トルゥーグリッド
一度準備するために家へと戻り、必要なものを車に詰め込んだあと、オリヴィアと合流してダン・ボイルのところへと向かった。
ダン・ボイルはオリヴィアやケイトリンの中学教師らしく、生徒からの評判は“悪いわけではないが良いわけでもない”だそうだ。当たり障りのない代わりに授業も退屈そうだとジョーは思った。
ダン・ボイルの家へ向かう道中、ジョーは会話もなく車を運転していた。
横目で助手席に座るオリヴィアの様子を見やると、強張った表情で窓に流れる外の景色を見つめていた。今時の子らしく、この世には楽しいことは何もないといった面でスマートフォンをいじったりはしない。緊張しているように見える。
「オリヴィア」
声をかけるとオリヴィアはびくりと肩を跳ねらせる。オリヴィアが見ると、ジョーは既に前を向いていた。
「……なに?」
「お前は車の中に残れ」
「イヤ。もし心配して言っているなら余計なお世話よ。別に、緊張しているわけじゃないから。ただケイトリンが心配なだけ」
「そうか。だが俺も心配して言っているわけじゃない」
少し間を置いてジョーは言った。
「頼みがある」
ダン・ボイルはバートンの郊外に住んでいる。狭い通りにいくつも並んでいる家と全く変わり映えのない、強いて言えば庭がやや荒れている。その程度の違いしかない一軒家に住んでいる。壁はくすんだクリーム色で、見ていると気がめいってくる。
ジョーは網戸を押し開け、庭を通り、玄関にある扉をノックする。すると、中からバタバタと思い足音が響く。しばらくしてから扉がわずかに開き、中年の剥げかかった頭と、割れた風船のように萎れた頬。睨めつくような目が扉の隙間から覗かれる。
「誰だ」
ジョーは口角を上げ、親し気な笑みを浮かべる。
「どうも、俺、ロニーって言います。ケイトリンの兄です。妹のことで話を聞きたくって。今、お時間よろしいでしょうか?」
「ケイトリン?」
ダンは警戒心を解かない。
「なんの用だ?」
「実は妹が三日前から家に帰ってなくて、先生に一人一人心当たりがないか昨日から聞いて回っているんです」
「一人一人? 昨日からか?」
「ええ、ダン・ボイル先生で、えーと……そう、23人目です」
ダンは僅かに考えるように視線を上に逸らし、「待ってろ」と言い残し、家の中へ戻っていく。直後、ジョーの耳元でノイズが響く。
『ザ……ザザ……あー、あー、ハローハロー。こちらナンシー。美少女探偵ナンシー。聞こえる?』
オリヴィアの声だ。声は耳に装着している小型のBluetoothイヤホンから響いている。ジョーは声を潜めて返事する。
「真面目にやれ」
『それで、どんな感じ?』
「聞いていただろう」
『あんたの所感を聞いてんのよ。あいつ警戒しすぎじゃない?』
ジョーは聞こえるようにため息を吐く。
「どうかな。バートン周辺に住んでいれば誰でもああなる。とくに、黒人が訪ねてくればな」
『そんなこと、ないわよ』
「そういうのはいい。そういうつもりで言ったわけでもない」
『あたしは』
「静かに。集中しろ」
扉が開かれ、ダンが出てくる。ジョーは笑みを貼り付かせる。
「入れ。本当のようだな」
促されてジョーは家へ入る。
『どういうこと?』
「ロニーにいくつかダン・ボイルと親交のありそうな教師の所へ話を聞きにいかせただけだ」
小声でオリヴィアに返事しながらダン・ボイルの背について廊下を歩く。壁には昆虫の標本が壁に掛けられている。蝶が多い。色とりどりの蝶の死体が額の中に収められている。ジョーにとっては気味の悪い光景だった。その中心に、赤黒い、葉巻のような昆虫の標本がある。
「すごいですね」
