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隻眼龍と赤鬼  作者: みのたかひろ
2/5

桃太郎の苦悩

         (3)

 瀬戸内海に浮かぶ島々の中に 人々から「鬼ヶ島」と呼ばれ恐れられていた島が有りました。

呼び名の通り、その島には沢山の恐ろしい鬼が住み、近海を渡る船を襲っては、人間を食べ積物を奪うと噂されていました。

 そんな或る日、大きな嵐が瀬戸内海を襲い、海を渡っていた一隻の商船が難破し、一人の老人と幼い娘が鬼ヶ島の海岸に流れ着きました。

 明くる朝、太陽の照り付ける乾いた砂浜で意識を取り戻した老人は、まだ意識の戻らない娘を近くの砂の上に見付けると、這い寄って盛んに声を掛け、抱きかかえて揺さ振ったりしました。口元に手を翳すと、息は有るものの意識を取り戻さない娘にどうしたものかと困窮していますと、背後から砂を踏み鳴らす多くの足音が聞えてきました。老人は漁民達かと安堵の息を吐いて振り返りました。

すると何という事でしょうか、二人は沢山の鬼達にとり囲まれていました。老人は一瞬目を疑い、自分たちの置かれた状況に狼狽えて居りましたが、やがて意を決すると娘を彼等から守るように強く抱き締めて、祈る様に彼等を見渡し懇願しました。

「どうか、この幼い娘の命は助けて遣って貰えないだろうか。息は有るのだが意識が戻らん。儂の事はどうなっても構わんから。どうか、どうか・・・。」

 すると、沢山の鬼達を掻き分けて、一回り大きな親分と思しき青い鬼がやって来て、大きな声で老人を怒鳴りつけました。

「爺を食っても美味くは無い。お前は家畜の餌にでもしてやるわ。しかし、その若い娘は大層美味そうじゃ。」

そう言うと周りの鬼達を振り返って顔を見合わすと、全ての鬼達がどっと大声で笑い始めました。

「心配するな、爺よ。儂たちは人間を食べたりはせぬ。」

青鬼の大将は、屈み込んで老人を安心させるかのように微笑みながらそう言いました。老人は、鬼が微笑むのを始めて見ましたので大層驚きました。

「鬼は、人間を食べて生きていると聞いたがそうでは無いのか。」

老人は、理解を超えた状況に不安に満ちた表情で、恐る恐る周りを見渡しながら言いました。

「人間は、そうやって勝手な想像で自分達以外のものを排除してきたからのう。自らを霊長だなどと吐かしやがる。其の所為か、人間ほど不味くて臭い生き物は他には無いと昔から言われておるからのう。見ればその娘は、まだ意識が戻らぬ様じゃのう。」

 青鬼は、周りの鬼達を見回すと顎を杓って、連れて来いと指示をして歩き出しました。

「我々を見逃してはくれんのか。助けてはくれんのか。」

 老人は、鬼の大将らしき者の足にしがみ付きました。

「助ける?その言葉の意味が良く分からんが、取り敢えず付いて参れ。」

 老人と娘は、島の海岸に突き出た半島の岩壁の大きな裂け目から洞窟の奥へと連れて行かれ、薄暗く足場の悪い岩の間を抜けて、島の中心部にある鬼の住処へと案内されました。

「おお。」

その場所に着いた老人は、突然の眩しさに目を細めて驚きました。洞窟の中にも拘らず、そこには沢山の見た事のない植物が美しい花を咲かせて生えており、天井と壁一面に生えた金色の光を放つ苔が、照明の代わりとなって彼方此方から洞窟の中を照らしだしており、昼間の様な明るさなのでした。

そして、財宝や御馳走でも積まれているのかと思っていたそこには、そうした物は何処にも見当たらず、沢山の小鳥が戯れるあの世の楽園としか老人の目には映りませんでした。

老人は、実は自分は嵐に命を落とし、天国に居るのではないかと思いました。そして、彼等は天国の門番ではなかったのか・・・と。

賑やかな小鳥たちの囀りに目を覚ました娘は、きょとんとした面持ちで自分が何処に居るのか理解出来ないようでしたが、やがて目の前をひらひらと花弁のようにゆらめく蝶に誘われて走り出し、花畑の中にそのまま転げ込んで、カラカラと笑いながらはしゃぎだしました。

「これ、娘子よ。これ、これ。」

鬼達の様子を伺いながら叫ぶ老人の窘めにも耳を貸さず、娘は大喜びで小鳥や蝶たちと遊び始めました。

 振り返って、その一部始終を見ていた青鬼は、老人に近付き尋ねました。

「お前たちは、親子なのか?打ち上げられたとはいえ身なりが随分と違うが・・・。」

 老人は継ぎ接ぎの地味な配色の托鉢の衣裳を纏い、娘は緋色に鈴の模様の入った長襦袢を着ていました。

「とんでも御座いません。私達は偶々、讃岐行の船に乗り合せた他人なので御座います。私は旅をしております仏僧で、娘は恐らく商人の娘かと思います。」

 青鬼は、戯れる少女の方に向き直って腕を組み、顎を撫でながら不思議そうに言った。

「お前たちの乗った船の残骸は、今朝から我々が回収し燃やしてしまったが、その時に沢山の弔いも同時に行った。どうして、お前達二人だけが助かったのだろうな。」

老人は、驚いて聞き直しました。

「皆、亡くなったと言われたか。」

「そうじゃ、昨夜の嵐は尋常なものでは無かったからのう。おぬし等が生きて居るのが不思議なのじゃ。」

 青鬼を含め、他の鬼達も娘を取り囲んで、娘の肩で飛び跳ねたり、掌で遊ぶ小鳥たちを見詰めていたが、突然青鬼が唸った。

「もしかすると・・・。」

青鬼は花畑に歩み寄り、娘の手を引いて更に奥へと誘い込みました。老人は、抗う事無く素直に従う娘の様子を見て、この娘は異常な状況下に在りながら物怖じする事も無い。元々、頭の弱い子だったのではないかと、奇妙な心持に囚われました。と同時に或る因縁を思い出し、突然大きな声を上げました。青鬼は驚いて振り向き、不思議そうに老人を見ました。そして手を引かれた娘も同じ様に老人を見詰めました。その瞳に見詰められながら老人は、納得した様に深く頷きました。

「嗚呼、そうじゃ。やはりそうじゃ。何という因果じゃ。」

「どうした坊主。」

老人は、へなへなとその場に座り込み、鬼達は訝しげに周りに集まって来て、不思議そうに老人を小突いて、訳を聞きたがりました。

「十年以上前の話なのです。その頃、儂は或る処で神社の宮司をして居りました。或る時、そこで鬼に拉致されかけた子を預かって欲しいと樵に頼まれて、引き受けた事がありました。そんな事が有ってから十年程経った或る年、奉納の為の舞をその娘に演じさせる事に成り、その頃評判の若い仏師に般若の面を依頼したのですが、・・・何の因果か、その仏師は子供を拉致した鬼の生まれ変わりだったのでございます。」

ある鬼が、にやつきながら老人の頭を軽く小突いて聞きました。

「鬼の生まれ変わりだと?何でそんな事が、お前に分かるのだ。」

 鬼達は、何処に潜んで居たのか次々と姿を現し、興味津々な面持ちで老人を囲んで座り込み、真剣に話を聞き出しました。大将に手を離された娘は、再び花畑で遊び始めました。

「行き掛かり上、拉致した鬼の躯をその仏師に見せる事に成りましての。その時に、その仏師が躯の角に触れたのですが、その時、儂は見てしもうたのです。その躯の乾いた皮膚が潤いを取り戻して真っ赤に色付き始めるのを・・。儂は、腰を抜かしそうに成りながら若い仏師を思いっ切り蹴飛ばして、鬼から離した。すると鬼の躯は元通りに乾いて行ったのだが、奇声に仏師を見ると、そやつには角は無かったものの真っ赤な鬼の様相で、儂がどんな悪い事をしたのだと叫びながらのた打ち回り、やがて気を失くした。儂は躯の主の生まれ変わりに間違い無い、と確信しましたのじゃ。」

「ふむ、その鬼は赤かったのだな。」

老人は改めて見廻し、不思議そうに聞きました。

「そういえばあなた方は、青か緑かで赤い方は居られぬようですが・・・。」

鬼達は、お互いを見合って笑い出しました。

「当たり前だ。俺たちは海の鬼だからのう。

爺が見た鬼は山の鬼じゃ。俺たちは、海藻や岩場に生える草や海に棲む虫しか食べぬが、山の者達は木の皮や実った果実を食べるから皮膚の色が違うのじゃ。そんな事より続きを早く話せ。どうなったのじゃ其の後。」

 鬼の皮膚の色の話に感心していた老人は、急かされて続きを話し始めました。そして、全てを話し終わった後、老人は娘を指差して悲しそうに呟きました。

「あの子の瞳は、あの巫女と同じ光を放っております。恐らく巫女の生まれ変わりかと思われます。それが真実なら・・・何という因果なのでしょう。再び儂の許に委ねられようとは・・・。」

そこまで話して老人は、はっとしたように顔を上げて、鬼達を見回しました。

「まさかあなた方の中に あの鬼の生まれ変わりが居たりしないでしょうか。」

青鬼の大将は、娘の方を見ながら顔を顰めて言いました。

「心配ない。俺たちは此処で百年以上生きて来た。鬼の寿命は、お前たち人間よりも遥かに長いのじゃ。どうじゃ人間は霊長では無いと分かったか。」

「言われる通りかも知れん。人間という生き物は弱い、か弱過ぎる。」

 老人は、ほっと胸を撫で下し、安堵の表情で目頭を拭いました。

「話は良く分かった。それでは、此方へ参れ。」

気が付けば、湧いた様に姿を見せた青鬼達の大半は再び姿を消し、鬼の大将は再び娘の手を引いて奥の岩間へと向かいました。老人は、何事が始まるのかとおどおどとした目付きで回りを見回しながら付いて行きますと、洞窟の奥に大きな海水の溜まった穴が開いている場所へと着きました。

