌の次男を送り込み面向不背の珠を取り返せ。俺も志度の浦にて援護する。新珠島の海底に龍は潜む。・・・それだけ言うと、奴は白蛇に姿を変えて去った。」

「しかし・・・何故に私なのでしょうか。」

「そんな事が、儂に分る筈もない。」

 小刻みに肩を震わせた中大兄は、膝を握り締めながら、苦しそうに表情を更に歪めて居ました。

「儂は、此の国を我が物とし、思うように政を形成する為に、沢山の人間を駒として動かし、そして潰して来た。・・・しかし、本当にそうだったのかと、今、儂の心は歪み、色褪せて行く。儂の存在自体が、歴史の小さな駒にしか過ぎないのではないかと・・・。不比等よ、今から志度の浦に渡れ。漁師と偽ってその女に逢うのだ。そして、その女を娶り謀って面向不背の珠を奪わせるのだ。」

「真に申し上げにくい事ですが、私は漁師の心得なく、独り身で女性の扱いさえ経験が御座いません。八咫烏の言葉とは云え、ちと無理かと思います。」

 不比等は跪き、手を付いて辞退を懇願しておりましたが、中大兄は無視して続けました。

「これは、決まった事である。儂にもお前にも避けられぬ運命だと知れ。漁師の件は既に因幡の漁村から、同い年の若い漁師を同行させる手筈に成って居る。不比等よ、女を知る事は一人前の男に為るに最も大事じゃ。女子を従えるには、男の強さが必要じゃ。強く成れ、そして力を振るえ。身を賭して命を捧げさせる女子に調教するのだ。やがて都に帰って儂の右腕と成る時に、役に立つ修行と思って行って来てくれ。」

 最早自分には他に道が無い事を悟った不比等は、言葉なく額を床に着けたまま、中大兄が立ち去るまで、そのまま動けずに居ました。

         ★

 その夜の雨は卯月らしい柔らかな雨音を響かせていました。珠美はいつもの岩場に身を寄せて、暗闇に青い光を求めて待って居りました。

そして、今夜家を抜け出る際に藤吉に後ろ衿を掴まれて引き摺り回された時の事を思い出していました。

藤吉は、雨の日に限って家を抜け出るのは何処に行っているのか、執拗に聞き出そうとしました。口を閉ざし続ける珠美に痺れを切らし、龍に逢いに行くのかと怒鳴り付けました。珠美はその言葉から、藤吉と茜の関係は只ならぬ深い関係だと確信しました。

 しかし、藤吉と留吉が揃って此の集落に姿を現してから、ずっと心に引っ掛かったままなのは二人が揃って珠美と茜だけに個別に接触してきた事でした。まるで、どちらかを最初から知っていたかの様に話し掛けてきて、言伝えの龍の話を聞き出そうとしました。また、不思議な珠を見た事が無いかなど訪ねてきました。

珠美は、男性と親しく話した事の無い所為で、心ときめき、藤吉の風貌にも惹かれていく自分を感じていましたが、藤吉は明らかに茜に興味を持っている様で、自分より頻繁に茜に接触しているのに気付いた時は深く落ち込みました。

ところが、ある日突然に独りで逢いに来て、藤吉は珠美に求婚してきました。事の流れが分からず、気持ちの整理もしないままに頷いてしまったあの日からずっと、珠美の中には解れたままの想いが残っているのでした。

藤吉と珠美の間に子供が出来ないのも、他の海女は夫の暴力の所為で不和なのだと思われていましたが、そうでは無いのでした。

子供が、どのような男女の行為によって授かるのかさえ、未だに知らない珠美なのでした。

藤吉と留吉は、何処から何の為に来て住み着いたのか、考えれば考える程納得がいかない事が多い中で、珠美は藤吉が茜ではなく突如自分の方を振り返った事と、龍が何らかの関係が有るような気がしてならないのでした。ですから、珠美は龍との逢瀬を絶対に藤吉には知られまいと注意していました。

龍と珠との関係は何だろうか、珠美は考え込んだままじっと潮騒の中に佇んでいました。

 穏やかな潮騒と岩場を降り付ける雨音の中にいた珠美は、海面に泡立つ音が大きくなるのを感じて、足元の海面を覗き込みました。

 黒い海底から浮かび上がってくる二つの蒼い光が確認出来ました。思い返せば、隻眼の龍が或る日突然双眼で現れて驚いた頃と、二人が集落に姿を現した時期も近いのも偶然とは思えなくなって来るのでした。

 青龍は、何時ものように首から頭部に掛けて大きく震わせ、海水の飛沫を珠美に浴びせかけました。珠美は笑いながら飛沫を避けながら話し掛けました。

「こんばんは。今夜は来ないのかと心配したよ。」

 青龍は、いつものように暖かい紫に煙る息を吐き掛け、濡れた珠美を乾かすように温めていくのでした。

「どうしたその傷は、また酷い目に会ったのか。お前はどうしてその者と一緒に暮らすのだ。俺が何処にでも逃がしてやると言っているのに。」

「良いの・・・。酷い目に会っても、あたいはあの人の事・・・好きなの。」

「それが、俺には理解出来ん。」

「あの人はね。今まであたいに暴力を振るってきた人達とは違うの。目の中に怒りなんて少しも無い。悲しそうな子供の目をしている。」

「悲しいと人間は、人を殴るのか?ますます理解が及ばぬ。」

「あたいも同じだから分る。深い悲しみに堕ちると、人は孤独になるのよ。孤独は人間を痛め付ける。その痛みから逃れる為に、あの人は私を痛めつけるのだと思う。だからね、あたいが居なくなったらあの人は生きて居られないと思うの。」

 青龍は、咆哮を上げながら、更に濃い紫の霧を珠美に吹き付けてきました。

「聞いても良いかな・・・、教えて欲しい事が有るの。」

 青龍は、答えずじっと珠美を見詰めていました。

「どうして片目だったのに、両目が戻ったのか聞きたいのだけど・・・ううん、言えなかったら良いの。」

 青龍の青い眼球が緑を帯びて行き、碧玉の様な輝きを放って語り出しました。

「そんな事か、そうだな、お前には話して置こう。・・・俺が、人の姿で出雲(いずも)の辺りを旅していた頃の話だ。契りを交わした女性を突然失い、茫然自失の余り自らの正体を無くした俺は、因幡の浜の海底に身を隠した。そして、竜宮の海溝に身を委ね、時から逃れ、深い眠りに就いている時だった。」

 待ってと珠美が、慌てて話を遮りました。

「人の姿?あなたは人間だったって事?それとも龍が本当の貴方なの?」

「どちらでも無い。目に見える肉体そのものは、元々観念的なもので、俺の観念自体が、例えば夕陽が茜雲を作り出すように、変化を生むだけなのだ。お前も含め此の世の全ての命は、唯の小さな炎の芯に過ぎない・・・。また、補足して説明しておくが、人が竜宮と呼ぶ場所は龍神の住処でも煌びやかな宴の場所でも無く、此の星が呼吸をする為に裂けた無の光孔の事で、お前の知らぬ世界中の海に存在している。俺達がその場所を愛おしく求めるのは、其処が全ての生き物の起源でもある場所だからなのだ。・・・さて、この眼球の話に移ろう。或時その竜宮を守護する為に群生している鰐が、眠っている俺を起こしに遣って来て、体中に噛付いて俺に力を貸せと言って来た。余りの痛みに耐えかねて、事態を確認する為に海上に頭を出した俺は、奇妙な光景を目にした。大きな帆を張った和船が波間に浮かび、船首に構えた船主櫓から垂れた縄に、一匹の白兎が両耳を括られて、海面擦れ擦れにぶら下っている。船主櫓には頑強な体躯に、戦に役に立ちそうも無い派手な鎧を身に着けた男が、長い弓矢で海面の何かを狙って立っていた。鰐達が俺に言うには、竜宮の守衛である鰐を狩る為に時折訪れる貴族の和船で、兎を餌に近付く鰐を捕獲しているという。鰐達は白兎を助ける為に縄を切ろうと近付いては矢に射止められ、捕獲されているらしかった。最初、俺には関係のない事だと傍観していたのだが、気が変わった。櫓の突端から俺を見詰める白い八咫烏を見付けたからだった。奴は、古より悉く俺の運命の岐路に現れ、罠を仕掛けて俺を陥れてきた憎い使徒だったからだ。生きた白兎を餌にしている事からして彼奴らしかった。一気に青い炎で消し飛ばして遣りたい衝動を、俺は必死に抑えた。それでは、兎も捕らわれた鰐達もあいつ達と一蓮托生に成ってしまう。それこそが彼奴の狙いかも知れんからな、俺は八咫烏に気付いてない振りをして船に近付き、お前の望みを一つ聞いてやるから捕らえた鰐を海に解き放てと交渉した。船主に立った男は、聞きもせぬのに『我こそは雄略(ゆうりゃく)天皇なるぞ。』と威勢良く嘯き、俺の眼球を差し出すなら鰐を海に還しても良いと、ほくそ笑みやがった。八咫烏が言わせたのは、言わずもがなだ。俺の愛する女性を奪い、心を闇に落としただけでは物足らず、現実をも闇に封じてしまう積りなのだと感じた。しかし、俺には抗う術を持たなかった。已む無く俺は承諾し、今すぐ鰐を放てと命じたが、先に眼球を寄越せと言う。目に映ってしまうのは、心に傷みを刻むものばかりだと思ってはいたが、双眼を渡してしまえば約束が果たされたか否かの確認が出来ないから、隻眼を先に渡し、約束の履行を確認して後、残りの眼球を渡すと約束した。雄略と申した者は、頷いて従者達を促して鰐達を海に放った。しかし、縄で吊り下げた白兎はそのまま忘れ去っている様だった。早く白兎も解いてやれと言うと、あいつは鰐の約束はしたが兎を助けるとは言っていないと不敵に口元を歪めて嘯いた。その表情が俺の自制を粉々に消し飛ばした。人間が良く使う表情、この宇宙で最も優れた賢者で有る支配者は自分達だとでも言いたげな表情、お前たちはこの地上で最後に生まれた幼児だと知れ。俺は怒りに我を忘れ、海中より胴体を反らせて船を宙へ跳ね飛ばし、一気に炎で焼き尽くした。同時に櫓から身を浮かせた八咫烏は、宙を舞う船体から白兎の頭部に噛付き、縄に縛られた耳を頭から引き千切って、風に乗って俺の火炎から逃れた。雄略は、俺の眼球を抱えたまま海に逃れ、必死に岸へと泳いでいた。俺が、追おうとしているのに気付いた八咫烏は、咥えた白兎を遠く沖へと放り投げた。俺は、自分の眼球を人間の元には置いておきたく無かったが、波間に消えようとする白兎の方が気になった。俺さえこの海底に居なければ、捕らえられ八咫烏に利用される事も無かったであろうに、大切な両耳を失う事になってしまった白兎。八咫烏の計算が人間の愚かな虚勢の所為で狂い、俺には片目が残ったのに、白兎は関係のない俺の為に両方を失った。怒りと悲しみに眼球を失った方の目から何故か涙が噴き出すのを感じながら、俺は海中より白兎を見付け出し、鰐達が互いに背を合わせ作った筏に乗せた。大量の出血と飲み過ぎた海水の塩の所為で、最早息はしていなかったが、俺のこの息で何とか蘇生させる事が出来た。しかし、残念な事に失った耳までは元に戻す事は出来なかった。しかし、不思議な事に、俺の失った左の眼窩から零れた涙を浴びてしまった所為か、白兎は耳が無くとも聴力は戻り、永遠の命を与えてしまったようだった。今も、何処かで生きているだろうが、あのような不様な姿で不死を与えてしまった俺は、それから因幡の砂地まで運んで遣った。」