「標本か?」
ダン・ボイルは振り返りながら嬉しそうに笑う。
「ええ、美しい。いつから集めているんですか?」
「去年だ。この年になってから美しいものを永遠に維持することの尊さを覚えてね。見ろ、アドニスモルフォ蝶だ。鱗粉の構造に対する光の干渉でこの美しさを表現している」
目を細めて輝くような青い羽のモルフォ蝶の並べられた額縁を眺める。
「君もやってみたらどうだい。学のある尊い趣味だ」
「考えてみます」
ジョーはいった。
「ケイトリンも虫が好きでしたので」
リビングに通され、ジョーは木造りの椅子に座る。机にはテーブルクロスが掛けられている。常に笑顔を貼り付かせているため、顔の筋肉が疲れる。ダン・ボイルは淡いピンクのポロシャツにチノパンとどこかで見たような恰好だ。向かいの席にいかず、キッチンの方へと向かう。
「コーヒーは?」
「たてたてですか? ぜひ」
ダン・ボイルはコーヒーポットから白いコーヒーカップに注ぐ。コーヒーからは白い湯気がたっている。ジョーは笑顔で「どうも」と礼を言い、コーヒーを啜った。ドブみたいな味がした。
「おいしいですね。ケイトリンもこの味が好きだった」
「それで」
ダン・ボイルが向かい側の席につく。
「ケイトリンのことが聞きたいんだったね」
ジョーのことをケイトリンの兄だと信用したことで態度は幾分か柔らかくなった。
「はい、妹のことですみません」
「いや、私も心配していたところだ。確かに昨日は欠席していたね」
「昨日は土曜日では?」
「私は将棋・クラブの顧問だ。ここらへんで将棋をできるのは私くらいだから、教師と兼任している。そこにケイトリンも所属しているんだが、知らなかったのか?」
「知っていましたがあなたが顧問だとは知りませんでした。いつもお世話になっています」
「うん、ケイトリンは頭のいい子でね、将棋の才能は間違いなく私よりある」
「自慢の妹です」
「だろうね」
オリヴィアが呆れた声色で『よくそんなスラスラと嘘がつけるわね』と口を挟む。ジョーは無視した。
「それで、三日前だね」
「はい、木曜日です。その日、放課後で先生と話したと妹の友人から聞いたのですが」
すると、ダン・ボイルはわずかに顔を強張らせる。
「ああ、その通りだ」
ダン・ボイルは首肯する。
「確かに私はケイトリンと話した。だがやましいことなんて何もない」
「ええ、ええ、わかります。ですので、先生と話したあと、ケイトリンがどうしたのかを教えて欲しいのです。ケイトリンとの話が終わったのはいつごろですか?」
「ええと、何時だったか、なんせ三日前のことだからそんなに覚えていないよ。15時15分頃じゃないかな。授業が終わったのは15時だから。うん、大体そんな感じだ」
ダン・ボイルは記憶を引っ張るように遠い顔をする。
「そのあと、ケイトリンは直接帰りました?」
「そうだと思うよ」
「話をした場所はどこですか?」
「一階の理科教室だ。将棋・クラブに使用している」
「ふーむ」
ジョーは背もたれにもたれかかり、“考えるひと”の真似をするように口元を覆う。
「やはり、ケイトリンの足跡は先生のところで途絶えているんですよね」
ジョーは疲れ切ったようなため息をつく。
「こうして沢山聞きまわったけど、先生の目撃証言が最後なんですよ」
「疑っているのか?」
ダン・ボイルの白い肌にサッと赤みが差す。
「私が犯人だと?」
「犯人? いや、いや、まさか。疑ってなんていませんよ。先生はこれが誘拐事件だとでも?」
言いながらジョーが笑うとわずかに狼狽えながらかぶりを振る。
「いや……そういうわけじゃないが、可能性は考慮されて然るべきだ」