 青鬼の大将はそこに着くと、一瞬老人の方に目をくれると、娘を海水の中に思いっ切り放り込みました。

「な、何を為さる。」

慌てて老人が飛び込もうとすると、他の鬼達が老人を抑え込みました。

「静かに見て居れ。不思議なものが見られる筈じゃから。」

 娘は落された後、海水を呑んだらしく、両手をバタバタとさせてもがき苦しんでいましたが、やがて力尽き水中に沈んで、姿が見えなくなって往きました。老人はがたがたと震えながら座り込み、金縛りにあったかのように動けませんでした。ところが不思議な事が起こったのは、その直後でした。再び、娘の姿が水面近くに浮上して来るのが確認され、しかもその双眼は開かれたままであり、良く見ると娘は無数の様々な種類の魚によって、押し上げられているのが分かりました。先程まで溺れ苦しんで居た娘は、くすぐったいと連呼しながらけらけらと笑って居るではありませんか。やがて、魚の群れは岩肌に娘を運び、丘に娘を押し上げました。

「これは、どうした事じゃ。信じられん。」

あんぐりとした表情で一部始終を見ていた老人は、暫く放心状態が解けずにいました。

「やはり、儂の思った通りじゃ。坊主、貴様は娘のお蔭で助かったのじゃ。感謝せい。」

 そういうと大将は高笑いをし、釣られて他の鬼達にも笑いが広がって行き、笑い声が洞窟内に反響して、余りの残響に老人は耳を塞ぎました。しかし気が付くと、同じ様に濡れたままの姿で笑って居る娘を見た時、老人は何故か背筋が凍るような不可思議な恐怖感に襲われたのでした。

 その翌日から、老人と娘は鬼達に言われるがまま、洞窟内で様々な雑務の手伝いをして過ごしました。鬼達が採取してきた植物の分別や洞窟内の苔や植物の管理や小鳥たちの世話、それらが主な仕事でした。娘は専ら小鳥や海水の溜りに住む魚の相手をして過ごして居ました。

最初、頭の弱い子かと思った娘も、一緒に過ごしてみると子供とは思えない程に、所作も判断力も的確で毅然とした処の見られる娘だと分かりました。洞窟の中で不浄を訴える事も無く、海水に浸かった着物も着衣を乱す事無く、櫛を懐に持っているのか長めの髪も常に整えられ束ねられていました。

さぞ名のある家筋の娘だったのだろうかと思いましたが、それにつけても両親を亡くした寂しさを見せる事も無く、鬼の生活に馴染んで居る処は不可解ではありました。しかしながら、幼い娘に現実を思い起こさせるような発言は、敢えて為すべきでは有るまいと老人は思って居りました。

「坊様は、いつお経を読んでいるの?此処に来てから見た事がないけど、やっぱり鬼さん達に怒られるから?」

 選り分けた植物から、薬草を束ねていた老人の背中越しに、娘が声を掛けてきました。

「儂は坊主と云っても、ちゃんとした宗派に属して居ない唯の放浪の迷い人じゃからのう。有難い念仏を唱えたりはしないのじゃ。」

「お経を読まなくても坊様に成れるの?」

 不思議そうに老人を見詰める娘に微笑みを返した老人は、手招きをして娘を傍に座らせました。

「よいか娘子よ。お前の頭で理解出来るかどうかは分からんが、良く聞いておくれ。」

「分かりました。乙音(おとね)は頑張って良く聞きます。」

「おお、そなたはオトネと申すのか。そういえば初めて名を聞いた気がする。この状況を受け入れるのに時間が掛かってしまったからな。お互い名乗りあう事さえ忘れて居った。儂は嘗て、亀之丞(かめのじょう )と名乗って居った時期が在ったが、身分を捨て旅に出てからは(かめ)と名乗って居る。海の亀じゃ。」

 老人が亀の真似をして大きく手をかいて見せると、娘はケラケラと愉快そうに笑って亀、亀と連呼した。

「気に入って貰えて良かったわい。ただ、今と成っては名前も不要な気はするがのう。おとねよ、随分前の事に成るが、儂が神社で宮司をしておった時、八百万の神々に仕えて居ったのじゃ。分かるかのう・・・八百万とはな、太陽や月、風や土、それに川や海、はては虫や植物など、この大地の中には様々な神を宿したものに溢れて居っての、その神々の怒りに触れぬよう共存しながら、常に感謝と共に祀って務めてきた。」 

「八百万?じゃあ、此処にも沢山の神様が居るね。」

「ふむ、確かに此処には本に不思議な神様が大勢住んでおる。しかし、儂は或る事件から自分の考え違いに気が付いた。この世の中には万物に渡って、光と影しか存在していないと云う事に気が付いた。しかもそれは八百万の神が齎すものでは無く、人間という業の中に全てが有るという事。」

「おとね、少し難しい。」

「やはり難しいのう、儂でさえこんな老いぼれに成るまで、気が付かなかったのだからのう。おとね、お前の中にも優しい仏様と闇の魑魅魍魎とが、両方とも住んでいるという話じゃ。」

「もっと難しい。」

娘は、顔を顰め怒った様な表情を老人に向けました。

「これは、すまんかったのう、許しておくれ。しかし、勝手な儂の想いで済まぬ事だが、お前には話して置きたかったのでのう。」

 老人は手元の薬草を指先で無意識に潰しながら、緑に染まった指先を見詰めながら沈んだ声で続けた。

「老いた儂でさえ、その真実を見せられた時には自分が今まで信じて来たもの全てに、裏切られたような茫然自失状態に陥った。幼いお前に、理解など無理な話じゃ。例えそれが、お前から教わった事であったとしても。そして儂は宮司を辞め坊主になった。がしかし、念仏でさえが、現世という地獄からの救いの泉ではないと旅の途中で思ったのじゃ。」

「じゃあ、どうすれば救われるの。」

「うん、其処なのじゃが・・・、人は誰も救われんのじゃ。儂たちは地獄という肉体に放り込まれた魂を、耐えて生きる為にこそ生まれてきたのじゃからのう。」

 はっとしたように娘は表情を明るくして立ち上がった。  

「鬼さん達帰ってきた。」

 娘は、何を感じ取ったのか突然洞窟の出口に向かって走り出しました。

「これこれ、おとね。勝手に洞窟から出てはならんと言われておろう。」

 慌てて老人は追いかけましたが、岩場を飛ぶ様に駆けて行く娘に追い付ける筈も無く、 

忽ち海岸へと二人とも出てしまいました。

夕暮間近の瀬戸内海は凪いで、海の波頭を映したように広がる一面の雲は、無音の時を刻んでおりました。娘の言った通り、沖には鬼の船らしき赤い帆の大きな船が此方に向かっている様でした。聞える筈とてない声を上げながら手を振る娘の背中を見ながら、千鳥足から息の落ち着きはじめた時、老人は聞きたかった事を尋ねました。

「おとねは、鬼が怖くないのか。」

一瞬振り返った娘は、返事もせず海上に向き直り、再び手を振って居りました。

「此処から逃げて、人の里に帰りたいとは思わないのか?」

「私は、此処が好き。」

 漸く娘は手を下し老人の方を向いて言いました。

「私には帰る処は無いの。

「国は何処なのじゃ。」

老人は砂浜に腰を下ろして、不思議そうに訊きました。

「国は、ずっと遠い処だって聞いてる。」

「聞いた?誰から?」

娘は、沖を見詰めたまま砂浜に腰を下ろして話し始めました。

「本当の事なのかどうか、分からないけど。オトネという名も、その海賊に付けられた名なの。」

「海賊?」

「ここから遠い所に大きなお城が在って、そこでうちは双子の妹として生まれてきたのだと言ってた。でも、生まれて直ぐにお城は、何処かの強い豪族に攻められて燃えてしまったのだって。双子の兄様は、何処かに逃げて生きているらしいのだけど・・・顔も分からない。うちはその豪族の家来だった海賊に攫われて、ずっと海賊の娘として育てられたのだって教えられた。」

「なんと不憫な、・・・姫としてではなく海賊として育てられたとはのう。しかし、どうしてあの船に乗って居ったのじゃ。」

「あの船には、お宝が沢山積んであるって言っていたから、みんなで変装して乗り込んでいたの。」

「なんと。では、船ごと奪う積りじゃったのか。嵐が無ければ、儂も魚の餌じゃったのう。しかし、海賊ともあろう者が嵐を予測出来んかったとは不思議な事じゃのう。」

 老人は、伸びた顎鬚を掻き毟りながら唸り声をあげました。陽の落ちかけた夕暮の砂浜に、夕陽から湧き出たかのように沢山の海鳥が、鳴きながら砂浜の上空を旋回し騒ぎ立て始めました。

「あの日は、嵐は来ない筈だったのよ。だって、分かっていたらあの船も出航しなかったからね。」

「ふむ。確かに乙音の言う通りじゃ。」

「あの嵐は、空から遣ってきたのじゃ無くて、海の底から遣って来たのよ。亀さんも 他の皆も眠っていたから分からなかったでしょうけど・・・、私は、船縁でお魚さん達と遊んで居たから、最初からずっと見てた。」

 上空を舞う海鳥たちが、一斉に娘と老人の許に降りてきました。老人は、慌てて頭を両手で覆って飛び退きましたが、娘はそのまま海鳥たちを身に纏うかのように立ち上がり、両手を広げて受け入れて居ました。

 老人は、数奇に満ちた自らの生い立ちを語る、幼き娘とは思えぬ毅然とした口調に、物言えぬ不憫さを感じました。そして、輪廻の糸の紡ぐ惨たらしい宿命を思って、目頭を熱くしながら、老人はその光景にいつまでも見とれていました。

