オリヴィアのいぬ間に
つい先ほど改めてオリヴィアを仕事に同行させるよう心に誓った手前、非常に心苦しいのだがそれでも一人でやらなければならない仕事がある。
つまり、子供が出歩いてはいけない時間の仕事だ。ジョーにとって夜は非常に仕事のしやすい時間である。ジョーの捜査方法は法律スレスレを謳っているが、大概はいつも越えている。そしてそれを誤魔化すには夜の時間が最適だ。
ジョーは今日の捜査の過程である種を撒いておいた。ダン・ボイルを殴ったり蹴ったりることだけが仕事じゃない。そしてそれが収穫できるのは夜の可能性が高く、今日かもしれないし明日かもしれない。とにかく待つのが今の仕事だ。
車の中でハンドルにもたれかかり、前方を静かに見つめる姿は獲物を待ち伏せるクロヒョウに似ていた。
ダン・ボイルは水の張ったバスタブに浸かりながらジョーに対する悪態をつぶやく。
──くそ、くそ、くそったれ!
ジョーに痛みつけられたところがしみるが、すぐにひんやりとした感触が熱を解く。ダン・ボイルは息をゆっくりと吐きバスタブにもたれかかる。そしてすぐさま今日の出来事が頭をよぎり、咄嗟に顔をバスタブの水面につける。そしてやはり傷がしみて結局今日の出来事が頭の中で繰り返される。
──一体なんでこんなことになった?
ダン・ボイルは自問するが、答えはでない。
十四歳のころ、ダン・ボイルはわけもわからずトビーの率いるジョックのグループにいじめられたことがある。トビーはダン・ボイルを壁際に立たせ、親に買ってもらったエアガンの的にしたり、アメフトの練習だと言い、タックルの標的にされたりもした。意味もなく暴行も受けたし、恥をかかされたりもした。
何十年も時が経た今でもトビーのグループが“自分はなにも悪いことのない、清廉潔白な人間です”ってつらで生きていると思うと、腸のところでどす黒い蛇のようなものがのたうち回る。あのジョー・バニングとかいう探偵も似たようなものだ。暴力さえ振るえば、なんでも思い通りになると思っていやがる。
ダン・ボイルは冷水からあがり、身体を無造作に拭いたあと、パンツを履いてリビングに向かう。
すると、そこにはフルフェイスマスクをつけたつなぎ姿の男が三人立っている。ダン・ボイルはそれを見て恐怖や焦燥感より先に「なんだ、お前ら」と間の抜けた顔で聞いた。すると、背後から別の覆面をつけた男がダン・ボイルを突き飛ばす。
気づくと、五人の覆面の男に囲まれていた。
ダン・ボイルもこの状況が不味いことに気が付いた。
覆面の中で一番背の高いの男がダン・ボイルの前に出ていう。
「こんばんは、ミスター・ボイル」
ダン・ボイルがおびえた目で見ていると、男は唐突にダン・ボイルを殴りつける。ダン・ボイルは後ろにつんのめり、鼻からはどろりと血が溢れ出す。
痛みに喘いでいると、男はダン・ボイルの少ない髪を掴み、無理やり立たせる。
「挨拶は大事だミスター・ボイル。おっと、私の名前が気になるのか。そうだな、私は──キング・クンタとでも名乗ろうか。ではもう一度やり直そう。こんばんは、ミスター・ボイル。私はキング・クンタだ」
「……こ、こんばんは。キング……クンタ」
まるで劇場にでも立っているかのように振る舞う男──キング・クンタを名乗るこの男はダン・ボイルが挨拶を返すと満足そうにうなずき、軽く突き飛ばす。すると背後から二人の男がダン・ボイルを羽交い締めする。
「さて、ミスター・ボイル。我々は信頼の元、とても素敵で親密な関係を結べたはずだ。そうだろう?」
「なんの話だ?」
「忘れたのか? 冷たいな。ミス・ボレアと標本の話だよ。わかるだろ」
ダン・ボイルは唾を飲み込む。口がからからに干上がっている。水が欲しかった。目の前の──キング・クンタを名乗る男は声を変えているものの、明らかにダン・ボイルを追い詰めることを楽しんでいる声色だ。ジョー・バニングの感情の無いものとは違う、覆面をしているのに歓喜の表情を浮かべているのがわかった。恐怖が蛇のように腹の底から鎌首をもたげる。
「な、なんなんだ、どういうことだ。私はケイトリンを引き渡し、標本をもらった。それで終わりだ」
「終わり? はは、面白いことは言うな、君は。終りだって? 終りじゃないぞミスター・ボイル」
