36話 『欲望は狂気に変わり、紅い雨を降らせました』
「いいねえ。その恐怖に怯えた顔がたまらねぇ。なぁ……もっと見せてくれよ。ひゃははは!」
バルゴは頻りに涎をすすりながら、怯えるマリーの顔に興奮していた。
「けけけ。ありゃ、完璧にスイッチ入ってやがるな」
「ははっ! あいつ、ああなったら止まんねえからな。巨乳ちゃんご愁傷様」
狂ったように地面を滅多刺しにするバルゴを下衆男たちは、面白おかしく笑い転げながら楽しんでいた。しかし、周囲の観客たちはドン引きしている。彼らの間に異様な温度差が生じ始めていた。
「嫌なのです……もう止めるのですぅ」
「それだよ、それ! もっと声を出して感じさせてくれ! 痺れさせてくれ!」
恐怖に震え、泣きながら懇願するも、その姿に興奮するバルゴには逆効果。彼は、女相手に興奮すればするほど力を発揮する謎の能力を秘めていた。
「けけけ。あいつの覚醒の予兆は欲望まみれだな」
下衆男Aが聞き慣れない単語を耳にしたラナは、
「ミネルヴ様ひとつご質問なのですが、パンドラ? というのは何なんでしょうか?」
と、憧れの英雄の一人であるミネルヴに勇気を振り絞って問い掛けた。
「君たちが秘めている英雄たる資質と同じように、魔族との契約で目覚める力の一つですね。英雄たる資質が人間の持つ可能性の一つとするなら、覚醒の予兆は、ある契約をした時に心の奥底に抱いている欲望や本能を根源として特定の条件下だけに発動する潜在能力とでも言いましょうか」
「特定の条件下で発動する潜在能力ですか」
「彼の場合は、女性に対して必要以上の執着心を持っているように見受けられます。あなたはマルスさんから話を聞いていると思っていたのですが」
「英雄たる資質についてなら少しだけ聞いています」
「まあ、マルスさんのことですから説明不足があったかもしれないですね。英雄たる資質は、簡単に言うと肉体の活性から始まり、度重なる鍛錬と平和への強い意志が合わさった時に初めて目覚めるものなのです。例えば、あなたが発動したという“時間の錯覚”は、魔族との契約とあなたの内に秘めている強い意志が合わさることで目覚めた英雄たる資質。つまり、あなただけの固有技ということになるのです」
ミネルヴはマルスからラナのことを聞いていたこともあり、どんな技を使うのか、実力がどれほどのものなのか。そのすべてを知っていた。
「じゃあ、あのバルゴとかいう男はまだ英雄たる資質を開花する前段階。覚醒する前の力ということですか?」
「マルスさんと違って、察しが良いですね。あの正確かつ強力な突き刺し具合から見ても、英雄たる資質ではなさそうですから、あれは肉体の活性化による腕力増強と視力強化による命中率強化の合わせ技でしょう。その力を最大限に引き出す条件が“対女性”であること。それがバルゴさんの覚醒の予兆の力なのでしょう」
ミネルヴの推察通り、バルゴは魔族と契約を結ぶ際に女に触れたい。舐め回すように見ていたい。そんなことばかりを考えていた結果、か弱い乙女を無理矢理に抑え込むための腕力と如何なる場面でも女を見逃さない視力を手に入れていた。
「つまり、肉体の活性化が覚醒の予兆で、それに何かのきっかけを与えることで目覚める力が英雄たる資質ということですか?」
「そういうことです」
――なるほど、だから俺にも英雄たる資質が目覚めたのか。
ちなみにラナはというと、スフィアと契約を結ぶときに心の奥底にあった早く英雄志願者になりたいという気持ちが速力上昇の覚醒の予兆の力として目覚めさせ、様々な死線を潜り抜けていく中で、絶対に死にたくないという本能とスフィアの魔力が相まって更なる超高速回避へと進化を遂げ、最終的に時間の錯覚という英雄たる資質を目覚めさせた。
「さあ、そろそろ脱がせてやらなきゃなあ!」
ラナがミネルヴに質問をしている間も、バルゴの異常で外道な攻撃が続いていた。
「いやっ! やめてなのです!」
幾度となく繰り出される刃が、身を守ろうと体を折り畳み縮こまっていたマリーの団服を斬り刻んでいく。