         ★

 吉備乃国の山間から河口に繋がった、或る集落の川沿いに桃の木の群生地が有りました。

 その年は、見事に桃の花が彼方此方に咲き誇り、遠目にも桃色に染まった山肌は圧巻で、八重桜に似た花弁の乱舞に 大勢の人が春の陽気にも誘われて、訪れる名所となっておりました。

その場所から少し上流に行った処で、ある問屋の下人務めをしていた年増の女が、いつものように川で洗濯をしておりました。

 洗濯を終え、腰を伸ばして店に帰る支度をしておりますと、更に上流の方より何やら四角い木箱のような物が流れてくるのが目に入りました。

「おや、何が流れて来るのだろう。」

そう思った女は、浅瀬に裾を捲り上げたまま滑らぬように慎重に入って行って、それを見極めようと待ち受けました。近付いて来た物は、やはり木箱のようでした。一辺が一尺ほどの大きさの雑な作りの木箱でしたが、蓋はしておりませんでしたので中を覗き込みますと、何とも美しい女の見た事も無いような刺繍の施された華やかな色彩の着物が何かを包んでいるようでした。その華麗さに、女は体中に水が掛かるのも気にせず、箱を手繰り寄せ、川の水を木箱が吸い込んで随分重くなっていたにも拘らず、一気に川岸まで担ぎ下ろしました。

「これは、有難い物を拾った。これを売れば、もう下人などせずに暮らせるかも知れん。嫌な番頭にも扱き使われる事も無くなる。ありがたや、ありがたや。」

 女は、満面の笑みを浮かべながら、着物を広げて見ようとして、その着物に包まれている物に気が付きました。恐る恐る草叢で広げてみましたところ、それは、何と赤ん坊でした。女は、すっかり腰を抜かしてしまい、気を取り戻すのに暫く掛かってしまう程でしたが、指の先で赤ん坊の頬に触れてみますと まだ温かみが有り、眠って居るだけである事が分かりました。

「しかし、困った。着物だけなら良かったのに、さてさてどうしたものか・・・。」

 座り込んで暫く考え込んでいた女は、或る考えを思い付き、急いで勤め先の問屋に戻り、裏口から辺りを伺いながら自分の部屋に戻りました。懐に丸め押し込んだ美しい着物を引き出すと、一瞬広げてうっとりと表情を緩めた後、押し入れの汚れた布団の間に捻じ込み、今度はほつれ汚れた自分の着物を懐に捻じ込み、再び川岸に戻りました。草陰に隠してあった眠ったままの赤ん坊をその汚れた着物で包み込んだ女は、再び走り出し今度は表から店内に飛び込みました。

「これ、表から入ってはならんと普段から言って居るであろうが。」

案の定、番頭は鬼の形相で、大声で女を叱りつけました。

「いえいえ、そうでは無いので御座います。大変なものを拾ったので御座います。いつもの様に川で洗濯をしておりましたら川上から大きな見た事も無いような桃が流れてきたので御座います。」

 とっさに自分でも可笑しな事を口走ったとは思いましたが、女は構わず続けました。

「御腹がペコペコで これは食べ応えが有ると思い、岸に上げました処、割ってみると中から、なんとこの赤ん坊が出て来たので御座います。」

「なに!桃から赤ん坊だと!」

 腕組みをして睨み付けていた番頭は、突拍子もない話に 腕を解きあんぐりと口をあけたまま、女の抱えた物を覗き込みました。店内に居た沢山の客達も どれどれと覗き込みます。

「本当じゃ。赤ん坊じゃ。玉の様な、ほっぺたが桃の様な赤ん坊じゃ。」

 途端に店の中は大騒ぎになりました。

「旦那様!旦那様!」

番頭は、慌てて店の奥に叫びながら走り込みました。この問屋の主人夫婦には、後継ぎと成る子宝に恵まれず、随分以前より大層気に病んでいた処なのでした。それを知って居た為、女は着物だけ頂き、赤ん坊を届ければ更に褒美も貰えるのではないかと計を思い付いたのでした。

 その企みは、見事に成功しました。

思った通りに主人夫婦は泣いて喜び、女は褒美を頂き下人の立場から解放され、問屋から出て行きました。赤ん坊は、捨て子ではなく桃から生まれたのだから 天からの授かりものであろうと、夫婦の子供としてその問屋で育てられる事に成りました。

その時店に居た客達は、これは珍事だ、これは神事だと騒ぎ立てて、あっという間に村中に噂は広まりました。そして何時しか村中で赤ん坊を桃太郎と仇名して呼ぶように成ったのでした。

 それから十四年の歳月を経て、赤ん坊は立派な若者に成長しました。しかしながら問屋の主人の意向とは異なり、勉学と武術に長けて居り、周りの人々は仕官して立派な御武家様に成るのではないかと噂をしておりました。

 その若者は辰之助(たつのすけ)と命名されていましたが

町中の誰もが桃太郎と呼び、更にはその行動に奇異な処が有り、その所為で桃から生まれた事を誰もが信じて疑わないのでした。

 その奇異な行動とは、幼き頃より大人が目を離すと見当たらなくなり、大騒ぎをした大人達が探し回ると山で独り遊んで居る処を発見されたり、家に帰って来るたびに野生の動物を連れて帰って来たりする事でした。

 ある時は、獰猛な山犬を連れて帰り、街道沿いの人々を逃げ惑わしたり、また或る時は猿や雉などを肩や頭の上に乗せて帰って来て大人達を驚かしたり、人間の友達は沢山居たけれども殆どの時間を山に過ごし、山に住む動物と遊んでいました。いつしか犬と猿と雉は問屋に居付く様に成り、辰之助を何かから守っているかのように思えました。

そんな辰之助を父親は、どうした物かと思案に暮れる事が良く有りましたが、母親は大層可愛がり、陰口などを他の村民が言っていると噂を聞き付けると、凄い剣幕で走って行って必死に庇うのでした。

 その年の夏、その地方は雨の降らない日々が続き、農作物が育たず飢饉に成りました。

その結果、お城に収める年貢米に追い詰められた農家の人々、それに伴って農民達をまとめていた問屋にも大きな影響が出る事に成りました。折悪く丁度その頃、瀬戸内海上には沢山の海賊集団が現れ、多くの商船が襲われる事件が多発し、生活雑貨品などが失われ、吉備乃国の人々は、衣食住全般に渡って苦しめられてしまいました。

それにも増して、瀬戸内海に浮かぶ鬼が島の鬼達が、最近漁船を盛んに襲うようになったと噂が広まり、多くの漁民も漁に出なくなってしまいました。お城からの急き立てと、村の人々からの懇願に挟まれ、問屋の御主人は大層頭を悩まして居りました。

 そんな或る夜、辰之助が庭で犬と猿と雉と遊んで居る処に 真剣な表情をした番頭が、居間で大旦那様が呼んでいると知らせに来ました。辰之助は、犬達を庭に残して何事かと居間に行ってみると、父親は大広間の上座に腕を組んで顰め面で座って居り、その前に沢山の農家や漁師や商家の顔馴染の人達が、これまた暗い表情で頭を垂れて居ました。辰之助がその沈々とした雰囲気に、恐る恐る部屋に入って行くと 父親は傍に座る様に手招きをし、辰之助が座ると口を開きました。

 「辰之助。今夜こうして皆さんが集まっているのは他でもない、お前も聞いているだろうが、例の世間を騒がしている海賊と鬼の件でな・・。」

辰之助が振り返って大勢の人達の方を見やると、一斉に皆表情を変え、愛想笑いを向けてきました。何やら嫌な予感に父親に向き直ると、父親は腕を更に深く組み直して言いました。

「このままでは、この吉備の国全体が荒れ地と成って人の住む場所では無くなってしまう。私達も含め、皆が住処を探して散り散りに成ってしまうじゃろう。それでな、今皆で話し合った結果、誰かがこの事態を打開する為に海賊や鬼達を退治しない限り無理だという意見に至った。言っている事は分かるか辰之助。」

「誰かがと仰いましたか?」

「そうじゃ。誰かがじゃ。」

何時の間にか父親も 同じ様な愛想笑いに変っていました。辰之助はその場の異様な雰囲気に息を詰め、背筋に冷たいものが垂れて行くのを感じました。

「すみません。良く分からないのですが、皆で退治に行く話じゃないのですか。誰かとは、誰か一人に行かせるという事ですか。そんな風に聞こえたのですが・・・。」

「嫌々、我々の代表として一人を選抜するという事で お城からも何人かが加勢に来て頂けるお約束を頂いておる。安心して行って呉れ。辰之助。」

「えっ。私ですか。」

「さっきから何を聞いて居った。態々呼ばれた展開から、察する事は出来るだろうに。」

「いえ、お父様。皆で戦おうと言うのなら私は先頭に立って参る事も厭いません。しかし、海賊や鬼達がどれ程の手練れの軍勢かも分からないのに 余りにも多勢に無勢では有りませんか。しかも先程、異な事を仰いました。お武家様が加勢とは、どういう事か理解に苦しみます。お武家さまの加勢に私が行くのでは無いのですか。」

 父親は、沈痛の面持ちで辰之助から眼を逸らしたまま俯き、そのまま無言に成ってしまいました。

「おめぇは桃太郎でねぇか。」

 突然、農民の一人が立ち上がって叫んだ。

「そうだ。神の子の癖に逃げるのか。」

「誰が作った米で大きくなった。」

「神の子なら、神の子らしく人間を守れ。」

 次々と立ち上がりいきり立つ群衆に 辰之助は事の顛末を悟りました。

神の子か・・・。

この時初めて辰之助は、唇を噛んだまま顔を上げない父親の苦渋の決断が、痛い程心に沁みて来るのを感じました。

そして辰之助は、勢い良く立ち上がって群衆を見渡しました。それを見た群衆は、突然水を打った様に静まり返り、怒号を発していた群衆は一斉に身構えました。

庭の方向からは、けたたましく犬の咆哮が聞こえてきました。そして、静まり返った群衆を確認して、辰之助は大きく息を吸い込み、深々と群衆に頭を下げました。

「分かりました。この桃太郎、皆様に御恩返しをさせて頂きます。」

「おぉ・・・。」

 四方の衾を震わせる程のどよめきと共に、広間の雰囲気と人々の表情が、浪打際に砂が流れる様に 柔らかく和んで往くのが感じられました。

深々と頭を下げたまま、辰之助は視界の端に父親の膝の上、握り締められた拳が濡れているのに気付き、見詰める内に自らの視界も歪んでいくのを感じて居ました。

 

