09話 血
何だこれ。何かがおかしい。
少しずつ感じていた違和感が確かなものになった。
ーー俺、やばくないか?
空腹だとか疲れだとかそういうものはまだ気のせいだろうと受け流すことができた。でも、今回ばかりはそうはいかない。
だって俺には、生きていた頃の記憶がある。
この状況は明らかに普通じゃない。
おじさんたちは笑って話を続けてくれていたが正直それどころじゃなかったし、自分で蒔いた種なのは重々承知しているけれど居心地が悪くなってしまった。
予定なんてものは入ってなかったが、急用を思い出したと伝えて輪を離れる。
どうあがいたって、さっきの言葉が頭から離れなかった。
何なんだよもう。やめてくれよ。俺は生粋の日本人なんだよ。周りと違ったら不安で仕方なくなるんだよぉっ。
ここまで来たら未だに改善されない空腹感も次第に溜まって行く疲れも勘違いじゃないような気がしてきた。というか絶対に勘違いじゃない。
どうしよう、この展開はつらすぎる。
ーーーいや、ここで焦っても仕方がない、冷静になろう。もっと情報が欲しい。俺と同じ境遇の人もいるかもしれない。
今更だが先ほどの会話から抜け出してきたことを後悔した。
ああしようこうしようと悩みつつ市場を歩いていたら、動揺していた気持ちもかなり落ち着いてきた。
一旦そうなってしまうと、今度は逆に今の状況をあり得ないほどに楽観的にとらえ始めた。
あれ?思ってたより大変な状況じゃ無くね?
別に前世の記憶があったって天国での生活に何か支障をきたすわけでもないだろうし。
このままでも余裕で生活して行けるし、すんなりと溶け込める気がする。なんだ。全然大丈夫じゃん俺。
・・・天国最高だぜ!!
おかしなテンションが出来上がった。
今度は幸せオーラを前面に出しながら町を闊歩する。
暫くすると、一軒の駄菓子屋の前で複数人の子供達が楽しそうに遊びまわっているのが見えた。
ーー元気だな。
なんとなくそれを眺めていると、そのうちの一人の女の子が派手に転んでしまい、輪から外れてしまった。
かなり痛そうな音がしたし、ただでは済まないだろうと思い声をかけようとすると、俺が呼びかける間もなくその女の子はむくりと起き上がり笑顔のまま走って集団の中に戻っていった。
マジかよ。逞しいことこの上ない。
地面を見てみると、女の子が転んだ跡がくっきりと残っている。
激しい衝撃がかかっているはずなのに、女の子は傷一つ負っていない。
ーー怪我は負わないのか。
だんだんと察しがよくなってきている。子供たちが去って行ったあと、駄菓子屋の店主と思われる人にこっそりと話しかけた。
「あ、あの、お尋ねしたいことがあるのですが、さっき転んでしまったあの子は大丈夫なのでしょうか」
質問は出来る限りオブラートに包む。
店員さんは驚いた顔をしつつも、快く答えてくれた。今のところ、天国ではいい人にしか会っていない。
「?ああ、天国では怪我を負うことはないからね。心配することはないさ」
ス、スパルタだぜ・・・。いくら大丈夫でも結構痛そうな音がしてたZE。
どうやら慣れている様子だ。
「血とかも出たりしないんですか?」
流れに乗って結構思い切った質問〈俺の匙加減〉をしてしまった。
「血?・・・ああ、生物に流れているあれか!そんなもの、魂の俺達から出てくるなんて聞いたこともないよ!」
本気で冗談の質問だと受け取っているらしい。店主さんは心底おかしそうに笑った。
「ですよねぇ~」
一緒になって笑って見せる。それと同時に心の中で思う。
ーーよし、試そう。
きっとこれしかない。俺が、一介の魂であるという証明をする方法は。
これはただのバグだ。例え空腹に襲われても、眠気や疲れを感じても、前世の記憶があっても、俺が魂であることには変わりはないはずだ。
体の構造は、彼らと変わらないはずだ。
深く考えることはしなかった。
店主さんにお礼を述べた後、俺はそのままの勢いでラムネを購入すると、それを持って一度町の外へ出た。
早く早くと足を進める。
だんだんと暫くぶりの景色が近づいてきた。
風が気持ちいい。
初めに辿り着いた草原の場所まで戻ると、周囲に誰もいないのを確認してからラムネ瓶を割った。
ほぼ、衝動に近かった。
衝動的に、それでかつ冷静に、ラムネ瓶の破片を握った。
着物の袖をめくり二の腕に部分に切っ先を当てる。
正直、こんなことをわざわざしなくたって、天国では暮らしていける。転けたりしない限りここでは怪我する機会なんてもの訪れないんだから、気にしなければ良いだけなのはわかってる。
でも、天国1日目にして、こんなにも沢山の“矛盾”に出会ってしまったら、試さずにはいられなかった。
早くこの不安から解放されたい。
自傷行為なんてものは初めてだ。指先が震えて仕方がない。
ーー怖えっ。こんなん先端恐怖症になるわ。
怖がる必要なんてものはどこにもない。そのくらいのことは分かっていたが、やはりいざ自分を切りつけようとなると相当の覚悟がいる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
天国では痛みなんて、感じないんだ。
一つ呼吸を置くと固く目を閉じた。
そのままの勢いで瓶の破片を振り下ろす。
同時に注射の何倍も痛い衝撃が左の二の腕に走った。
・・・のどかな草原に、一滴の血がしたたり落ちた。