グッドキッド、マッドシティ
LAの掃きだめの中でもえり抜きの掃きだめを集めたような町バートンにて、寂れた外観の小さなバー「ジョニー&ステフ」は営業している。その名の通りジョニーとステフ夫妻が始めたこのバーは小さいながらも活気があり、バジルソースのかかったトルティーヤチップスとビールが人気の、地元に愛される店だった。もっとも、ステフが夫のジョニーを寸切りにするまでだが。
以降は人の寄り付かなくなったこの店と土地を地元のマフィアが丸々買い取り、ならずものご用達のバーに改装した。そこでは銃、麻薬、“犯罪”と呼ばれるものすべてが許可されている。ルールはひとつ。“リスペクト”だ。
その店の地下深く、陽の光の届かないところで、地下総合格闘技の大会“アンダーシージ”は行われている。
この法の外側にある総合格闘技は武器の持ち込み禁止以外のルールが存在しない。当然殺しもここでは歓迎されている。
金網に囲まれた八角形のケージ『オクダゴン』に立ち、ジョー・バニングは瞑目して精神を落ち着かせる。ケージの上からは強力な照明が降り注ぎ、ジョーのダークチョコレート色の肌に浮かび上がった大粒の汗を照らしている。
周囲では、最高の瞬間を目撃しようと、目を限界にまで見開いた客が、拳を振りまき、唾を飛ばしていた。オクダゴンの利点は、金網に囲まれており観客の唾が一切かからないことであるとジョーは考えている。
正面には体中に生々しい傷の残る、猛獣のような目をしたアジア系の男、ケイシー・マーが今まさに襲い掛からんという形相で睨んでおり。
ジョーは目を開き、ゆっくりとした動作で構えをとった瞬間、示し合わせたようにリングが鳴り、チーターのような俊敏さでマーが襲い掛かってくる。
マーは跳躍し、脚を繰り出す。弾丸のような飛び蹴りにジョーは身体を翻らせかわす。ケイシー・マーの飛び蹴りがオクタゴンを囲む金網を揺らす。
手の先をセンサーのように揺らし、リズムをとるジョーに対し、マーは着地と同時に左拳を振り下ろす。ジョーは上腕でマーの拳をいなす。直後、視界の隅が赤くなり、弾けた音がする。
マーの右拳が頬にめり込んでいた。まるで拳が同時に飛んでくるようだ。視界が揺れる。だが感覚でマーがさらなる拳を突き出してくることが理解できる。
ジョーは上半身を屈め、拳を突き上げる。肉と骨を打つ感覚が伝わる。マーがわずかによろめいている。
ジョーは素早く連続で拳を突き出す。反撃を与えないほどの連撃だ。マーはひとつひとつ拳をいなし、カウンターの右拳をはなつ。ジョーは鼻先でマーの腕を掴みとり拳を止める。
マーは拳を引こうとするが、ジョーの腕力がそれを許さない。ジョーはマーの腕を掴んだままマーの左膝の裏を踏みつける。マーの体勢ががくりと崩れ、膝をつく。そしてジョーは腰を捻り、マーの後頭部に後ろ回し蹴りを食らわせる。
ケイシー・マーは叩きつけられるようにマットに倒れる。ジョーはそのままマウントをとろうとするが、マーは素早く跳ね起き、体勢を立て直す。こめかみには血管が浮かんでいる。どうにも自分がマットに沈んだことが我慢ならないらしい。
ジョーは静かにマーを見据え、口の中の血を吐きだす。
ケイシー・マーは素早いだけではない。ヘヴィーな破壊力を持っている。そして何より闘争心が強い。ファイターに必要な素質が揃っている。そこだけは少しだけ”リスペクト”できる。本当に少しだけだが。
マーは目を興奮にぎらつかせ、歯をむき出しにしながら汚い言葉で罵ってくる。まるで野生の獣だ。
確かに彼は良いファイターだ。だが、闘争心が強すぎるのはいささか問題である。だからこういうことになる。
ジョーにとって、朝食はわざわざ料理したりせず時間をかけたりするものではない。だからいつもシリアルや冷蔵庫にある冷えたプロテインシェイカーと一枚のハムだけで充分だった。だが今日は目が覚めた瞬間からはっきり脳が覚醒していた。身体の調子がよく、なんでもできる気分だった。
スリランカとケニアの茶葉を混ぜたオリジナル・ブレンドのアールグレイを茶こしにひと匙いれ、温めたティーポットの中に沸騰したてのお湯を一気に注ぎ、3分半に設定しタイマーを始動させる。