それから一週間後、六人の武士が問屋に辰之助を迎えに訪れました。驚くほど軽装な出で立ちで、甲冑さえ身に着けていない事に、訝しく不可解に感じながらも、辰之助は鉢巻と甲冑に身を包んだ姿で丁重に挨拶をし、父親と母親に出立の報告をしました。

父親は、腫らした赤い瞼のまま無言で深く頷いて居りましたが、母親は柱にしがみ付いて泣き暮れ、言葉に成りませんでした。

しかし、辰之助がいよいよ出掛ける段に成り、土間に降り立った時、母親は傍に駆け寄って笹の葉で包んだ小さな包みを、鎧の脇から懐にそっと差し入れました。驚いて振り返った辰之助の耳元に、先程とは打って変わって厳しい表情で囁きました。

「これは、吉備団子です。どうしても、身の危険を感じた時は食べなさい。苦しまずに神の許へ戻れます。良いですか辰之助。」

 辰之助は懐に手を差し入れて包みを確認すると、改めて両親に向き直って凜とした表情で声を掛けました。

「行ってまいります。お父様お母様、お体を大切に為さって下さい。今まで受けたご恩に報いる為にも、辰之助は必ず元気に帰って参ります。」

 その日は、雲一つない快晴でした。家から一歩表に出た辰之助は、眩しい陽の光に思わず手を翳して辺りを見渡しました。すると、沢山の見送りの人々は、辰之助が手を振ったと勘違いして大歓声を上げました。思わず苦笑した辰之助は、人々に軽く会釈を返し、六人の武士と海岸を目指して歩き出しました。

 しかしながら辰之助は、見送りに集まって手を振る人々の表情を見ながら、何故か心に引っ掛かる物が有るのを感じました。それに加えて、同行する武士達からも不快な雰囲気が漂っていて、それが何故で有るかを盗み見しながら歩みを進めました。単に自分の置かれた思い掛けない状況からくる不安感の所為であろうと自分に言い聞かせながら、意識的に早い足取りで進みました。

やがて、風の匂いも変わり、砂浜続く海岸に出た一行は、漁師達が用意して暮れた十人乗り程度の小振りな船に乗って海上に出ました。

だれも船を動かそうとしない為、辰之助が一人で一本の櫓を漕いで船を進ませる事になりました。同乗の武士達は思い思いの場所に座り、また寝転がる者など居りましたが、一様に顔は辰之助の方を向いていました。砂浜が遠く成ってしばらく経った頃、一人の武士が退屈そうに辰之助を見上げて話し掛けてきました。

「おぬしは本当に桃から生まれたのか?」

「そうだと、幼き頃より聞かされておりましたが、自分では神の子だなどと感じた事は一度も御座いません。」

「という事は、おぬしの父も母も桃なのだな。一度、齧らせてくれぬか。」

 武士たちは大声を上げて笑い転げ出しました。

辰之助はその嘲笑を浴びながら、やはりこの武士達からは何か悪意に似たものを感じると思いました。

何故、彼等は戦場となる鬼が島の方を見る事無く、自分の方ばかり見ているのか・・・。

「鬼が島とはどちらの方向に在るので御座いましょうか。皆様はご存知なのですよね。」

 恐る恐る聞いた辰之助に 武士達は顔を見合わせ更にゲラゲラと笑い転げました。愈々様子が可笑しいと感じた辰之助は、櫓を漕ぎながら剣に左手を掛けました。その途端、笑い転げていた武士達は、素早く立ち上がり一斉に六人共に剣を抜いて、辰之助の方に刃を向けました。

「どういう事ですか。何方か説明頂きたい。あなた方の相手は、鬼では無く私なのか。」

 辰之助より一番遠い位置に立った船首付近の武士が声を上げた。

「左様。儂らに問っての鬼とは、お主の事じゃ。鬼が島など儂らには無用な島じゃ。」

辰之助は、櫓を脇に抱え身構えた。

「全く、私には事の次第が見えません。どうか説明頂きたい。」

「死んで行く者に説明して何の意味が有ると言うのだ。三途の川で鬼にでも話して聞かせるか。」

船縁に居た別の者が声を荒げました。それを制して、先程の武士が穏やかに話し始めました。

「納得して死出の旅に出るが良い。だが、話の最後まで生きて居られる保証は無いぞ。覚悟して聞くがよい。事の始まりは・・・吉備の国の以前の城主に双子の子が生まれた。男の子と女の子であったが、永く嫡男に恵まれなかった事から、城主は大層な喜び様であった。しかしそれが我々には大層都合が悪かった。次の城主は既に城主の弟君の長男で決りかかって居たのでのう。それで我々元海賊が城主を良く思って居なかった城代に頼まれて、元城主共々その一派を暗殺したのじゃ。」

 何時の間にか、船は随分と潮に流されて、瀬戸内海の無人の島々を近くに見る事が出来る程になっていました。少し強まった風と波に、船は揺れを大きくし始めていました。

「結局は、その後新しい城主の弟も嫡男もみんな我々が暗殺して、思惑通りに我々の国として奪い取る事となった。」

武士達は顔を見合わせて、ほくそ笑み合った。辰之助は、揺れる舟上で両足を踏ん張り、バランスを取りながら六人との間合いを目で計りながら聞いていた。

「前の城主の側室が、二人の子供を連れて逃れた事が分かってから、我々はずっとその行方を探っていたのだが、女子の方は早々に捕らえて我々の仲間として海賊として監視しながら育ててきた。しかし、男子の行方が依然として長らく掴めずにいた。しかし、我々はやっと突き止めたのだ。側室が逃げる途中、吉備の山から川に木箱に入れて流したという事実を突き止めたのじゃ。その川の下流は、桃の群生地でのう・・・。」

 六人が共に呼吸を合わせて、少しずつ辰之助の方ににじり寄って来るのが分かりました。少し傾いた太陽が辰之助の丁度正面に位置しており、彼らの顔が陰って見えて居ました。

 辰之助は自分が不利になる位置を、彼等は予め打合せして居たに違いないと思いました。一気に全身から汗が噴き出るのを感じました。辰之助は、少し姿勢を低くしながら 櫓を失わぬ様に船縁に凭せ掛けながら、剣の柄を握る手に力を込めて行きました。

 「その男児は、桃から生まれた桃太郎。」

 辰之助に一番近い位置に居た武士が、下方より切り掛かって来ました。素早く辰之助は剣を抜きましたが、そこまでがやっとで剣は跳ね上げられ、海中へと消えてしまいました。

「お前は、桃太郎でも神でも無い。謀った事を地獄で仏に謝るが良い。」

 その言葉を切掛けに、一斉に六人が切り掛かりました。咄嗟に辰之助は櫓に飛付いて、長い柄を一人の喉元に突き上げ、その勢いで長い櫓を力の限り振り廻しました。しかし、空しく風を切っただけに終わり、不敵な笑い声と共に、六人は飛び退き構え直しました。

 その時、辰之助は眩しい中空の逆光の中を沢山の黒い何かが蠢くのを見ました。武士達の背後から広がって行くその不思議な塊は、船上を風に揺れる木漏れ陽の中に変えるかのように、一気に蠢く日影に埋め尽くしました。異変に気付いた武士達が天を仰いだ瞬間、滝の様に降り注ぐ海鳥の大群の激しい鳴き声に、 辰之助は耳を塞いで蹲りました。蹲ったまま薄目を開けて前方を盗み見た辰之助は、白い羽の乱舞の中、武士達が真っ赤に染められて行くのを見た時、恐怖と共に優美さも感じられ、心が高揚して行くのを覚えました。何故、このような残虐な光景に甘美な気分が広がって行くのか、其れにさえ気が付かない程酔ってしまっていました。

やがて我を取り戻し掛けた時、辰之助は海鳥の中に雉と猿が、混じって居る事に気が付きました。まさかと思い海上を見渡すと、船の側面に寄り添うように山犬が、海中に落した刃を加えて泳いで居るのが見えました。

「お前たち・・・ずっと船に付いて泳いで来ていたのか。すると此の海鳥達は、御前達の仕業か・・・。」

 辰之助は、どっと溢れ出す涙もそのままに山犬を船の中へと担ぎ入れました。

『アイツラ サイショカラ コロスキカイヲ ハカッテタカラナ。サルヲ セナカニオヨギツカレタゼ。』

犬の言葉が、辰之助の頭の中に飛び込んできました。思わず抱き締めて、犬の濡れた背中を撫でていると 別の言葉が飛び込んできました。

『カタヅイタゼ タツ。コノママオニガシマ ムカウノカ。』

赤く血潮を被った猿が、海に飛び込んで片手を舟縁に掛けて 体を洗って居ました。

『バショハ カモメニキイタ イクナラアンナイスルワヨ。』

雉が、辰之助の肩に止まって言葉を投げてきました。辰之助は、兜を脱ぎ捨て桃の刺繍を施した鉢巻を締めながら 大声で叫びました。

「行こう。このまま帰る訳にはいかない。一人で戦わなければいけなくなったが、彼等を連れて行くより、御前達が居てくれる方が勇気百倍だ。」

辰之助は、意気揚々と刀を鞘に戻して櫓を持ち直して、船を雉の飛ぶ方へと進ませました。

        ★

「おい、亀。目を覚ませ。」

突然大きく揺さぶられて、老人は慌てて寝床から半身を起こしました。

「どうしました。何か有りましたか。」

辺りを伺う老人に 青鬼は屈み込んで老人に顔を近付けて話し掛けた。

「もうすぐ、この島に人間が遣って来る。どうやら俺達を退治する為に遣って来るらしい。先程、海鳥が知らせてきたのだが、どうも様子がおかしい。」

 何か困惑した表情に 何時もと違う状況がこの島に訪れているらしき事を 老人も感じ取る事が出来ました。

「戦がこの島で始まるのですか。それは大変だ。当然貴方方は、その人達を迎え打つ積りなのですよね。」

「その積りだった。」

「だったとは、どうされたのです。」

「来るのは独りの子供と犬と猿と雉じゃ。」

「えっ。」

 思わず素っ頓狂な声が口から飛び出して、老人は唾を呑み込んで鬼の口元に見入った。

「海鳥の話だと俺達は戦ってはいけない相手らしい・・・。いや、儂にも意味が良く分からんのだが・・・そんな事を盛んに奴らは騒ぎ立てるものでの、念の為お前は決して砂浜には出てこぬ様に注意しに来たのじゃ。」