「そうですね、その通りだ。さすが先生」
ジョー指を鳴らし、ダン・ボイルの方を指す。その笑みは先ほどと変わりは見えないが、目は怪しい輝きを放っている。
「可能性というのは全て虱潰しに考慮されるべきだ」
ジョーは両手を組んで身を乗り出す。ダン・ボイルはこのケイトリンの兄を名乗る青年が急に雰囲気が変わって見えた。
「将棋・クラブの教室でケイトリンと何の話をしました?」
「別に、大したことじゃない。昨日のクラブ活動についてだ」
「それだけですか? それだけのためにわざわざ教室にまで呼んだのですか?」
「何だ?」
ダン・ボイルは憤慨して立ち上がる。
「何のつもりだ?」
一方ジョーは全く身じろぎもせず、悠々と足を組んで席に座っている。
「可能性ですよ、ダン・ボイル先生。可能性の話です」
一瞬、ダン・ボイルはさらに怒鳴ろうとする素振りを見せたが、やめた。そして不快そうに溜息をつき、
「標本だ」
ぽつりと言葉を漏らした。
「ケイトリンに昆虫の標本を整理するのを手伝ってもらった。うちのじゃない、学校のだ」
「なるほど、標本ですか」
そのとき、ジョーはわずかに目を細めて、ここではないどこか遠い所を見る様な表情になる。ダン・ボイルはその顔を見て一瞬奇妙な不安に襲われるが、次の瞬間ジョーの顔には笑顔が戻っていた。
「すみません」
ジョーはコーヒーカップを掲げる。
「コーヒーのおかわりを貰えますか?」
「ああ……」
ダン・ボイルはすこし緊張のとけた顔をしてうなずく。
「わかった」
ダン・ボイルはジョーからコーヒーカップを受け取り、台所にあるコーヒーポットから新しいコーヒーをなみなみと注ぐ。コーヒーからは白い湯気がたっている。
「煎れたてだぞ」
言いながら、ジョーに手渡す。
「いいですね」
ジョーは笑みを深めてうなずく、そしてコーヒーを啜り、「うん」とうなずくと、そのコーヒーカップでダン・ボイルの側頭部を殴りつける。カップが弾け、白磁が散らばり熱々のコーヒーがダン・ボイルの顔面にぶちまけられる。
「ギイヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
突然の出来事に飛び上がり、自身に群がる虫を跳ねのけるかのように顔面を掻きむしる。さらに白磁の破片がいくつか肉を裂いて血を吹き出している。
ジョーは混乱するダン・ボイルの首根っこをつかみ、無理やり起き上がらせて机に顔面を押し付ける。
「落ち着け。ほら拭けよ」
テーブルクロスをダン・ボイルの顔に押し付ける。ダン・ボイルは地上で溺れているみたいに喘ぐ。ジョーはテーブルクロスをダン・ボイルの顔から離し、のぞき込む。
「落ち着いたか?」
「誰かっ」
ジョーはピストンするような素早いパンチをダン・ボイルの側頭部に打ち付ける。ダン・ボイルはおびえた声をあげる。それに構わずジョーは再び拳で殴りつける。
「落ち着いたか?」
「わかった──わかったから」
ダン・ボイルは机にへばりついた状態で両手を挙げる。見上げると、先ほどの青年の表情が全く打って変わって残酷なほどの無表情になっている。ダン・ボイルは恐怖した。
「なんなんだ、お前は? ロニーじゃないな?!」
「そうだ、俺はロニーじゃない。ジョー・バニングだ」
「ジョー・バニング……あのうさんくさい自称探偵か! 私をだましたな?」
「それはお互い様だ、ボイル」
ジョーは哀れなものを見る目で首を横に振る。
「お前は嘘をついた」
「なんのことだ!」
ダン・ボイルは唾を飛ばしながら悲鳴をあげる。そのとき、玄関の方からバタバタと足音が響き、リビングのドアが音を立てて開かれ、オリヴィアが飛び出してくる!