そして食パン二枚にスライスチーズ二枚とハム一枚を挟み、ホットサンドメーカーでギュッと潰す。直後にタイマーが鳴り響きティーポットから大きめのティーカップに注ぐ。
注がれたオリジナル・ブレンドの色味と香りを確認したらホットサンドメーカーを開き、焦げクズ一歩手前のカリカリトーストサンドを取り出す。半分に切るとチーズがトロリとあふれだした。これを皿に盛りつけ、紅茶と一緒にテーブルへ運ぶ。
外を見るとロサンゼルス大都市圏南部の日差しが部屋に差し込み、バートンの街並みが影絵のようになっている。
ジョーはバートンのバーチモンド通りにあるパン屋、バーチモンド・ストリート・ベーカリーの二階で探偵事務所を構えている。1LDKのテナントで自宅と兼ねており、リビングキッチンを事務所として利用している。
そこには木製のリビングテーブルを中心に両側にソファが置いてあり、キッチン側には事務デスクが置いてある。部屋の隅には観葉植物が置いてあり、そこに寄り添うように元盗品の大型テレビが置いてある。清潔だが殺風景な部屋だ。物が少なく、玄関に繋がる階段つきテラス側の窓が広く大きいため、開放的な部屋になっている。
ジョーはマックブックを開き、メールを確認する。依頼はない。トーストの香ばしい匂いとオリジナル・ブレンドの芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込む。胃が腹の中が如何に空っぽなのか主張する。トーストサンドを両手でつまみ、大きく口を開けてかぶりつこうとする。だが唐突に扉をノックする音が響き、ジョーは机から落ちるペンを掴み損ねたような顔をする。
事務所に直接繋がっている玄関の扉を開けると、そこにはまるで長年の友人を迎え入れるかのような笑みを浮かべた図体のでかい男が両手を広げていた。ジョーは全てが台無しになる音が聞こえた気がした。
「よーう、バニング。しばらくぶりだ」
そういって抱きつこうとしてくる長めの両腕をジョーは後退することで拒否する。
「なんの用だ。ステイプルトン」
ステイプルトンはハグを拒否されたことを全く気にも留めず、ジョーがハグを避けたことによってできた隙間からずかずかと事務所内に入ってくる。
「いい香りだな。朝食か」
そういってトーストサンドをひと切れつかみ取り、かぶり付く。
「うまいな」
口の中をもごもごさせながらソファに座る。
「どうした、座れよ?」
ジョーは我が物顔で振る舞うステイプルトンと向かい側のソファにどかりと腰を下ろし、睨みつける。
「不法侵入とはずいぶん偉くなったな。ステイプルトン」
「ああ、警察様だからな」
ステイプルトンはジョーの昔馴染みだ。幼稚園から高校までなぜか同じだった。会話した記憶自体はそんなにないが、何故か彼が関わった記憶はどれも強く印象に残っている。一度も互いに口にしたことはないが、間違いなくお互いに嫌い合っている。ステイプルトンとはそういう関係だ。それはやつが刑事になった今も変わらない。こうしてはっきり口にはしないが“ぶちのめすぞ、くそやろう”と言外に仄めかし合っている。
「警察様がこんなところになんの用だ?」
「こんなところ? いやむしろ警察は常にここにいるべきだ。バートン地区」
ステイプルトンは首を横に振り、じらすようにゆっくりと嫌味ったらしく話す。ジョーをいらつかせるのは何よりの至福だった。
「相変わらずクソみたいな町だ。我が故郷よ。外を歩けば、まるで蟻や蝶みたいに犯罪者と出くわす。ポイント稼ぎには最適だ」
これ以上ステイプルトンのもったいぶったような話を聞く気にはなれなかった。
「用件を言えよ」
ステイプルトンはわざとらしく、すっかり忘れてた!と目を見開いた。そして懐から一枚の写真をとりだす。
見ると、アジア系の獰猛な顔をした男が写っている。
「こいつはケイシー・マー。地下総合格闘技“アンダーシージ”のスター選手だ。相手の選手をよく殺すから今最もドープな選手だ」