「それは、私と乙音が其の者と手を組み逃げぬ為ですか・・・。」

不意に口から付いて出た言葉に 慌てて口を塞ぎ、隣に乙音が居ない事に老人は気が付きました。鬼は勢い良く立ち上がり、老人を睨み付けながら怒鳴りつけました。

「何だと。儂が、逃げるなと言った事が一度でもあったか。逃がさぬと縛った事でも有ったと言うのか。」

老人は、すっかり萎縮して頭を抱えて平伏してしまいました。

「これは、私とした事が失礼な放言を吐いてしまいました。どうかご勘弁を。どうかご勘弁を・・・。」

鬼は、機嫌を損ねたまま離れようとしましたが、思い出したように振り返って老人に向かって乱暴に言い放ちました。

「言い忘れたが、娘の事は心配するな。安全な場所に連れて行って居る。お前は、自分の心配だけをしておれ。島を出たいなら勝手にせい。」

そう言い残すと、足早に洞窟から出て行きました。自分が気付かない間に乙音は何処に連れて行かれたのだろう。こんな小さな島の何処に 自分の知らない安全な場所が有るのだろう。老人は、立ち上がって娘が寝ていた場所を確認しました。布団や遊び道具がそのままに残され、尚且つ整頓されている事からも、素直に自分を起こさぬ様注意しながら、鬼に付いて行った事が推測され、老人は此れから起こる事への不安感で落ち着かなくなっていました。

 それから一刻程して、砂浜の方から騒がしい声が聞こえてきて、老人は注意されたのも忘れ、慌てて洞窟の入り口付近まで岩場を駆けて行きました。それから、少し傾きかけた陽の光を認められる場所まで辿り着くと、恐る恐る岩場の間から首を突き出し、砂浜の方を見渡しました。恐らくは百を超えるだろう鬼達が、岩肌や砂浜に群がり、揃って海に向かって立ちはだかって居るのが見えました。

一方、海上には砂浜から十間も無い程の近い距離に 既に小舟が姿を現して居るのが確認出来ました。

 鬼の言う通り、小舟には小柄な少年がたった一人、櫓を漕ぎながら向かって来るのが見えました。しかし、犬や猿などは見当たらず、作戦上、何処かに潜んで居るのだろうかと老人は思いました。それにしても余に幼げに見受けられる少年でした。身体つきに似合わぬ鎧に身を包み額には鉢巻をしているだけの、まるで端午の節句の人形かと思えるほど可愛らしい出で立ちは、この情景に不釣り合いな存在に感じられました。

「退治だなどと・・・。何かの間違いでは無いのか・・・。」

 心配そうに一点に目を凝らしていた老人は、突然背中を叩かれ飛び上がって驚きました。

怒った鬼の表情を想像して、恐る恐る振り返ってみると そこには乙音が微笑んで立っていました。

「乙音ではないか。心配したぞ、何処に居たのじゃ。」

「心配しないで付いて来て。亀さんの事が心配に成って迎えに来たの。」

 乙音の小さな手は、老人の手を曳こうとしました。

「儂が、此処に残されたのには何か鬼の都合が有っての事だろう。後で乙音が叱られたりしては叶わぬ。安全な場所に乙音が居るのなら安心じゃ。」

「大丈夫よ。そんな事には成らないから安心して。それに、此れは私と亀の事、鬼さん達は関係無い話。」

「関係ないだと・・・。さっぱり意味が分からん。」

 老人は、言われるがまま手を曳かれて洞窟の奥へと進み、嘗て鬼に娘が放り込まれた海水の溜りが有る場所に連れていかれました。

「亀さん。壁に生えている光る苔を一握り食べてみて。」

「この美しい苔は、食する事が出来るのか。

否、何の為に。そもそも何故お前は、それを知って居るのじゃ。」

 娘は、少し拗ねたように口を尖らせて、老人を窘める様に語りかけました。

「難しい事を考えては駄目よ。亀さんが教えてくれたのじゃない、この世には光と影しか無いって・・・。そうなら私達は光を選ぶしか無いのよ。さあ早く食べて。御腹に入ったと思ったら、この海水に飛び込んで。」

「・・・お前は、誰なのじゃ・・・。」

 老人は、この娘は一体何者なのか、何を言っているのか、全てが自分の理解力を遥かに超えていると感じました。そして、不思議な縁で繋がれた此の娘の魂が、己の魂を新たな輪廻の旅に誘おうとしている事だけが薄らと心に沁みて行くのを感じました。恐らく、それは自分には抗えない、受け入れるしかない

摂理なのであろうと、老人は悟りました。

         ☆

 砂浜に降り立った辰之助は、余りに大勢の出迎えに圧倒されました。その上、想像した以上の高い背丈と頑強な体格とに息を呑みました。島全体の雰囲気も、沖から眺めた時には普通の島と左程変わり無い様に思えましたが、砂浜から見上げた岩場の切り立った壁が、彼方此方に聳え立つ様は矢張り鬼が島と呼ばれるに相応しく感じられました。

鬼達は、辰之助が茫然と立ち竦む様を静かに見守って居りましたが、やがてより一層大きな青い鬼が進み出て、辰之助の目前に立ちはだかって威圧的に声を上げました。

「お前が俺達を退治する為に来た者に相違無いか。」

 辰之助は、見上げて務めて冷静に答えました。

「そうです。漁師の方々に頼まれて遣ってきました。退治とはいえ、本心を言えば私は貴方方に漁をする漁民に対する暴力を辞めて頂きたいだけなのです。」

「ふむ、同じ事じゃ。お前は、一人で我々を成敗出来ると思って来たのであろうが、この状況で、それはちと難しいとお前は思わないのか。」

「そうですね。貴方の仰( おっしゃ)る通り、恐らく私独りでは相手に成るとは思えません。」

 鬼達は皆、拍子抜けした様に身構えを解いてお互い顔を見合わせた。

「確か、御前の共の者に犬と猿と雉が居ると聞いて居たのだが、見当たらぬ様じゃが。」

 辰之助は、浪打際に揺れる船を振り返り、ゆっくり歩いて行って淋しそうに呟いた。

「皆、此処に居ります。」

「なに・・・。」

 鬼達の何人かが、走り寄って船の船底を覗き込みました。

「死んでいるぞ。・・・皆、死んでいる。」

 鬼の大将は驚いて、彼等と同じ様に船に駆け寄り確認し、振り返って問いました。

「何が起こったのだ。島近くまでは生きておった筈じゃが。海賊か、いやそうでは有るまい。」

 辰之助は、放心したように力なく砂浜に座り込んで話し始めました。

「この島の見当が付いた頃、腹拵えをしとこうという事に成り、母に用意頂いた御握りを皆で食べました。ところが私は、食べた途端突然の眠気に襲われ、不覚にも眠ってしまいました。ところが・・・私が目覚めた時、彼等は口から真っ赤な血を吐いていて・・・皆揃って絶命しておりました。」

「何が・・・。」

 気が付くと大勢の鬼達は、辰之助の周りに集まっていて不安そうに、話を熱心に聞いていました。

「母が、出掛ける際に、もし逃れられない事態に成れば自害するようにと毒入りの団子を私の懐中に忍ばせて居ましたが、その包みが彼等の近くに落ちていて、団子の欠片が散らばって居ました。恐らくまだ食の足りなかった彼らが、寝ている間に見付けて・・・。」

「何と哀れな・・・。」

 鬼達は、一斉に大きな息を吐きました。

「私に問っては、掛け替の無い者達でした。彼等を失った今と成っては、もう鬼退治だなど私にはどうでも良い事に成りました。しかし、私には国で帰りを待つ父と母が有り、退治して帰らねば父が立場を失って、窮地に追い遣られる事になります。」

「なら、どうする。」

 鬼達は一斉に飛び散り、各々が手にした金棒を翳しました。

「貴方たちが、私の御願いを聞き届けて頂けないなら、私は貴方方と闘い・・・果てるしか無いので御座います。」

 大将の青鬼は、飛び掛かろうとする鬼達を両手で制して尚も問い掛けました。

「お前が、果てたら両親は助かるのか。そうでは有るまい。助かる道は無いのか。一度帰って軍勢を引き連れて出直す事は考えないのか。」

「何を言い出す大将。気でも狂ったか。」

他の鬼達が騒ぎ出し、狂ったように暴れ出す鬼と話を聞こうとする鬼同士の揉み合いが始まりました。

「静かにせんか。馬鹿どもが。俺達は鬼ぞ。

自分が誰かも忘れたのか。儂の考えに納得出来ん者は、今すぐ去れ。」

大将の恫喝に怯んだ鬼達は、少し距離を置いて静かに情勢を見守って居ました。辰之助は、その光景を唖然と見詰めて居りましたが、慌てて立ち上がり身繕いを正すと今度は砂地に両手を付き、土下座をして言いました。

