91話 『人の心は弱くて脆い。それは誰しもが同じだった』
天を仰いでも、獲物を狩ろうと睨みを利かせている獰猛な魔獣が飛び回り、天に祈ることも、一息つくことも許されない。
血の臭いが漂う深紅の道をドラグナム城へと、妙な緊張感の中をひた走る。希望とやる気に満ちていた入団式の日とはまるで違う通りには、多くの人が賑わい、お祭り騒ぎのような活気など、微塵もありはしない。
そこにあるのは見渡す限り、動かぬ肉塊となって横たわる人々と、性懲りもなく醜い争いを続けている狂気に囚われた者たち。
ただの人でありながらも、人々を守るために命を賭して戦っていたはずの一般兵たちですら、仲間同士で醜い争いを続けている。
聖地サンクトゥスが王都となって以来、初めてにして最大の危機に直面している中を、平然と進み続けることができるだろうか。
「どうしてこんなに悲惨なことに……、うっ」
ラナは吐きそうになった口を両手で塞ぐ。
生々しくも荒々しい。悪夢のような現実が起きている。
これが何かの力によるものだということは、誰の目から見ても分かることだ。決して人間や魔族のせいではない。だが、ここまで状況が悪化している原因は明らかに人間サイドにあった。
「本当に悲惨だわ。それもこれも、まともな英雄志願者がいないせいね」
スフィアは、王都を守護しているはずの聖十字騎士団の数があまりにも少ないことに気づいた。この場にいない団員がどういう連中なのかも、見当がついている。
答えは簡単だ。
自らの富と名声を求めるがあまりに増え続けていた似非英雄志願者。偽りの正義を掲げた者たちが、赤の他人と自身の命を天秤にかけたとき、果たしてどちらに傾くだろうか。
当然のことだが、彼らは自身の命を選んだ。生きる者として、その決断は責めようのないこと。しかし、彼らは曲がりなりにも、命の限りを尽くして人々を守り、世界を平和へと導くと十字剣に誓いを立てた者たち。決して許させることではなかった。
だが、似非英雄志願者たちは、誰かが合図したわけでもなく、自ら進んで英雄志願者としての地位を捨て、王都サンクトゥスから逃げ出してしまった。
幸か不幸か、この場には心から平和を望む真の正義を掲げた英雄志願者だけが残っている。数は二〇〇人弱。一〇分の一にも満たない数だ。
一般兵士を合わせても五〇〇人程度だが、一般兵も狂気に囚われ、住民を助けるどころではない。
「スフィア様、何かできないんですか……」
悲惨な光景を横目に走り続けることしかできないラナは、身を切るような思いで、スフィアに助言を求めた。
「今、私たちが出来ることは一つだけよ」
目の前の人を助けたいというラナの気持ちとは裏腹に、二人に出来ることにはグランバードの命令を遂行するのみ。今は、それ以外に何もできない。
「くそっ!」
何度、自分の不甲斐なさと非力さに向き合えば良いのだろうか。
ラナは通りに面した民家の石壁を力いっぱい殴りつけた。
「物に当たっている場合ではないでしょう? 私たちがどう足掻こうが今の状況は変えられないわ」
「だって……」
それ以上言葉が出ない。だが、体を震わせながら、皮が裂け血の滲み痛々しい拳を力強く握りしめている姿を見れば、どれだけ悔しいのかは充分に伝わってくる。
「鐘の音を止めれば、この騒ぎが治まるかも知れないわ」
スフィアは、僅かな希望をラナに与える。
「大勢の人が殺し合っているのに、たったそれだけのことで治まるの?」
ラナは藁にもすがる思いで、訊き返した。
「終焉の日がこの世界を闇で覆い尽くすとき、世界は滅びの道を辿るだろう。滅びの時は、旋律と共に加速する」
「それって、初代国王が残したっていう<終焉の書>の第二節に書かれているやつ?」
「そうよ。恐らく、鐘の音で旋律を奏でて人々の心に狂気を植えつけた可能性が高いわ」
「でも、それだと一つ目の封印は既に解かれたってことになりますよね?」
「確証はないわ。今までと同様であれば、その可能性もある。だけど、三つの世界が一つになった時点で今までの状況とはまるで違うわ。復活するタイミングや順番がバラバラになっていたとしても不思議じゃないの」