「それが、どうして戻って来たの。」

「此処で初めてお前と再会した日から何年か経ってからの事だったと思うが、ある日俺の左の眼窩が疼き出した。近くに有ると感じた俺は、眼球を積んだ船をこの海流に見付けたのだ。それで取り返したのだよ。」

 珠美は、怪訝な表情を青龍に向け、更に聞きました。

「再会・・・?それと、あたいにはその目は大きくて重そうに見えるのだけど・・・。そんなに簡単に人間が持ち運ぶ事が出来るものなの?」

 青龍は後方の海面から水飛沫を上げて、美しい光沢を帯びた鱗に覆われた胴体をのたくりながら、咆哮を上げて笑い出しました。

「此の眼球は、ただの石に過ぎないのだよ。見たいと感じ心が求めた時、石を通して光を放って頭に描くだけの事。ただ、人間の眼球と異なるのは、生命の中に潜む実体の無い影を見る事が出来るという事だ。でも、何故にそれ程迄に俺の眼球が気に成るのだ。」

 珠美は、岩壁に手を添わせて立ち上がりながら言いました。

「あたいの亭主、藤吉が貴方に目が戻るのと同時期にこの集落に姿を現して、竜の噂をあたいと茜に執拗に尋ねてきたの。そして、一緒だった留吉と茜が直ぐに夫婦に成って、あたいはその後に藤吉に求婚された・・・。ずっと心の中で、誰かが引いた綱の上を歩かされて居る様な不安感が有ったの。でも、貴方と話して分かったような気がする。もしかすると、二人はあなたが目を奪い返した船の乗組員だったのじゃないかしら。はっきりした事は分からないけど。それと何年か前の雨の夜、この先の岬から転落して死んだ留吉は、貴方に襲われて死んだ事になっているのだけど、あたいは違うって思う。でも、もしかしたら留吉が貴方から目の珠を奪おうとして、貴方が・・・。」

 何処に潜んで居たのか、ウミネコの群れが突然けたたましく泣き叫び、頭上から飛び立つ音が聞こえました。それに反応して青龍の眼光が一段と光明を激しく放ち、その光は珠美から上空へと向けられました。

青龍の眼光は珠美の上へと注がれたまま動かなくなり、珠美は自分の上に何が有るのか確認しようとしましたが、張り出した岩の所為で良く見えませんでした。

すると、突然何者かに襟首を掴まれ、雨の中に引き摺り出されました。岩肌に擦られて、痛みに悲鳴を上げた珠美は、同時に二つの言葉を耳にしました。

「よくも俺様を謀ったな。」

「またお前か。何を企む。」

不思議な事が起こりました。

珠美の居る場所を中心にして、雨が避ける様に外へと逃れ始め、珠美の頭上の雨雲が月光に溶けて行くように薄れて満月が現れました。

その満月は、地上にぶつかるのかと思う程、急速に膨張していき、その青い月光が昼間の様な眩しさで地上の全てを照らし出しました。

珠美は目を細めて、倒れ込んだ自分の傍らに立つ者の正体を確かめました。そこには、驚愕の表情で頭上に浮かんだ見た事も無い巨大な月を見上げて、震えている藤吉が立っていました。青龍はと振り向くと、青龍はそのままの状態で岩場の上の方を見詰めたままでいました。

藤吉は我に返り、慌てて珠美を肩に担ぎ上げると集落の方に向かって、物凄い足捌きで岩場を跳び駆けて行きました。珠美は、抗う事も出来ないまま連れ去られてしまいました。

 青龍の視線の先には、八咫烏が同じく青龍を鋭く睨み返して、高い岩場に止まって居ました。

「兄者まで参上するとは、八咫烏に任せられない程の大事ですか。」

 天空より凍り付くような冷たく響く声が、疾風を伴って降り注ぎました。

「お前こそ何時まで其処に居続け、一体何を始めようとしているのだ。根の国をこれ以上混乱させる事は許し難い。」

 青龍は、八咫烏から月へと頭を上げて叫びました。

「その言葉は、そのままお返し致します。私が何をしましたか。ただ静かに存在する事が、どのような災いを生んでいると申される。全ての根源は、此処に居るカラスでは有りませんか。」

「哀れな弟よ、後ろを観るが良い。天に向かって尖った島、新珠島を見て何も感じないのか。それは、お前に対するこの地の呪いの象徴だ。」

 それまで、微動だにしなかった八咫烏が飛び上がり、ケタケタと嘲笑しながら青龍の頭上を旋回し始めました。青龍は、それを気にも留めず、新珠島を見詰めていましたが、その言葉の意味を推し量れずに居ました。

「覚えていない程、あの時は猛り狂って居たのだのう。お前の眼光で石に変えられたこの星の先住者の憎悪が、その島にはそのまま残ってしまった。天に向かって救済の手を差し伸べた命の姿と思い知れ。お前は、見た事が無いだろうが、(やまと)と呼ばれるこの島国は、お前の全身の姿に似ている。それが何故か、分るであろう。」

「分からない。・・・何故、この期に現れて私に懺悔しろと言わんばかりに、昔の話をするのか。私が、眼球を取り戻した事と今の話の関連性が、まったく分からない。」

「そうだな。分からぬから根の国に渡ったのだからな。ただ、覚えていてくれ。天に私を見る度に思い出せ。この宇宙とは空無であり、全て均衡と必然で成り立っている。矛盾と偶発は存在しないのだ。スサノウ、従ってお前は存在しない。」

 その言葉を最後に、月は雲間に吸い込まれるように消えて行き、暁を間近に控えた東の水平線が、薄紫に染まっていくのが見えました。

青龍は月の消えた天空の、染まり始めた雲を見詰めたまま、旋回を続ける八咫烏に言いました。

「兄者は、結局俺が尋ねた事には答えなかった。俺がこの双眼共に人の世に残しておく事が、宇宙の均衡を保つ事になるのか。それとも俺がこの世を去れば、守られるのか。」

「その両方だ。早急にその眼球をあの娘の夫に引き渡せ。今頃は、あの娘も酷い目に会っている事だろうよ。今から、あの男を此処に連れて来るから渡して遣るが好い。しかし、あの娘がこの浦に居たのは誤算だった。まさかお前たちの因果がこれ程までに深いとは、思わなかった。それとも、作為的に誰かが送った・・・、いや考えられん。スサノウよ、あの娘・・・、クシナダヒメにも二度と合う事は許さん。」

 青龍は、突如海中より天空へ飛び上がって、八咫烏を炎で攻め立てました。八咫烏は口惜し気に小さな炎で応戦しながら叫びました。

「あの方が、慌てて降りて来られた訳を教えて遣る。此れも予想外だったが、お前の姉上もこの浦に居る事が分かったからだ。」

「何!アマテラスが・・・。」

「お前と再会させては、此の地に災いを招くのは必至。だからなのだ。此の地に矛盾と偶発が溢れるのは、全てお前の所為だ。」

 青龍は、攻撃を止めて激しく海水を跳ね、海中に飛び込んで行きました。八咫烏は、不安気に青龍が潜った海面上空を旋回していましたが、再び上がってこない事を悟って、慌てて集落へと飛んで行きました。

         ☆

「この浦を渡る汐の薫りは、母ちゃんと同じ匂いがする。きっと此の浜に居る。」

 雨の上がった志度ノ浦を眺める為に丘に上がった少年は、未だ昇らぬ朝日を求めて霞見える島々の影を見渡していました。長雨に濡れた叢が、黒ずんだ少年の足に心地よく絡み付き、卯月らしい優しく柔らかな風が、少年の束ねた髪を撫で付けていきました。

少年は名を辰巳(たつみ)と言い、因幡の国の漁村に生まれた漁師の子供でした。十一歳の時、大和の都まで独りで尋ね人を求めて歩き、其処で出会った宮廷の男から、讃岐国志度ノ浦に向かったとの情報を得て海を渡り、漸く十三歳の年に此の地に辿り着きました。

因幡を発つ時には、漁師の襤褸を着た痩せこけた子供であった辰巳も、二年の歳月を経て逞しく成長を遂げていました。

都を出る際に、譲り受けた直垂(ひたたれ)を着た姿は、通り行く人々から以前とは違った眼差しと待遇を受けました。

辰巳は、不思議で成りませんでした。

五年前、突然に都に立った父親が、そのまま音信を閉ざし、病床に在った母親が息を引き取って、独りになってしまった辰巳が、父を求めて因幡を発ち、都に父を尋ね歩いた時、一人の立派な身分らしき男が現れ、身も竦む程の豪華な宮廷に導かれ、身に余る処遇を受けました。

 父親は一体、何の為に都に来たのかと聞いても、それには答えず衣装と剣を渡され、父親の行き先だけを告げられました。そして、その男が誰だったのかも教えられぬまま、裏口から人知れず退出を促されまたのでした。

ただ、確かだったのは男の態度を急変させたのが、共に因幡を出た兎の姿を見てからでした。

その兎には耳が無く、辰巳が生まれてからずっと共に暮らし、人間の言葉を理解するかのような不思議な動きをする兎でした。

 

 潮風に身を晒した辰巳の背後から、白い耳の無い兎が現れ、足元に体を擦り付けてきました。

「どうした()。何か有ったのか。」

 いつものように辰巳は兎を両手で持ち上げて、赤く円らな瞳を覗き込みました。

しかし、辰巳は次の瞬間、兎を手から離して地面に落としてしまいました。眼が青く光ったように思えて、辰巳は悍ましさに驚愕の表情で兎を見詰めました。

「・・・その目は。何が有った。」

 兎は飛び跳ねて辰巳から距離を離した後、振り返って前足を上げて辰巳を見詰めていました。不審気に歩み寄ると再び兎は距離を離し、一定の距離を保とうとしているかに見えましたが、直感的に辰巳は兎が自分を何処かに連れて行こうとしているのかも知れないと思いました。

