92話 『また一つ、英雄になる条件を教わりました』
ラナは奥歯にグッと力を入れると、
「……そこにいるのか?」
と、声を荒げたい気持ちを抑えながらも、尖った殺意の刃を無造作に振りかざすように言った。
「何を言っているのか、聞こえないなぁ」
誰が聞いてもイラっとするような口調でラナの怒りを逆撫でする。
声の主が誰なのか。もう確認する必要はなくなった。
「ギィィィスゥゥゥ!」
鳴り続ける大きな鐘の音にも負けず劣らない大声で、その名を叫んだ。
「あれ? 先輩を付け忘れているようだけど、ボクの気のせいかな? 汚らわしい魔女に、たらし込まれた罪人ラナ・クロイツくん」
後輩で、格下で、罪人で、自分よりも格下である存在に対して、半笑い気味に言った姿を消しているギースの笑みなど見えるはずはない。それでも、憎たらしいギースの笑みが脳裏に浮かぶ。
「よくも、よくもフルラをあんな間に合わせたな……」
怒りの沸点など、一度超えてしまっている。今更、馬鹿にされたところで動じるはずもなく。心を満たしているのは、ギースに対する殺意だけ。
良くも悪くもギースに全神経を研ぎ澄ませていたラナは、声のした方向からギースの居場所を特定していた。同じ罪人という肩書を背負うのであれば、大切な親友に非道な行いをした罪人に正義の鉄槌を。
「待ちなさい」
怒りに任せ、腰に携えていた十字剣を引き抜き、特攻を仕掛けようと身構えていたラナを、静かな声でなだめるようにスフィアは止めた。
一秒でも早く、自らの剣で息の根を止めてやろうと、いきり立っていたラナは、いつも通りの命令口調で止められたことに目尻がピクリと動く。
「何を待てって? こいつはフルラを酷い目に遭わせた奴だぞ……」
邪魔をするなら、たとえスフィアだったとしても許さない。
そんな思考に陥っていることさえも、手に取るようにわかってしまう。哀れみや同情などではなく、自ら進んで闇の底へと沈みゆこうとするラナのことが心配だった。
「そうね。確かに彼は君の親友に苦痛を与えたことは、決して許されないわ」
「だったら」
「止めるに決まっているでしょう。さっきまで、私に向けていた殺意をそのまま彼に向けて、殺そうとしているのに、黙って見過ごすわけにはいかないわ。もし、このまま無意味な殺意に任せて殺そうというなら、私はここで命を絶ってでも君を止めるわ」
「んなっ!?」
脅しではない。本気で命を賭して阻止しようとしている。その覚悟が殺意に満たされ、黒く濁ったラナの心に染み渡ってくる。
ほんの少しだから、闇に覆われていた視界に、光が差し込む。
「君の怒りをすべて理解出来るとは言わないわ。それでも、君が本当に英雄になりたいのなら、ここにいるギースも君が救わなければならない存在であると認識するべきだわ」
「は? どうして、俺がこんな奴を救わなきゃならないんだよ?!」
「彼も狂気に囚われた犠牲者だから。と、言う他ないわね」
「ふざけんな! 犠牲者だからって、他の人を傷つけていい理由にはならないだろうが!」
「今、王都で狂気に惑わされて殺し合いを続けている人たちにも、同じことが言える? 人を傷つけることは間違っているから罰を受けろと、全員にその剣を向けられる?」
「それとこれとは」
「同じよ。自分の大切な人を傷つけられたから、個人的な復讐心だけで動いているだけで、そこに本当の正義なんてないわ」
「それじゃあ、スフィア様は大切な人の命を奪われたとしても、すべての元凶は、終焉の日だから……んぐっ」
納得がいかないと声を荒げるラナの口に、スフィアは杖を押し当てた。
「英雄になる条件、教えてあげましょうか?」
「どうして今……」
たった一言で、ラナは我に返った。
同時に、スフィアは既に大切な存在を失っていることを思い出した。
姿形を変え、スフィアの手に握られている杖にシェイネの魂が宿り、温もりを感じることができたとしても、シェイネ・セーラムという魔女は、もうこの世には存在しない。
理不尽な世界の犠牲者となっても、真に倒すべき敵を見失わず、戦い続けようと健気に頑張るスフィアの姿は、とても大きく、ラナ自身を小さく見せた。
「やっと正気に戻ったかしら」
狂気に囚われ、いつもとは違った感情に振り回されていたことによる精神的疲労のせいか、寝起きのようなボヤっとしているラナの顔を見て、ようやく元に戻ったと、そっとラナの口元から杖を退けた。