「大丈夫!?」
リビングではコーヒーカップで殴られ、血とコーヒーにまみれたダン・ボイルをジョーが机の上に押さえつけている。
「何があったの!?」
ダン・ボイルをドアの方を見て、目を見開く。
「おまえ、オリヴィアか!」
ジョーはうんざりしたように首を振る。
「何しに来た。車で待ってるように言っただろ」
「だってすごい音がして、声が途切れるから……」
それはジョーがマイクを切ったからだ。ダン・ボイルを殴る音を聞かせておびえさせたくなかったのだが、まさか心配して飛び込んでくるとは。
「なんだ、お前ら。なんなんだ」
「まあ、丁度いい。聞かせてやれよオリヴィア。こいつの嘘を」
「え、ええ……わかったわ」
オリヴィアは唾をごくりと飲み込み、机に押さえつけられているダン・ボイルを見る。
「ダン・ボイル先生、あなたはケイトリンに昆虫標本の整理を手伝わせたと言いましたよね?」
「それがどうした!」
「オリヴィアは虫が苦手なんです」
「──は?」
「オリヴィアは見るのも嫌なくらい、虫が苦手なんです。昆虫標本の整理なんて、絶対無理」
「そんな、嘘だ。だってお前が言ったんだろう。ケイトリンは虫が好きだって!」
まるですがるような目でジョーを見る。ジョーはそんな姿のダン・ボイルを感情のない目で見降ろす。
「嘘だ」
そしてダン・ボイルを無理やり起き上がらせ、胸倉をつかんで壁に打ち付ける。大きな音がして、オリヴィアはわずかに肩を跳ねさせる。ジョーはダン・ボイルの鼻先まで顔を近づけ、睨みつける。
「もうまどろっこしいのはなしだ。言え、ケイトリンはどこだ」
ダン・ボイルの息が徐々に荒くなり、汗で額はてかてかしている。まるで暑さにへばる犬だ。
「言えよ!」
脇腹に膝蹴りを食らわせ、ダン・ボイルは「げえっ」と喘ぎながら床を転がる。
「知らない!」
唾と血を飛ばしながら叫ぶ。
「何も知らない!」
まるで駄々をこねる子供だ。なにかを宝物を守るようにうずくまる。
「オリヴィア」
ジョーは廊下の方を指さす。
「廊下にある昆虫標本の中で、赤黒い葉巻みたいなやつを持ってきてくれ」
「何それ?」
「いいから」
「わかったわ」
廊下の方に引っ込むオリヴィアを見てダン・ボイルの顔から血の気が引いていく。
「──や、やめろ。だめだ触るな! あれだけは触らないでくれ!」
起き上がろうとするダン・ボイルを殴りつける。
「持ってきたわ!」
オリヴィアが赤い額に収められた昆虫標本を抱えてリビングに飛び込んでくる。その昆虫標本をオリヴィアから受け取り、ジョーはダン・ボイルの目の前に突きつける。
「これは貴様のようなクズが触れていい代物ではない! これが何だかわかっているのか?!」
「ああ、わかってる。これはロードハウナナフシの標本だ」
「ロードハウナナフシ?」
オリヴィアが眉をひそめる。
「なにそれ?」
「ロードハウ島の固有種で、1911年に一度絶滅し、2001年に再発見された“世界一希少”な昆虫だ」
「へぇ、なんかすごい」
ここでオリヴィアがはたと何かに気づいたかのように目を上げる。
「あれ、でもそんな世界一希少な昆虫の標本をダン・ボイル先生はどうやって手に入れたの?」
「そうだな、そこが問題だ。なあ、先生。教師の安月給じゃあ手の届かない額のはずだ。それをわざわざ廊下に堂々と飾るとは、黒人はみんな学が無いとでも?」
「……」
ダン・ボイルは答えない。まるで何かを堪えるように拳を握りしめている。沈黙を貫けば嵐が去るとでも思っているのだろうか。
ジョーは仕様が無いといった感じで深いため息をつく。
「言ったほうが身のためだ。俺も世界一希少な昆虫標本を壊したくはない」
