10話 少年
ぽたぽたと真っ赤な血がしたたり落ちる。
何度も感じたことのある生温い感触が肌を伝う。
「何でだよ・・・」
もう嫌だ。帰りたい。なんで俺ばっかりこうなんだ。俺がなにしたっていうんだ。
ここに来てから今までずっと、悪い方向へ悪い方向へと状況が進んでいっている。
「痛え」
血液が生きていた頃と変わらない様子で流れ続けている。オレンジ色の夕日が、それをより鮮やかな赤に映し上げていく。
そのことが、ひどく恨めしく感じた。
いよいよ意味が分からない。
思い切って切りつけたつもりだったのだが、ここに来て臆病な心理が働いたらしい。想像していたよりも遥かに浅い傷だった。
それでも、痛いものは痛い。
なにが極楽だ。天国なんて全然楽しくないじゃないか。
一刻も早くここから抜け出したい。先程とは違って、今はその思いでいっぱいだった。
ーー転生しよう。
生きていた頃の思い出を忘れてしまうのは嫌だ。でも、天国にいることは少なくとも今の俺にとってこの上ない苦痛だった。
ここまで来てしまったら、怪我をしなければいいとかそういう問題でもなくなってきた。
黄泉の国イベントで優勝しよう。転生して何としてでもここを出るんだ。
疲れも眠気も増していく一方だ。さっきから眩暈までしてきているし、視界もグラグラと揺れている。
というか、揺れすぎだ。なんだこれ。
ちらりと足元を見てみると、大きな血溜まりができていた。
驚いたことに、浅い傷であった筈なのに血がまだ止まっていなかった。
溢れ出る血液が着物を赤く染める。どれだけ布で抑えても、一向に止まる気配を見せない。
「おいおい冗談だろっ・・・!」
ついに立っていられなくなり、地面に倒れこんでしまった。
ーーもう、どうでもいいや。
絶望の淵に立っている俺にととどめを刺すように発生した、血液の止まらない謎。
成す術も無かった。
夕日が沈んでいく。暗くなってしまっても天国の気温は変わらないし、優し気な風は頬を撫でる。
止まらない血液だけが、外気に触れては冷えていった。
俺の願いとは裏腹に、相も変わらず血は流れ続ける。
・・・そろそろ、致死量超える気がする。
また死ぬのか、俺。
夕日が完璧に沈んで夜が来た。大きく輝く月が三途の川の水面を照らす。
周囲の気温は変わらないのに、自分の体温が、急激に下がっていくのが分かった。
こんなことになるなら、血液が出るか出ないかなんて試さなければよかった。
二回目の死が近づいてくる。
・・・この死に方は嫌すぎる。
一回目の時は、死んだのは俺だけだっけど“一人”ではなかった。
でも今回は違う。周囲に誰もいない草原で誰にも知られることなく、悲しまれることなく死んでいく。
自業自得なのは分かっているが、あんまりにも酷過ぎるんじゃないだろうか。
ーーーうわ、空綺麗。
周りに明かりがないせいか、星や月がはっきりと見える。こんなにきれいな空、漫画だけの世界だと思ってた。星ってこんなにたくさんあるんだ。
父さんも母さんも真希も同じ空を見ているんだろうか。
それとも、違う空なんだろうか。
意識が遠のき、視界が霞む。
諦めて目を閉じようとしたところで、誰かの足音が近づいてくるのが分かった。
「うわ!凄い血!!大丈夫ですか?」
「誰・・・」
最後の力を振り絞って視線を動かすと、視界の端に銀髪のやたらと綺麗な少女が見えた。
いや、少年かも知れない、男物の袴を着ている。どちらかは分からないが、アクアブルーの瞳が宝石みたいだ。長い前髪と短めのミディアムヘアがよく似合っている。
「よかった、意識はあるみたいですね。ちょっと傷の具合を見るのでじっとしていてください」
「・・・ん」
体に力が入らず、まともに返事ができない。
「無理に声を出そうとしなくて良いですよ。傷は浅いみたいです。出血が止まらない原因はあなたの体内の霊素が安定していないからでしょう。まあ、憶測に過ぎないのですが・・・すぐに治しますね」
少年が目を閉じる。呪文かなにか唱えるのだろうかと思ったが、そういう訳でもないらしい。
一瞬にして少年の手から青白い和式の魔方陣のようなものが出てきた。円の中にたくさんの漢字のようなものが規則正しく並べられている。
なんか、不思議な光景だ。
数秒間の間、左腕が温かい何かに包まれた。
「もう安心ですよ。危ないところでしたね」
青白い光が消えて、少年の声が聞こえた。本当に一瞬だったようだ。
全身にまた血が通い始めたのが分かった。
「もう少し時間が経ったら動ける筈ですよ」
「・・・いや、ありがとうございます。本当に助かりました」
ほんの数秒間で体の力も随分と入るようになったが、立ち上がるにはもう少し時間がかかりそうだ。
ーー危うく死ぬところだった。もう死んでるけど。
「い、いえ、お気になさらず」
お礼を述べると少年は照れくさそうに頬を掻いた。
ーー改めて見ると、本当に綺麗な子だな。
月明かりに銀髪がよく映える。白い肌が絹みたいだ。
本当にどっちの性別なんだろう。
俺がまじまじと顔を眺めていると、不思議そうに見返してきた。
あ、ちょっと見すぎたかもしれない。不快に思われただろうか。
「あの、俺はもう平気でしっ」
グウゥゥゥゥゥゥーーー・・・。
噛んだだけでなく、最悪のタイミングでお腹が鳴った。これは恥ずかしい!顔に熱が集中するのが分かった。
少年は一瞬目を見開いた後、楽しそうにクスリと笑った。
「お腹がすいているんですか?」
そういうと、自身の懐から小包を取り出す。
「すみません、今持ち合わせがこれしかなくて」
「えっ、あの」
「それでは、時間になったので自分はもう行きますね」
少年はそう告げると静かに立ち上がった。
「ちょっ・・・!!」
畜生、体を起こせない。少年が離れていくのが見える。
「・・・ありがとう!!!」
助けてくれて。
少年は俺の声に振り返ると綺麗な笑顔で言った。
「またいつか!」
遠ざかる足音を聞きながら、俺はもう一度夜空を眺めた。
ーーあの人、血を見ても驚かなかったな。
最後のセリフが社交辞令でないことを祈ろう。
いつの間にか、さっきほど天国が嫌な場所じゃなくなっていた。