「ほらほら、丸まってないでこっち向きな」
横向きに丸く縮こまっていたマリーの体を無理矢理仰向けにさせた。真新しい団服は見るも無残な姿になり、右半身だけボロボロで、むっちりとした肌が露出していた。
「お願いなのです。やめて下さいなのです」
マリーは、ぐしゃぐしゃになった泣き顔で、止めるように訴えた。
「たまらねぇ! たまらねぇぞぉぉおお!!」
興奮が絶頂に達したバルゴの剣先は速度を増し、どんどんマリーの団服を刻み取っていく。
「ミネルヴ様! もう我慢の限界です! あれじゃあ、ただの辱めじゃないですか!?」
「……まだ、ダメです。彼女の目は本気で助けを求めていません」
「え……?」
どう見ても、戦意を喪失しているようにしか見えない。マリーは恐怖で力が入らないのか、両手両足が伸びきり無防備な状態で、抵抗する気力も失ってしまっているようだ。
「さあ、そのいやらしい乳を見せてみろ」
切っ先がゆっくりとお腹から胸元へと撫でるように上がっていき団服を斬り開いていく。
「お願いなのです。本当にやめないと――」
「やめないと何だってえぇええ」
発狂にも似た大声を上げ、勢いよく団服を斬り開こうとした瞬間、最後の抵抗を見せたマリーの腕に剣の切っ先が当たり、真っ赤な血飛沫が辺りに散った。
「マリーさん!」
「お、俺は悪くねぇぞ! こ、この女が勝手に動いたから――」
予期せぬ事態に慌ててミネルヴの方を向いて弁解するバルゴ。狂気に満ちていた表情はあっという間に情けない顔になり、自分は何も悪くないと必死になって訴えていた。
何故なら、ルールの一つを破ってしまったと思っていたからだ。
バルゴが斬ったのは、マリーの左手首。骨までは達していない感触だったが、確実に肉を斬ったときのそれだった。血の量からしても、かなり深手を負っていることは明らか。
つまり、死に至らしめたとしても不思議ではないほどの斬撃を与えたことになる。
もし、ルールを破れば、一般兵に降格した上に生涯雑用係として罪を償い続けなければならない。仲間を死に至らしめれば報いを受ける。それは説明せずとも兵士になる者ならば、全員が知っていることだ。
だからこそ、絶対に非があったことを認めたくないバルゴは、自分のせいではないと訴え続けた。
「だから、止めてと言ったのです」
大量の血を流して、意識が朦朧としているはずのマリーがすっと立ち上がった。
「……なんだよ、それ」
「……マリーさん?」
戦っていたバルゴ、心配そうに見ていたラナ、そして闘技場内にいた誰もが驚きの声を上げていた。
「最近、英雄たる資質に目覚めたばかりで、まだこの力に慣れていないのです」
雨粒のような真っ赤な血の雫が、マリーの周りに浮遊している。
斬られたはずの左手首の出血は止まり、傷口は紅い蒸気と共に塞がっていく。そして、傷痕が残らないほど完璧に治癒してしまった。
「な、なんだよ、その目ぇええ?!」
大きく見開かれたマリーの目は、紅色に染まっていた。
「上手く避けてほしいのです。でないと私、お兄さんを殺してしまうかもしれないのです」
そう言うと、血の粒がマリーの手元に集まり弓の形を成していった。
「こ、殺してしまうって……、じ、冗談だろ」
可愛い顔をした巨乳のドジっ子キャラを確立した女の子とは思えないほどの殺気を放つマリーを見て、腰が抜けて動けなくなってしまったバルゴは、その狂気に満ちた姿に恐怖した。
「私の命を脅かす者に、降り注ぐ血の制裁を……<紅血の時雨>」
血で作られた弓を引き、矢を射るように浮遊していた血の粒を天高く放った。
容赦なく降り注ぐ無数の血の雨は、次々と地面にひび割れ一つない小さな穴を空ける。範囲は狭いが一直線に向かって来る紅血の時雨の威力を見る限り、一度触れれば風穴が空いてしまうことは間違いない。
「やめてくれぇぇえええ!!」
膝をガクガクさせて動くことができず、避けるタイミングを逃してしまったバルゴに成す術はない。凶器とかした血の雨が無情にもバルゴの頭上に降り注いだ。