ダン・ボイルは信じられないという目をする。
「何を言っている? これを壊すつもりか? こんなことのために」
まるで“冗談だろ”とでも言いたげに笑う。そんな馬鹿馬鹿しいことは無いと、本気で言っている目だ。
カッとジョーの頭の中に熱いものが込み上げてくる。
「こんなことのために?」
そして衝動的にダン・ボイルの脇腹を蹴り飛ばす。
「こんなことのためにだと?」
何度も何度もジョーはダン・ボイルを踏みつける。ダン・ボイルは悲鳴を上げながらうずくまる。その様子をオリヴィアは一歩引いた様子で眺めている。
「俺には、この昆虫のくそ死骸より、一人の少女の、安否の方が、大事なんだよ!」
「わかった! わかったから! 言う! 言うよ!」
ダン・ボイルはたまらず悲鳴をあげ、このリビングに久方ぶりの沈黙が降りる。
ジョーに暴行を受けたダン・ボイルは体中のあちこちにあざができ、コーヒーカップで殴られた頭は血とコーヒーで汚れ、ポロシャツに染みをつくっている。ダン・ボイルはジョーに無理やり椅子に座らされ、痛みと恐怖で震えている。正面にはジョーが睨みながら座り、すこしでも変な真似をすれば殴るという存在感を放っている。その横にはオリヴィアがちょこんと背筋を伸ばして座っている。
ジョーは一度大きく息を吐き、口を開く
「話せ」
すっかり老け込んだダン・ボイルは舌で唇を湿らし、おずおずと口を開く。
「……私がやったのは手引きだ。だから居場所なんて知らない。誓って」
すっかり恐怖を刻み込まれたダン・ボイルはちらちらとジョーの様子を伺うような視線を向ける。ジョーは無言で続きを促す。
「ある日、私のメールアドレスに一通のメールが届いた。昆虫標本愛好会向けに公開しているメールアドレスにだ。そこには“あなたの欲しいものがある”と。最初はただのいたずらだと思った。だがメールをやりとりするうちに、それが本物のロードハウナナフシだとわかった。だが私は断った。“申し出は嬉しいが、私にそんな金はない”って。だがやつはこう言った。“いや、ひとつ頼まれごとをしてくれるだけでいい。それだけでこのロードハウナナフシを君にゆずろう”」
「それ見てなんとも思わなかったの?」
オリヴィアは眉を寄せる。
「どう見ても怪しいじゃない」
ダン・ボイルは自虐的な笑みを浮かべる。
「思ったさ。これはどう見ても怪しいぞ、と。だが、ロードハウナナフシを目にしたとき、私の頭は真っ白になった。じんじんと目頭が熱くなって、胸がドキドキした。まるで初恋のようだ。そのときにはもうロードハウナナフシを手にしている私の姿しか頭になかった」
「それでやったのが手引きか」
ジョーは身を乗り出す。
「何をした」
「簡単さ、ケイトリンを呼び出して眠らせるだけ。理科室なんて誰もこないからな。そして私は帰る。あとは知らない」
「ケイトリンを放置して帰ったのか?」
「そういう指示だったからな。だから私はロードハウナナフシの取引をしたとき以外、誰とも会ってない。くく、手がかりがあるとでも思ったか?」
「どうかな。その取引に立ち会ったやつはどんなやつだ?」
「さあな、覆面を被っていた。強いて言うなら身長は5.10フィートほどで黒いつなぎを着ていた。無論、声は変声機を使っていた。どうだ、手がかりなんてないだろう。無駄さ無駄。お前らのやることなんて無駄だ」
「は?」
オリヴィアが心底冷えた声でいう。
「なんであんたがそんなこと決めんのよ」
「なに?」
ダン・ボイルはぴくりと片眉を上げる。オリヴィアは臆せず言葉を継ぐ。
