29話 『俺の見ている世界では、時間の流れが違っていました』
ラナが魔窟の奥へ進むと、分厚い扉が勝手に閉じた。そこは灼熱の蒸し風呂。ムワッとした熱風が外へと流れ出る。スフィアが掛けてくれた付加魔法のおかげで、少しだけ暑い程度にしか感じない。
密閉された空間は、どれほど視界が悪いのかと少し心配していたラナだったが、マルスが気を利かせて、天井部分に換気用の隙間がいくつか空いていたおかげで、思っていたよりも日の光が差し込み、地獄の猟犬の姿が良く見える。
近くで見る姿は、黒い地肌から日が噴出してきそうなひび割れた模様が入っている。目は真っ赤で見るからに地獄から現れたような禍々しさを感じた。
陣形を崩され孤立してしまった地獄の猟犬は、何が起こったのかと周囲を見渡し、注意散漫になっていた。
――今ならいけそうだな。
ラナには、駆け引きができるような経験も無ければ、技術もない。今持っているものは、“英雄たる資質”の目覚めによって手に入れた“超高速回避”とマルスに教えてもらった“必殺技”なるもの。そして、その力に対する絶対的な自信だ。
そうなってくると、安全に決め手となる一撃を入れるという考えがなくなってしまう。
――今だ!!
地獄の猟犬が背を向けると、ここぞとばかりに突撃を開始してしまった。
単純に目の前にいる敵を自らの力でねじ伏せる。という安易な考えで向かっていくラナは飛んで火にいるなんとやら。警戒心が強く、身の危険を瞬時に察知した地獄の猟犬は、ラナの方を振り向き、口を大きく開けて地獄の業火を放とうとしていた。
「マジかよ!?」
慌てて止まろうにも、すぐ目の前まで接近していたため、やむを得ず地獄の猟犬の左側へ回り込んだ。
するとどうだろう。地獄の猟犬は、方向転換したラナの方へ向き直すことはなく、大きく開いていた口を閉じてしまった。どうやら、地獄の業火を放つためには、自身の体を固定砲台のようにその場にとどめておく必要があるようだ。それに気づいたラナは、
――なるほどね。それなら、動き回って隙をついてやる!
と、狙いが定まらないように右へ左へと移動を繰り返して、一撃入れるための機会を伺っていた。だが、相手も相手で伊達に猟犬という名で呼ばれていない。遠距離攻撃が出来ないと分かると、接近戦に切り替え、ラナを仕留めようと後を追い始めた。
「ガルァァァ!!!」
「ちょ……! 何で急に追いかけて来るんだよ!」
移動速度が少し上昇しただけのラナと魔獣である地獄の猟犬の脚力では明らかに後者に分がある。地面を蹴りだす四本の足からは、火の粉が散っていた。特に鉤爪からは火の粉というよりも火花が散っている。あれで切り裂かれようものなら、痛いどころの話ではない。
だが、ラナには目にも止まらぬ超高速回避能力がある。だから、いつ攻撃されても絶対に回避できる自信があった。
――逃げ回っていても埒が明かないな。
距離を詰められる前に迎え撃つことにしたラナは、雷を帯びた護身用の長剣を正面に構え、回避と必殺技を繰り出す準備を整えた。砂を巻き上げ火の粉を散らしながら、突っ込んでくる地獄の猟犬の圧力は暴食熊と比べれば何のことはない。
そして、すぐそこまで迫って来た時、地獄の猟犬は勢いをそのままに跳び掛かると熱く燃える鉤爪を振りかざす。
心にゆとりを持っていたラナは、どっしりとその場に構えて迎え撃つ――はずだった。
一瞬のうちに回避行動に移るはずの体が動かなかい。これは誰かの妨害でも何でもない。ラナ自身が超高速回避を発動できていなかったのだ。
「くっ」
喉元を狙う鉤爪から身を守るため、体をグッと後ろへ逸らした。熱風とともに焼け焦げた臭いのする鉤爪が、ジュッと音を立てながらラナの首をかすめた。
「っ!?」
首に奔ったのは激痛。熱を防いでいるとは言え、高熱を帯びたそれを直に受けてしまったら、暑いどころの話ではない。幸い傷は本当に薄皮一枚程度のかすり傷。致命傷にはならなかったが、それだけの傷でも声が出せずに歯を食いしばって、耐えなければならないほどの痛み。