キング・クンタはダン・ボイルの鼻先が触れそうなほど顔を近づける。
「おまえは欲のために我々と関係を持ち、罪を犯した。それは始まりだ。裏の世界でお前は生まれ変わったんだよ。犯罪者として」
「何を言っている?」
キング・クンタはつまらなそうに息を吐き、体を離す。
「まあ、わからないならそれでもいい。それも一つの生き方だ」
意味がわからなかった。ダン・ボイルはこの男が正気とは思えなかった。
「──さて、ミスター・ボイル。我々は君のことを親しく思っているが、今日、その信頼関係にヒビの入る情報が入ってきた。つまり、探偵のジョー・バニングが君のところに来たとか」
「あの、キング・クンタ」
「我々は懸念したわけだ。君が──もちろん信じているが──我々のことを話したんじゃないかってね」
「話してません、決して」
「痛そうだな、それ」
キング・クンタはダン・ボイルの頭の傷を撫で、親指をめりこませる。ダン・ボイルは声にならない悲鳴をあげる。
「かわいそうに。大丈夫か? きっとあの探偵に痛めつけられたんだろうな」
言っている間にも傷口を撫でるのをやめない。
「なあ、言えよ。なにを話したんだ。言えよ。俺だけに教えてくれよ。なあ」
「なにも!」
ダン・ボイルは悲鳴をあげる。
「なにも話していない!」
キング・クンタは指を離す。
「なにも話していない? そうか!」
キング・クンタはダン・ボイルの腹を殴る。
「俺に嘘を吐くな!」
キング・クンタはもう一度腹を殴る。
「俺に嘘を吐くんじゃねえ!」
今度はダン・ボイルの顔を殴る。
「わかってんのか! 俺に嘘を吐くんじゃねえ! わかってんのか!」
何度も何度も殴りつける。ダン・ボイルは悲鳴をあげる暇もなく、ぐったりとなすがままにされている。キング・クンタは殴るのを止め、落ち着くように息を吐く。そしてダン・ボイルを指さす。
「俺は悲しいぞ、ミスター・ボイル! 嘘なんて吐くな。俺とお前の仲だろ」
キング・クンタは慈悲深い目をしてダン・ボイルの肩をつかむ。ダン・ボイルは荒い息を吐きながら言う。
「本当だ……何も話していない……本当だ……」
キング・クンタは構わず腹を殴りつける。
「なあ、ミスター・ボイル。来い、見てみろ」
キング・クンタはダン・ボイルを標本の飾られた廊下に連れてくる。
「ほら、これだ。たくさん並べられた標本の中でここだけ不自然な間隔がある。これはロードハウナナフシの標本だ。そうだろ?」
ダン・ボイルはぐったりとして答えない。
「お前はこの虫の死骸のためだけに、一人の少女の人生を生贄にささげた。そんなお前が我々の情報を話すなんて動作もないはずだ」
「知らない……」
キング・クンタはがっかりしたように息を吐き、振り向きざまにダン・ボイルを殴りつける。
「また嘘を吐いたな」
ダン・ボイルは口や鼻から血をたらしながらキング・クンタの目を見る。先ほどの歓喜とは打って変わって冷酷な目をしている。だがそれは歓喜の目と全く同じように思えた。邪悪な目だ。ダン・ボイルはこの目に見覚えがあった。ロードハウナナフシの標本を手に入れた日、鏡で見た自分の目だ。それに気が付いた瞬間、キング・クンタの拳が眼前にまで迫り、視界が大きく揺れる。
もはやキング・クンタは“言えよ”とも“嘘を吐くな”とも言わない。無言でダン・ボイルを殴り続ける。周囲の覆面の男は無言でそれを見守る。
キング・クンタは強力な一撃を腹にきめこんだあと、一度クールダウンするように手を振る。
「──さて」
キング・クンタはいう。
「暫定的裏切り者であるお前だが、これから殺すことになる」
ダン・ボイルはちらりとキング・クンタを見る。
「とはいえ、真実のはっきりしないままお前を殺すのはさすがの俺でも心苦しい。だからお前に正直者になるチャンスをやろう。最後に真実を言うつもりは?」
ダン・ボイルは血と唾の混ざった体液を口からたらしながら、口を開く。
「私は、なにも、知らない」
「そうか」
キング・クンタはうなずく。
「そうかそうか、まあどっちにせよ殺すから、別にいいけど」
そして懐から折り畳み式のナイフを取り出し、
「でも俺は絶対話したと思うんだけどなあ」
