30話 汐とナナシ
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「あれ、伊坂はどこ行ったんだ?」
帰りのHR、連絡事項を読み上げたあと思い出したかのようにナトリが口を開いた。
その言葉に反応して複数人の生徒がざわつく。
「6限までは居たよね?」
「う、うん」
「帰った・・・のかな?」
「し、知らなねえよそんなの」
「ーー帰られましたよ」
そのざわめきを断ち切るようにして、生徒の1人である汐が真っ直ぐに声を放った。
一瞬にして教室が静まり返る。
「・・・」
「・・・」
「・・・そうか」
ナトリは数秒間汐を見つめると、対して興味もない素振りでぽつりと呟くやいた。
生徒達の表情は硬いまま。自らの中に後ろめたい気持ちがあるのか、ナトリの顔色を伺って申し訳なさそうに目を伏せるだけだ。
ナトリはそんな彼らの様子を見て困ったように髪をかきあげ大きくため息をついた。
「ーーお前ら、伊坂が怖いか」
「・・・」
相も変わらず沈黙は続く。
クラスメイト25名、誰一人としてその問いには答えるものはいなかった。
否、答えられなかった。己の中での答えは各々の中に確実に存在し、言葉に変換することさえ出来ていた。
しかしそれを実際に発信することが出来なかったのは、それを口にすることによって自らのしている行いを客観視することが怖かったからだ。
ナトリはそんな彼らの様子をじっと見つめた後、音を立てずに教卓に手をついた。
「分かった。あいつの身の置き場についてはもう一度検討しよう」
「・・・なっ」
予想外の言葉にナナシが慌てて反論しようとする。それを気にも留めることなくナトリは言葉を続けた。
「10日間待つ」
「ーー?」
「伊坂をどうするかはお前達が決めろ」
一瞬だけ、教室が小さく波打った。
「ーーこれでHRを終わる」
「ま、待てよ!俺達が伊坂のことを決めるっておかしいだろ。あいつの身の置き場をどうするかは、あいつ自身に決定権があるんじゃねぇの?」
教室を出ていこうとするナトリをクラス委員長である佐鳥が慌てて引き留めた。
「そうだな」
「なら・・・っ」
「これがあいつ個人の問題だったらな」
「・・・」
「話し合え」
なんでもないようにそう答えると、ナトリはそのまま教室から出て行ってしまった。
再び沈黙が訪れる。
しかし、そんな空気をまるで気にしていないように汐が椅子から立ち上がった。
「それでは僕、帰りますね」
「ど、どこ行くんだよ」
「“話し合い”するんでしょう?だから帰ります」
「はあ?意味分かんねえよ」
唐突の言葉に理解が追いつかず、クラスメイト達は首を傾げた。
「僕、人間嫌いなんですよ」
「だから、そのことについて話し合おうとーー」
「僕の“嫌い”は皆さんのそれとは全くの別ものだ」
遮るように発せられた言葉に教室の空気が小さくうねった。
「そんな僕が発言すれば場が混乱するだけですし、それ以上に皆さんの意見を偏らせてしまう可能性がある。そんなものは話し合いとは呼べない。だから帰るんです」
汐はそう言うと迷いのない足取りで扉に向かい、そっと引手に手を掛けた。
「それでは、あとは皆さんでごゆっくり」
「お、おいーー」
バタリ。
扉が閉まる。
誰もが戸惑いを隠せないでいる中、汐に続くようにしてナナシがガタリと音を立てて立ち上がった。
「自分も、一旦出ますね」
「はぁ?」
立て続けに起こるクラスメイトの不可解な行動に、生徒達がどよめく。
「すぐに戻りますから!」
一言そう言うと、ナナシは呼び止める間もなくパタパタと教室を出て行ってしまった。
ナナシも汐も、普段であれば協調性が高くクラス内でも頼りになる存在だ。そんな2人が真っ先に居なくなってしまい、残された生徒達は唖然とする。
「・・・で、話し合いとやらはしないのね?」
その空気を途切らせるように1人の女子生徒が感情の読めない声色で言葉を発した。
伊坂利一が夢浮橋で出会った白髪の少女、『紫樹』。見た目に反して彼女の態度は大人びたもので、促されるようにしてクラスメイトの1人、狸田ぽん豆が口を開いた。