ジョーは写真を見る。アジア系の切れ目で獰猛な顔がこちらを睨んでいる。顎で話の続きを促す。
「まあクズがクズを殺そうが知ったことじゃない。ジョニー&ステフは法の外側だ。警察も手だしはできない。だがやつはその獰猛さを表でも発揮した。バートン外れの銀行を襲ったんだ。一週間前にな」
「それなら一週間と二日前だ」
ジョーが写真を見つめたまま口を挟む。
「どっちでもいいだろ。……事についちゃマヌケで単純だ。やつめ、覆面をしてなかった。殴られすぎて頭をいかれたのかもな。よくある話だ。やつは抵抗した警備員を撃った後、金を詰めて逃亡。当然犯人はすぐわかった。だが問題はやつがブラガファミリーのお抱えというところだ。見ろ」
もう一枚、写真を机の上に滑らせる。
「同僚のジミーだ。前はもっとハンサムだった」
顔を殴られ、あちこち腫れあがっている警官の顔写真だ。朝食に適しているとは言い難い。
「今は売女だって寄り付かねえ。このとおり俺たちバートン市警はやきもきしている。だから──」
「アンダーシージに出場してやつを負かせばいいんだな」
「──ああ、その通りだ。理解がはやいな? クソ助かるよ。そうすりゃあこいつはファミリーの後ろ盾をなくし、丸裸のクズ同然だ」
「そうか、断る」
ステイプルトンは芋虫を踏み潰したような顔をする。
「おい、お前、待てよマジで。断るって? お前に正義ってもんはないのか?」
「正義以前に危険すぎる。脳みそはともかく、ケイシー・マーは本当に強いファイターだ。それに、ブラガファミリーを敵に回す可能性がある」
「だが意義はあるだろう」
「それはお前次第だな」
「意義を金で買う気か?」
ステイプルトンは“冗談だろ?”とでも言いたげに、大げさに首を振る。ジョーにはステイプルトンの動作全てが人をいらつかせて揺さぶりをかける心理テクニックに見える。ジョーは手短に会話を終わらせ、二度とこの顔を拝まなくて済むようにしたかった。
「いくら払える」
「くそっわかったよ」
ステイプルトンはわずかに視線を宙に泳がせる。いくらが妥当だろうかだなんて微塵も考えていないだろう。いくらでふっかけようか考えているはずだ。
「900ドルだ」
「そうか、断る」
ジョーは前もって用意していた答えを口にした。逆にステイプルトンはイライラしたように顎髭をなでる。
「なあ、これは意義のある仕事だ。ケイシー・マーは間違いなくクソ野郎だ。そいつを捕まえてスカッとしようとは思わないのか?」
ジョーは見せつけるように紅茶を飲む。あくまで余裕のある風を装う。
「意義ある仕事にしちゃあ桁が足りない」
「1000ドル……1500ドルか? え? 金の亡者め」
「なあ、ステイプルトン。お前が俺に頼むなんてよっぽどのことだ。それほど重大な事件が、だった1500ドル程度なわけないだろ」
ステイプルトンは身体を上下に揺らし、足は不快なリズムを刻んでいる。そして俺の言葉が聞こえないかのようにむっつりとした顔でそっぽを向いている。仕様がないのでこちらから金額を提示させてもらう。
「3000ドルだ」
「そんな!」
ステイプルトンは弾かれたように立ち上がる。
「いくらなんでも高すぎる」
「高すぎる?」
ジョーは聞き返す。
「高すぎるだって?」
ジョーも同じように立ち上がり、ステイプルトンと視線を合わせる。
「お前の尻ぬぐいに命をかけるのに高すぎるだって?」
ステイプルトンはすました顔をする。
「なんのことだ?」
「へましたなステイプルトン。このジミーって刑事は見たことがある。二週間前の新聞だ。そこにお前も映っていた。大方、こいつと組んで捜査していたんだろう」
「決めつけだ」
「俺がバートン周辺で起きる事件を調べていないとでも? そんな当然のことを? なあ、ステイプルトン。こいつがボコられているとき、お前はなにをしていた? なんでお前は無傷なんだ?」
「おたふくに罹っていたんだよ。だからやつは一人で捜査するしかなかった。そしてへまをした」
「わかるような嘘をつくなステイプルトン。不毛だ。俺には刑事の知り合いもいる」
