89話 『鳴らない鐘が鳴り始めました』
「スフィア様……」
目の前で姉を失ってしまったスフィアの心情を察したラナは、何と声を掛けて良いのかと迷いながら、心配そうに様子を見つめていた。
「大丈夫よ。シェイネお姉様は死んでいないから」
スフィアには分かっていた。姿かたちは変わってしまったが、その手に握られた闇化身の魔法杖に姉の魂を感じる。それは気のせいではない。確かにそこにいるのだ。
スフィアはシェイネの想いと力を受け継ぐ。
そして、気づく。闇の化身と化したシェイネとゴルドが紙一重の差で負けてしまったグランバードとの差を埋めるために、シェイネとゴルドがあの短時間で考え、覚悟した作戦を。
己のすべてを解き放ち、人として、魔女としての姿を捨て、一個体であるという概念すらも捨て去り、スフィアの力となりグランバードと戦えるようにするために、自らを武器化した。仮に、グランバードとの差が圧倒的で絶望的だったのなら、シェイネはその身をていしてスフィアとラナを逃がすことに専念する。そういう考えだった。
どちらにせよ、スフィアに全てを託すつもりでいたシェイネの心はスフィアへ届いた。
共に戦うことになった新たな武器を手に、スフィアはグランバードに相対する。
「これは驚いたな。まさか武器化することもできるとは……。さすがは強大な魔力を持った魔女ということか」
その言葉とは裏腹に、グランバードは驚くどころか関心すら持っていない。ただ一方的に駆逐するだけの相手に対して、情も何もないのだ。
「あなたも魔族と契約をしているのなら、魂の解放が可能だと思うのだけど、奥の手として取っておくつもりかしら?」
スフィアは、元の強気な態度になっていた。
心強い姉が傍にいてくれるからなのか。
それとも、新たな力を手にして勝利を確信しているからなのか。
いずれにしても、スフィアの自信に満ち満ちた姿は、ラナに取っても心強い。
そんな自信に満ち溢れ始めていた二人を前にして、グランバードは十字剣を腰に納めてしまう。
「魂の解放は、確かに可能だ。しかし、一度でも魂を解放し融合してしまえば、元の姿に戻ることは容易ではない。ここぞという時にするべき戦法だ。こんな下らぬ戦いの場で使うものではないだろう」
敵視している魔女が目の前にいるにもかかわらず、グランバードは戦うことを止めてしまった。
なぜあれほどまでに、魔女を駆逐しようとしていたグランバードが、スフィアに刃を向けず、無防備な状態でこちらを見ているのか。ラナには理解できなかった。
「どういう、おつもりですか?」
ラナは素直に訊いた。上官に対して教えを乞うように。
「敵対する相手に敬語を使い、敵の心意を問うか……。まったくもって考えが甘いというか、呆れてものも言えないな。まあいいさ、そこの魔女に訊いてみるがいい」
グランバードはスフィアの恐れのない目を見て、すべてを見透かされていることに気づいていた。
「教えてあげるわ。グランバード団長は、今の状態では私たちに敵わないと、その洞察眼で察したのよ。無意味な死を遂げるだけ……そうよね?」
グランバードは、両手を挙げて降伏の姿勢をとった。
「その通りだ。今の状態では君たちに勝つことは無理だろう」
そう言いつつも、どこか余裕のあるような笑みを浮かべている。ラナは、妙な胸騒ぎを覚えた。何かを見落としているような――
――あれ? いな……い。
あることに気づいたラナは大慌てで、
「スフィア様! いないですよ!」
と、声を掛けた。
「え? いないって……」
何を慌てているのかと顔をしかめてラナの方に目をやるスフィア。そして、ラナとは違う、消えた存在に気づく。
「マリーと村の人たちは!?」「ギースがいないんです!」
「「え?」」
二人は互いに違う相手が居なくなっていることに気づかされ、一瞬だけ時が止まった。
幾多の争いを経験してきたグランバードにとって、その一瞬の隙は見逃すには惜しいほどの好機。今、一撃を放てば確実にラナとスフィアを葬り去ることができる。
しかし、グランバードは動かない。
「まさか……」
これはグランバードにとっても誤算だった。
ギースが姿を消したことに対してではなく、誰と一緒に姿をくらませたのかが問題。
知らなかったのだ。ギースがどれ程までにマリーを欲していたのか。マリーと仲良く話している相手が自分ではなく、魔女と契約しているラナだということに苛立ちと憎悪を心に、魂に蓄積させていたことを。
ゴンゴンゴーン! ゴンゴンゴーン!
