3話 『突然ですが、ケッコン詐欺に遭いました』
本物の熊に出くわすなど想定外。
偽物だと高を括って無警戒だったおかげで、この場から逃げる心構えが全く出来ていなかった。
雄叫びを上げる熊に圧倒されるまま、身動きが取れなくなったラナは尋常ではないほどの冷汗をだらだらと流し、立ち尽くすしかなかった。
「まさか、こんなに早く見つかるなんて思いもしなかったわ」
「見つかる? あんた、あの熊に何かしたのか?」
「説明は後よ! 私と一緒に来て!」
スフィアは腰が抜けて使い物にならなくなったラナの腕を引っ張り、無理矢理その場から離脱しようとした。しかし、足が思うように動かないラナは降り積もった雪に足を取られて上手く前に進む事が出来ない。
「何をしているの!? 急がないとあいつらに追いつかれるわよ!」
「そ、そんなこと言われても足が……」
「仕方ないわね」
そういうと背負っていた木の棒を手に取りラナの方へと向けると、早口言葉を言うように呪文を唱え始めた。
「我、風の精霊の親愛なる友として願う。我の指し示す者に疾風の加護を与えたまえ。<浮遊魔法ウェントス>!」
呪文を唱え終えると、まるでタンポポの綿毛のように軽くなったような感覚で、下から吹き上げる風を感じながら、見る見るうちに上空高くへ舞い上がっていく。
「すげえ……。すげえよ! これが魔法ってやつなのか!」
初めて肌で感じる魔法は、何とも形容しがたいくらいの興奮を覚えさせた。
この瞬間だけ、真下に凶暴な熊がいる事を忘れてしまうくらいに心が躍った。
「感激しているところ悪いけど、逃げるわよ!」
魔法に感激し、優雅な空中浮遊を楽しむ間も与えず、スフィアは木の杖から白くて細い糸のようなものをラナの体にしっかりと結合すると全力疾走した。
「うおわぁぁぁあああ!?」
杖が上下左右に動く度にラナの体も上下左右に大きく揺れる。
体が揺れる度に頭が振り子のように止めどなく激しく揺れる。
馬車に揺られて乗り物酔いするレベルではない。異常な吐き気に見舞われたラナは、熊に襲われる以前に死にそうになっていた。
上空で生死の境を彷徨っていたラナの事などお構いなしに走り続けた後、熊の姿が見えなくなったことを確認したスフィアは杖を一振りして、無造作に魔法を解除した。
「ここまで来れば、ひとまず時間は稼げそうね」
ボフッ!
まるで人形のように動かなくなったラナが上空から真っ逆さまに落ちて来た。
「ラナ・クロイツ。またあの熊がいつ襲ってくるか分からないから、急いで契約を結ぶわ」
「…………」
積雪に頭から突き刺さったラナは力尽きたのかピクリとも動かない。
「少し準備をするから君は熊が近づいてこないか周りを警戒していなさい」
「…………」
「聞いているの?」
「…………ぶはっ! 少しは俺の心配をしろよ! どれだけ気持ち悪かったと思って――」
スフィアはふっと鼻で笑うと、荒ぶるラナの口元にそっと人差し指を添えて黙らせる。
「それだけ叫ぶ元気があれば心配いらないじゃない。それにあまり大きな声を出すと見つかるかもしれないから少し静かにしてくれるかしら?」
「…………」
確かにあの熊に見つかるのは避けるべきだ。
それはそれとして、ラナは1つ気がかりなことがあった。吐きそうなくらい激しく振り回されている時、熊はラナのすぐ真下。手を伸ばせば届く位置にいたのだ。それなのに熊はラナに目もくれずスフィアだけを追いかけていた。
まるで、スフィアだけを標的にしているように。
「…………教えてくれ」
「英雄になる方法かしら?」
「違う。さっきあんたは熊から逃げているはずなのに、あいつらって言っていたよな?」
「魔女狩人よ」
「うぃっちはんたー?」
「あいつらは魔女の討伐を専門にした組合の狩人。私はその中の一人、魔獣使いの魔女狩人に追われているの。ちなみにさっきの熊はただの熊じゃなくて魔獣の一種<暴喰熊>よ」
「あんた何か悪いことでもしたのか?」
「失礼ね。私は何もしていないわ」
そう言いながらも目を逸らし、どこか後ろめたさを感じさせる表情をしていた。
何かを隠していることは明白だったが、悲しそうな顔をしている少女から無理に聞き出す術をラナは知らない。
「本当に罪深いのは人間だというのに……」
「え?」
「何でもないわ。とにかく私と契約を――」
「グオオオオオ!!」
契約をしなさい。そう言いかけると荒々しい熊の雄叫びが聞こえて来た。
「もう追いついてきたのか!?」