ジョーはズボンのポケットからスマートフォンをとりだし、耳に当てる。
「この親指を少しでもタップすれば一発でわかることだ。もし、俺に電話をさせたらもっと高い金を払ってもらうぜ。なあ、ステイプルトン。お前のへまを帳消しにして手柄も立てることのできる俺の仕事は本当に1500ドル程度なのか? よく考えろ。もう一度な」
ステイプルトンは額に手を当て、考え込むようにゆっくりと椅子に腰を下ろす。そしてジョーを見上げる。
「わかった、3000ドルだ」
「前金は明日までに。残りはケイシー・マーをぶちのめしてから直接貰う」
「金の亡者め」
ステイプルトンは頭を抱えて毒づく。この図体のでかい男は刑事だが正義の代弁者ではない。金を搾り取るのに何の罪悪感をなかった。
ジョーは玄関の扉を開け言った。
「帰れ」
ステイプルトンは恨めし気な目でこちらを見るが、何も言わなかった。
ステイプルトンの言った金の亡者という形容は実際正しかった。ジョーには金が必要だった。それこそステイプルトンの依頼は願ってもないことであり、ステイプルトンと顔を突き合わせるのもぎりぎり我慢できた。ジョーにとってマーと殴り合うのはかなり危険な行為だが、それをする価値は間違いなくあった。常に暴力と隣り合わせの仕事だ。幸い、格闘の心得はある。
故にケイシー・マーの攻撃をいなすことができるし、カウンターのパンチをやつの鼻っ柱にお見舞いすることができる。地下格闘技のファイターにはプロにはない強さを持っている。それが強みであり、後ろ暗い客を集める理由となっている。すなわち、残虐性。
だが地下格闘技のファイターがプロで通用するかといえばそういうわけではない。プロとは一部の天才。そのさらに上澄みに生きるものたちである。やむを得ぬ事情で地下格闘技に堕ちたものを含め、プロで通用するのはほんの一握りだろう。そしてケイシー・マーはその領域に届くか届かないかぎりぎりの微妙なところにいる。
ジョーにとってそれは勝てない相手ではなかった。
ジョーが右拳を素早く突き出すと、マーはわずかに首をそらしてかわす。ジョーの拳は引き延ばされたゴムのようにサッと元の位置に戻り、再び突き出した拳はマーの顔面を正確にとらえる。肉の弾ける音がする。
ケイシー・マーの肉体はボロボロだった。だが地下格闘技で鍛えられた打たれ強さがまだ彼を立たせていた。ケイシー・マーが全力で殴り返す。素早い拳が顔面に入る。脳が揺れ、意識が混濁しそうになる。重くて速い拳だ。ジョーは機動力を削るため、ローキックでひたすら足を攻撃する。ケイシー・マーは足を上げローキックをかわし、ジョーを突き飛ばす。そして腰を捻りながら跳躍し、空中で360度回転して鞭のような鋭い蹴りを放つ。
まるで巨大な振り子の鉄球がもろに入ったかのような衝撃が頭蓋に走る。視界がぐるりと回転し、マットの上に叩きつけられる。カッと全身の身体から汗が吹き出すのがわる。身体に異常を訴えている。ジョー起き上がろうとするが、まだ身体が言うことを聞こうとしない。その姿を見て観客が歓声を上げ、ケイシー・マーは拳を突き上げる。ジョーは金網を掴んで立ち上がろうとする。視界がまだ歪んでいるが、やらねばならない。
「そんなもんか?」
アジアなまりの残る声でケイシー・マーが挑発してくる。
「どうした、黒人。寝とけよ。来るところを間違えたな?」
ジョーは頭を振り、視界のもやを振り払う。
「アニッサ・アダムスの名を知っているか?」
唐突に関係ない話をしてくるジョーに怪訝な表情をする。
「どうした、今ので頭をヤっちまったか?」
「知らないのならいい」
言うと同時にジョーは足を踏み出す。ケイシー・マーは咄嗟に防御をとるが、マーの腕をすり抜けてジョーの拳がマーの顔面に入る。
「なにっ……」
マーの頭に疑問符が浮かぶ。マーにはジョーの拳が一瞬見えなかった。まるでパイルバンカのような瞬発力だ。ケイシー・マーはよろめきながらジョーを見る。
その目にはなんの感情もなく、まるで川を泳ぐ魚を眺めているようだ。
──ダメージが無いのか?
