98話 「彼らにとって、無意味な戦いではなかった」
自覚なく特異な力を使ったラナは、スフィアに体を預けながら、横たわるギースを不安な顔で見つめた。
「ギース……先輩……」
血塗れで変わり果てた姿になったギースは、ピクリとも動く気配がない。
ラナは床を這いながら、ギースの下へと生きていることを願いつつ、ゆっくりと近づいていく。
「ギース先輩、ギース先輩!」
血で赤く染まった生暖かいギースの体を揺すりながら、名を呼んだ。
「げほっ! げほっ!」
吐血はしているが、何とか生きていたことにラナは安堵した。
「良かった。本当に、良かった」
安心感からか、涙が溢れ出そうになる。
「ラナ……クロイツ」
名を呼ぶと、ラナの腕をグッと力強く握ってきた。しかし、次に出た言葉にラナの顔は青ざめ。
「よくも、あの方に授かった力を消滅させたなぁ……。ボクはお前を許さない。絶対に……」
「嘘……だろ……」
見開かれた瞳には、人としての輝きはなく、死人のような黒い瞳のまま。そう、幽魔は消え去ってはいなかった。
「なんで、どうしてお前がまだギース先輩の体を?! ギース先輩はどうなったんだよ!?」
「落ち着きなさい」
「だって、スフィア様の魔法は邪悪な闇の魔力を打ち消すはずなのに」
ラナはスフィアの魔法を何らかの特異な力に変換していたことに、まったく気づいていない。
それについては、今触れるべきではないと判断したスフィアは、機会を伺うことにして動揺するラナに分かりやすく説明を始める。
「私が君に託した魔力と魔法の効力は悪しき闇の力を消滅させる魔法であって、幽魔そのものを消滅させる魔法ではないの。それにそんなことをしたら、幽魔と契約したギースさんも一緒に消滅してしまうわ」
契約を結んでいる以上、例外はあり得ない。それはラナも納得していたが、未だギースの体が、幽魔に自由を奪われたままでいることには、納得するとこができなかった。
「お前が生きているってことは、ギース先輩も生きているんだろう? ご自慢の力も失ったなら、早くギース先輩を解放しろよ」
「そいつは無理な話だねぇ」
「どういうことだ?」
「こいつはもう、ボクに魂を空け渡しているからなぁ」
殺してくれ。ギースの言葉の意味をラナは察した。生きることを諦め、妹を守るという正義も手放してしまったのだと。
「ふざけるな。ギース先輩には守るべき人がいるんだぞ」
「ああ、ニーナのことかぁ。そうだねぇ。だから、こいつはボクと契約をしたんだよねぇ。妹を守るために、ボクに唆されるまま、実の親まで殺してしまうくらいだからねぇ、本当に扱いやすい人間だったよぉ。あひゃひゃひゃ」
「まさか、ギース先輩を騙したのか?!」
「騙される方が悪いのさぁ。得体の知れない相手と、言われるがまま契約を結んだ奴がなぁ」
どこかで聞いたセリフだと思いつつも、筋の通らない理屈に首を縦に振って、受け入れるわけにはいかない。
ここでラナが受け入れ、諦めてしまったら、その時点でギースを助けられないばかりか、己の中で確立し始めた正義を自らの手で、へし折ることになるからだ。
「ギース先輩、聞こえているって信じているから何度でも言うぞ。ニーナさんを守れるのは、ギース先輩しかいない。他の誰でもない血の繋がった兄妹だから。俺には兄弟はいないし、守られてばっかりだけど、それでも自分の手で守りたい人たちがいる。手を差し伸べたい人たちがいる。ギース先輩にだって手を差し伸べる。お願いだから、諦めないでくれよ」
「無駄なことを。こいつはもう抜け殻も同然だからなぁ」
「ギース先輩! このままだと、本当にニーナさんを失うことになるんだぞ! それで良いのかよ!?」
無法地帯と化した王都で、幼い女の子が生き延びられる保証など、どこにもない。
狂気に駆られて、暴徒と化しているかもしれない。
聖十字騎士団の手に保護されているかも知れないし、逆の場合も考えられなくもない。