「私には叶わぬ事なのです。桃から生まれた桃太郎と呼ばれ、町の人達から持ち上げられては居りましたが、実際には恐れられ、距離を置かれて育ちました。幼き頃より心に聞こえる声を便りに山に遊び、木々と獣だけが私の友でした。両親には只ならぬ恩義は御座いますが、その恩義には死を持って報いる他は無いので御座います。ただ・・・、その前に、どうか最後の御願いを聞いて頂きたいのです。」

 青鬼の大将は、他の鬼達を手で制したままの恰好で辰之助をじっと見詰め、声無く軽く頷きました。他の鬼達も、その辰之助の勢いに呑まれて頷き、大将と双方を見遣りながら、声を上げる者は誰も居ませんでした。

「此の者達の弔いをさせて欲しいのです。そして、この島の何処かに墓を作らせて頂きたいのです。そして彼等の弔いと埋葬が終わったその後で、改めて私と戦って頂きたい。決して謀る事は致しませぬ故。」

 鬼達は、静かに辰之助から離れて集まり、何やら相談を始めました。辰之助の処まで声は聞こえてきませんでしたが、項垂れる者や笑みを交わして肩を叩き合う者など、何故か辰之助の眼には穏やかな光景に映りました。

 やがて円陣は解かれ、鬼達は揃って辰之助の許に近付き、或る者達は砂浜に船を担ぎ入れ、中から三体の亡骸を丁寧に抱えて運び出し、そのまま列を組んで何処かに運んで行きました。

「行こう。桃太郎。俺達と共に弔おう。この大地より生まれ出でた命は、皆と共に在る命じゃ。皆で送って遣らねばならん。」

 辰之助は平伏し、砂に顔を埋めて泣きました。涙が止まらず、目の中に砂が入っても痛みなど少しも感じず、口から砂が入る事も気にせず、大声を出して泣きました。

弔いは夜を徹して行われました。月の輝きが、全て波間に解けてしまうまで続けられ、

辰之助も含めて、皆で鬼の用意した酒を飲み、辰之助以外の者は光る何か植物の塊の様な物を肴に盛り上がって居ました。しかし、良く見ると鬼達は何故か淋しそうで、順番に青鬼の大将に何か語り掛け、次々と洞窟の中に消えて行きました。

 辰之助が、訳を聞いても青鬼の大将は、笑って頷くだけでした。

 朝日が海の色を群青に変え始めた頃、丘の上に三つの墓が作られ、皆で祈って全ての弔いは終わりました。

その時には、大勢居た鬼達の半分以上が姿を消し、僅か三十人程に成って居ました。

「此の度は、私の願いを叶えて頂き、誠に有難う御座いました。これで彼等も浄土に無事に帰って行けたと思います。心置きなく私も彼等の後を追う覚悟が出来ました。」

 深々と大将に礼をした後、辰之助は砂浜へと歩き始めました。

「何処に行く、桃太郎。」

 振り返って、辰之助は微笑んで答えました。

「砂浜にてお相手願いたい。そして、私の躯は海中にでも捨てて下さい。墓など・・・笑止。」

 じっと辰之助の顔を見詰めていた青鬼は、同じく優しそうに語り掛けました。

「お前には、生き別れた妹が居るであろう。

逢いたくは無いのか。」

「この島に向かう途中で聞きました。海賊に預けられ今も生きていると聞きました。何故、貴方が御存じなのですか。」

「今、この島の近くに居る。逢いたいか。」

 一瞬辰之助の目は、大きく見開かれましたが、直ぐに目を細めて海原の方を見遣って口を開きました。

「同じ母の胎内から、共にこの世に生まれ出たとは言え、定めは遠く私達を遠ざけました。生きていると言う事を知るだけで私は充分なのです。逢う事は定めを歪めるだけの様な気がします。それに、私はこれから・・。」

「ふむ、良くぞ言った。それが良い。それが良いのう・・・。桃太郎よ、一つ確認したいのだが、この島に降り立った時、お前が言った事で気に成る事が有る。幼き頃より心に聞こえる声を便りに山に遊び木々と獣だけが友であったと言ったな。真か?」

 辰之助は、清々し気に笑みを浮かべて答えました。

「はい。偽りのない私だけの、安らかな時が有りました。」

 青鬼は、深い吐息を付くと立ち上がって、砂浜に歩きながら呟いた。

「惨い定めじゃ。」

 並んで歩きながら、不思議そうに辰之助は青鬼を仰いで言いました。

「惨い・・・。そんな風には感じて居りません。何故でしょうか・・・。死をも恐れぬ事でしょうか。」

「お前はな・・・。」

言い掛けて、青鬼は首を振って口を噤みました。辰之助は、時折、気に成りながら青鬼の表情を伺いながら砂浜へと降りて行きました。振り返ると、最初は付いて来て居た他の鬼達の姿が一体も見えなくなっていました。

何処に行ったのかと立ち止まり辺りを見回していますと 青鬼は先に小舟の近くに行き着き、立ち止まって辰之助の方を見遣って居ました。小走りに辰之助が近付いて行きますと、青鬼は船の先端を沖に向け、浪打際まで引き摺って行きました。

「他の方達は、どうされたのですか。」

 青鬼は、櫓を船中に放り込むと洞窟の方に向かって歩き始めました。

「待って下さい。どちらに行かれるのです。

約束をお忘れですか。此のままでは、私は何処にも行けなく成ってしまいます。」

 突然、風に乗って海鳥の大群が辰之助の頭上を舞い始め、賑やかな鳴き声と共に全ての海鳥が船上に舞い降りました。辰之助は、その光景に圧倒されて居ましたが、頭の中に言葉が反響してきました。

「ヤマノモノ イソゲ イソイデカエレ マニアワナクナル」

 これは、海鳥の言葉かと想像出来ましたが、言葉の意味を推し量る余裕も無く、辰之助は洞窟に入ろうとする青鬼を追い掛けました。

すると、青鬼は突然振り返って怒鳴りつけました。

「来るな。桃太郎、このまま家に帰れ。お前の定めは、此処では終わらぬ。儂らは消える定めじゃが、御前の定めは永久に続く。」

 その怒号に一旦は立ち止まりましたが、洞窟に青鬼が消えると、再び辰之助は追いかけて走り出しました。背後からは、先程の海鳥の言葉が執拗に飛び込んでは来て居りましたが、振り解くように辰之助も暗い洞窟の中に足を踏み入れました。

 ひんやりとした冷たい空気に、体中を包み込まれながら、目が慣れるまで壁を伝い鬼の居所に目を凝らして歩いて行きました。

しばらく行くと仄かに明りが漏れる、空洞の広がった場所が有るのが見え、辰之助は壁から離れて急ぎ足で向かいました。そこは、壁一面に黄緑色の光を湛えた美しい苔を群生させた場所で、思わず辰之助は立ち止まって息を呑みました。足元には、不思議な見た事も無い華やかな植物が花々を咲き誇らせており、洞窟の中だとは思えないような光景でした。しばらく我を忘れていた辰之助は、はっと我に返って急ぎ足で更に奥へと進んでいきました。

漸く青鬼の背中を見付けた場所は、大きな水溜りの有る空間で、其処にも壁一面光る苔が空間全体を包み込むように覆っていました。

 辰之助が足を踏み入れると、苔は色を黄緑から水色へ、水色から桃色へと 光がまるで呼吸するかのように彩色を変え、瞬きながら輝きを強めて行きました。

その様子に驚いた青鬼が振り返り、そこに辰之助が居るのを見付けると 目を細めて声を弾ませながら言いました。

「この者達が、このような歓喜の輝きをするのを儂は初めて見た。やはり、間違いないのう・・・。海鳥が教えて暮れた通りじゃった。有難い。最後にあんたに合えて、良かった。」

 苔の輝きに見とれていた辰之助は、青鬼に目を遣りました。水溜りの淵に立ち、両手に苔を握った青鬼は、水に飛び込もうとしているように見えました。

「どういう事なのですか。昨日からの貴方達の行動の意味が、私には皆目見当が付きません。説明して頂けませんか。あなた方に一体、何が有ったのですか。」

 青鬼は、両手に持った苔を口一杯に頬張り、壁一面の輝きを嬉しそうに見渡した後、辰之助の方を見て言いました。

「定めとは、自らが決めるものでは無いのだよ。あんたが此処に戻って来たのも、あんたが誰かに命じられたのも、そもそも川に流されたのも、全ては逃れる術のない縁の流れなのだろう。」

「戻ってきた?私が?何の話をされている。一体、誰が動かしているのですか。貴方達の神ですか。貴方は、今から神の許に行こうとしているのですか。それが決められた定めだと言うのですか。一体何の為に、私と何の関係が・・・。」

「神?儂はそんな者に仕えては居らんよ。それは人間が作った不確かな拠り所の呼び名じゃろうが。儂たちは大きな宇宙の意識の渦の中で生きて居る。」

「宇宙って・・・、宇宙って何ですか。」

 青鬼は、突然腹を抱えて笑い始めました。

「これは愉快じゃ。昔、儂があんたに聞いた事を、あんたは儂に大真面目に聞いて居る。これは溜まらん。笑いが止まらん。」

 唖然と見詰る辰之助の前で、青鬼は身を屈めて身を燻らせながら大声で笑っておりましたが、良く見れば泣いている様にも見受けられました。

「あなたが・・・私に聞いた・・・。」

 突如、青鬼は笑いを止め、笑顔をその顔面に貼り付けたまま辰之助を振り返り、軽く片手を挙げて声を掛けました。

「じゃあな、山の者、また此処で待っているぜ。」

 言い終わらぬ内に 青鬼は頭から勢い良く水に飛び込みました。跳ね上がる水飛沫の中、辰之助は慌てて水際に手を付いて水中を覗き込もうとしましたが、一瞬水面に映った異様なものに気付いて飛び退きました。跪いたまま恐る恐る水面を再び覗き込んだ辰之助は、そこに映る見知らぬ異形の者に目を見開き、声を震わせました。