あれだけのダメージをくらったフィジカルとは思えなかった。
そんなはずはない。あれだけの攻撃を叩きこめばさすがにこたえるはずだ。わずかな思考のノイズは敗北に繋がる。マーは不安を振り払い、果敢に攻めることにした。
ジョーとの距離を詰める。そして相手に反撃の隙を与えぬようす素早く重い拳をいくつも繰り出す。しかし、ジョーは素早い動きでそれを捌く。まるで水だ。水の流れのように掴みどころがなく。まるで拳が届かない。
マーは足を大きく踏み出し、決断的により強力な拳を放つ。しかし、強力な拳は隙が大きい。瞬間、ぬるりと体を回転させ、拳の外側を沿うように回り込んだジョーは勢いそのまま肘をマーの側頭部に打ち付ける。
脳が揺れ、足から力が抜けそうになるが、力強く踏ん張り拳を構える。
それに応えるようにジョーの猛攻が始まる。手技だ。素早い手技だ。マーは雨のような猛攻をいなすので精一杯だ。まるで濁流のように襲い掛かる掌を必死に防いでいる。
故にボディに隙ができた。マーの腹に強力なサイドキックが入る。胃の中にはなにもないが、それでも何かが吐き出そうになる。
その隙をついてジョーは跳躍し、滞空状態のままマーのボディに素早く右脚、左脚、右脚を突き出す。空中三段蹴りだ。その威力にマーは金網にまで吹き飛ばされる。衝撃で金網が軋みながら揺れる。
それでもマーは必死に意識を保ち、拳を突き出す。だがまるで蠅を払うかのような気安さで弾かる。
ジョーは攻めあぐねているマーの膝を踏み台にして胸を蹴り飛ばす。強い衝撃が襲い、マーの肺の中の空気が吐き出される。
マーがふらついた瞬間、ジョーは0インチレベルで距離を詰め、一秒の間に9発の貫くような連打をボディに食らわせ、吹き飛ばす。
ぐわりと視界が揺れ、崩れ落ちそうになる。膝に力が入らない。傍から見ても両手はだらりと下がり、足はふらついている。だが目だけは獣のようにぎらついている。足を踏み出し、ジョーに組み付こうとする。
しかしジョーは体を捻りながら跳躍し、すさまじい遠心力の伴った両かかとをマーの側頭部に叩きつける。ウォンジン・キックだ。
ハンマー投げのオリンピック代表選手のハンマーで殴られたような破壊力がケイシー・マーを襲う。まるで弾かれたゴムのようにぐるりと360度回転し、マットに崩れ落ちる。
しばしの静寂。瞬間、観客のボルテージは最高潮に達し、一斉に立ちあがり、歓声を浴びせる。中には興奮して物を投げつける者もいる。だが金網に囲まれたリングは届かない。
ジョーはそれでも起き上がろうとするケイシー・マーのそばに膝をつき、言う。
「知らないなら教えてやる。アニッサ・アダムスは俺の依頼人で」
ジョーはケイシー・マーに顔を近づける。
「お前の殺したセドリック・アダムスの娘だ」
言うと同時にジョーはケイシー・マーの顔面に拳を叩きつける。ゴングが鳴り響き、試合終了の合図を告げる。ジョーは金網のゲートを押し開け、通路に出る。そこでは観客が興奮した面持ちで手を伸ばし、ジョーの名を呼ぶ。
それらには一切答えず、感情のない表情で会場を後にした。
着替えを終え。ロッカールームから薄暗い廊下へ出ると、ジョーの前をストレッチャーが通過した。見ると、マーが呼吸器をつけた状態で運ばれていく。目を覚ましたら医療刑務所だろう。その先に、ぴっちりとしたスーツに身を包んだステイプルトンが睨んでいる。
「よう、ステイプルトン」
ジョーのほうから声をかける。対してステイプルトンは苦々しく口を歪める。
「ずいぶん余裕そうだったな?」
「そう見えるか? 素人目にはそう見えるかもな」