「ごめん」
自然と口を突いて出た言葉は、謝罪だった。
正気でなかったこともあり、直前まで何を話していたのか、ほとんど覚えていなかったが、罪悪感で心が締めつけられる。それだけは、しっかりと刻まれている。
「謝る必要はないわ」
謝る必要などない。必要なのは人としての道を誤り、英雄とはかけ離れた方向へと突き進もうとしていたことに気づくこと。
スフィアは、英雄になる条件を教え聞かせる。
「英雄たる者、如何なるときでも善悪を判断し、真の敵を見定め討ち滅ぼさなければならない。それなのに君は、本当に倒さなければならない相手を見失っていたわ」
「俺が倒すべき相手……」
ギースを許せないという感情が消えたわけではない。消えるはずがない。
それは復讐心であり、正義ではない。理屈ではわかっている。
だけど、納得はできない。
大切な人を傷つけられても、傷つけ返すことは許されず。
殺してやりたいと怒り狂っても、その感情を殺すことしかできず。
英雄とは何なのか。世界を救うということは何なのか。
ラナは敵を見定めるどころか、自分の正義すらも、わからなくなっていた。
「スフィア様、英雄になるためには、この世界を救うためには、親友を傷つけられた怒りも、感情も全部これから先ずっと押し殺せってことですか?」
「違うわ。怒りの矛先を向ける相手が他にいると言っているの。すべての元凶は、終焉の日、そして、私たちが戦わなければならない相手は、この状況を作り出したかもしれない赤の騎士」
赤の騎士。そうスフィアが言った瞬間、鐘の音が大きく激しく鳴り響いた。
鼓膜を激しく振動させ、動悸を激しくさせるほどの大きな音だ。
話を遮られる。まるで、ラナに何も理解させまいと邪魔をするように。
「君は君の心に揺るぎない正義を持たなくてはならないの」
それでも、スフィアは話し続ける。
「これから先、世界を救うことがどういうことなのか、何のために戦うのか、それを自分で見つけ出し、英雄になるための絶対的な理由が備わったとき、決して揺らぐことのない正義が、強い心が、君の中に宿るわ」
「絶対的な理由……」
自分の身を守るため。
故郷の村人たちを守るため。
英雄志願者になるため。
一人の女の子を守るため。
今まで、戦わなければならない理由があった。それが正しくて、それさえ頑張っていれば、英雄に一歩近づいていると思っていた。
けれども、まだ足りない。
この世界には、ラナが知らないほどの多くの者たちが生きている。その命を背負う覚悟が果たしてあっただろうか。
ラナは自分に問いかける。絶対的な理由とは何か。
カッコいいからと志した英雄への道。その先で、一人の女の子を守るために戦うことを決意した覚悟。それしかない。
「私は英雄になりたいわけじゃないけど、この世界を救う理由はある。と、いうよりも理由ができたと言うべきかしら」
「スフィア様が世界を救う理由?」
「私は、家族を二人失ったわ。それも人間の手によって。だから、人間が憎い気持ちは消えることはないし、こんな世界にした英雄たちを許すことはできない。それでも、私は家族との思い出がたくさん詰まった魔界を失いたくないし、君と出会えたこの世界を失いたくないとも思っているわ。だから、私は私にとっての大切なものを守りたい」
「俺だって、守りたいものはあるよ」
「そうね。君にも守りたいものはある。だったら、私たち以外の人たちにも守りたいものがあるはずよね?」
誰しもが大切なものを持っている。心の中に譲れないものを持っている。それを正義というのなら、どれほど多くの正義があるのだろう。
「俺には俺の正義、スフィア様にはスフィア様の、ギース……ギース先輩にはギース先輩の正義があるってことか」
「やっとわかってきたみたいね」
生けるものすべてに正義があるというのなら、英雄とは、その正義を貫き続けるための世界を守る存在。
例え、互いの正義がぶつかり合うことがある世界だとしても、正義を持たない終焉の日という脅威に奪われていいものではない。
「ありがとう、スフィア様。俺、ギース先輩も助けるよ。俺の大切なものを守るために、みんなの大切なものを守るために」
正気を取り戻し、英雄になる条件の一つ〈正義〉を理解し始めたラナは、行く手を阻むギースと復讐ではなく、守るために相対することになった。