スフィアの言うことは、少なからず現状を理解するために必要最低限の説得力があった。
だが、それは同時にかつての英雄たちが劣勢に追い込まれた強大な力の一つと、対峙するかもしれない。そう言っているようなものだった。
――勘違いであってくれ。
と、心で願う。未だ、英雄には程遠い力しか持ち合わせていないラナにとって、それと一戦交えるということは、蟻が無謀にも人間に挑むようなもの。絶対的強者に対して、無意味に命を懸けるものなどいるはずもない。当然、ラナも志半ばにして、無駄死にするつもりはない。
「そうね。勘違いだったら良いわね」
強く思えば思うほどに、その心はスフィアへと通じてしまう。諦め半分で願った言葉に、<希望>の二文字はない。あるのは<絶望>のみ。
鐘を鳴らしている者を止めるとしても、それが操られているだけの者なのか、はたまた狂気の旋律を奏でる者なのか。いずれにせよ、危険であることに変わりない。
――最悪なことになりませんように……。
スフィアは同じ危険でも、二つ目の封印であり、赤の騎士と呼ばれる存在ではないことを切に願った。
心なしか空も雲で覆われ、より一層暗く感じるようになっている。二人の心に自然と不安が押し寄せた。
「スフィア様、いつもみたいに何か策はないんですか?」
極度の緊張からか、いつになく自分から積極的に話し掛けるラナだったが、
「悪いけど、何も確証を得られていない状況で練る作戦ほど危険なものはないわ。特に君みたいに臨機応変に対処できないタイプだと、想定外の出来事があったとき、余計にパニックになるだけよ」
と、皮肉たっぷりの言葉を返されてしまった。
「……それってどういうこと?」
いつもと変わらないスフィアの言葉に引っ掛かったラナは、先を急いでいる足をピタリと止めた。
「そのままの意味よ」
「は?」
何かが変だった。いつも通りで何ひとつ変わらないスフィアの返しに対して、どす黒い感情がラナの中に芽生え始めていた。バカにされた言い方に対する怒りとは違う。もっとドロドロとした体にまとわりつくような感覚。
「とにかく急ぎましょう。早くしないと、それこそ取り返しのつかないことになるわ」
――指図するな……。
ボソッと口に出した言葉には、スフィアに向けるべきでないない感情が乗せられていた。
意図していたわけではないが、ギリギリのところで抑えられていたそれは、心の器を黒く濁らせ感情で満たしていく。鳴らさずの鐘に近づけば近づくほどに。
常軌を逸した状況に身を置いているとしても、普段と変わらない会話をしているつもりだったスフィアは気づきもしない。
自分の後ろで、徐々に殺意が増しているラナがいると。
周囲のことなど、どうでも良くなってしまったラナと、上手くことを進めたいと考えを巡らせるスフィアは、互いの心と気持ちがすれ違っていることに気づかぬまま、絶え間なく鳴り続けている鐘があるドラグナム城の中央塔へと辿り着いてしまった。
「この先に……」
「…………」
見上げれば首が痛くなりそうなほど大きな両開き扉を前にして、煌びやかな金の装飾に目をくれることなく、スフィアとラナは扉を開け放った。
「おかしいわ」
扉を開けてすぐ、スフィアは周囲を警戒しつつ、辺りを見渡して言った。
「何が?」
ラナは素っ気ない態度で訊く。
「何がって、見て分からない? ここはドラグナム国王がいる場所なのに、警備の兵士どころか見張りの兵士すらいないわ。グランバード団長クラスの英雄志願者がいても良いはずなのに、誰もいないなんてあり得ないと思わないの?」
「確かにねえ、この状況はあり得ないといえばありえないよねえ」
スフィアの問い掛けに答えたのは、ラナではなく、聞き覚えのある男の声だった。
「誰……なんて、驚くと思ったのかしら? 姿を見せないということは、私たちのことを警戒しているから、姿を消しているのかしら?」
――姿を消している?
スフィアへ向けていた殺気が、聞き覚えのある声のとある人物へと差し変わる。
聖十字騎士団第二偵察部隊長でありながら、ラナの親友に幽魔を取り憑かせ瀕死の状態にした憎むべき相手。卑怯者にしてずる賢く、隠密性に優れた能力を持ち合わせている、あの男に――。