「これだから鼻の利く魔獣は嫌いなのよ」
「逃げるぞ!」
「もう遅いわ。そこら中にあいつらの気配がする」
「そこら中って……」
注意深く辺りを目凝らして見てみると、鬱蒼と生い茂る木々の隙間から月光に反射して輝く無数の眼光が周囲を埋め尽くしていた。
まさに袋のネズミ。逃げる場所など何処にもない。そんなことが頭を過ったが、一つだけ確実に逃げられる方法を思いついた。
「空だ! あんたの魔法を使って空から逃げよう」
「それは無理。もう魔力が底を尽きかけているわ。それに私が浮遊魔法を掛けられるのは一個体だけ」
「え!? じゃあ、どうすんだよ!?」
「あいつらが襲ってこないところを見ると、恐らく主である魔女狩人は近くに来ていないはず、契約するなら今しかないわ」
「契約したら俺はどうなる?」
「君は英雄になるための力を手に入れられる。そうすれば、君も私も生きて残れる。今の君にはこれ以上にない好条件だと思うわ」
「契約しなかったら?」
「確実に殺されるわ」
「なるほど。契約する以外に道はないってことか」
「そういう事。君が同意してくれるのならすぐに契約の儀を始めるわ」
――全く英雄になるために生まれて来た俺には立ちはだかる障害が多すぎるぜ。
「時間がないわ。契約するの? しないの?」
「ここで死ぬよりは、あんたの言う事を聞くのもありかな」
「契約するのね?」
「それしか手がないんだろ? だったら契約するよ。あんたには色々文句があるけどな」
こんな状況を作り出した原因は、魔女狩人なんていう得体の知れない連中に追われているスフィアにあったし、文句の一つも言いたいところだが、今はそんな事よりもここを生き伸びることが最優先だ。
それに見たことも聞いたこともない魔女の存在を魔法という形で体感してしまったからには、英雄になるための力というのがどういうものなのか。それ相応に期待が高まるというものだ。
この状況を打開するだけの力が手に入るのかと思うと、興奮で体が震える。
「交渉成立ね」
「ここを無事に生き延びたら覚悟しておけよ」
「それは楽しみね。じゃあ早速で悪いけど、私が儀式の準備をしている間、あいつらが変な動きをしないように見張っていて」
「任せろ。これくらい朝飯前だろ!」
見張り役に大抜擢されたラナは自信に満ち満ちていた。
まだ手に入れてもいない何らかの力を妄想しては、その力に酔い痴れていたからだ。
極めつけは、憧れの偉大な英雄に負けず劣らない自分の姿を思い浮かべてはニヤニヤと傍から見れば不審者以外の何者でもない薄気味悪い笑みを浮かべた。
その一方で、この状況を打開するべく契約の儀式の準備を淡々と続けるスフィア。
杖を地面に突き刺し、ローブの内ポケットから見たことのない七色の輝きを放つ不思議な石を取り出すと、杖を中心にして四方に投げ置いた。
対して暴喰熊の群れは、特に襲い掛かってくる様子がない。どうやらスフィアの言う通り主である魔女狩人が近くに居なければ行動を起こさないようだ。
少しして儀式の準備を終えたスフィアが戻って来た。
「さあ、ラナ・クロイツ。結魂の儀式を始めるわ」
「け、結婚!? ちょっと待って! 俺達さっき会ったばっかりだし、お互いのこと全然知らないというか、気が早いというか……」
「何を今更。私たちは今契約しないと確実に殺されるのよ」
「だからって結婚はさすがに早いと思う。そりゃあ、あんたは可愛いし結婚できるなら嬉しいけど……。でも、そういうのはちゃんと好きな人とするのが良いと思う! うん、絶対にそうするべきだ!」
「好きな人? 何か勘違いをしているようだけど、結魂の儀式は君と私の魂を結び合わせて一つにするための儀式よ」
「魂を結び合わせる!? そ、そんな恐ろしいことする訳ないだろ!!」
「無駄よ。交渉が成立した時点で君は拒否する事は出来ないわ」
「それって詐欺だろ!」
「よく言うでしょう? 騙すより騙される方が悪いって。それにちゃんと内容を確認しなかった君が悪いのよ」
「騙されたぁぁぁあああ!!」
泣こうが叫ぼうが時すでに遅し。完全に勘違いしていたことに対する恥ずかしさも相まって、もう何とも言えない状態で、とにかく叫んだ。
単純に英雄になるためにスフィアが協力をするだけの契約。書面にサインを書いてさっさと終わる程度のもの。そうとしか思っていなかったのに、まさか魂を結び合わせて一つにするという摩訶不思議な契約を結ぶことになるとは夢にも思わなかった。