21話 朱雀殿にて
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典漸にとって伊坂利一という人間の存在は驚異的なものに“成り得る”ものだった。彼だけでなく霜月京全体として輪廻の輪から外れた人間の魂に対して過敏に警戒しており、当然、霜月京の誰一人として突如現れた二人の人間の魂を魁蘭学園へ迎え入れることなど想定もしていなかった。
利一と別れた寮からの帰路、典漸はゆっくりと己の判断を振り返った。
霜月京に人間の魂が紛れ込んだ前例は、一つだけ。700年前当時典漸は生まれていなかったため分からないが、記録を見る限りその結末は悲惨なものだった。
―――上がどう出るか、見物だな。
霜月京中央の五つの塔の一つ、朱雀殿は天界警察の本部だ。典漸は若くしてそこの副官に任命された。典漸より前から朱雀殿に勤めていた古参の妖怪たちからは大きく反感を買ったが、難解な任務を身一つでこなしていくうちにその声も当初と比べて幾分か収まっていた。
朱雀殿の殿主は基本的に表に出てこない。
そのため、天界警察の統制や各任務の対応はすべて典漸に任されている。
―――俺が死ぬなら死因は過労だな。
与えられた任務は確実にこなす。
彼の絶対的な矜持の上、仕事に関しては妥協をしたことがなかった。
だからこそ、伊坂利一の一件も彼なりに考え抜いた末の結論だったのだ。
「典漸様、お勤めご苦労様です」
「ありがとう」
典漸が朱雀殿に戻るなり真っ先に浴びたのは、周囲からの好奇と嫌悪、そして侮蔑の眼差しだった。
その視線に割り入るように彼の直属の部下である速水が声を掛けてきた。薄紅色の髪と大人びたショートカットはあどけない顔立ちの彼女には不釣り合いだが、凛とした表情がそれを気にさせない。
能力の高低関係なく、典漸は彼女の屈折のない性格を評価し手元に置いているのだ。
二人はそのままの足で迷うことなく副官室への道のりを進む。
「人間の魂を独断で迎え入れたらしい」
「若い妖怪が権力を持つと碌なことがない」
「妖力も使えないドッペルゲンガー風情が」
行くところ行くところで囁かれる陰口も浴びせられる罵倒も、彼にとっては悩みの種にすることすら煩わしいものだった。
「典漸様」
「どうした」
最初の渡り廊下に差し掛かったところで速水が口を切った。
「例の少年の様子は、如何でしたか?」
そう言うと、速水は気まずそうに視線を落とした。
「気に留めることは無い。普通の子供だったよ」
「そう、ですか」
「・・・恐れる必要はない」
彼女の浮かない表情が晴れることは無い。事実、霜月京の本部で働く者のほとんどが今回の典漸の判断に不満と動揺を感じていた。
「大丈夫だ。根拠はある」
一息置いて速水が顔を上げる。
「私は、典漸様を信じます」
覚悟を決めたような彼女の瞳を見て、典漸は心の中で自嘲した。
―――完璧な信用を得るのは難しいな。
特にこの件に関しては。
「ありがとう。・・・天国の様子はどうなっているんだ?」
典漸がそう言うなり、速水はほんの少し険しい表情になった。
「それが、魂たちの様子は改善されてきているのですが、贍部州全域の草木はまだ」
「成るほどありがとう。後は俺が受け持つ」
「いけません!これ以上お仕事を入れてしまわれてはお体に触ります」
「大丈夫だよ。休みはとる」
これは、異常事態だ。
そしてそのことに、中央の者の殆どが気が付いていない。
伊坂利一の身の置き場よりそちらの方が余程重大な事案であるというのに。
天国の草木は、帝釈天の神々が管理しているため穢土や霜月京のものと違い本来枯れることなどありえない。
万一枯れたとしても、土地の陽気を吸収することで1時間以内に生え変わることができる筈なのだ。
神々の力を以てして、三日たった今戻らない。
そんなことは霜月京の歴史全体を通してみても初めてのことなのだ。
―――くそ、三十三天は一体何をしているんだ。
伊坂利一が関係しているかどうかは先程の質疑からは判断しかねるが、無関係と捉えるにはまだ早い。
「やるべきことは山積みだな」
典漸がそう呟いたところで背後から声を掛けられた。
「半年前の少年といい今回の少年といい、独断で霜月京に引き入れてしまうとは朱雀殿二番手殿は上から余程信頼されておられるのですな」
「・・・これは、黎趙殿」
王黎趙は典漸が任命される以前朱雀殿の副官を担当していた男だった。大きな体躯に派手な身なりから、朱雀殿の殿内でも異様な存在感を放っている。
「霜月京中で話題になっておりますぞ。そのような重大な事項、例え上から任されていたとはいえ誰に相談することなく決断してしまうなど少々慎重が足りないのでは?」
「慎重に考えたうえでの判断です」
典漸の鷹揚とした態度は、黎趙を煽るには十分だった
「っ!彼らが何かしらの問題を引き起こしたとき、その罪は貴殿一人の命で償えるものではないのですぞ!」
「承知しております」
「まあしかし、ドッペルゲンガーの副官殿のことだ。自分の首に霜月京と匹敵する価値があると勘違いされていても仕方ありますまい
・・・安倍晴明の事件をもうお忘れか」
「すべてを考慮したうえでの判断です」
黎趙の言っていることは、すべて事実だった。それを差し置いても、典漸は二人の人間の魂を霜月京に迎え入れることに大きな可能性を見出していた。リスクありきなことは十分に理解しているのだ。
「なんだその態度は!折角この私が助言を渡してあげているというのに!」
――――分かりやすい。
分かりやすく、器の小さい奴だ。
「彼らはまだ子供だ」
ゆっくりと、言い聞かせるように、典漸は声を前に出した。
「私は大人として彼らを見守る義務があると考えています」
「呪い持ちかも知れぬのだぞ!大人も子供もあるか!」
「暴走はさせません。必ず」
典漸の言葉に黎趙は激憤した。
「彼らが罪を犯したとき、それを背負うのは貴殿だ!その時に今と同じことが口にできるか見物だな」
そう言い捨てるなり、黎趙は踵を返して去っていった。
心配の言葉を掛ける速水の声を遠くに典漸は利一とのやり取りを思い出した。
“俺、典漸さんが初めて案内してくれた人で良かったです”
――――素直な少年だった。
そう、典漸は確信していた。
伊坂利一を受け入れることで霜月京の劣悪な状況を打破することができるということを。
利一が呪い持ちである場合、それを完璧に管理することは不可能であることを典漸は十分に理解していた。しかし、このまま放っておけば霜月京はいずれ内部の紛争によって崩壊することが目に見えている。
上級の“餌”さえ用意しておけば獲物は自然と寄り付くものだ。
典漸は利一達が充実した学園生活を送ることを心から願っている。
―――利一君は勿論、学園の生徒達には指一本触れさせない。
それでも必要なのだ。伊坂利一達の受け入れは。
霜月京の、絶対的な“悪”を排除するために。