「あんたのせいでケイトリンは攫われたってのに、そんなクズがどうして無駄だって決めつけんのよ。この惨めなクソ野郎!」
「なんだと!」
ダン・ボイルは激昂して立ち上がるが、ジョーにすぐ足を蹴られて椅子に崩れ落ちる。
「正気か? 14歳の女の子に一々腹を立てて飛び上がるなんて、それで大人のつもりなのか? おい──おい、やめろ。オリヴィアを見るな。俺を見ろ。なめてんのか?」
ダン・ボイルは蹴られた足を抑えなが「わ、わかった」と、降参するように手を挙げ、おずおずと席に戻る。
「オリヴィアもちょっかいを出すな。それに、手がかりはまだある」
「どこに?」
オリヴィアは聞くが、ジョーは肩をすくめてはぐらかす。
「どちらにせよこいつからはもう聞くことはない。話は終わりだ」
ジョーは唐突に立ち上がり、ダン・ボイルは緊張の糸が解けた顔をする。
オリヴィアは“本当にいいの?”と目で問う。このことにあまり納得がいっていないようだ。”このクソ野郎を本当に放置していいのか”と。だが、ジョーはオリヴィアの肩を叩いて外に出るように促す。オリヴィアは少し抵抗するがジョーに窘めるように“オリヴィア”と言われると、渋々外に出る。
「さて」
ジョーは流れを切り替えるように手を叩き、、ダン・ボイルの方を向く。
「このことは口外するな。誰がなんと言ってきても、お前がジョー・バニングに何かを話しただなんて、絶対に漏らすな」
「誰が言う? そんなことしたら俺が殺される」
ダン・ボイルは苦々しい顔を浮かべる。
「くそ、滅茶苦茶だ。なにもかも滅茶苦茶だ」
「滅茶苦茶にしたのはお前だ。人のせいにするな」
ダン・ボイルはうなだれ、床に目を落とすと視線の先にそれが落ちているのを見つける。それを見て、すがるように手を伸ばす。
「おっと」
指先が触れる寸前でジョーがそれを取り上げる。
「こいつはもらっていく」
手には赤い額縁が握られている。ロードハウナナフシの標本だ。
「待て……待つんだ」
震えた声をあげながら立ち上がろうとして、痛みで床に崩れ落ちる。
「やめろ、やめてくれ。それだけはやめてくれ。それを奪われたら、損ばかりじゃないか!」
ジョーはもう一度このくされ教師を蹴飛ばしてやりたくなった。だがする必要がなにのでやらなかった。こいつは本気で自分がどこかぎりぎりのところで“まだ大丈夫”だと思ってやがる。プラマイゼロでいられると。自分はこれ以上酷いことにはならないだろうと。自分の罪を全く自覚していない。本当に無責任な人間だ。だが、いつかは思い知ることになるだろう。はやくても一週間以内に。
ジョーは床に這いつくばるダン・ボイルを見下ろす。
ダン・ボイルはまだ何やら声を荒げていた。ジョーはもうこれ以上このくそみたいな戯言を耳に入れたくなかった。ダン・ボイルがなにか言い終わらないうちにジョーはきつく扉を閉めてやつの声を遮った。
尋問を終え、ロードハウナナフシの標本を車に積み込み、オリヴィアを家へと送る道中、オリヴィアは何やら難しい顔をして腕を組んでいた。
今回、オリヴィアにダン・ボイルに対する尋問を見せるつもりはなかった。当然だが、14の少女に見せるものではない。だがこの直情的で友達思いの少女は俺がなにかされたと思ったのか、飛び込んできたのだ。
「ねえ」
オリヴィアが声をかけてくる。
「結局手がかりって何なの?」
「別に、大したことじゃない」
「いいじゃない。言いなさいよ」
ジョーは思わずため息をつく。正直もうこの少女を事件に関わらせたくなかった。だがこのキツイ視線を見るに、また感情に従って何をするかわかったもんじゃない。
「まず、やつは劣等感を抱えている」
「ええ、それは見ればわかるわ」
