1話 『クマさんに出会ったと思ったら魔女でした』
【魂の契約と英雄たる資質編】
――なんで今日に限って……。
真冬の凍てつく寒さの雪山で、一人の少年が顔面蒼白で立ちすくんでいた。
彼の名はラナ・クロイツ。人里離れた山奥にある小さな村アルカノで農家の一人息子として生まれ育った。
背丈は一六〇センチと平均的な身長で、目にかかるくらいの少し伸びた黒髪ぼさぼさ頭。チャームポイントは右目の下にある泣きボクロ。外見だけ見ると何処にでもいるような普通の少年だ。
数分前に十五歳の誕生日を迎えたおめでたい日にもかかわらず、雪が降り積もる山の中でたった一人あるものに怯えていた。
ラナが遭遇したのは、茶色い毛並みをした体長二メートルは余裕で超えている熊だった。口には鋭い牙をチラつかせ、手足には鋭い爪をギラリと光らせている。
あんなのを使って襲い掛かられたらひとたまりもない。
冬眠しているはずの熊に遭遇するなんて、普通ではあり得ない状況だが、生まれた時から何かする度にトラブルに見舞われている彼にとっては、非日常的な出来事こそが日常的な出来事なのだ。
しかも、絶体絶命と思えるようなトラブルばかり。
生まれて初めて掴まり立ちが出来た時には、暖炉に灯油をぶちまけて家を全焼させ、父親の手伝いで王都に野菜を売りに行った時には、間違えて盗賊の荷車に乗り込み一カ月もの間、行方不明になり、親友と英雄ごっこをしながら遊んでいた時は、勢い余って近くを通りかかった野生の狼に一撃かましてしまい、危うく食い殺されそうになったこともある。
ラナの凄いところは、今まで命の危険に曝されながらも、奇跡的に一命を取り留めているところだ。
しかし、この状況は非常に不味い。逃げ出そうにも後ろには断崖絶壁が聳え立ち、袋のネズミ状態。万に一つも助かる見込みがない。
「グルルルル」
唸る熊との睨み合いが続く中、無駄にポジティブさを発揮した頭にふと思い浮かぶ。これは英雄になる自分に与えられた試練なのだと。
「やるしかないみたいだな」
熊と戦う決心がつくと、腰に携えた長剣を手に取った。
しかし、その長剣は刃のついていない護身用の剣。
身に纏っている生成り色の防寒具一式を作るために必要な素材〈レプス〉という野兎を狩るには充分な武器だが、分厚い体毛に覆われた熊に通用しないことは明らかだ。
「グォォォオオオ!」
「ひっ」
辺りの木々を揺らすほどの咆哮に驚くと、情けない声を出して尻餅をついた。
確固たる決意をしたはずだったが、怖いものは怖い。
――や、やっぱり無理だよな。
圧倒的に不利な戦いを挑もうなどという無謀な考えを捨て、逃げることを選択したラナは、熊を刺激しないようにゆっくりと長剣を鞘に納めると、一歩一歩岩壁に沿って後退りを始めた。
「俺は食べてもおいしくないですよぉ」
手を上げながら、戦う意思がないことを示し、恐怖に震え上がる体を懸命に動かしながら、「大丈夫、大丈夫」と、心の中で呪文を唱えるように言い聞かせながら。
「ふふふ」
何処からともなく女の含んだ笑い声が聞こえて来た。
「ひぃぃ!」
張り詰めた緊張感の中で聞く笑い声は、恐怖心を煽り、再び情けない声を上げさせる。
目の前にいる熊と得体の知れない声に挟まれ、バクバクと鳴り響く鼓動が追い打ちをかける。
パーンッッッッ!!