「これは・・・。これは私の顔なのか。」

 真っ赤に晴れ上がった顔に吊り上った目尻、縮れた赤茶色の頭髪から延びる二本の角、唇の端からこぼれた鋭い牙、まるで話に聞く赤鬼にそっくりでした。

奇声を上げ、狂った様に駈け出した辰之助は、途中何度も転げたり壁に顔面をぶつけたりしながら砂浜に転がり出ると、海鳥が群がり飛び交って泣きわめく船上にそのまま一目散に走って行くと、頭から飛び込んで行きました。

一斉に海鳥たちは悲痛な叫びとも聞こえる声を発して舞い上がりましたが、一羽の鳥だけは船首に残ったまま 気の動転した様子の辰之助をじっと見詰めて居ました。良く見ると何羽かの海鳥が、血に染まって船内に転がっているのが見えました。辰之助はそんな異様な光景に気も留めず、息を切らしたまま櫓を手繰り寄せ、砂地を突いて必死に海上に出ようとしました。何かを繰り返し語り掛ける言葉にも意識を止めず、辰之助はひたすら恐ろしい幻惑から身を開放するかのように櫓を漕ぎだしました。やがて、船から見える鬼ヶ島が小さく成って行った頃、辰之助は船の上に気を失うかのように 仰向けに倒れ込みました。

 呼吸が穏やかになって、空に浮かぶ雲の流れに意識が焦点を合わせ始めた時、辰之助は

ゆっくりと両手をついて半身を起こし、船の周辺と潮の流れを確認して、船縁から恐る恐る海面を覗き込みました。そこに映った辰之助は、幼き頃より見てきた良く知る自分の顔でした。

「あれは、なんだったのだろうか。余りにも突拍子もない出来事の繰り返しに見た幻覚だったのか・・・。」

 安堵の余り、大きく息を吐いた辰之助は、船底にどっかと腰を下ろし、全身から噴き出した汗を拭う為に裸に成りました。そして、海水を全身に浴びながら火照った体を冷やしながら船の向かう先を確認していました。

「マニアワナイゾ ヤマノモノ。」

 頭の中に言葉が響いて、辰之助は舳先から辰之助を見詰める鳥に目を遣りました。

「間に合わないとは。何に間に合わないのですか。それに、鬼も最後に私に向かってヤマノモノと言ったように聞こえましたが、貴方も言われるヤマノモノとは何の事ですか。」

 辰之助は、一旦櫓を下して、鳥に近付きました。その時、辰之助は鳥が他の海鳥とは異なる異種であった事に気が付きました。海鳥に似た長い嘴を持ち、白い羽毛には覆われていましたが、その鳥は何方かと言えばカラスにそっくりでした。然も驚く事に鋭い足が三本も有り、見た事の無い白いカラスでした。船上に転がった海鳥の躯は何を意味しているのか?もしや神の使いか、地獄からの使者か、辰之助は次々と起こる不可思議な出来事に、空恐ろしい気持ちが込み上げて来るのでした。そんな辰之助の思いを知ってか知らずか、それでも尚、同じ言葉が繰り返し頭の中に響いてきました。

「イソゲ イソイデカエレ ヤマノモノ。」

 仕方なく辰之助は、再び櫓を手にして船を故郷の町に向けて進ませながら、心の中で白いカラスに様々な疑問を投げ掛け、自分が一体何者で有るのかを問い掛け続けました。

すると、突然白い鳥は羽搏き、舳先から辰之助の頭部へと移動して、三本の足で辰之助の頭部を挟み込み、大きく広げた翼で辰之助の耳元をすっぽり包み込むと直接言葉を発し始めました。

「全てを知り、悟る者には辿り着けない場所が有る。自らが齎した忌まわしい過ちは、失う意味さえ見失う。」

 辰之助は櫓を手から離し、遠い海原に目を凝らしたまま耳を傾けました。

「船を、進めよ。櫓を持て。お前は急がねばならん。」

「何処に急げと言われるのか。」

 辰之助は、言われた通り櫓を持ち直して、問い掛けました。

「お前が、自らが何者であるかを思い出す為の場所だ。」

「・・・・。」

「いにしえの時、まだ月が天上に輝く前の話だ。ここより近い淡路の海に、ある時青白く輝く水柱が立った。天にも届こうかと思われるほどの勢いを持った水柱は、やがて蒼き龍に姿を変えた。その龍の眼は紫の炎に包まれ、地上の異変を察して集った獣たちは、皆その炎の光明に照らされ石とされた。うず高く積まれていく岩石の山々は、あっという間に地上を埋め尽くして行った。その時、その岩石の山を突き破って、天空へ同じく舞い上った光が有った。黄金に輝く光柱は、天空にて炎の翼を広げて鳳凰に変化した。俺は、その鳳凰から生まれ出でたカラスだ。鳳凰は、龍を諫める為に地上に現れたが、龍の怒りと悲しみは深く、簡単にはいかなかった。」

「その話は、私に関係ある話なのか?」

「最後まで黙って聞け。理解する必要も無い。」

「いや、私が聞きたかったのは・・・。」

「鳳凰には理解できなかったのだ。その怒りと悲しみの意味が。母を失い、失った母を慕い、母に添いたいと願ったが故、父によって祖国を追われる事になった、それだけの理由が齎した激昂。父親の真意さえ計り知れない短絡さ。鳳凰はそれから長い時を費やし、母が去った常闇の世界と自分たちの住む世界とを行き来が出来ない訳と、母を追い死にかけた父親の辛い想いを伝えた。そして、漸く龍の怒りを静めた。しかし、悲しみだけは消える事なく、紫の炎は涙に濡れて地上に飛び火していった。そしてその小さき炎は命を宿し、この地上では生まれる筈の無かった者達が次々と誕生した。或者はそのまま海へと泳ぎ去り水の民となった。或物は陸地へと駆け去って行って山の民となった。また、或者は翼を羽搏かせて宙を舞い、空の民となった。お前が逢った、あの青い者達も嘗ては、その紫の涙から生まれた水の民なのだ。余談ではあるが、海水が此れほどの塩を含むように成った事にも影響を与えた。」

 辰之助は、櫓を漕ぐ手を止めた。

「それは、・・・ヤマノモノとは、山の民という事ですか?その話からすると、私の先祖もその龍の涙から生まれたという事。」

「理解するなと言った筈だ。頭で考えるな。手を休めず舟を進めよ。」

 辰之助は混沌としながらも、再び櫓を漕ぎ始めました。鬼ヶ島に向かう船上では、周りの景色に意識を見る余裕も無かった為、どの辺りを船が進んでいるのか、辰之助には見当もつかなかった。

「祖国から追い遣る事で、水と山と空の民を生み出す事になるとは想像もしていなかった父親だったが、結果としてそれぞれの民は、彼を慕い、地上のあらゆるエネルギーを守護する者となった。龍は、やがて人に似た姿に変化して野に隠れた。鳳凰は、その黄金色の瞳を空に投げて月を作り出し、夜ごと龍を見張る事になった。」

 辰之助は、水から櫓を振り上げ、そのまま船底を激しく叩きました。船は、大きく横揺れして、白いカラスは大きく羽根をバタつかせました。

「貴方の話には、嘘が有る。」

「嘘?嘘だと言うのか。何の為に嘘をつく必要がある。」

「私が、一番知りたいのはそこです。何の為に嘘をつくのです。」

「ヤマノモノの意味を聞かせろと言ったのは、お前の方じゃないか。」

「理解を止め、心で聞きました。全てが嘘とは思えないし、嘘だと言う確証もありません。だけど、母を慕う龍の話は嘘だ。見た事の無い母親を慕う事がそもそも無理だし、自らの妻を慕う子を、父親が追放するなど考え難い。鳳凰が説得したというのも嘘っぽい。説得するなら追放される前に話し合えば好いではありませんか。もし本当に、追放後に説得したというなら、それは恐らく鳳凰が計った陰謀だったからではないですか。」

 突然白いカラスは、鳥が放つとも思えない不気味な笑い声を上げました。

「なあんだ。思い出したのかスサよ。」

「スサ?また違う呼び名で私を呼んで混乱させるのですか。」

「会った事も無い母親に、異常な程の恋慕を抱いていたのは本当さ。父が、異常な程にお前の中から母親への想いを消そうとしたのも本当さ。だから、俺はお前に注進したのじゃないか。父親はお前の母親を業火の中で亡くした悲しみに暮れ、黄泉(よみ)の国から連れ戻すべく母親の元へと行ったのだ。しかし激しい火傷に見る影も無くなった母親は、その姿を見られた事で父親に呪いを掛けた。混乱のうちに逃れた父親は、黄泉の国を封印し、お前を含め誰も近付けなくして、自分の思い出の中だけに美しいお前の母親を閉じ込めたと、ちゃんと教えて遣った。嘘じゃない本当の事だろ?なのに、お前は怒り狂った。父親でさえ消せなかった母への愛情を、自分には許さないその行為を傲慢だと感じた。そして、何よりもお前を狂わせたのは、光を支配する姉と夜の闇を支配した兄だったのではないか。おそらくは、お前自身も気が付いては居ないようだったが、光と闇に挟まれて育ったお前の苦しみは尋常なものではなかっただろうな。尚もそれを助長させたのは、その苦しみがあの世界では理解されないものであったから。その苦しみって奴は、この地上に住む人間のものであったから。だから父親は、お前を()の国であるこの地上へと追放した。どうだ、こうしてみると、言わば俺は唯一の理解者だったとは思わないか。」