「で、でも、2人も居なくなっちゃったし・・・」
「ナトリ先生も10日間待つって言ってたし、無理に今日話そうとしなくても良いんじゃない?」
続いて一反木綿の野口紙が腕を組む。
3人の会話をきっかけに教室内全体にざわめきが広がった。
「そもそもこんなの話し合いする内容じゃねえだろ」
「でも、アタシ等が冷たくしたから帰ったんだよ、ね」
「し、仕方ないだろ。人間なんだし」
「あ、明日、来るのかな?」
「さあ・・・」
「ーー話すぞ」
一言、迷いのない声でクラス委員長である佐鳥が口を開いた。
先ほどと打って変わった彼の様子にクラスメイト達は一瞬思考が飛ぶ。
「話そう。出ていった2人も呼び戻して」
「で、でも」
「このままズルズル引き伸ばして行ったって仕方ないだろ」
佐鳥はそう言いながら堂々とした足取りで教卓へと向かう。
「こんな雰囲気じゃ授業にも集中出来ないし、鬱々した感情抱えたまま過ごすなんて10日間でも長過ぎる」
教壇に乗ることなく振り返り教室全体を見渡すと、意思の篭った瞳で口を開いた。
「はっきりさせようぜ。結論を出すまでは行かなくても、せめてこれからの10日間をどう過ごすか」
そうして、嵐のような“話し合い”が幕を開けた。
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「汐さん」
静かな足取りで廊下を歩いていた汐をナナシが淡白な声色で呼び止めた。
「何か?」
怒りの篭った冷たい眼差しで汐を見つめる。そんなナナシに対し汐はいつも通り柔らかな笑みを顔に浮かべて振り返った。
「利一さんに何かしたんですか?」
「もう下の名前で呼び合うようになったんですね」
「誤魔化さないで自分の質問に答えて下さい」
強い口調とは裏腹に冷静なナナシの態度に、汐は興味深そうに口角を上げる。
「どうして僕だと思うんです?」
「貴方しかいないでしょう」
「理由になっていませんよ」
断固として意見を変えるつもりのないナナシの瞳を見て、汐は面倒くさげにため息をついた。
「・・・最終的に判断を下したのは彼だ。僕はそのきっかけを提供しただけです」
「ーーそれ、正気で言っているんですか?」
「正気ですよ。そもそも僕が何かをしなくてもあの人間はいずれああなっていた」
なんでもないように淡々と言葉を連ねる汐の態度に腹が立ち、ナナシは思わず拳を握り締めた。
「利一さんは前を向こうとしていました。貴方だってそれが分かったから行動を起こしたんでしょう?いくら人間が嫌いだからといって不用意に傷つけて良い理由にはなりません」
「貴方は“人間”がどういうものか知らないからそんなことが言えるんです」
「知らなくても分かります。妖怪がそうであるように人間だって一人一人が異なる個性を持っている。貴方の嫌う人間と利一さんの本質は全く別物なんです。同じに考えることは間違ってます」
「知らないのに何が分かるんですか?本質が別物?貴方の言っていることは全て憶測じゃないですか。人間でもない、ましてや妖怪ですらない貴方が何故それらを語れるんですか」
「・・・そ、そんなの、今関係ないじゃないですか!それに、それを言うならう、汐さんだって同じです。人間じゃない貴方に、人間のことなんて分かるわけないじゃないですか」
「僕は人形神だ」
「・・・っ」
強い憎しみの色を乗せて発せられた汐の言葉にナナシは思わず息を飲んだ。
「人間に造られた妖怪です。僕の精神は僕を造った人間の主人の分身だ」
「そ、それは・・・」
「ーー次は僕の方から質問をさせてください」
汐は捕らえるようにナナシの瞳を見つめると、普段通りの柔らかな声色で言葉を続けた。
「貴方の方こそ、どうして初対面である筈のあの人間にそこまで肩入れしていらっしゃるんですか?理解が出来ないんですよ。座敷さんや佐鳥さんが情に傾く理由は分かっても、貴方があの人間を気にかける意味は全くもって分からない。梔子のクラスで貴方だけだ。アレが人間だと“最初から”認知した状態でなんの抵抗も無く話しかけたのは」
「肩入れしているつもりはありません」