突然、目の前にいた熊が強烈な破裂音と共に水色の煙となって弾け飛んだ。
驚きの余りに心臓が飛び出そうになったラナは、目を真ん丸と見開き、声を出すこともできず、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「ぷっ。あははは!」
次は甲高い笑い声が辺りに響き渡った。
――もう、嫌だ……。
薄っすらと涙を浮かべながら笑い声のする方を見ると、神々しい光を放つ満月を背にあり得ないものがそこにいた。
「嘘……だろ」
見間違いではないかと、しきりに目を擦り見直すが、何度見直してもそこには人の形を模した黒い物体が宙に浮いていた。
声の主と思われる黒い物体は、舞い落ちる粉雪と共にゆっくりと地上に降り立つと、月明かりに照らされ浮かび上がる一本道を歩き近づいてくる。
近づくそれは、真っ黒いローブに身を包み、背丈以上はある棒を背負っている。顔はフードを深くかぶっているせいでよく見えない。
不気味な雰囲気を醸し出しているが、熊に襲われそうになったせいか、小柄な人間っぽい姿にそれほど恐怖心は抱かなかった。
ただ、あまりに驚きすぎて、腰が抜けて立つことが出来ない。
突然現れた空からの来訪者に良い印象を抱くはずもなく、逃げ出したい気持ちだけが先走り、恐怖と寒さが相まって体の震えが止まらない。
黒い物体も歩みを止めない。
じわりじわりと迫り来るのをただ見ていることしか出来ない。
――ああ、そうか。これは夢だ。きっとそうだ。
と、普通ではあり得ない出来事に都合の良い理由をこじつけた。そして、無理矢理納得したラナは悪い夢なら早く覚めろと強く目を瞑った。
しかし、降り積もった雪をシャリシャリと鳴らしながら近づく足音は、嫌でも耳に入ってくる。
シャリ。シャリ。シャリ。
目を瞑ってしまったせいで、逆に恐ろしさが倍増してしまった。
頑張って目を開こうにも、「実は目の前に人間の形をした化け物がいて、自分を食い殺そうとしているのではないか」という妄想が邪魔をする。
脳内で恐ろしい妄想が繰り広げられる中、足音がピタリと止み、耳元に生暖かい息が吹き掛かる。
もうダメだ。と、死を覚悟した瞬間、耳を疑うような言葉が聞こえて来た。
「英雄になる条件、教えてあげましょうか?」
「え?」
あまりに唐突でありながらも、英雄を目指し旅立ったラナに対して投げかける問い掛けにしては、的確過ぎる質問に思わず目を見開いた。
すると、目の前には月明かりのせいか神秘的な輝きを放つ白銀色の長髪が凍てつく風に靡いていた。
見惚れてしまうほど美しい髪を辿るように目をやると、透き通るような白い肌、小さな唇と小さな鼻、幼く整った顔。そして、吸い込まれてしまいそうな青く澄んだ空色の大きな瞳と目が合った。
そこにいたのは、想像していた化け物とは程遠い。可愛らしい少女だった。
「英雄志望のラナ・クロイツで間違いないわよね? それとも、私の言葉が聞き取れなかったのかしら?」
――ラナ・クロイツか? と訊かれれば、俺は紛れもなくラナ・クロイツだ。最初の問い掛けも聞き取れていたし、言葉の意味は理解している。
そう答えようと思ったが、余りの衝撃的な発言にあんぐりと開いた口からは何ひとつ言葉が出て来なかった。
「あのね、私は君の間抜けな顔を見る為に、遠路はるばるこんな辺鄙な場所に来たわけじゃないのよ。自分の名前が合っているのかどうかは答えてくれても良いと思うのだけれど」
痺れを切らせた少女は、目尻をピクつかせながらラナに詰め寄った。
両手を腰に当てながら、覗き込む少女の顔は指一本入る隙間があるかどうかの僅かな距離まで接近していた。
――ちょ、ち、近っ!
相手が何者であろうと、思春期真っただ中の少年にとって、この距離は守備範囲外。
赤面するどころか、のぼせてしまいそうなくらいに熱くなった顔から蒸気が出てしまうほど動揺しまくったラナは、
「お、お、俺がラナ・クロイツです! あ、あなたのお名前は?」
と、答えながら少女の肩をガッと掴み、距離を取るように突き放した。
「気安く触れないでくれるかしら」
少女は眉間にしわを寄せて嫌悪感たっぷりの表情でその手を払った。
可愛い顔が歪むほど嫌な顔をされるとは思いもしなかった。これはこれで予想外。
「ご、ごめんなさい!」
「本当に私が何者か知りたい?」
「知りたいというか。何と言うか……」
「特別に教えてあげましょうか?」
本当に教える気があるのかと疑ってしまう程にギラギラと睨みを利かせている。
「や、やっぱり大丈夫です! 無理に聞きたいって訳じゃないので!」
怖気づいてしまったラナは、手を振り、首を振り全力で断った。しかし少女は、
「私が何者なのか特別に教えてあげましょうか?」
と、食い下がった。
怒りで引き攣った表情からは、気持ちよく教えてくれるような雰囲気は微塵にも感じられない。
――どっちなんだ……。
悩みに悩んだ末、教えてもらった方が良さそうな空気を感じ取ったラナは、大きく横に振っていた首を縦に振り直した。
その姿を見た少女は、満足そうに答え始める。
「聞いて驚きなさい。そして、ひれ伏しなさい。私は四大聖魔の一角。魔女の一族セーラム家の第十三皇女スフィア・セーラム。遠く離れた東の地から、君の願いを叶えるためにここへ来たの。高貴な存在であるこの私が、無能で非力で生きている価値すらないような存在の人間である君の力になる為にね」
「はい?」
聞きなれない単語ばかり並べられて、意味が分からず首を傾げた。
スフィアは、そんな事など気にも留めず「ふふん」と、誇らしげに胸を張っている。
――結局、こいつは何者なんだ……?
この出会いが、英雄になるという夢を叶える最高な出会いであり、新たなトラブルへと繋がる最悪な出会いであることをラナはまだ知らない。