 白いカラスは、勝ち誇ったようにケタケタと翼を捩らせて笑い続けました。

「スサとは、もしかして須佐之男( すさのうの)(みこと)の事か。私の血筋に関わる人だったのか。」

「馬鹿な。肉体の変遷に何の意味が有る。お前はお前だろ。俺は俺だよ。思い出し切っては無いみたいだな。やはり言葉では限界があるという事だな。」

「私は、そんな古( いにしえ)の話を思い出したいのじゃ無い。」

「いや、お前にその積りが無くても、俺には有るのだ。言葉の記憶として、その肉体に残すだけでも意味が有る。もっと聞いて貰う、もっと大事な話をな。何故、お前の中に母の面影が有ったのか、気には成らんか?今も心の奥底に刻まれたままの面影、姉上の面影。」

「姉?姉の面影・・・。」

「お前は、幼少より姉の中に母親を重ねて恋焦がれてきた。お前がこの地に青龍となり涙に暮れた日々、お前の中に実像として有ったのは、実は姉への愛だったのだ。実はお前はそれに気付いていたのではないかと俺は感じた事も有った。その証拠に、一度お前は姉の元へと向かった事が有った。結果は更にお前を追い詰めるだけに終わったがな。天空より再び、この砂浜に降り立ったお前は、あの青鬼たちを呼び寄せ、これから末永くこの自分の涙で埋め尽くされた海を守護する様言い聞かせ、海原の神として根の国に追い遣った父の言い付けに逆らって、山々を守ると言い残してこの地を去った。その時に、お前が自分の事をヤマノモノと名乗ったのだ。」

 辰之助は、再び櫓を海に浮かべ漕ぎ始めました。この白いカラスが、果たして自分に何を為すために話し続けるのか、考えあぐねながら、見えて来ない故郷の海岸を求めて、舟を進めて居ました。

「そのヤマノモノは、その後どうなったのです。幸せな生涯を送ったとも思えません。ならばあなたが此処には現れなかったでしょうから。」

「一時はな・・・幸せを感じる時もあっただろうな。しかし或る時、お前は山中で、お前の涙から生まれた式神(しきがみ)八岐大蛇(やわたのおろち)に出会った。その八岐大蛇は、毎年村々の娘を食っては暴れて居った。お前は、その八岐大蛇の生まれた涙の意味や暴力から生まれる尽きぬ悲しみを教え諭し、その者を大きな河に変えて村々に償いとして水を運ぶようにさせた。そこまでは良かった。がしかし、そのままその村を去らず、お前は社に木箱に入れられ生贄とされ掛かった娘に会ってしまった。お前はさぞ驚いた事よのう。その娘が、姉に瓜二つだったからな。何とも皮肉な話じゃないか。愚かにもお前達は、すぐさま激しい恋に身をやつしたが、・・・クシナダと名乗った娘との温もりに満ちた家庭もそれほど長くは続かなかった。」

「何故。」

 再び、カラスが小気味よく笑いました。

「私が、クシナダに教えてやったからだ。お前は、あいつがこの世で一番愛している姉に生き写しなのだってな。」

「何故、そんな事をする。お前にどんな得があったのです。」

「お前には、分からないだろう。分からないが故に常に苦しみから逃れられぬのだ。お前は父親に寵愛される兄弟の中に在って、自分を孤独な闇に閉じ込めてきた。他人を見ず、自分ばかりを見詰めてきた。父親は、自分の方を見ない子供に、他の子には見せない感情を与え続けた。お前の心の闇を払おうと躍起になる父親を見続けたお前の兄は、俺を使ってお前から父親を奪い返す為に、お前が母を思うが余り為した様に嵐を起こし、悪霊を湧き起らせ根の国に追い遣るように仕組んだ。そして、お前が姉の元に出向いた時には、お前が遣ったように見せ掛けて、アマテラスの機織り場を破壊し乙女を抹殺し、天岩戸(あまのいわと)に籠るように仕組んだ。父親の心から遠ざける為にな。可哀相にクシナダはお前と夫婦に成ったが為に自ら命を絶つことになった。仕上げはこの後だ。」

「黙れ!」

 辰之助は、櫓を大きく振り上げ、自らの頭部に止まった白いカラス目掛けて、真っ直ぐ振り下ろしました。瞬時に白いカラスは辰之助から逃れて宙を舞い上がり、勢い余った櫓はそのまま辰之助の頭部を激しく打ち付けました。真っ赤な血潮が辰之助の顔面を流れ落ちていき、霞んでいく視界と共に辰之助は意識を失い、そのまま舟から水しぶきを立てて海面に倒れ込んでいきました。

白いカラスは上空を回りながら、暫くその様子を見ていましたが、辰之助の姿が海中に見えなくなると、そのまま遠く飛び去って行きました。

 

辰之助が意識を取り戻した時、目に映るのは満月の眩しさと海面に飛び跳ねる月光の道だけでした。

手足には沢山の海藻が絡み付いていて、それを片手で交互に解いていきながら、肌に感じる砂粒の感触に生きている実感を取り戻していきました。立ち上がろうとすると、素直に体が反応し、何処にも痛みが無い事が不思議に思えました。そして、何よりも生きている事が奇跡だと感じていました。

気持ちが落ち着くと、砂を踏みしめながら月の灯りを頼りに、更に周辺を確認していきました。そこは鬼ヶ島に出発した海岸に近い場所でした。

辰之助は父と母の待つ家を求めて走り出しました。直ぐに見慣れた家並みを左右に見る事が出来、心の高ぶりに速度を上げて、息が切れるのも厭わず、早く誰かと擦れ違わないか、少しでも早く自分が生きて帰って来た事を父と母に伝えなければと思いながら走りました。しかし、夜も更けており灯りの燈った家も見付けられぬまま、自分の住み慣れた実家に到着しました。

いや、到着した筈でした。しかし、辰之助の目に前に在ったのは、既に家とは呼べない程に焼け焦げた黒い炭の山でした。

焦げ臭い匂いが漂い、闇夜に白煙が月光に揺らめくのを呆然と見詰めながら、辰之助は実家が燃え尽きてから、まだそれほど時が経っていないように思えました。

辰之助は頭の整理もつかないままに焼け跡に足を踏み入れ、探す物とて分からぬままに 焼けた木材を注意深く避けながら奥へと潜るように入って行きました。するとその時、人の話し声が聞こえた気がして、辰之助は息を殺して身を屈めました。

「おれは、何だか気分が晴れねえぜ。怨霊に祟られたりしねかな。」

「まだおめぇは、そんな事を言ってんのか。これは天罰みたいなものだろ。」

「だけどよ、なにも殺す事はなかったのじゃねぇか?何処かに追っ払ってしまえば済んだ話じゃなかったかって考えてしまうよ。」

「馬鹿云え!俺たちが飢饉で苦しんでいる時に、この屋敷の連中は豪族と組んで好いべべ着てよ、俺たちが一生掛かっても口に入れられないような豪勢な御馳走を食べていたんだぜ。あの桃太郎が居やがった時は、神だなんて信じちゃ居なかったが、万が一って事も有るから手が出せなかったが・・・。おめえじゃなかったか?鬼ヶ島に行かせりゃ、その留守中は遣りたい放題だって提案したのは!」

「そうだけどよう、もし本当に神の子だったら鬼退治してくれたら俺達助かるなって、思ったのも本当の話なんだぜ・・・。」

「だけど、お前も見ただろ。夕方、砂浜に血だらけの無人の舟が戻って来たじゃないか。所詮、ガキに鬼退治なんか、最初から出来る筈がねえし、やっぱり神の子なんかじゃ無かったって事だろ。」

「そうだな、違ったな。少しは期待したけどな・・・。」

「馬鹿だな。本当に馬鹿だな、お前は。」

 草履の音と村人の声が遠ざかって行くのを聞きながら、辰之助は体中が熱くなっていくのを感じました。急いで帰れと言うカラスの言葉の意味を思い知った辰之助は、逆にこの一連の出来事に白いカラスの関与を疑わずには居られませんでした。

「私は、ヤマノモノでもスサノウでも桃太郎でも無い。私は、辰之助だ。唯の人間だ。」

止めどもなく溢れて行く涙が、くしゃくしゃに歪んだ辰之助の顔面を濡らしていきました。

と同時に体中から立ち上り始めた蒸気が、赤く変色していき、濃くなっていく体毛が辰之助を覆い始めました。

パキン。

その時、折り重なった炭の燃え滓が音を立てました。はっと我に返った辰之助は、叫びました。

「父上!母上!」

音のした方へ駆け寄った辰之助は、必死に焼け焦げた材木を掻き分けました。すると、中から一匹の鼠( ねずみ )が現れました。

鼠にしては少々大きな体形で、白い毛に覆われた獣は、怪しげな赤い眼で辰之助を見上げて居ました。意外なものの出現に戸惑いながら、辰之助は心の中で叫びました。

「お前は、あの白い八咫烏( やたがらす )の仲間か。」

その時既に、辰之助の頭髪は赤く変色し、衣は裂け乱れ、赤茶けた体毛は全身を覆っていました。

辰之助は、右手の拳を振り上げて、その得体の知れない生き物に振り下ろしました。白い生き物は、大きく飛び上がって逃れ、焼け跡から離れた道に降り立ちました。

「失礼な。鼠って思っただろ。私は鼠では無い。ウサギだ、間違うな。」

突然の肉声に辰之助は大層驚き、自らも焼け跡から飛び出しました。

「辰之助、落ち着け。鬼の完全体に変化してしまえば、俺にはもう手の施し様が無くなる。八咫烏の思い通りに成ってはいかん。」

「もう、誰にも騙されん。戯言を言うな。」

「分かった。今のお前には、何も信じられないのも仕方ない。しかし、その姿を人間に見られては元も子もない。付いて来い。」

白いウサギは、そう言い残すと山に向かって飛ぶように跳ねて行きました。

「逃がすか。」

半ば鬼と化した辰之助は、月に向かって飛び込む様に跳ねるウサギを追って山道に入り、藪を蹴散らしながら狂ったように叫びながら追走し、やがて姿が見えなくなりました。


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