「おや、自覚が無いでんすか?」
毅然とした態度を崩すことなく反論するナナシを見て汐は小さく嘲笑し言葉を続けた。
「貴方は、人間と妖怪が平等だなんて綺麗な考えは端から持ち合わせていない。そのフリをしているんですよ。質が悪いことにね。ただ昔の自分と今の彼の境遇を重ねて、当時自分が欲していた言葉を彼に掛けているだけだ」
「それは違います。自分はただ、利一さんが純粋な人だと思ったからーー」
「会話して数分で、“クラスメイトにすら壁を造っている”貴方が?随分と都合のいい作り話ですね」
「・・・」
「身寄りのない妖怪なんて霜月京には巨万と居る。わざわざあの人間に自己を投影しなくとも、貴方に共感してくれる妖怪は他にも沢山いるでしょう」
汐は表情を崩すことなく言葉を続けると、ナナシはその態度に一切の動揺を見せることなく反論した。
「自己投影ではありません。そもそも自分はクラスメイト達にだって距離を置いてなんていない」
ナナシは低く唸るような声で汐を睨み付けると、小さく下唇を噛んだ。
「・・・そうですか」
汐はそんなナナシを見て小さくため息をつくと、会話は終わりだと言わんばかりに背を向けた。
「まあ、貴方があの人間に対してどんな感情を向けていようと僕には関係無いですものね。意地の悪い追求の仕方をしてすみませんでした」
「・・・ッ待っていて下さい。汐さんは、何故利一さんをそこまで目の敵にするんですか。彼はもう穢土には戻れない。人間であっても人間としての生活は送れない。そんな彼を突き放して、それではあなたの嫌う“個の淘汰”と同じじゃないですか」
「理屈じゃないんですよ」
「ーー?」
普段の汐の口からは、到底出てこないであろう言葉だった。
「殊人間が絡むこの件に関しては、頭で考えて処理することが出来ない。僕は自分の行いを客観視し、その上であの人間を拒絶しているんです。・・・貴方には分からないでしょうけどね。
ーーそれでは、さようなら」
足を進め迷うことなくその場をあとにしようとする汐を見て、ナナシは呼び止めるように声をかけた。
「帰るつもりですか?クラスの話し合いは?まだ、何も解決してません。利一さんはまだ戻って来てないのにーー」
「もうきっと戻って来ませんよ」
「・・・は?」
「よるの森に行った可能性があります。あの人間、僕の言葉を途中で遮ってどこかへ行ってしまったんです」
「ーーよるの、森って」
「そう、あの常闇の森です」
「ーーーっ!」
一瞬にしてナナシの表情から色が消える。
「な、何故それを直ぐに言わなかったんでか・・・!」
慌てて校舎を出ようと階段の方へ向かうナナシに対して、今度は汐の方から声を掛けた。
「行ってどうするんですか」
「どうするって、助けに行くに決まってるじゃないですか!」
「助けに行ってどうするんですか」
「・・・っ貴方は!何故そんな非道なことが言えるんです!」
「僕が非道であるなら貴方も同じです。何も出来ないと分かっているなら行くべきでない。形だけ助けに行っても満足するのは貴方だけでしょう」
「・・・」
「・・・」
「ーーナトリ先生を呼んできます・・・」
ナナシは鋭く、それでいて冷たい眼差しを汐に向けると、あっという間に職員室の方へ駆けて行ってしまった。
一瞬にして静けさがその空間を支配し、落ちかけた夕日のオレンジが汐の頬を淡く照らす。
「わざわざ助けに行かなくとも解決しているでしょうに。あの人間はもう既に
ーー五陵殿の保護下にあるんですから」
呟いた言葉は誰に聞かれることも無く中に消えた。
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「大変、だ」
静かな廊下、汐とナナシが会話の火花を散らしていた1枚壁の裏で1人の少女が小さくそう呟いた。
ーーよるの森・・・。
1度入ったら出ること出来ない、霜月京中の"邪気“が封じ込められた常闇の森。鬼術も体術もまともに扱えない人間の伊坂利一が行って無事である筈がない。
ーー止めないと。
日が沈むまで時間も無い。
少女は強く地面を蹴ると、沈みかけた夕日の方へ駆け出した。