90話 『疑心暗鬼の中、一発逆転を狙うことになりました』
絶対的な安全を約束された聖なる地<王都サンクトゥス>。
そこに現れた異質な存在を誰も知らない。見たことも聞いたこともない。
どうして?
命を奪われてしまったから?
違う。最後にそれが確認されたのは、今から約三〇〇年前だから、知っている者が誰一人として残っていない。
それも違う。当時を知る者が数名、この時代に存在しているから。だから違う。
しかし、遥か昔に一度だけでもそれを目にした者だったとしても、彼らはそれを見た瞬間、何が目の前にいるのか理解すらできない。
まったくの別物となってしまった存在を――。
◇◇◇
「何が起きたのだ……」
無情に鳴り響く鐘の音。変わり果てた王都サンクトゥスに辿り着いたグランバードは、夢でも見ているのではないかと思うほどに、自分の目を疑い、状況を飲み込むことができなかった。
鳴らさずの鐘が鳴り響き始めてから、たった数分間の間に王都サンクトゥスは、血の匂いと狂気に満ちた無法地帯と化していた。
人々は怒りや憎しみに身を任せて、暴力に次ぐ暴力。そして、殺戮の限りを尽くしていた。知人、友人、肉親であろうと関係ない。少しでも気に食わないと感じてしまえば、もう殺意を向ける相手となってしまう。
「これが王都……」
ラナもその変わり果てた光景に、それ以上の言葉が出ない。
「この魔力……まさか、お姉様の魔法が影響しているというの?」
シェイネの力を譲り受けたスフィアには、王都を埋め尽くしている闇の魔力が手に取るように感じられた。
「でも、この力は何? これが終焉の日の力だというの?」
昔から馴染みのあるシェイネの魔力以外に、何か悍ましい力がそれを食らうようなプレッシャーも感じとった。
「ぐ、グランバード団長! ご無事でしたか!」
負傷した兵士が一人、グランバードを見つけて駆け寄って来た。
「何があった?」
今にも倒れそうになっている兵士の両肩をしっかりと掴むと、グランバードは訊く。
「それが、鳴らさずの鐘が鳴り始めた途端、まるで我を忘れてしまったかのように狂ってしまった民衆たちが次々に殺し合いを始めて、無差別に殺戮を繰り返している状態で」
「鐘が鳴り始めてからだと? 一体、誰が鐘を鳴らした?」
「わかりません。現時点で判明しているのは、鐘の音が鳴り始めた後に、このような事態になってしまったということと、魔族と契約を結んでいる英雄志願者以外の人間が、狂ってしまっているということだけです」
「なんだって!?」
もう常識の範疇を超えていた。魔族がいることが生活の一部になって、世界が順応するのに充分な時間が経過している。そんな中で、人間のみに狙いを定めたとしか考えられない事態が発生。
ラナたちが考えている通りに、古より人類の敵だとして認知されている終焉の日が原因なのか。それとも魔族や煉獄の魔王たち、あるいは神々の悪戯なのか。
決して人間業ではない、何らかの力が作用していることは間違いなかった。
身近な人間が、次々に自分の命を狙って襲ってくる。
一度足を踏み入れたら二度と出ることができない、疑心暗鬼という名の底なし沼に、じわじわと沈み始める。グランバードの下へ駆け寄って来た聖十字騎士団の団員も、疑心暗鬼に陥り始めていた。
「先ほどから気になっているのですが、そこにいる白銀の髪の女性は誰なのですか?」
同じ第二寮で顔を合わせているラナに関しては、特に疑問に思うことはなかったが、どこからどう見ても白銀の魔女の風貌をしているスフィアについては、見過ごすことができなかった。
「この女は、魔女だ」
「グランバード団長?!」
ド直球に答えてしまったグランバードに対して、ラナは思わず声が大きくなる。
「声を荒げるな。どの道、その姿をしていては隠し通せるはずがないだろう。それに貴様らは拘束された身であり、利用価値があると判断して生かしているに過ぎないのだからな」
そんなことは一度も言われていない。確かにグランバードの中で、まだ利用価値があると判断して生かしていることは間違いなかった。
「魔女……。この世界に厄災をもたらした忌々しい魔族。この状況も、お前ら魔女の仕業なのか。いや、絶対そうに違いない。そうだろう!?」
負傷兵は、見るに堪えない汚物でも見るかのような軽蔑の目で、すべての元凶だと決めつけるように問い質した。しかし、スフィアは顔色一つ変えずに、じっと負傷兵を見つめているだけ。そして何よりも、こういう事態には慣れている。