「父ちゃんを見付けたのか、卯?」

 そう辰巳が問い掛けると、兎は振り返る事なく丘を飛び跳ねて行きました。辰巳は、目を輝かせ、兎を見失わない様に駆け出して行きました。

         ★

 納戸の中へ放り込まれた珠美は、積み重ねてあった木箱に頭を打ち付けて、頭を抱えて呻き声をあげました。

藤吉は、戸口に立ったまま珠美を見下ろし、体を小刻みに震わせながら声を殺して怒りをぶつけてきました。

「何度尋ねても、お前は龍を見た事も無いと、よくも俺を謀り続けて呉れたな。夫婦になったというのに寝屋を共にする事も無く、気が付けば深夜になると姿が見えぬ。怪しいと追ってみれば、お前が物の怪に憑かれておったとは・・・。茜が自分こそが噂の女だと云うのを信じて、近寄って言いなりになってきたのに・・・。今になって、実はお前の方だと言う。何もかも信じられなくなった。俺は、此処で何をしているのか分からなくなった。子供まで作ってしまい、結果留吉まで死に追い遣ってしまった。狂いそうだ。何故にお前は俺と夫婦になった。何故俺を受け入れぬ。」

 珠美は無表情なまま、眩し気に目を細めて半狂乱にがなり立てる藤吉を見上げ、ただひたすらに口を閉ざしておりました。同じ状況下にありながら、対比的な珠美の冷静さを保った涼やかな態度に、藤吉は吼え立てて拳を振り下ろしました。珠美は、地面に顔を思いっ切り叩き付けられました。

「何故だ。何故に言い訳をせぬ。何故に言い逃れようとせぬ。お前は俺が怖くないのか。殴られても蹴られても、お前は動じる様子を見せず、恨めしい表情一つ見せず、俺を不憫気に見下ろしている。何なのだ、お前と言う女は。俺は此処に来る前、とある地位の方から、女は男の力に自ずと屈し従うと聞いて来たが、お前からはそのような態度が少しも見られぬ。逆にお前を殴れば殴る程、俺は人間としての尊厳を、お前に奪われていくような思いにさえなる。押し潰されそうな孤独感から逃れる為に酒を煽り、その度自分を失って酩酊する。何度目覚めても俺は、独りで知らぬ場所に居る。都に生まれ、由緒ある家に育ち将来を約束されていた俺は、誰からも敬われ大事にされた。しかし、思い返せば生まれて此の方、両親の寵愛も知らず、身分の低いお前からさえ一片の愛さえ受けられない。珠美、お前の前に立つ俺は一体誰なのだ。」

 荒ぶる声を遮るように、土を踏む音が聞こえて珠美は目を開きました。

「その辺にしておきなよ。自分を貶めるのは、傍で見ていて見苦しいよ。」

 敷居を跨いで入って来た茜の姿が目に入り、一瞬珠美の眼は大きく開かれましたが、再び深く瞼を閉じて身を固くしました。

「みんな話したのかい。」

「いや、何も・・・。」

「あんたが言い難いなら、あたいが話してやるよ。珠美この方はね、都では名の知れた中臣鎌子の子息、藤原の不比等って、偉い御方なのだよ。あの龍の目の石を取り返す為に、此の房前に来たのさ。どうだい、本当なら身分の違いから近付けもしない御方とあんたは契ったのさ。だから、あんたは身を捧げて言う事を聞かない訳にはいかないのさ。此の御方と留吉は、龍と話す海女の娘の噂を都で聞いて、海女の娘に珠を奪わせる為に遣って来たのさ。どうだい珠美、遣って呉れるだろ、あんたにしか出来ない技さ。」

 珠美は、頬を地面に着けたまま、瞼を強く閉じていましたが、戸口から射し込む朝日の眩しさが、瞼を透かして赤く染まるのが感じられました。小鳥の囀りが聞こえて来て、いつもと変りない朝が訪れているのが分かりました。

しかし、自分達にはいつもと違う一日が始まって居るのが悲しくもあり、どうしてこうなってしまったのかを考えると息苦しくなりました。

やがて、痺れを切らした藤吉は、納戸に有った縄で珠美を縛り、足で大きく蹴り倒すと音を立てて戸板を閉めて出て往きました。遠ざかる話し声に、三人目の聞いた事の無い声が混じっているのを感じながら、溶けて行く緊張感と共に押し寄せる深い眠気の中に、珠美はいつしか意識を失くしていきました。

 

 母屋に戻って土間に上がった藤吉は、大きく溜息をつきました。藤吉に付いて土間に上がって来た茜は、微笑みを浮かべて慰める様に言いました。

「大丈夫だよ。もうすぐ都に帰れるよ。あたいに策(  さく )が有るんだよ、上手くいくよ。しかし、不比等様。雨の夜に珠美は龍に逢いに行くって、何年も前から注進していたのに、今迄何で珠美を放っておいたのだい。」

 茜は藤吉の隣にしなだれて腰を下ろし、藤吉の沈痛な表情を覗き込みました。

「俺には・・・、分からないのだ。何故こんな風に成ってしまったのか。中大兄様に奉じられた命しか頭に無かった筈なのに。」

 茜は呆れた様に目を背けると、土間の鴨居に止まった八咫烏を見上げました。八咫烏は冷たく言い放ちました。

「お前の世迷言を聞くために此処に居る訳では無い。都では改革の後に必ず起こる不穏な風が吹き始めて居る。お前を、早く都に戻さねばならん。自分の心の闇は、受け入れる事でお前を強くするのだ。捨て置け。」

 茜は、八咫烏を手で制すると立ち上がり、塞ぎ込んだままの藤吉と八咫烏に訴え掛けるように強い調子で話し始めました。

「良いかい、今日の夕刻に海女達が岸に上がったら決行するよ。新珠島に珠美を連れて行き、縄を掛けたまま海底に沈める。あの娘の意思など待っては居られないからね。珠美を餌に龍を誘き出し、助けようとする龍からあたいが目の玉を奪う。海面にあたいが見えたら八咫烏、後はあんたが珠を受け取って都に飛んでおくれ。不比等様は房前の岸から一部始終を見ているだけでいい。その様子じゃ、邪魔にしかならないだろうからさ。それで、八咫烏が首尾よく飛び去ったら、あんたは陽太郎(ようたろう)を連れて都に逃れておくれ。」

「茜は、その後どうなるのだ。」

 黙ってただ聞いていた藤吉は、顔を上げ不安気に問い掛けてきました。

「あたいかい。あたいは、何とかもう片方の目の珠も奪うつもりさ。あんた達を追えない様にする為にね。」

「そんなに上手く行くまい。死ぬぞ。」

「死んだって良いのさ。あんたさえ陽太郎を都に連れ帰り、立派な武官にしてくれたら。龍を道連れに、命を落としても悔いは残らないのさ。」

 突然、八咫烏が大きく翼を羽搏かせ、茜の言葉を遮りました。

「それは、駄目だ。貴女と龍を会せては、何がまた起こるか分からない。ツクヨミ様もそれを一番恐れていました。私が、式神を使って誘き出した亜奴を仕留めます。貴女も不比等と陽太郎と共に都に行かれませい。」

「八咫烏、お前の苦慮する処も分かるが、彼奴との長きに渡る因縁を、此の期に絶たねばならないのじゃ。それが、愛しき弟に対する報いとなる。」

 藤吉は小刻みに震えながら慄き、声を絞り出すように発した。

「茜・・・お前は、一体・・・何者。」

 茜は、怯える藤吉を見下ろして、更に優しく微笑む様に語り出しました。

「唯の海女だよ。ただ、あんたのお蔭で古の自分が誰であったか思い出しただけだよ。あんたとの間に陽太郎を孕んだ時、自分の中に息衝く魂の叫びが、全てを心の中に映し出してくれた。八咫烏の助けも有ったけどね。留吉には可哀そうな事だったと思うよ。でも、不比等。全ての業は、宇宙の風が生むもので人が関与出来るものじゃない。神だって立ち入れないのさ、あんたとの間に生まれた陽太郎は都に行き、此の国を動かす男に成る定め。あんたには、その役目を果たす定めが有るのを忘れないでおくれ。」

 藤吉は激しく首を振って、憎々し気に茜と八咫烏を睨み付けました。両手の拳は血が滲むほど握り締められておりました。八咫烏はその拳を冷ややかに見詰めて言いました。

「今、心の中で自分も珠美も留吉もただの駒なのかと叫んだであろう。勘違いするな、お前達など駒ですら無い。路傍に立つ道標だ。俺達の役に立てただけ有難いのだ。この宇宙に於いて人間は、スサノウが予期せず無造作にばら撒いた塵に過ぎない。」

「何だと。」

 藤吉は、奥へ走り込んで太刀を掴んで戻ってきました。鞘を握り締めて八咫烏ににじり寄って行きました。

「まさかとは思うが、留吉が命を落としたのは龍と戦っての事では無く、よもやお前たちの仕業なのでは在るまいな。」

 茜は場違いな程の高笑いをしながら、媚びる様な妖艶な眼差しを藤吉に向けたまま、舞う様に近寄ってきて、手を掛けた鞘に袖を絡ませ、太刀筋を絶つ様に振舞って言いました。

「何を仰います、不比等様。私が、貴方様を誑かしたとでも言いたいのかしら。留吉は、心底私に惚れていたのですよ。国に残した妻子を忘れる程にね。なのに貴方様が私に手を掛け、子供まで孕ませた。留吉は、悩み苦しんでいましたよ、貴方様の所為でね。」

「俺の所為だと。」

「ほらね。そんな事も分からないから珠美だって自分の女に出来なかったのよ。国に残した妻と子供に対する罪悪感と、そこまでして娶った女を主人に奪われる自己嫌悪。此れからの自らの行く末を見失った失墜感。自害するしかしかないじゃありませんか。」

 その時、母屋の戸口付近で木片が裂ける音が聞こえました。茜と藤吉は身構え、八咫烏は天井を突き破って母屋の外に飛び上がり、聞き耳を立てた者の正体を突き止めるべく宙から見渡しました。

砂地を一心不乱に掛け去る少年の姿が見えました。暫く上空から様子を伺い乍ら追って居ましたが、見た事の無い少年だと思った八咫烏は、母屋に引き返そうとした時、ふとある懸念に速度を上げて納戸目掛けて飛びました。

八咫烏は不安が的中している事を知りました。縛り付けていた筈の珠美の姿が、切れた縄を残して納戸から消えていました。耳を劈く程の高い鳴き声に駆け付けた茜と藤吉は、呆然と無人になった空っぽの納戸の中を見詰めて動けなくなっていました。