何が起こっているのかと考える間も与えないまま、大気を大きく揺らす慌ただしい鐘の音が鳴り響く。
「な、なんだよ、この音?!」
「何がどうなっているの?!」
聞き慣れない鐘の音に驚くラナとスフィア。
対してグランバードは顔面蒼白している。なぜなら、決して聴こえてはいけない鐘の音だったからだ。
ドラグナム城の中央に聳え立つ塔の最上階に設置された、鳴らさずの鐘。それは王都サンクトゥスが決して攻め入ることができない安息の地であることの象徴として、遥か昔に建設された鐘。
「どうやら、貴様らの殲滅よりも優先すべきことができたようだ」
グランバードは、そのまま王都へ向けて立ち去ろうとしていた。
「ち、ちょっと待ってください! 何が起こって――」
「時間がない! 貴様にも正義があるというのならば、一緒に来い」
そういうと有無も言わさずに階段を駆け上がっていった。ラナとスフィアも顔を見合わせ、心してグランバードの後を追い掛け、不気味な寒気と闇が広がる地下教会を出た。
ゴンゴンゴーン! ゴンゴンゴーン!
未だ鳴りやまぬ鐘の音を肌に感じながら、先を行くグランバードに浮遊魔法で容易く追いつくスフィアと、息を切らせながら懸命に追いすがるラナ。
不意打ちをされてもおかしくない状態で、素直に追ってきたラナたちの姿を目視したグランバードは口を開く。
「鳴らさずの鐘は、最初の終焉の日から世界を守った救世主である先代の国王が、この鐘の鳴ることのない平和をこの地に約束すると人々に誓い建設された鐘だ。今思えば、先代の国王は、終焉の日が何度もこの地を脅かすことに、気づいていたのかもしれない」
誓いのためだけなのであれば、鐘の形をしていれば良いはず。しかし、鳴らさずの鐘は王都を中心に広範囲に渡り鳴り響くように設計されていた。約一二〇〇年もの間、一度として鳴らされず、人々はそれを下から見上げるだけのものでしかなかった鐘が、王都の危機を知らせている。
冷静を装っているが、明らかにラナの知るグランバードとは雰囲気が違っていた。
「まさか、もう終焉の日が来たってことですか!? まだ一年くらいは時間があるはずですよね?!」
グランバードに詰め寄るラナの声は震えている。
終焉の日の脅威に太刀打ちできるほどの力を身につけていないラナは、心底震え上がり、恐れおののいた。
「それは分からん。だが、王都にはミネルヴ様がいる。もし、終焉の日であれば、軍神と謳われたミネルヴ様が見逃すはずもない。万が一、予期せぬ事態が起こったとしても、すぐさま対応してくださるはずだ」
「そ、そうですね。ミネルヴ様がいれば大丈夫ですよね!」
偉大な英雄の名を聞いたラナは、安心しきった様子で言う。
終焉の日との戦いを経験している人物が、同じ時代に存在しているというだけで、安心感は絶大だ。
けれど、安心するにはまだ早い。仮に終焉の日ではなかったとしても、過去に三度、終焉の日が世界に猛威を振るった時も、決して崩れることなくそこにあり続けた難攻不落だった王都が攻め込まれているという事実は、終焉の日以上の脅威が存在している可能性を示唆していた。
単に進化し続けている終焉の日の力が、目覚めの時に近づいて溢れ出しているだけなのか。はたまた、他の脅威が現れたのか。
どちらにせよ、これまでにない危機に直面しているということは確かだ。
――ミネルヴ様……。
グランバードは、王都で戦いに身を投じているであろうミネルヴに、祈りにも似た思いを抱きながら、逸る気持ちを抑え、ラナたちと共に王都へと駆ける。