そういってなんてこともないようにナイフを振りかぶり、
「──その通りだ」
直後、背後から声が響く。
「そいつは俺に喋ったぞ」
キング・クンタはとっさにナイフを背後に振ると、その腕を強い力で掴まれる。ナイフがこれ以上動かない。
「いろんな話を聞いたよ。たっぷりとな」
ダン・ボイルが顔を上げると、そこにはダン・ボイルを痛めつけ、ロードハウナナフシを奪った黒人探偵が立っていた。
「ジョー・バニング……JB」
キング・クンタが嗤う。
「こんなところで会えるとはな」
「誰だ? お前」
ジョーはキング・クンタの腹を蹴り飛ばす。キング・クンタは吹き飛び、ダン・ボイルとダン・ボイルを抑える覆面二人のところへなだれ込んだ。
背後で様子を見守っていた残りの覆面二人は床に倒れる三人を飛び越え、ジョーに襲い掛かる。
ジョーは身体を静め、素早く拳を放つ。弾ける音がし、覆面が後ろに倒れ込む。ダン・ボイルには一度に二つの拳が放たれたように見えた。
もう一人の覆面はジョーに向かって拳を放つ。ジョーは上腕で拳を外側に逸らし、覆面の脇腹、頬と流れるように殴りつける。そしてふらついた瞬間をサイドキックで吹き飛ばす。覆面は壁に打ち付けられて倒れる。
キング・クンタはその様を見て笑う。
「すごいな、ジョー・バニング。マジ速いな」
そしてダン・ボイルを抑えていた覆面二人の肩を叩く。
「やっちまえ」
二人の覆面はナイフをとりだし、構える。
それを見たジョーは腰のベルトに挟んである伸縮式特殊警棒を取り出し、強く振って伸ばす。
覆面の一人がナイフを振りまわしながら襲い掛かる。ジョーは一撃一撃を慎重に弾く。すると、別の覆面が同時に襲い掛かってくる。ジョーはやや強引に絡めとるような動作でナイフを弾き、脇腹を突く。覆面は呻きながら後ずさる。それと入れ替わるように後ろの覆面が襲い掛かりナイフを振り下ろす。ジョーは身体をわずかに傾ける。その鼻先をナイフが通過する。覆面はナイフを翻らせ、横一文字に斬りつける。ジョーは上半身を屈め、ナイフが頭上を通過する。そして警棒で覆面の膝を殴る。覆面は呻き声をあげ、糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちる。ジョーはその覆面の頭を踏み抜く。
脇腹を突かれた覆面がわずかに躊躇しながらナイフを突き出してくる。ジョーはそのナイフを弾く。覆面は先ほどの痛みを引きずっており、恐怖している。警戒するようにじりじりとジョーから距離をとる。だがジョーはサッと距離をつめ、警棒を繰り出す。覆面はナイフで防ぐ。衝撃がナイフから腕に伝わり、手が痺れる。ジョーは警棒を翻らせ、素早く振りつける。覆面は寸でのところ全ての攻撃で防ぐ。だが覆面にはもうジョーの動きが見えていなかった。あまりにも速すぎるからだ。故に全て直感だけで防いでいた。だが直感は長くはもたない。集中力がわずかに途切れた瞬間、強い衝撃が覆面の側頭部に襲う。その直後に重い蹴りが腹に入る。覆面の意識はブラックアウトした。
ジョーは気絶した覆面たちの中で息を吐く。すると感嘆の口笛が聞こえる。見ると、キング・クンタがダン・ボイルを下敷きにして座っていた。
「すげぇな。無傷でのしやがったよ」
「お前は?」
「キング・クンタ──と今は名乗っている。まあ、どうでもいいことだな……。なあ、ジョー・バニング。この件から手を引いた方がいいんじゃないか?」
「何故そんなことを言うのか知らないがお前の決めることじゃない」
「知っておいたほうがいいと思う。俺が教えるかどうかは別としてな」
「じゃあ吐かせてやる」
ジョーがキング・クンタに近づこうと一歩足を踏み出した瞬間、キング・クンタは拳銃をとりだし突きつける。
「おっと、危ない危ない」
ジョーは足を止め、冷静に拳銃を見下ろす。
「あんたが俺を不機嫌にさせると、ついうっかりこの鉛玉を黒いケツにぶちこんでしまうかもな」
「じゃあやればいい」
「残念、俺はご機嫌だ」
ジョーはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「何が望みだ」
「別に」
キング・クンタは肩をすくめる。