         ★

 珠美は納戸から出て、海とは反対側の南方の山に向かって走りながら、暁より次々と自分の身の回りで起きた目まぐるしい出来事の数々を、整理出来ずに居ました。

そして虚ろな意識の中に突然飛び込んできた声、自分を信じて付いて来てくれという声。目覚めた時に縛られた縄から解放されていた自分。縄を齧ったと思われる耳の無い白兎。

 それは青龍が昨夜、話の中で触れた因幡の兎に違い無いと思いました。しかし、遠い因幡の兎が何故に自分の元に居て、自分を助けようとしているのか、珠美には分かりませんでした。ただこの兎から悪意は少しも感じらませんでした。

目前を飛び跳ねて行く奇妙な後姿を追いながら、珠美は節々の痛みを堪えながら走っていました。

時折脳裏を過る藤吉の苦悩に歪んだ表情が、何故か瞼の裏側に何度も繰り返し浮かび上がり、行く当てのない自分が何処に逃げているのか問い掛けて来て、藤吉への説明の出来ない未練が足元を鈍らせていました。

あの人は、やはり苦しんでいた。でも、その苦悩の源の中に自分が存在しているとは少しも想像していなかった。ならば何故、あれ程までに自分を突き放し、茜を留吉から奪って子まで身籠らせたのだろう。拳を振り上げ続ける藤吉の中に住む私は、一体何を彼に囁き続けたのだろうか。

 芽吹いて行く卯月の春めいた木立を抜けて、珠美は兎と共に海岸を見渡せる丘の上に出ました。遠く聞こえる海鳥の鳴く声と、春霞の渡る穏やかな志度ノ浦には、点在する白い衣と波に揺れる磯桶、見守るように海面から突き出した新珠島がいつもと変わらぬ風景を見せていました。

「此処なら取り敢えず大丈夫だと思う。空だけを見ていてくれ。あいつは空から探しに来るだろうから。」

 珠美は驚いて足元の兎を見詰め、屈み込んで兎に話し掛けました。

「あなたは、人の言葉を使えるのね。」

「いつだって俺達生き物は喋っているのさ。でも人間の耳には聞こえないらしい。あんたは、聞く事の出来る者らしいな。最近だと、大和の都で俺の言葉に反応した面白い男が居たなあ。」

「青い龍に聞いた話だと、貴方は因幡の兎だと聞いたのだけれど、何故讃岐に居るの。それに・・・どうして私を助けるの。」

 白兎は空の監視を怠らず、絶えず見渡しながら言葉を返してきました。

「あんたの事は、此処に来て初めて知った。因幡の海岸で知り合った子供が、行方知れずの父を探す旅に出る時に、子供を守護する為に、同行して此の浦に辿り着いた。そしたら突然俺は出くわしてしまったのさ。海から上がって来た赤い鬼に・・・。激昂した赤鬼は、擦れ違いざまに俺を思いっ切り突き飛ばして、集落へと向かっていた。その時、俺はその鬼が誰なのか気が付いたのさ。それで、慌てて追い掛け飛び付いて、耳元で大声を出してやった。私は因幡の兎です。いつか助けて頂いた兎です。ってね、そしたらやっと動きを止めて俺を見て呉れた。それから俺が説き伏せて、代わりに娘を助けるから、その姿を人間には見せない方が良いって納得させたのさ。」

「どういう事。赤鬼は、誰だったの。青い龍と関係の有る鬼なの?」

「その青い龍が、赤い鬼なのさ・・・って、俺も正直驚いたがね。聞いた話じゃ、自分でも変化する肉体の因果律は分からないらしい。ただ、話を聞いていて思ったのは、元来、魂自体が悲憤慷慨の塊で出来ていて、悲しみが籠れば龍に成り、怒りが激すれば鬼って事じゃないかと感じた。でも、ちょっと鬼の方は厄介だな・・・。」

「で、その鬼は今何処に?海に帰った?」

「此処に居るよ。」

 珠美の背後から声がして、驚いて振り返った彼女の目に映ったのは、何処から見ても鬼とは似ても似つかない青年の立ち姿でした。

目鼻立ちの整った色白の青年は、長い黒髪を左右耳元で結び、見上げる程の高い背丈から見下ろし珠美を見詰める瞳は、赤茶色を輝かせておりました。凛々しさの中に寂しさを孕んでいるような、虚ろな印象を受けましたが、衣を着けてない上半身に、巻き付けられたような筋肉の猛々しさからは、鬼を感じさせられました。

「貴方は鬼?あの青い龍なの。」

「どうも、そういう事らしい。良かった、君が無事で。あいつに酷い目に会って居るのじゃないかと気が気じゃなかった。」

「何だか信じられないけど、今は全てが、夢の中の出来事のようにしか思えない。」

 青年は、頷いて珠美に座るように促しました。そして兎に何かを目で指示すると、珠美の隣に同じ様に腰掛け、海を眺めながら静かに話し出しました。

「今夜、月が此の浜を青く照らす時、おそらく僕達の最後の時が始まる。楽しかった君との逢瀬も二度と思い出せなくなる。だが、絶望するのは無意味な事だと知っている。この世のありとあらゆる生命は、心と云う魂で包まれている。その心は、他の全ての生き物達の生命と繋がって、クルクルと廻り続ける。

山肌に湧いて来る雫は、集まって川に成り、川底の小石をコロコロと廻し乍ら海に注ぐ。海は風に乗って雲を作り、山に雨を降らせる。そして、また雫となって集まる。僕達はみんな、その雫であり小石で在るのだよ。君と僕は、前世で何度も出会っては、悲しい別れを繰り返してきた。おそらく此の後の世でも繰り返すのだろう。僕達は今の世を生きている。前世を引き摺ったまま、因縁への拘りを捨てられない者は哀しい。僕はこの世の君を愛した。未来と過去の間に存在するものは今という時間ではない。永遠という絆なのだ。」

「昨日の夜、あたいに再会と言ったよね。前世のあたいは、貴方に問ってどんな存在だったのかしら・・・。」

 青年は、頭上高く形を変えながら流れて行く雲を見上げました。

「とても大切な存在だった。」

「そう。大切な存在で居られたのね・・・あたい。良かった。」

 珠美の目から零れ落ちて行く涙の雫が、襟元を濡らせていきました。

「最近同じ悪夢を見ると、いつか言っていたよね。」

 珠美は、袖に顔を埋め涙を拭って顔を上げました。

「うん。でも、あたい話したっけ?」

「いや、新珠島の上で海女達に話しているのを海の中で聞いていた。島の突端に八咫烏が数日止まったままで居るのが気に成って、島の海底に身を潜めて状況を伺っている時、偶然耳に入った。驚いたけど、面白い話だった。あの夢は、貴女がこの浦に来る事と成った、未来の出来事だったと思う。」

 珠美は、眉を顰めて青年の顔を覗き込み、怒ったように言いました。

「変な事言うのね。前世の記憶?それとも未来に起きる正夢って事。」

「未来が有って、今が有って過去が来るなんて不思議な事じゃない。ただ、君には言って置きたかった。それは悪夢ではなく、繰り返されるのは忘れちゃいけないからだって。」

 そう言うと、青年は立ち上がって珠美を見下ろしました。青年の表情から、いつしか微笑みは失せており、瞳の中には深い悲しみに沈んで行く影が映り込んで居ました。

「私は行くよ。全てが終わるまでは、決して浜には下りて来ないと約束してくれ。因幡の者よ、後の事頼んだぞ。」

 青年は、叢を蹴散らしながら浜へ向かって走り出しました。一度だけ振り返り手を振って大きく叫びましたが、何を叫んだのかは珠美の居る処までは、風に邪魔されて聞こえては来ませんでした。

しかし、珠美は青年の唇がサヨナラと動くのを感じていました。

         ★

 瀬戸内海の蒼が沈んで行き、天空で時を数える茜色の雲も、深い青に染まり始めて居ました。

海鳥の騒めきも遠く、潮騒の高まりと共に満ちて行く砂浜の波打ち際に、三人は立っていました。不比等と茜、そして茜に手を引かれた五歳を数えたばかりの陽太郎でした。山に隠れた夕陽の漏らす赤い光線が、新珠島の頂に止まった八咫烏を赤く不気味に照らしているのが見えました。

「良いかい。手筈通りに事を運ぶよ。あんたと陽太郎は、此処で手を出さずに見ていて。陽太郎、父上の手を離すのじゃないよ。分かったかい。」

 幼い陽太郎には、何が始まるのかを理解出来ませんでしたが、母親の表情から伝わる恐ろしい予感に、止まらぬ全身の震えを抑えるかのように母親の手を強く握りしめました。茜は優しく微笑んでその手を離し、不比等の手を握らせました。そして、眉を顰めて無言で立っている不比等の目を覗き込むと、下唇を強く噛み、不比等に威圧的な視線を送ると海へと入って行きました。

遠ざかる母親の姿に、陽太郎の握り締める小さな手の平が汗ばんで行くのを感じた不比等は、応える様に強く握り返しました。

 茜が新珠島に泳ぎ着いた時、東の空に小さな満月が浮かび上がっているのが見えました。

「アマテラス様、どうも様子がおかしい。」

 茜は濡れた髪を束ね直しながら、怪訝そうに島の頂を見上げました。

「あいつの気配が、何処にもない。無いだけなら良いのだが・・・別の何かを感じる。」

「別の何か?」

「心配は要りません。ツクヨミ様も直に来られましょう。何が起ころうとも我々を阻む事は叶いますまい。」

「要するに、今、海底に居ないという事なの。もしや逃げた・・・。それか珠美と共に、何処かに潜んで居るかもしれぬな。」

「それは、彼奴の性格からして、考えにくいと思われます。何としてもクシナダを巻き込みたくない筈。クシナダを何処かに隠して、我々と戦いを決すると思われますが、間もなく月も頭上にて完全体となります。ツクヨミ様に力を借りるが良いかと思われます。」

 茜は、夜の闇に輝きを増していく満月を見上げて、深い溜息をつきました。

「そうね。でも・・・月と私とは真逆の者。ツクヨミが現れたら私の力は半減されてしまう。その前に決着を付けたかったのだけど。」

「心配無用。私が居ます。」

「お前は、眼石を運べば良い。兄弟喧嘩に首を突っ込む事は許さぬ。いざと成れば、この海水を私の血で染める。そうすればスサノウの力も封印して、力を抑える事が出来る筈。あの子は昔から、血を見るのが苦手な泣き虫だったからね。」

 茜が頬を緩めて微笑みを浮かべた時、波打ち際の岩を叩く波の音に交じって、波を受けて上陸しようとする何者かの気配を感じた。茜と八咫烏は、一気に全身を貫く緊張に身を固め、辺りを伺いました。