「ちょっと――」
「――悪いが、この魔女は今回の件については無関係だろう」
ラナが取り乱した直後、グランバードが思いがけずスフィアを擁護した。
「グランバード団長……」
絶対に敵に回したくないと思っていたグランバードが、味方に付いてくれたのだと思ったラナの目には、英雄フィルター越しにキラキラと輝くグランバードの姿が映っていた。
「勘違いをするな。魔女は抹殺対象であることに変わりない」
「でも……」
「今ここで処刑しても構わないぞ」
僅かに抱いた希望を一蹴する。
「失礼しました」
冷ややかで何の迷いもない眼で言われたラナは、ゆっくりと後ろへと下がった。
『本当に君は何も分かっていないのね』
冷静過ぎるほどに冷静なスフィアがリンクを使って話し掛ける。
『さすがに分かりましたよ。グランバード団長は、この一件が終われば俺たちを処刑する。まだ利用できるから生かしているだけ。言葉通りってことですよね』
グランバードの性格から考えれば、ラナの言うことは、あながち間違っていない。
しかし、王都が急襲に遭っているこの場面以外での話だ。
聖十字騎士団の団長を務める立場というものを理解していないラナに対して、スフィアは首を横に振る。
『違うわ。もし、利用価値があるとしても、この状況で敵視している私を生かしておくことは、状況を悪化させる要因になり兼ねない。もし、私が同じ立場なら、一番除外しやすい不安要素から取り除くわ』
『つまり?』
ラナは口を尖らせて、首を傾げた。
『迷っているのよ。恐らく、正義感が強い真っ直ぐな性格なのでしょうね。シェイネお姉様との戦いで、魔女である私たちと契約をしていたゴルドさんと君の姿を見て、本当に魔女だけが悪いのか。疑問に思い始めたのかもしれない』
『それなら、グランバード団長も話せばきっと分かってくれるはずですよね!』
ラナの顔には再び希望が満ち溢れる。
『その考えは危険すぎるわ』
『どうして!?』
希望に満ち溢れた顔が一変、何とも言い表すことのできない顔をして驚くラナ。それに対して、スフィアは淡々と語る。
『仮定の話であって、グランバード団長の心意かどうかなんて本人にしか分からないわ。少なくとも、現時点で処刑されていない理由として、考えられるというだけのことよ』
それを聞いたラナは、どの道、処刑される運命なのだと肩を落とした。
『まだ、希望を捨てるには早いわ』
『え?』
『これは私たちにとって……いえ、魔女の一族にとって人間に歩み寄る大きな転機になるわ』
人類の安息の地であり、この世界唯一の聖地。いわば、全人類の最後の希望が集まる地。絶対に死守しなければならない場所。故に、劣勢に立たされているこの状況をスフィアたちの手で打破することができれば、魔女に対する評価が逆転することができる。
「グランバード団長、急ぎましょう」
負傷兵は慌てた様子で、グランバードを急かした。
スフィアたちがリンクで会話をしている間に、動きがあってようだ。
「ラナ・クロイツ。俺は今からミネルヴ様と合流して、状況を詳しく把握した上で指示を仰ぐ。貴様らは、未だに鳴らさずの鐘を鳴らし続けている者を第二寮まで連れてこい」
「え、でも、俺たちは」
「今は少しでも多くの戦力が欲しい。例え、罪人だったとしても……だ。もし、貴様らが何か不審な動きをすれば、奴の眼を通して俺に伝わる」
<奴>と、グランバードが指差した先にいたのは、王都の上空で円を描くように旋回する大きな獣の姿だった。
牛・馬・鳥の三種の頭を持った希少な魔獣<ケルベロス>。あまりにも凶暴なため特別製の鎖に繋がれ、地下深くの檻の中で、管理されているはずのそれを目の当たりにしたラナとスフィアの足が竦む。
「任務を遂行しろ。そうでなければ……」
グランバードは、その自慢の眼をギラリとさせてラナたちを見た。契約した魔獣が近くにいることで、グランバードの力量がどれ程のものか計り知れなくなった。ここで断るようなことは、さすがのラナでもしない。
声が出ない代わりに、頭を大きく縦に振って任務を請け負う意思を示す。
「健闘を祈る」
ミネルヴの下へ向かったグランバードを見送ったラナたちは、聖地の中央に位置するドラグナム城のど真ん中に聳え立つ塔。その最上階に設置された<鳴らさずの鐘>を打ち鳴らす者を連行すべく、三頭獣<ケルベロス>の監視下で歩を進める。