そして、刻まれたのは“死への恐怖”。“英雄たる資質”という光の陰になりを潜めていたそれが一度目を覚ますと、根底に染み付いた弱者としての本能が呼び起こされる。
――殺される。
ひるんでいるラナには、自分以外の存在がゆっくりと動いているように見え始めていた。まるで、荷馬車に轢かれてしまいそうになったときに起こるあの現象のように。
背後に着地した地獄の猟犬は、再び首に狙いを定めて跳びつこうとしていた。今度は切り裂くのではなく、ラナを確実に仕留めるために首にその鋭い牙を突き立て、食らいつこうとしている。
それすらも、ゆっくりと動いて――いや、もう時が止まって見える。
不思議な世界に迷い込んでしまった感覚に陥った瞬間、自然と体が動き出す。後ろを振り返り、空中で止まっている地獄の猟犬の真下へと潜り込む。そして、手にした長剣を腹部に向かって振り上げる。その一閃は空を奔る雷の如し。
地獄の猟犬を一刀両断すると、止まったように感じていた世界が動き始める。切られた体からは青い炎が溢れ出し、その身を焼き尽くした。
「これって……」
一体目の地獄の猟犬を討伐した喜びよりも先に、今自分の身に起きたことに驚いていた。この感覚は、超高速回避を体に馴染ませようとマルスと鍛錬していたときにも感じていた。
そう。それは、何度も何度も繰り出されるマルスの拳を死にもの狂いで回避し続けていたときに起こった。最初は勝手に体が反応して回避していただけだったのだが、徐々にマルスの動きがゆっくりと見えるようになっていった。
本当に自分以外の全てが遅くなってしまったような錯覚に陥っていたのだ。
その時、マルスが見出した必殺技。それが今、地獄の猟犬の攻撃を回避し、一刀両断した技。
――時間の錯覚。
ラナから見れば時間が遅くなったような錯覚だとしても、相手からしてみれば、攻撃したつもりが気づいた時には切られている。まさに一瞬の出来事。
最大の攻撃にして最大の防御。それこそが、ラナが手に入れた戦うための唯一の方法“カウンター攻撃”だ。
ちなみに時間の錯覚は、“カウンター攻撃”という不格好な名前が嫌だという理由でラナが格好つけて名付けたわけで。
「とりあえず、一体倒せた……のか」
一戦を終えると、ラナはひとつの疑問を抱きながら外で待っているスフィアを迎えに扉を開いた。
「あら、結構早く終わったのね」「すみません。結構時間かかっちゃいました」
「「え?」」
「あの技、上手く発動できたみたいね」
察しが良いスフィアは、ラナが時間の錯覚を発動させたのだと気づいた。
「いや、それが途中まで全然使えなくて」
ラナは、戦いの最中に起こったことを一部始終伝えた。それを聞いたスフィアは、どうして発動することが出来なかったのか予想ができた。
「君、途中まで俺なら絶対大丈夫だって余裕かましていたでしょ?」
「ギクッ!! ど、どうしてそれを……。ま、まさか、また俺の心を?!」
「読んでないわよ! まったく、君の“英雄たる資質”を発動するには“命の危険”とか、“死への恐怖”とか、そういった魂の奥底から溢れ出るような強い気持ちが必要なのよ。あれだけ危険な目に遭っていて、マルスさんと私から色々説明していたのを聞いていなかったからそうなったのよ。私の命も君に預けていることを肝に銘じておきなさい! 油断大敵! 油断禁物! わかった?」
「は……はい。もう油断しません。すみませんでした」
「分かればよろしい。さあ、次に進みましょう」
もう二度と油断はしないと肝に銘じたラナは一体目を倒した方法で、二体目、三体目と順調に討伐していき、最後の一体へと辿り着く。ここまでスフィアの付加魔法以外に手助けを受けずに来られた。何も力になれなかった自分がここまでできたことは、ラナが抱えていた悩みを一つ解消させ、少しだけ心を軽くした。
そして思った。あと一体、あと一体討伐すれば全てが丸く収まると――。