わかるのか。やはり、人を観察する能力に秀でている。
「ああ、いかにも冴えない人生を送ってきたって面だ。そういうやつは趣味に関して妙に話したがりだ」
「どういうこと?」
「今回の“黒幕”はどこでやつの趣味を知ったかって話だ」
「そんなのインターネットかなにかじゃないの?」
「いや、やつのFacebookを確認したが、5年前から全く更新していなかった。やつにはつらい場所かもな。例のメールアドレスも調べたら昆虫標本愛好会のホームページも端っこに置いてある程度だった。そこには教師なんて肩書は微塵も見当たらない」
「偶然見つけたとか」
「かもな。可能性はあるが低い」
「それじゃあ」
「恐らく、”黒幕”もしくは黒幕の”協力者”はやつの近しい人間だ」
「友達がいるようには見えないけど」
「そう、だから話したがりの矛先は同僚に向く」
「じゃあ協力者って……」
オーウと嘆息し、オリヴィアは身を背もたれに投げ出す。
「あたしの学校やばくない?」
「より可能性が高いってだけだ。それに手がかりは他にもある」
そう言いながら横を見ると、オリヴィアは眉を寄せ、難しい顔をしている。想像以上に闇が深くて怖気づいたのか、自身の肩を抱きよせている。
「降りるなら今だぞ」
「はあ?」
「はっきり言うが、この事件は思っていた以上に闇が深い。これからもより危険は増えるだろう。だから降りるなら今だ。無論金は返す」
すると。オリヴィアは一転表情を変え、こちらをキッと睨みつける。
「ケイトリンがどこかで酷い目にあっているかもしれないのに、あたしだけ一人家で震えてろっていうの?」
「そうとは言わないが、危険なのは事実だ」
「ケイトリンはもっと危険な目にあってる。それを放ってはおけない」
オリヴィアは身を乗り出して真っすぐこちらを見ている。その目に一点の曇りもない。一体どんな育ち方をすればこんな頑固者に育つのやら。
「なるほど、お前は優しいやつなんだな」
「はっ」
オリヴィアは鼻で笑う。
「別に? あなた、勘違いしているわよ。私は常に楽しく生きていたいだけ。ケイトリンが酷い目にあっているとそれが気になって私が楽しめないの。つまりは私のため。私はそういう女なの」
どうかな? ジョーはそう思ったが口にしなかった。このお嬢様の考えを変えるのは骨が折れそうだ。
「わかったよ、もう降りろとは言わない」
ジョーは口を開く。
「いいか、暴力は問題を解決する唯一の方法じゃないが、ひとつの方法でもある」
横目でオリヴィアを見ると、無言でこちら見つめている。
「そして俺は事件を解決するのに暴力を厭わない。それははっきり言って見ていて気持ちのいいものではない。ましてや子供が見るものじゃあない。それに危険がつきまとう。だがやる。それでもいいか?」
オリヴィアはなんともないという感じに肩をすくめる。
「別に? いいんじゃない? あたし、別に子供じゃないし」
そして顎をツンと上げ、腕を組んで平たい胸を張る。
「それに暴力ってドープじゃん?」
どう見ても強がりだ。思春期の子供らしい背伸びだ。反逆的で道の外れた行為を、かっこいいと無理に思い込んでいる。
オリヴィアを同行させるのが正しいことなのかはわからない。正直間違っているとすら思っている。守るのは当然として、仮に守り切れずこの子を傷つけてしまったら? そう考えると怖くてたまらない。本当に怯えているのは誰でもない、ジョー本人なのだ。
だが一つ確かなのは、この少女を折れさせるのはダン・ボイルに真実を吐かせることより難しいということだ。
そんな強かで頑固な少女に、ジョーは苦笑するしかなかった。