「しまった。そうか・・・・。」

 八咫烏の呻きに近い声に茜は更に身構え、

月影の中を近付いて来る気配に目を細め、闇を伺って居ました。そして、その者は月光を浴びて茜の前に姿を現しました。

「待たせたね。姉者、お久しぶりです。僕ですよ。スサノウです。」

 目の前に現れた逞しい青年を眩し気に見遣りながら、茜、いやアマテラスは口を開きました。

「その姿を見るのは本当に久しぶり。その姿に戻るという事は、戦わずしてその眼石を私に差し出す覚悟が出来たって事ね。」

 スサノウは石場を渡りながら、頂の八咫烏を目で確認しつつ、両者に背後を取られぬ様に距離を置いて、茜よりも少し高みの岩場に立ち止まりました。

「最初から、私は戦う気など有りません。そもそも何故、私達姉弟が戦わなければならないのか、私には分からないのですから。そして、この両目を人間に与える意図も量りかねます。其処に拘る貴方たちの真意も。」

「教えたら素直に渡して呉れるのかしら。でも教えてあげる。姉の最後の言葉としてね。この倭の国は、ずっと昔から私の血を受け継ぐ者が、天皇と成り導いてきました。しかし昨今、その血は薄くなり革命の名の下に殺傷を繰り返す愚かな人間によって、血の系譜も絶えんとしているのが現状。その人間とは、即ちオマエの血を継ぐ者達の事です。父に追放され、根の国に現れたオマエが起こした過ち、それが人間だからです。私は、もう一度この国を基の姿に戻さねばなりません。オマエは此の国の姿が龍の形で在る事を知っていますか。この島国を龍の形に作り替えたのも私です。オマエが此処に居る事を、宙の全ての意形に知らしめ封印し、他の次元への逃避を拒む為です。常に先々に八咫烏を使い、月のツクヨミと陽の私の力で交互に監視しながら、弱体化させ結晶化させて、母の元に送る為に。ところが、それが出来なかった。その眼石の魔力の所為で・・・。その石は何処で手に入れたのじゃ。隻眼に成った時に、我々は強まる封印力を感じて、全てを悟る事となった。今こそその両目の石を奪い、我子を都に遣わし、運命に従い天皇とし、我血でこの大地を塗り替えるのだ。」

 スサノウは、目を閉じて軽く息を吐きました。

「姉者、何故にそれ程までに人間を忌み嫌いますのじゃ。」

「人間は、常に悲観し落胆を繰り返す。そしてその度に憎悪し、自らが吐く虚言に囚われ嫉妬をばら撒き、弱者を積み上げ天に近付こうとする。そのように問うオマエも人間を肯定する者では在るまい。私と同じ思いである筈じゃ。」

「人間とは、愚かな生き物です。呆れる程愚かで厄介な者達です。知っていますよ。私も好きか嫌いかと問われれば、決して好きではありません。しかし姉者、あなたは知らないのです。御覧なさい。対岸で苦悩に歪んだあの男の顔を。」

 アマテラスは、横目に砂浜を眺めました。月の光に煌々と照らされた砂浜に、立ち竦む不比等と陽太郎は生気の失せた石像の様に、まるで景色に不釣り合いな存在に見えました。

「あの人間は、何故にあれ程までに怯えているのか、想像出来ますか。」

「あれは、オマエを過大評価している故であろう。私が何者かを知らぬ故に怯えているのだ。」

「貴女には、そうとしか映らないでしょう。

では、あの男が珠美に拳を振り上げる本当の訳をご存知か。」

「オマエの言いたい事は分からんが、不比等は早く都に石を持ち帰りたくて、苛立って居った。それ以外には意味は無い。」

 スサノウは、足元を見遣り二者から少し距離を取りながら、瞳に光を湛え微笑みました。

「貴女には、分からない。それは貴女の持っていない物だから。先程、この眼石の由縁を貴方は私に尋ねられました。しかしこの石は、そもそも人間から貰った物なのですよ。」

「なんじゃと。何処にその人間は住んで居る。その石を造形出来る人間が居るのか。」

 スサノウは、大声を立てて笑い出し、身体を逸らしながら、更に距離を離しながら狂ったように笑い続けました。その突然の狂乱をアマテラスは唖然として見守り、頂の八咫烏を垣間見ました。

八咫烏は全身の毛を逆立てたまま、辺りに盛んに気を吐いて居り、スサノウとアマテラスの方には注意を払っていない様に見受けられました。その怪訝な状態とスサノウの不可思議な言動とに、アマテラスは落ち着きを失っていました。

「止めるのじゃ、スサ!何がおかしい。止めろ。」

アマテラスの叫び声に反応して、スサノウは背後の岩場に飛び移りました。そこは、背後に海原を望んだ最後の岩場でした。

「姉者、貴女は恋という言葉をご存知か。この地上のありとあらゆる生命が持たず、人間のみが持つことの出来る感情。これが恋です。恋が生まれる為に、人間は苦しみ葛藤を繰り返し、他人を憎悪するのです。貴女が知る愛とは別のモノなのです。しかし、人間はやがてその苦しみの果てに往き付くのです。これもあなた方の知らぬ感情、優しさという感情にね。宇宙の真理上存在しない筈の、この不条理な恋と苦悩と優しさという命を突き上げる感情が、あの男の中に心として生まれ、苦しめ続けているのです。それこそが、この石が私の眼の中に誕生した因律なのですよ。」

「馬鹿な事を・・・。」

 言いかけたアマテラスに片手を上げ、スサノウは飛び上がって海に飛び込もうとしました。

その時でした、時が刻む針を見失ったかのように、スサノウは宙に浮いたまま突如蒼き強烈な輝きの中に包まれ、周辺に放射される光の帯が不規則な蠢きを見せながら、暗い海上に青白き光の渦を放っていました。

アマテラスは眩しさに両手を翳して、スサノウが青龍に変態するのかと身構えましたが、直ぐに光の発光源に気が付き、天を見上げました。

志度ノ浦の天空に満ちた月より降り注ぐ光波が、潮が引く行くようにその範囲を窄め、その全てをスサノウに集中させようとしていました。

 

 丘の上より状況を望んでいた珠美と白兎は、天空に浮かんだ見慣れた月面から、真っ直ぐ新珠島に向かって狭められて行く月光は、まるで世界を分断し、取り込もうとしているかのように見えました。

そして、その中心に宙吊りの状態で捕らえられている青年の肉体が眩い程に発光し、新珠島周辺の海面を銀色に変え、波を激しく踊らせる光景に息を飲んでいました。

その時、白兎が舌打ちをして坂を駆け下りて行く気配に、珠美は視線を砂浜へと下げていきました。光に照らし出された砂浜に二人のシルエットを見付けると、珠美は無意識のうちに足が砂浜へと向かって進んで行くのを止められませんでした。

月光に閉じ込められたスサノウは、必死に逃れようと抵抗しましたが光の縄は固く、縄を伝わって全身に流れる強烈な痺れに、断末魔の悲鳴を轟かせました。その轟きは島の斜面を激しく震わせ、スサノウは意思に反して肉体の変態が始まっていくのを感じました。

 巨大化する筋肉と皮膚に浮き上がって来る宝石の輝きに似た青緑の鱗。金色に変色する頭髪は、背筋を伝って尾を形成しながら伸び広がって行き、同時にこめかみからは銀色の角が鋭く反り生えていきました。

完全に青龍に変化したスサノウは、更に肉体を縛り付けて来る月光の呪縛に、悲痛な咆哮を上げながらも、未だ動けずにいました。

「今だ、アマテラス。双眼共に奪い取ってしまえ。」

 ただ傍観していたアマテラスは、その声に我を取り戻して深く頷きました。そして島の頂の八咫烏に叫びました。

「ツクヨミがスサを封印している間に奪うよ。手筈通りに頼むよ。」

 ところが、八咫烏は全身の毛を逆立てたまま、ずっと動けずに居たのでした。

「アマテラス様、状勢が不利だ。一旦、逃げて下さい。最初から感じていた不思議な気配の正体が、やっと分かりました。岸へ。」

「何を言い出す。何の気配だ。私には感じないが、このまま引く事は出来無い。今しか無いのじゃ役立たずめ。仕方がない、私独りでも成し遂げる。」

 アマテラスは、目の前に垂れる青龍の尾に飛び付きました。金色の毛髪を掴み、鱗に足を掛けて頭部へと攀じ登っていたアマテラスは、一瞬視界を過った景色に何処か違和感を覚えて、ふと動きを止めました。対岸の砂浜に五人の黒い人影が認められたからでした。しかし、動きを止めたと同時に八咫烏の激しい鳴き声が響き渡り、全身を走る悪寒に下を見下ろした時、アマテラスは信じられないような光景を目にしました。

新珠島の表面を覆った岩場が動き出し、四方の窪みから数えきれないほどの蒼い眼光が、アマテラスを見上げていたのでした。

「これは・・・。」

 足元に展開する摩訶不思議な光景と砂浜に見た不吉な予感に、アマテラスは戸惑いながら、自らの判断を付けかねて居ました。

「アマテラス様。」

 気が付くと、八咫烏が目の前を横切り、月光に触れない様に羽搏きながら言いました。

「あれは鰐です。この島は竜宮を守る鰐達の塚だったのです。今まで気配を消していて気が付くのが遅くなり申し訳ありません。スサノウに危機が迫った事により、あいつが掛けていた封印が解けたのでしょう。アマテラス様がスサノウの鬣に触れた御蔭で、俺も鰐塚の呪縛から解放されましたよ。さぁ、一気に事を終わらせましょう。」

 改めて見下ろしたアマテラスは、堆く積み上がった鰐達が編隊を変え、縛られた青龍に向けて、四方から長い塔を作り始めて居るのを見ました。

「八咫烏。先程の言葉を撤回してすまんが、スサノウはお前に任せる。どうにも砂浜の様子が気に成るのじゃ。一度岸に戻って、確認終えたらまた戻って来る。」

「任せて下さい。今のスサノウなら赤子の手を捻るようなものです。この鰐達も所詮、俺の敵ではない。それに貴女も長く月光の中に居ない方が良い。」

 アマテラスは再び、砂浜の様子を伺いました。

「あっ。あの小僧は・・・。」

 八咫烏も対岸の異変に気付いて、驚いて叫び声を上げました。

「あの小僧は、母屋で儂達の会話に聞き耳を立てていた子供です。何故、あそこに居るのだ。あっ、それにあいつは・・・何故彼奴までが此処に・・・。」

 次の瞬間、アマテラスと八咫烏は、少年の影が太刀を構えて走り出したのを見ました。そして、その気配に気付かず此方に見入った不比等の背後から、その太刀は振り下ろされていきました。

少年の奇声に気付いて、咄嗟に身を躱した不比等に腕を引かれた形となり、陽太郎が真っ直ぐに太刀を全身に受けるのを見ました。

「陽太郎!」

 アマテラスは、躊躇する間も無く海中に身を投じていきました。

それと入れ替わるかのように海中より無数の青鬼が金棒と共に姿を現し、次々と鰐の背を伝って上陸してきました。そして、四個所に造られた鰐の塔を、一斉に攀じ登り始めました。