「ここでお前と無理にやりあってもいいが、俺は痛いのが大嫌いなんだ。だから俺はこれでお前をビビらせて、おうちに帰る。ほら、武器を落として壁に手をつけ。白人警官に押さえつけられた黒人みたいにな」
ジョーは言われたとおり背中を向け壁に手をつける。キング・クンタはダン・ボイルにウィンクして「楽しいな」と呟く。そしてゆっくりとジョーのそばをとおりすぎ、玄関にさしかかる。
「おい」
ジョーが声をかける。
「部下は好きにさせてもらう」
キング・クンタは鼻で笑い、
「好きにしろ」
とだけ言い残して去る。
ジョーはすこし玄関の方を睨み、すぐにダン・ボイルの方を振り向く。ダン・ボイルはジョーを見上げている。
「助けてくれたのか?」
「いや?」
ジョーは床に膝をつき、気絶した覆面男の覆面を剥いでいく。
「だが現に助けてくれたじゃないか」
「それは違う」
見ると、覆面の下は黒人の青年だった。思ったより若い。顔にはどういう意図なのかわからない、刺々しい刺青が彫ってある。
「見ろ」
ジョーはダン・ボイルに声をかける。
「情報がたくさんある」
「何を……?」
「お前の家に俺が来たと情報を流したのは俺だ」
ダン・ボイルは言っている意味がわからないと首が振る。
「情報の伝わる速度を確認したかったからお前には黙っていてもらった。思ったより早かった。おそらく地域に根付いた組織の犯行だ」
「……つまり、私を餌にして、こいつらを釣ったのか?」
「そうだ」
「そんな……」
ダン・ボイルが口を震わせる。
「そんなことをして良心が痛まないのか?」
ジョーは片眉を上げ、ダン・ボイルを見る。
「特に痛まない。お前はどうだ? ケイトリンを誘拐するとき、良心は痛まなかったのか?」
ダン・ボイルはぐっと口つぐみ、うつむく。
「今は……痛んでいる」
「もっと早く“良心”とやらを自覚するべきだったな」
するとここで、ジョーがあるものを発見する。
「……なるほどな“ブロズ”だ」
服を捲られた覆面男の腹にはハートにナイフを突き立てた刺青が彫ってある。
「ストリートギャングか?」
「もうお前には関係ない」
ジョーは言い放つ。
「なあ、聞け。聞いてくれ」
ダン・ボイルは足を引きずりながらジョーに近寄る。
「確かに私は罪を犯した。それは認める。だから君の手伝いをさせてくれ。頼む」
ジョーはうんざりしたように首を振る。
「冗談だろ? お前の自己満足に付き合うつもりは無い」
「そうは言うが、私はもうどうすればいいのかわからないんだ」
「俺の知ったことか」
ジョーはダン・ボイルの方を見ず、覆面男たちの財布や素顔を確認していく。どれもブロズのメンバーだ。そして彼らは皆若い。その間、ダン・ボイルは懇願するような目でジョーを見つめてくる。ジョーはため息をつき、ダン・ボイルの方を見ずにぽつりと呟く。
「自分の罪をどうするか自分で考えろよ。まずはそれからだろ」
「……ああ」
ダン・ボイルは噛みしめるように頷く。
「そうだな。その通りだ」
その時、突如として玄関の扉が蹴破られる音がする。
「気が変わったぜJB!」
そこには拳銃を二丁構えたキング・クンタが立っている。
「お前ら全員おっ死ね!」
空気を震わせるほどの轟音が響き、ジョーは咄嗟にリビングに転がり込む。その足先を銃弾が掠める。
キング・クンタは楽しそうな奇声をあげながら引き金を無造作に引く。嵐のような銃弾がダン・ボイルの家を蹂躙する。壁や床、標本など全てを銃弾がズタズタにする。
銃弾を撃ち尽くすと、キング・クンタは満足げに息を吐き、
「アスタ・ラ・ビスタ、くそやろう」
と言い残し、足早に去っていく。
そこには、先ほどまでのことが嘘であるかのような沈黙が降りている。
ジョー・バニングはゆっくりと起き上がり、周囲を確認する。照明は壊されて家の中はばかに暗い。廊下に出ると血の匂いがした。見ると、ダン・ボイルが虚空を見つめて床に転がっている。生き残っているものはいない。覆面も皆、等しく死んでいた。
ジョーは冷静な目で辺りを見渡したあと、”くそったれ”と静かに毒づく。証拠も時間もすべてキング・クンタに奪われた。じき警察がここに来るだろう。
面倒はなしだ。ジョーはフードを被り、逃げるようにこの場を去った。