19話 『駆け抜けた先には、悲しみの天使がいました』
――今日は本当に最悪な一日だな。
生まれてから今に至るまで、こんなにも理不尽極まりないトラブルの連続をたった一日の間に経験したことは一度たりともなかった。
理不尽さ故に、何度でも復活するはずの前向きな気持ちは影を潜め、これ以上にないくらいどん底まで突き落とされたような、二度と這い上がれないのではないかと思うほどの精神的ダメージを受けていた。
どうにもならないことが起こると、人は笑うしかないと言うが、今回ばかりは笑えるような状態ではない。
元を辿ればスフィアと契約を結んでしまったことが原因だと言わざるを得ない。けれど、今のラナにとってはどうでもいいことだ。終わった話を何度掘り返しても、起こってしまったことは変えることは出来ない。
今はただ、自分に課せられた使命を全うするだけ。そう自分に言い聞かせながら、マスターが待つ店へと戻って来た。
「パパー!!」
「カルネ!! ……良かった。本当に無事で良かった」
マスターは傷ひとつなく帰ってきたカルネをギュッと力強く抱きしめ、温もりを確かめるように何度も頭を撫でては喜んだ。カルネの帰りを心配して一緒に待っていた客たちも安どの表情を浮かべていた。
「兄ちゃん。本当にありがとう。何と礼を言ったらいいか」
「気にしないで下さい。カルネ君が無事だったんですから、それだけで十分ですよ」
「いや、それでは俺の気が済まない。何か礼をさせてくれないか?」
正直に言って、礼を言われるようなことは何一つしていない。最初にアレキサンダーを見つけたのも、聖域からカルネたちを無傷で救い出すことができたのも、全てスフィアのおかげなのだ。ラナは少しだけ悩んだ末、一つだけお願いをすることにした。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただいて、一つだけお願いしても良いですか?」
「ああ! 何でも言ってくれ!」
「実は、今日の宿が見つかってなくて一晩だけお世話になっても良いですか?」
「お安い御用さ! 二階に客人用の部屋があるから一日とは言わずに好きなだけ使ってくれ!」
「ありがとうございます」
「でも、本当にそれだけでいいのか?」
「十分ですよ。早速で悪いんですけど、もう体力的に限界なので、二階の部屋に案内してもらえますか?」
「ああ、分かった。こっちだ」
そう言うと、マスターはカルネと一緒に二階の空き部屋へと案内してくれた。
部屋に入ると、窓が一つ、小さな机と椅子が一脚ずつ、そして寝心地が良さそうな少し大きめのベッドが一台あった。
ここは寒空の下で凶暴な熊に追われることもなければ、大勢の人々が行き交う中で迷子になることもない。命を狙うような追っ手から逃げることもない。
ラナは村を出発してから初めて、心から安心できる場所へと辿り着くことが出来た。
「今日は本当にありがとう。ゆっくり休んでくれ」
マスターはそう言いながら、感謝の気持ちを込めて深々と頭を下げると、カルネを大事そうに抱きかかえて部屋を後にした。
「スフィア様、もう大丈夫ですよ」
ラナは、ぐったりとしたスフィアをベッドに乗せた。
「そのようね」
スフィアは変身魔法を解いて、白銀色の奇麗な髪の毛をした魔女の姿へと戻った。
「スフィア様……俺……」
一日を通して、何もすることが出来なかったことを謝ろうとしたのだが、
「何かしら? いくら私が可愛くて、ぐったりしているからって変なことをしたら許さないわよ」
と、予想外な返しが来た。
「するかっ! って、思った以上に元気みたいですね! 心配して損しましたよ!」
「君と二人きりで同じ部屋なんて、危なっかしくてゆっくり休めないわ……」
「俺ってどれだけ信用ないんですか!?」
契約の時にバカな考えをしてしまっていたことがバレてしまっていたようで、スフィアは完全にラナが「思春期真っただ中の狼」という認識になっていた。しかも、魂を一つにしたおかげで、ラナの度々考えていたスフィアが結構好きなタイプだということも知られていた。
そんなことを知る由もないラナは、どうして自分がここまで男として信用がないのかと本気で分からなかった。
「えっと……。とりあえず、謝らせてください。俺、スフィア様がこんなになるまで任せっぱなしで、パートナーとして頼りないですよね。本当にごめんなさい……。俺、絶対にもっと強くなってスフィア様に迷惑を掛けないような男になってみせます。だから……って、あれ? スフィア様? もしかして、怒っているんですか?」
思いの丈を伝えていたはずだったが、全く反応しないスフィアにまたネガティブ思考が発動したラナは恐る恐るベッドに横たわるスフィアの顔を覗いてみた。
「スフィア様?」
返答はない。疲労困憊していたスフィアは、突然スイッチが切れたようにスースーと寝息を立てていた。その寝顔は、ラナを警戒していたわりには余りにも無防備で、意地の悪い刺々しさのある発言をしていた時の人を見下す女王のような表情はどこにもない。まるで天使だ。
――ちょっと、これは反則級に可愛すぎるでしょ!