「そうか、俺を苦しめた気配の元凶は、この青鬼達だったのか。行かしてたまるか青鬼め。出でよ、式神達。」

 八咫烏が宙で大きく羽搏きはじめると、仰いだ風に乗って無数の白い羽根が海面に向かって放たれていきました。

するとその羽根は、全長二尺ほどの甲羅を持った大きな赤い蟹に姿を変え、鋭い二股に裂けた第一脚を動かして、上陸する青鬼達を次々と海へ振り落としていきました。抗戦する青鬼達の叩き付ける棍棒に甲羅を割られた赤蟹は、裂け目から新たな蟹を噴き出して複製させ、上陸した青鬼の数を遥かに超えた存在へと成って行きました。

そして、時を経て月光は更に鮮やかに光量を増し、海面に反射した波頭は瞬きながら魚群の様に飛び跳ね、鋭利な刃へと変身して空を舞い始めました。

際限なく海面を飛び跳ねる刃は、連続して青龍へと旋回し、次々とその胴体に突き刺さって行きました。胴体から飛び散る龍の体液は、呻き声と共に海中へと滴って行きました。

八咫烏は中空に羽搏き、式神を操りながら静かに機が熟するのを待って居りました。

 

 砂浜に上がったアマテラスは、睨み合った少年と不比等、そして不安気に二人を見守る珠美を尻目に、我子、陽太郎の傍に駆け寄りました。既に息絶えた陽太郎は、頭部から背中に掛けて大きく傷付けられ、大量の出血を砂地に広げて仰向けに倒れて居ました。

背中に腕を差し入れ、息せぬ顔面を胸に強く押し当て、掠れた声でその名を呼び掛けたアマテラスは、やがて静かに寝付かせる様に砂地に戻すと、小刻みに体を戦慄かせながら立ち上がって唸り声を立てました。

「おのれ、許さぬ。お前が誰であろうとこの報いは受けてもらう。」

 振り返った形相は激しい憎悪に燃えていました。髪を逆立て、吊り上がった両目の眼光厳しく、眉間に縦に走った皺から発せられる、悍ましい気に辰巳は尻餅をついて後退り、珠美は悲鳴を上げました。

「ま、まて、茜。この子は留吉の実子なのだ。父親を追って来たらしいのだ。俺達が殺したと誤解しているだけなのだ。」

「黙らっしゃい。」

 慌ててアマテラスに駆け寄ろうとした不比等は、アマテラスの薙ぎ払った右手の勢いに、仰け反って倒れ込みました。

「何が誤解なものか。俺はちゃんとこの耳でお前たちの話を聞いた。よくも父ちゃんを騙して殺したな。俺は許さねぇ。」

 必死に自らを奮い立たせようとした辰巳も、全身に覆い被さる恐怖から来る震えからは逃れられず、砂に突き立てた太刀にしがみ付いて動けずに居ました。

「黙れと言うのが分からぬか。この愚かな人間め。お前の父親は、役立たずだから勝手に死んだのだ。お前が手に掛けたこの陽太郎には定められた大切な役目が有ったのに、お前のつまらぬ感情で全てを台無しにしてしまった。もう取り返しはつかない。こうなってしまったからには、この世の全てをやり直すほかない。」

 アマテラスは両手を高く天に翳し、深く目を閉ざして呪文を唱え始めました。ふと五つ目の影の存在が頭を過りましたが、愛しき我が子の面影が塗り潰していき、更に声を高々と上げて唱え続けました。

呪文が続くにつれ、地上は押し寄せる豪風に砂が舞い上がり、星屑を隠すように四方から雪崩れ込む墨色の雲が天空を埋め尽くしていきました。

 砂塵の中で、辰巳も不比等も、そして珠美も目を開ける事が出来ず、口元を両手で覆って蹲っていました。海沿いの松原から折れた松の枝が、時折風を切って飛んできましたが彼等はそれさえ確認できる状態にありませんでした。

  

 新珠島上空で月光に呪縛されながらも、青龍は砂浜での異変を目で追っていました。

幸か不幸か、アマテラスの引き起こした天変地異によって、月光の生み出した刃の攻撃が止み、砂に淀む大気によって月光が弱まって行くのを感じました。

自分の体表では、青鬼達が懸命に鱗にしがみ付き、這い登って来る蟹を振り落とす形勢も、変化し始めているのが分かりました。

「世話を掛けた青鬼。もう私は大丈夫だ。」

 青龍の叫びに青鬼達は驚いて、一瞬手を止めて青龍の頭部を見上げました。

「その言葉、待ち焦がれたぞ。」

 先頭で指揮を執っていた頑強な体格の青鬼は、棍棒を振り上げて歓喜の声を上げました。

「姉者をこのままにはしておけぬ。止めねばならん。八咫烏!近くに居るか。いたら返事しろ。」

「何だ。覚悟を決めたのかスサノウ。」

 砂塵の嵐の中から、声だけが聞こえて来ました。

「今は、アマテラスを止めるのが先であろう。このままでは、この地はまた光を失う事になるぞ。」

「なるだろうな・・・。しかし、もう誰にも止められぬ。しかも、前回とは状況が違う。

あの時は、一卵性双生児として生まれてきたアマテラスとツクヨミを、無理矢理に切り離そうとした父親イザナギから逃れる為に、アマテラスは洞窟に身を隠した。俺が洞窟を突き止め、イザナギがツクヨミを切り離し、影として夜へと放った。そこまでは完璧だったのに、ツクヨミが遠ざかるまでの時間稼ぎの役を、イザナギはお前に負わせた。・・・お前が誤算だった。何も出来なかったお前の所為で、アマテラスは半身を奪われた怒りに、岩戸の呪いを使い始めた。結局、ツクヨミが七度沈むまで怒りは収まらず、アマテラスを説得したのは俺達ではなく、イザナギだったじゃないか。今、アマテラスが天岩戸を使おうとしているのは、洞窟の中では無い。俺等では止められぬ。しかも、ツクヨミまで近くに居る。」

「だから、今度こそ私が姉者を止める。天岩戸が落ちてしまう前に手を打たなければ。手を貸せ。八咫烏、兄者を遠ざけて呉れるだけでいい。」

「馬鹿を云うな。本気で俺が手を貸すと思うのか。甘いぞ!スサノウ。」

 八咫烏は、突然砂塵の壁を突き抜けて、青龍の顔面に姿を現しました。そして、そのまま青龍の眼石に飛び付くと、嘴を裂けるほど開口して抜き取りました。

「取り敢えず、これは頂いて行く。」

「させるか!」

 頭部まで素早く駆け上がった青鬼の頭は、棍棒を激しく八咫烏に叩き付けました。

しかし、一瞬早く八咫烏は飛び上がり、眼石を咥えたまま逃れて行きました。

「すまねぇ、ヤマノモノ。もう少しのところで逃してしまった。」

「気にする事は無い。そんな事より少しでも早く、私から遠く離れていてくれ。此処に居ては危険だ。誰も巻き添えにはしたくないのだ。」

「俺達に出来る事は無いのか。」

「自分がしでかした事の始末は、自分で決着を付ける。その上で、後の事は頼んだぞ。」

「分かった。その件は、承知している。」

 青鬼の頭は、他の鬼達に号令を掛けると、青龍より海に身を投じました。それを追って他の鬼達も次々と海に飛び込んで行きました。

八咫烏が去った所為か、蟹は動きを鈍重化させており、新珠島の表面で折り重なった鰐達の餌食となっていました。

 青龍は、砂塵に遮られた景色の中で、珠美の気配と白兎の気配だけに神経を集中させた後、全身を真っ直ぐに宙に立てたまま、水平に回転をし始めました。砂色の空中に新たな蒼き渦を生み、水色の旋風の軸と成った青龍は全身を覆った瑠璃色の鱗を逆立て、やがて四方にその輝く鱗を放射状に放ち続けました。そして、全身の鱗を失った青龍は、回転を止め頭から海中深く飛び込んで行きました。

 強風に掻き集められた分厚い雲は、天空を重く敷き詰めて天空を埋め尽くしていきました。その雲はやがて岩石へと形態を変化させ始め、岩と成った雲同士が擦れ合って削れた破片が、雹の様に地上へと降り注ぎ出していきました。

 鋭利な石礫に見舞われた地上では、次々と家屋が崩壊し、絶え間なく聞こえる悲鳴と断末魔に埋め尽くされていきました。砂浜に蹲った三人も、風に交じって聞こえてくる阿鼻叫喚にガタガタと震え、全身を包み込んで来る恐怖感に顔を上げる事も出来ず、ただ耳から聞こえてくる惨劇を想像して居ました。

「愚かなる人間達よ。根の国に放たれたスサノウが放った怨念より湧いて出た者達よ。スサノウを呪うが良い。生まれて来た事を悔やむが良い。お前たちは、生を受けた時より呪われて居る事を知るが良い。お前たちの中を流れる赤い血潮は、スサノウによって食われたこの地球の真の在者の怒りで満ちて居る。今こそ土に還って彼らにその血を吸わせろ。」

 天に浮かんだ岩盤が、一斉に角度を変え地表に対して垂直に向きを変え始めました。

その時、アマテラスの耳に砂嵐の音を掻き消す、地鳴りを伴ったけたたましい海鳴りが聞こえて来ました。海を振り返ったアマテラスの目に、海原に立つ六本の大きな水柱が映りました。

大量の海水を巻き上げながら巨大化していく水柱は、天にも届こうかとする勢いでうねり乍らアマテラスの居場所に向かって来ていました。

「スサノウの仕業か。」

 眉を吊り上げ、唇を噛み締めたアマテラスは、天に再び両手を翳し叫びました。

「天岩戸よ。この地を闇に包め!」

 垂直に浮かんだ巨大な岩盤群が、一斉に地面に向かって降下を始めました。

同時に六本の水柱が海原から砂浜を駆け上がり、四人を六辺に取り囲む様に位置しました。先端の渦はその円周を広げて重なり合い、やがて一つの渦と成りました。

まるでそれは砂浜に建てられた、海水で出来た東屋のようでした。

渦巻きながら聳え立つ、六本の水柱が撒き散らす水滴は、横殴りの雨の様に大気中を交差し、砂塵を洗い流していきました。天より崩れ落ちた岩盤は、東屋の天井に渦巻く海水の壁に砕け散りました。水飛沫に洗われた辰巳と不比等は、濡れた手の甲で目を擦って顔を上げました。