ステイプルトンは鼻先が触れそうなほど顔を近づけてジョーの目を睨みつける。
「ふっかけやがったな?」
「なんの話だ」
「アニッサ・アダムスだと?」
ステイプルトンが吐き捨てるように笑う。
「俺以外にに依頼人がいたのか」
ジョーは鼻で笑う。
「仮にそうだとして、お前になんの関係がある?」
「ふっかけやがった!」
「どけよステイプルトン」
ジョーはステイプルトンの肩を突っぱねる。
「子供じゃないんだ。ここでは表のルールは通用しない。騙されるほうがマヌケなんだよ。常に可能性を考えるべきだったな」
「俺に触るな」
「どけよ」
「俺に触るな!」
しばらく、互いに黙りながら睨み合う。ステイプルトンは燃えるような目つきで睨み上げ、ジョーは冷静な目で見降ろしている。一ミリでも触れたら爆発するような緊張感が張り詰めている。
「ステイプルトン」
ジョーが言う。
「このままやりあっても別にいい。むしろ願ってもない。だが忘れるなよ。ここはジョニー&ステフだ。俺以上にお前は歓迎されない」
「──ふん」
ステイプルトンはわずかにジョーから体を離す。
「勝ったつもりになるなよバニング。これで勝ったつもりになるな」
懐から分厚い封筒をとりだし、床に叩きつける。薄汚れた廊下に乾いた音が響く。ステイプルトンは最後にジョーを一瞥し、背向けて廊下の奥の方へと去る。
ジョーは封筒を拾い、中身を確認する。どこで手に入れた金かは知らないが血の匂いがする。金は金だ。
「ありがとよ、ステイプルトン」
誰もいない廊下で静かに呟き、かばんの中にしまった。
ジョニー&ステフから出た後、ジョーは店内に客のいない、ジェラートの店にいた。
「終わったよ」
ジョーは言う。
「ケイシー・マーは刑務所行きだ。二度と出ることはない」
向かいには一人の少女が座っている。少女はうなずくと、カウンターの後ろに控えている店主の方を見る。店主は何も言わずにキャラメルナッツのジェラートをカップに盛りつけ、ジョーの前に置く。
一口食べると、キャラメルの甘みとナッツの香ばしさが口に広がる。絶品とは言わない。だが安心する味だ。
「美味いな」
ジョーが素直に言うと、少女はわずかに微笑む。それを見てジョーも微笑み返す。
「でも、一人で食べるのは寂しい」
そういうと、ジョーは店主の方に向かって声をかける。
「すまない、この子に何か……何がいい?」
少女は肩をすくめる。
「じゃあ、俺と同じのを」
店主はうなずくと、同じようにキャラメルナッツのジェラートをカップに盛り、少女の前に置く。
しばらく二人は無言でジェラートを食べる。静かな時間だ。
先にジェラートを食べ終わったジョーはスプーンを机の上に置き、
「美味かった」
と言いながら一人分のアイスの金額を机の上に置く。店主は一礼し、ジョーはそのまま店を去ろうとする。その背中に少女が声をかける。
「JB」
ジョーは足を止める。
「ありがとう」
ジョーは少し微笑んだあと、少女の方を向き、うなずく。
外に出ると、風がジョーの頬を撫でる。少し、肌寒い。バートンの街灯がポツポツと道を照らしている。
この街は荒れ果てている。今もこうして街を歩いているだけで、うずくまるヤク中や、群れをつくったストリートギャングが睨みをきかせてくる。子供は薬を売り、うつろな目をした売春婦がすり寄ってくる。遠くでは誰かの怒号が響き、また別のところでは誰かが号泣する声が聞こえる。
ここはマッドシティだ。誰もがそう簡単にグッドキッドではいられない。
ジョーは一瞬やるせない気持ちになる。
「しっかりしろ、ジョー・バニング」
ジョーは自分に言い聞かせる。
「しっかりしろ」