それでも、立ち上がらなければならない理由が、ギースにはある。だからこそ、ラナは諦めない。
そして、その思いは閉ざされていたギースの心に届く。
「……本当に、ボクにニーナを守れると思うのか?」
「ギース先輩! ……絶対守れるなんて無責任なことは言えないけど、ギース先輩にしかできないことだと、俺は思っているよ」
「ボクにしかできない……か」
「何を言っている? お前に守れるわけがないだろう!」
完全な一つの生命体になったわけではない体内で、ギースと幽魔の魂の割合が再び五分と五分になり、半人半魔の状態になり、入れ替わるようにして会話をしている。
「うん、ギース先輩だからできると俺は信じる。ニーナさんにとっても、それが一番だと思うから」
「そうか、ボクはお前に酷いことをしたのに、信じてくれるのか」
「ニーナさんを守るために、ずっと戦い続けて、みんなが敵だと思っている魔女と契約した俺を危険だと思ったから、そうしただけなら、俺はギース先輩を責めたりしないよ。多分、俺が同じ立場なら、形振り構わず必死だったと思うから」
「まさかお前みたいな後輩に、理解してもらえるとは、思ってもみなかったよ」
少しだけ微笑んだように見えたギースは、大きく息を吸い込むと、幽魔に話しかける。
「なあ、幽魔。お前も本当は怖かったんじゃないのか?」
「怖い? ボクが何を恐れているというんだぁ?」
「誰にも理解されず、自分の存在すらも認めてもらえない。だから、力と肉体が欲しかった。そうだろ?」
「あひゃひゃ。下等な人間が、この幽魔の何がわかるというんだ?」
「わかるさ。仮にも俺はお前の契約者だからね。それにお前は、ボクに似ているから」
「けっ、同情のつもりならやめておけよぉ……」
黒く染まった右目から、薄っすらと涙がこぼれ落ちる。幽魔もまた、この世界の犠牲者であり、恐怖を感じ、優しさに涙を流す心を持つものだった。
親の愛情を知らずに育ったギースと同じように、幽魔として生まれ落ちたその時から、影の存在として誰にも見てもらえず、愛されることもなく、温もりすらも感じられなかった。
初めは、魔力の枯渇による死を恐れて、言葉巧みにギースと契約したのかもしれない。しかし、ギースと共に過ごす日々の中で、大切な人を愛する気持ちや、温もりを知った幽魔は少しずつ、心の中にポッカリと空いていた穴の状態に気づいてしまった。
誰かに、自分の存在を認めてもらいたいと。
リンクで心を通わせていたギースにも、その気持ちは充分すぎるほどに伝わっていたはずだったが、妹を守りたい一心から、脅威となる存在を排除するための力を手に入れることばかりに気を取られていた。
次第に、幽魔の中で力を手に入れることが、ギースに自分の存在意義を示すことであり、己を認めさせることなのだという使命感を与えることになった。
「ボクたちは、本当の強さを見誤っていた。その結果がこれだ。格下だと思っていた後輩に負かされて、自分の過ちを許されて、文句のつけようのないくらいに完敗した。だけど、今はすごく気分が良いよ」
ギースはラナの腕を伝うようにして、ボロボロな体を起こした。
「ラナ・クロイツ。ボクたちは、もう一度だけ己の正義のために立ち上がるよ」
「ギース先輩……」
「ボクたちだ!? 誰が、お前なんかと一緒に」
「いい加減素直になれって、体も思うように動かないし、お前も限界だろう?」
「けっ。好きにしろ。どの道、お前が死ねばボクも死ぬからな」
邪悪な魔力が抜けたことに加えて、ギースが己と向き合い、幽魔と向き合うことで狂気から脱し、普通の会話ができるようになっていた。
だが、無情にも過ぎて行く時間は、止まることを知らない。
「良い感じになっているところ悪いのだけれど、時間がないわ。上にいる者が何者なのか、知っていることを話してくれるかしら?」
未だ鳴り止まぬ鐘の音を止めるべく、本来戦うべき相手について、スフィアは訊いた。