「なんと悍ましい魔力。茜、お前こそ討伐されるべき怨霊。私がこの場で成敗してくれる。」

 不比等は、濡れた砂浜を走り出し、辰巳の傍らに突き刺さったままの太刀を引き抜くと、アマテラス目掛けて突進していきました。しかし、刃の先端がアマテラスの腹部に触れた瞬間、不比等は三丈程吹き飛ばされ、砂の上を驚愕のまま転がって行きました。

そして、何故か太刀の柄はアマテラスの右手に握られていました。

「無体な事よのう。」

 アマテラスは吐き捨てる様に言うと、手にした太刀を倒れた不比等に向かって軽く放り投げました。

すると太刀は二人の中間の宙に留まり、浮遊したまま刃の先端を不比等の胸元に向けました。たじろぐ不比等は、黒い砂に塗れた顔を恐怖に歪めて、仰向けのまま逃れようと懸命に身を捩りました。

次の瞬間、アマテラスは瞼を見開き、自らの全神経を妨害してくる異様な気配に総毛立つのと、太刀が不比等に向かって宙を滑り出したのは、ほぼ同時でした。

そして、アマテラスが次に眼にしたのは、不比等を庇って飛び込んだ珠美と、彼女の胸を貫いた太刀から吹き上がる真っ赤な血潮でした。

「何!」

しかし一番アマテラスを驚かせたのは、どこから湧き出たのか、取り囲む六本の水柱の間をいつの間にか無数の白兎が埋め尽くし、それぞれに何かを頭上に翳して立っていた事でした。

それは、瑠璃色に輝く青龍の鱗でした。

ハッとして背後を振り返ってみれば、兎の群れが背にした海原は無数の鱗を運ぶ波が寄せ返し、発光する瑠璃色の輝きに満ちて居ました。

「しまった。間に合わなかった。」

 太刀の重みと尽きる魂に、膝から倒れ込んでいく珠美に駆け寄ろうとして踏みとどまった一匹の耳の無い白兎が、悔しそうにアマテラスを睨み付けました。そして、珠美と同じ様に全身から抜けていく力にへたり込む不比等は、譫言の様に言葉を繰り返しました。

「何故だ。・・・何故だ・・・。」

 不比等は放心状態に陥ったまま、小刻みに震える指先で珠美の乱れた髪に手を添え、更に同じ言葉を繰り返しながら髪を撫で始めました。傍らで口を開けたまま状況をただ傍観していた辰巳は、はっと我に返って後退り急いでその場から逃れようとしました。しかし、目の前に飛び込んだ白兎は、眼光を青く変色させながら厳しく声を発しました。

「辰巳!逃げるな。最後まで見届けるのだ。自分の意思で飛び込んだ結果が招く連鎖を受け入れろ。これもお前の定めなのだから。」

「喋った!お前喋れたのか。」

「お前が、俺の声を聞き取れるようになったという事だ。留まれ。」

 そして、白兎はアマテラスの足元に飛び移り、見上げて語り掛けました。

「アマテラス様、スサノウ様から貴女様に伝言を賜って参りました。何卒御聞き下さい。この世には全能も絶対も無く、全ての命は風に漂う胞子であり、貴女も所詮は唯の胞子なのです。しかし、そのそれぞれが共鳴し合う微かな心拍音、混じり合う掠れた様々な彩の心模様、それこそが此の宇宙の誕生の源泉なのです。今から、破壊では無く回生の為の旅出をして頂きます。」

 白兎はそう言うと、他の兎が投げて寄越した鱗を胸に掲げて、アマテラスの顔に向けました。その鱗の表面には恐怖に凍り付き、充血した眼球を痙攣させるアマテラスが写っていました。

時を置かず、六本の水柱を繋ぐ天井の渦がその流れを止め、流水音が途絶えて一気に降り注ぐ静寂が、見上げる三人の心の中に呪縛を掛けて行きました。そして天に作られた大きな海水の溜りは、巨大な水鏡と成って地上を鮮やかに映し出しました。

アマテラスは自分を取り囲む全ての情景が其処に映し出されていくのを見て、恐怖に顔面を引き攣らせました。

「翳せ!合わせろ!卯のモノ達よ!」

 突如、青龍が水鏡の中に泳ぐ姿が映り、激しく絶叫する声が響き渡りました。

それを合図に、取り囲んだ兎の群れは手に持った瑠璃色の鱗をアマテラスに向けて翳しました。すると、その鱗の全ての表面にアマテラスの表情が写り込みました。と同時にその鱗は互いの鱗を映り込ませ、無数の合わせ鏡と成って、アマテラスが振り返る度に無数に広がって行きました。

「やめろ!やめてくれ!スサノウお願いだ。私が鏡の中で生きられないのを知って居ろうが・・・。助けておくれ。」

 アマテラスは天に向かって叫びました。

「姉者。知っていますとも。貴女は光なのですから、反射された光を取り戻す事は貴女自身の死を意味する。さあ、御覧なさい兄者の哀れな姿を・・・。」

 水鏡は透明に成って行き、アマテラスが岩に変えた雲は既に闇に溶け、暗黒の夜空を映し出していきました。

其処には瞬く星も無く、巨大な黒い球体が無様に浮かぶのみでした。

「ツクヨミ!何故にそのような姿になってしまった・・・その嘆かわしい姿は・・・。」

 アマテラスは悲鳴を上げ、目を逸らそうとしました。しかし、既に呪印に閉じ込められたアマテラスに、抗う術は有りませんでした。

「光を失うと影も失われます。貴女が天岩戸を使った所為で月は輝きを失いました。貴女は自分の怒りで、もう一人の貴方を殺してしまったのです。父はそれを恐れて太陽と月が出会わぬ様、遠ざかり過ぎぬ様、洞窟に閉じ込めて別々に解き放とうとしました。貴女は父の真意を理解出来ずに天岩戸を使った。愚かな人間も同じなのです。心の中に光と影を持ち、苦しみ祈り憎しむ。しかし、光が有るから影は生まれ、影が有るから光を感じられるのです。姉者、兄者、いずれ私も参ります。あの日に帰りましょう。」

「止めろ。スサノウ!宇宙の真理に関わる事は許されぬ。お前にも災いが見舞う事に成るのだぞ。よせ!やめろ!」

 アマテラスは、慌てふためき逃れようと躍起になっていましたが、激しく眼球を震わせるだけでした。

「卯のモノよ。飛ばせ!」

 天から轟く合図に従い、兎達は手にした鱗鏡を一斉に天の水鏡に向かって投げ付けました。するとアマテラス自身も飛んで行く鱗に操られる様に、水鏡に向かって一條の光と成って吸い込まれていきました。天空に浮かんだ漆黒の巨大な岩石も時を同じくして、音も立てずに崩壊し砕け散り、黒い雨滴と成って水鏡に降り注いで行きました。

やがて六本の水柱は水鏡の中に吸い取られていき、水鏡は大きな青白き球体へと変化していきました。そしてそのまま上昇を始め、砂浜で見上げる白兎から、豆粒ほどの大きさに見えるまで遠ざかっていきました。

そして、彼等が見守る中、闇が埋め尽くす不確かな夜空に、一点から放射状に七色の礫を広げていく無数の粒子が見られました。

それはまるで淀んだ黒い海に、七色の雫が沈黙の波紋を広げていくようでした。

 砂浜には何時しか白兎一匹を残して、群れの姿は見えなくなっていました。

暗闇に沈む砂浜は、時から置き去りにされたかのように、黒い天空の花火を見詰める辰巳と息せぬ珠美の傍らで跪( ひざまず)いた不比等だけに成っていました。不比等は、珠美の胸に突き刺さった太刀の刃に写り込む七色の瞬きに一度天を望み、目を深く閉じて立ち上がりました。そして、太刀をゆっくりと引き抜いて海に向かって放り投げました。

すると、突然時計の針が動き出したかの様に、夜空に激しい稲光が走りました。

「スサノウ!」

 白兎は、悲し気に絶叫しました。

稲妻は消える事無く、天を幾重にも重なりあって増幅していき、砂浜は昼間の眩しさを思い出させるように彼らの影を四方に点滅させ、海原を乱反射で覆い包みました。そして、天に幾重にも張巡られた稲妻の網は、海原に漂う無数の鱗に向かって一斉に放たれ、鱗は黄色い炎をあげて波間に姿を消していきました。

 波が引く様に全てが闇に溶けていき、月を失った海岸は何もかもが影を失い、潮騒だけが時を繰り返していました。

 どれほどの時が過ぎた頃だったでしょう。辰巳は闇の中で声を聴きました。

「留吉の子供よ。まだ、近くに居るのか。居たら返事をしてくれないか。」

 辰巳は声に反応して立ち上がりました。自分が立てた砂の音に驚きながら、声の聞こえた方を見ました。

「俺は此処に居る。」

 安堵の息を吐く音が聞こえました。

「許して呉れとは言えぬ。此処に横たわる珠美にも言う事は出来ぬ。私が引き起こした事は、己の未熟さ故に引き起こされた不幸な出来事であったとは言え、許される事では無い。私は一生背負い、償わなければならない。そちは、名を何と云うのだ。」

「俺は、辰巳。」

「そうか・・・。辰巳よ、私と共に都に上り、私と共にこの国を立て直すのに手を貸してくれないか。私は、お前を自分の子として育て、立派な官吏にしてやる。官吏と成った暁に、どうしても私が許せず、我慢が成らなくなった時には、いつでもお前の刃を甘んじて受ける事を約束する。留吉に対する私の償いを成就させて呉れ、お願いだ。」

「本当に父ちゃんは、お前が殺したのか。」

「何も語らぬ。何を言っても言い訳にしかならん。お前が今の私と同じ年になった時、もう一度この志度ノ浦で起きた事を、嘘偽りなく全て話して聞かせる。その時、お前が判断するが良い。」

 辰巳は唇を噛み締め、父親との僅かな思い出を回想し、小屋で聞いた話や砂浜で起きた様々な出来事を、必死に頭の中で整理しようとしていました。その時、頭の中に声が飛び込んで来ました。

「一緒に都に行った方が良い。誰かを憎み続ける事は、自分を否定し続ける事なのだ。辰巳、今日此処で見た事全てを、断じて忘れないで欲しい。この星に生を受ける者は全て、心に太陽と星と月を持って生まれて来る。それがどういう意味なのか、それをお前に見せて置きたかった・・・。」

 辰巳はそれが兎の言葉だと分かりました。思わず見廻しましたが、気配を感じ取る事は出来ませんでした。

「分かったよ。あんたについて行くよ。」

「そうか、ありがとう。今後、都に於いて私の養子として対外的に受け入れ易くする為、またこの地で起きた事を忘却させない意味も含め、名を房前(ふさまえ)と名乗るが良い。藤原房前(ふじわらふさえ)、我が子として立派な男にする事を約束する。しかし、その前に一つお願いが有るのだ。私を庇って命を無くした・・・珠美というこの海女を手厚く供養したい。手を貸してくれ。」