さすがは思春期ラナ。自分の抱えている問題やスフィアに抱いていた申し訳ない気持ちも、頭を埋め尽くす欲望を前に霞んでしまう。
視線はスフィアの顔全体から小さくぷるんとした桃色の可愛い唇へと集中する。
今まで感じたことがないような胸の高鳴りと尋常ではないくらいの鼻息の荒さで、ゆっくりとタコのように尖らせた唇を近づける。
「パパ……ママ……お姉様……」
「うわっ!?」
もう少しで、抑えきれない衝動的行動を成功させようとした時、突然スフィアが言葉を発したものだから、脅かされた猫が思わず跳び上がってしまうようにラナも驚き、ベッドから離れた。
――び、びっくりした。今、パパとか言ったか?
「スフィア様、起きているんですか?」
ラナはまた、ゆっくりとスフィアの顔を覗き込んだ。
「……どうして、私を一人にしたの?」
スフィアは眠りながら涙を流して、寝言を言っていた。
「スフィア様……」
悲しさや寂しさがスフィアを見ているだけで伝わってくる。
流れる涙を拭おうと手を伸ばしてみたが、触れることは出来なかった。もし、今触れてしまえば、聞いてはいけない心の声が聞こえてしまいそうで、踏み込んではいけない過去に触れてしまうのではないかと思ったからだ。
ただ、寝言からスフィアが家族と離れ離れになっていることが分かってしまった。
ラナが大切な人たちを人質に取られていることも、そのせいで失うかもしれないという恐怖と不安に押しつぶされそうになっていることも、カルネの大事な親友が居なくなって悲しんでいた時も、スフィアは全部自分の事のように思っていたに違いない。
だからこそ、カルネのために必死になってみたり、ラナの気持ちが痛いほどよく分かると、普段の冷静沈着で意地悪な態度とは対照的な優しさを見せてくれていたのだ。
こんなに小さな体で、ラナの想像を遥かに超える悲しみと苦しみを背負っているのだろう。
「……ずるいよ、スフィア様……」
決して弱みを見せず、毅然とした態度で進み続けようとする強さが羨ましくも思えた。でも、同情はしなかった。こんなにも強くあろうとしているスフィアに、同情できるほどの何かを自分が持っていないことを分かっているからだ。
だからこそ、余計に嫉妬したし、もっと頼られるような存在になりたいと強く想った。
「おやすみなさい」
ラナはそっと毛布を掛けると、ベッドの近くに腰を下ろし、壁にもたれかかるようにして眠りについた。
途轍もないことばかりの連続で、結局頭が追いつかないまま、長かったような短かったような一日がようやく終わりを迎えたわけなのだが、白銀色は魔女だろうと猫だろうと不幸を招き入れてしまう。ラナは一時の安息と夢もみないほど心地の良い眠りの後、それを痛感することになる。