 気配を頼りに闇に語り掛けていた不比等は、

辰巳の表情が次第に明らかになって行くのを知りました。

咄嗟に東の空を仰いだ時、山の稜線を浮かび上がらせる青紫の雲が、山の背から風に乗って渡って来るのが見えました。そして、その中を悠々と翼を広げる鳥を一羽見付けました。

「朝は・・・来るのか。」

 東の空に釘付けとなっていた不比等に向かってその鳥は旋回し、二人から少し離れた砂地に着地しました。

その嘴は大きく開かれたまま球体の蒼い珠を挟んでいましたが、着地すると二人の間に珠を転がし、再び翼を広げて頭上へと飛び上がりました。

「約束の面向不背の珠だ。それを持って中大兄皇子の処へ戻れ。」

 慌てて不比等は声を上げました。

「八咫烏、月と太陽は一体どうなったのだ。東雲を見ている我々は、再び太陽を拝めるという事なのか?月は?あの龍はどうなったのだ。」

 八咫烏は二人の上空を旋回しながら、ケタケタと笑って居ました。

「質問攻めだな。しかし、お前に応える必要はない。お前が知るべき事では無いからだ。ただ、行き掛かり上これだけは教えて遣る。お前が見ている太陽と儂が見ている太陽は違う。風は感じる事が出来てもお前に見る事は出来ない。そういう事なのだ、所詮お前には理解出来んだろうがな・・・。」

 そう言い残すと八咫烏は東雲に向かって飛び立ち、やがて見えなくなりました。

日の出の時を迎え、急速に配色を変化させていく景色の中で、辰巳は砂浜に兎の姿を探しました。しかし、何処にも兎の姿を見付ける事は出来ませんでした。

         ★

 移ろう時の狭間の中、瀬戸内の緩やかな海流に列を成して泳ぐ者達がありました。それは、まるで流されていく陸地の様にも見えました。日の出と共にその表面が照らし出され、それが黒々と光を潤ませた漆喰の鰐の群れで有る事が窺え、その背を軽快に飛び移って行く耳の無い白兎の姿も浮かび上がっていました。

「まだ、追いつきませんか?」

 白兎は先頭を泳ぐ鰐の背に飛び移って尋ねました。

「もう、見えている。間もなく追い付く。」

 白兎は恐る恐る鰐の背から身を乗り出して、

海面に顔を付け覗き込みました。しかし、烈しい水の流れに目を開けて居られず、慌てて顔を上げました。その様子を見た鰐はゲタゲタと笑って言いました。

「そもそも水が苦手な兎が、どうして此処まで付いて来る。龍との約束でこの先の島まで、青鬼達が海藻となって運んでいる。何の為に護衛の俺達の背に乗っているのだ。」

「青龍に渡したい物がある。」

 白兎は、背中に負ぶった白い袈裟袋を下ろして大事そうに胸に抱きしめました。

「龍に?あの方は、もう生きては居ないぞ。海底に横たわった亡骸を運んでいるだけなのだからな。」

「やはり、あの稲妻が・・・。」

「我々はあの方を見守った後、再び志度ノ浦に戻る。連れて帰って遣るから安心しろ。」

 鰐の眼の間に座り込んで、兎は浪飛沫を全身に浴びながら揺らめく海面を見つめておりました。

やがて鰐達は速度を落とし、ある島の砂浜に上陸していきました。そのまま足場の悪い岩場を這い登っていき、海に向かって大きく口を開いた洞窟の中へと入って行きました。奥へ奥へと続く暗い空間の中を迷わず進む鰐の背にしがみ付いて進み、兎は大きな海水の溜りのある場所へと辿り着きました。

すると突然、岩壁が青白い微光に照らし出され、正面の壁面に自分の影が大きく映し出されるのを見ました。兎は驚いて背後を振り返ろうとした時、影も移動するのに気が付き、背負った袈裟袋がその発光源である事を知りました。兎は恐る恐る袈裟袋を背から降ろし、中から光る玉を取り出して両手で頭上に翳しました。高い天井まで一気に照らされていき、全面の湿った黒い岩壁が青みを帯びて行きました。鰐達は一斉に歓喜の声を上げ、中にはどうしたのか泣き出す者も居ました。

しかし、白兎は明るくなった洞窟の内部に思わぬ存在を見付けて声を上げ、思わず玉を落としそうになりました。そこには、一頭の大きな海亀が二本の後ろ足で立ち、眩しそうに手を翳して訝しみ、何事かと伺っているようでした。

「貴方は、此処で何をしているのか。」

 兎が声を掛けると同時に、海水の溜りから烈しい水音を立てて大勢の青鬼が姿を現し、皆で青龍の巨大な亡骸を洞窟の中へと時間をかけて引き揚げました。海亀は、可哀そうなほど狼狽し、居場所を失くして慌てふためいて居ました。青鬼の頭は、ふと海亀を見付けて怒鳴りつけました。

「お前は、誰だ。此処で何をしている。」

 その声に驚いて背後に転倒した海亀は、自分で態勢を戻す事が出来ず、死に物狂いで手足をバタつかせて居ました。その様子を見て、気が抜けて大きく吐息を付いた青鬼は、手を貸して起こしてやりました。すると、海亀は息を切らしながら捲し立て始めました。

「人が居る処にいきなり押し寄せて来て、お前は誰だ?何をしているとは何事か。訊きたいのはこっちだ。後から来た者が名乗るのが筋であろう。青鬼の方々は以前世話になった事も有り、誰だと言われるのは心外だが、久しぶりじゃから仕方ないとしても、何だ、その奇妙な黒い岩の様な生き物たちは。それに兎か鼠か分からぬような獣まで連れてきおって・・・。その光る石は何だ。」

 青鬼の頭は、大亀の顔を掴んで甲羅の中に押し込み黙らせました。

「うるさい。俺はお前を世話した事など無いし、此処は俺達の住処じゃ。よそ者はお前の方だ、偉そうな口を利くな。俺達には、これから大事な弔いがある。黙って其処で見ておれ、今度喋ると放り出すぞ。話は後でゆっくり聞いてやる。」

 そう言うと頭は他の青鬼達を見廻して、深く頷いて見せました。すると彼等は龍の亡骸を担ぎ上げ、海水の溜りの淵に幾重にも円を描く様に亡骸を横たえました。そして頭は青龍の頭部から眼石を抜き取ろうとして、はっと白兎を振り返りました。

白兎が掲げた石は、今尚、青白い光を煌々と放っていましたが、残った隻眼が鈍い光を微かに呼応させているのが分かりました。

「おい、兎。その石は何処から・・・。」

「この石は、青龍様が八咫烏に奪われた、もう片方の眼の石で御座います。」

 洞窟内の青鬼と鰐達は一斉に驚きの声を上げました。

「それは、本当か。お前が取り返したというのか。」

「はい。八咫烏が石を奪って飛んで行くのを追っていき、丘の上で傍らに眼石を置き、一連の騒動を傍観している姿を見付けました。それで、気配を悟られぬように地中のモグラたちを呼び寄せて、地下から石を取り替えさせました。」

「取り替えたとは、一体誰の眼と取り替えたのだ。」

「私の眼です。そうとは知らずあいつは、人間の手に委ねておりました。」

 青鬼達は一斉に笑い出し、腹を抱えてお互いの肩を叩き合って喜んで居りました。鰐達は互いの尻尾を絡ませたり、叩き合ったりして喜びを表現していました。海亀だけが甲羅から頭を半分出した状態で、不安げに状況を眺めて居ました。

「しかし、何故じゃ。大きさが全く違う物を間違えて持って行くとは不思議じゃないか。それにお前は両目とも失っては居ないではないか。」

 青鬼は、白兎の眼を覗き込みながら不思議がりました。

「あの争いが始まる前に私はスサノウ様と逢って、アマテラス様を封印する為の段取りを打合せしました。その際、もしも眼石を奪われるような事になれば、青龍に成って後に飛ばす鱗を三枚回収し、その鏡に自分の眼を写せと言われました。重ねて写せば被写体の大きさも調整できるので五倍ほどになったら、鱗に手を差し入れて取り出すように指示されていました。半信半疑でしたが、言われた通りにすると私の眼球は様々な形状で写り込み、取り出すと丁度五倍程の玉が取り出せました。それを約束通りお返しする為に、ここまで来たのですが、間に合わなかった。私は、命をあの方に救われて永遠の命まで貰ったのに、あの方の大切な方も救えず・・・私は。」

 白兎は、光る石を掲げたまま赤い目を青く変色させながら、大粒の涙を滴らせました。青鬼は白兎が掲げた石を取り上げて、優しく語り掛けました。

「泣くな、兎よ。あの方は死とは無縁な御方じゃ。お前の行為が、どれ程後の世で大切な事であったのか、何れお前も知る事になるだろう。」

 そう言うと、青鬼の頭はその石を亡骸が取り囲んだ海水にそっと浮かべました。すると、何かを語り出すかのようにその球体の放つ光は、彩を変化させ始めました。そして、青鬼は改めて亡骸より眼石を抜き取り、同じ様に浮かべました。二つの球体は同じ様に七色の光を交互に発し、水面をお互い反対方向に円を描きながら滑り出しました。水面に作り出される幾何学的な水紋と高まる照度によって、洞窟の四方の壁に展開する不思議な色光の変化に、全ての者は呼吸を呑み、ただ目の前で起きている幻想的な現象を見守っていました。

 やがて二つの球体は一つに合体し、そのまま海中に沈んで行きました。

 洞窟中は光を失い、再び暗闇が支配していました。

「鰐よ、この兎を無事に陸地まで送って遣ってくれ。おまえのお蔭でヤマノモノは無事に帰るべき処に帰る事が出来ただろう。ありがとう兎、また何処かで逢えると良いな。」

 闇の洞窟の壁に青鬼の声が反響して聞こえました。

「こちらこそ。でも私は水が苦手なので、再会は難しいかも知れません。」

 ざわざわと鰐達が移動する音が聞こえ、白兎の声も遠ざかって行きました。

「俺達も、一度海中に戻るか。」

 青鬼達が、次々と海水に飛び込んでいく水音が聞こえて来ました。

「ちょっと待ってくれ。さっき後で聞いて遣ると約束したではないか。これは、どういう事なのか誰か説明してくれ。儂はこれからどうなるのだ。いつまで待っても、乙音(おとね)も追い掛けた桃太郎も戻らず、洞窟に戻ってみれば花園も壁一面の光る苔も無くなって居る。儂の行く末を教えてくれ。独りで居るには、あの部屋は寂し過ぎるのだ。・・・・・おい、誰か返事してくれ。」

 必死に声を上げ問いかけ続ける大亀の言葉に、応える者は誰も居ませんでした。


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