何かが始まる、かもしれない
「……わたし、アスナっていうの」
そのひとは呟いた。
吹き始めた風に呑まれて消えそうな、むしろ同化させようとしてそのタイミングで発したのかと思うような小さな呟きだった。
幸いか否か、その声は僕に届いた。
「なんで、今?」
揺れる緑に、彼女の足は隠されている。
「どうしてかな」
傾いて橙となった陽は、彼女の暖色の肌を透けて見せる。
手を伸ばしたくても、なぜかのばせない。
決して彼女は振り向くことのないまま、その景色は色褪せた。
スズメが鳴いている。
締め切られていないカーテンの隙間からは白い光が差し込む。
ふと意識が覚醒するから、緩慢な動きで腕を持ち上げ、閉じたままの瞼の上にかぶせて陽を遮る。
──朝か。
冷たい外気に腕の皮膚がつっぱる。
寝間着は半袖のTシャツだから、室内でも、暖房未使用だと冬には少し堪える。
腕をずらし、瞼を持ち上げる。
白い視界に色が生まれる。といっても、元は白かったものが経年などによりくすんでしまった天井が殆どの面積を占めているのだが。
そのまま腕を伸ばして鍵のかかっていない窓をがらっと一息に開くと、冷気が顔を舐めていく。ベッドに横になったままで腕を伸ばせばそこはもう窓で、その位置関係は、もう何年も変わっていない。
コレは習慣付いていて、何も考えずとも無意識に体が動くようになっている。母には変な習慣と言われるが、僕には精神安定上必要な行為なのだ。
──寒い。
布団をたぐり寄せて頭をつっこむと、伸ばされている足が入れ違いに出て寒気が背筋を這う。膝を曲げ、蒸れてきたので首は伸ばして顔を外気にさらす。
そういえば──、何か夢を見ていた気がする。
布団にくるまったまま上半身をのそりと起こすと背中が寒い。毛布をずらして対処する。風は強くないが、部屋にこもっていた空気が浄化されていっている気がする。
ああ、今日もこの一日が始められるのだ。
カーテンが膨らみ、バサリと音を立てて戻る。
朝ご飯は……昨日の残りがあったか。それでいいか。
窓を開けたのと同じほうの手を違う方向に伸ばすと、そこに前日の晩用意しておいた服が置いてある。ひっつかんで布団の中に引き込み、もぞもぞと寝間着を脱いで布団の外に排出してから着替える。
そろそろ温もりは諦めろと、目覚まし時計ががなる。
大人しくそれに従うべく、布団をがばっとめくる。
冷気が服の表面を滑る。ああ寒い。だがこの国の冬という言葉は気温が低いと同時に乾燥していることも示すから仕方がないのだ。
名残惜しくも布団から両足を引き抜き、体の向きを変えてカーペットが敷かれた床の上に素足をのせる。そして膝と股関節を伸ばしてついでに腕も持ち上げて伸びをすると、コートに手を伸ばす。前述の通り今は冬であり、室内といえど窓は全開であるし当然暖房は未使用、つまり寒いのだ。ほぼ屋外と同義なのだ。ああ寒い。そこで窓を閉めろとか無粋なことを言う親や友人はもちろんここにはいない。
前日の夕飯だった麦ご飯と唐揚げを冷蔵庫から取り出しておき、給湯器を通ってくるお湯は何となく好まないからヤカンでお湯を沸かして水で割って洗面器にぬるま湯を作って顔を洗い、歯を磨き、寝癖がついていたので水をつけて整え、長めの髪はニット帽で押さえる。室内だけれど、帽子着用。まあ自宅だから、一人暮らしだし、誰もとがめない。
お湯を沸かしなおしている間にコーヒー豆を手動のミルで挽き、ペーパードリップでコーヒーを抽出する。ざりざりやもこもこしゅわしゅわとした音を聞き、目で楽しむのも、僕の精神安定に一役買っている。ああ好い気分。
さて、いただきます。と両手をあわせてから電子レンジは苦手なので茶碗に盛られている冷たいままのご飯と唐揚げをよく咀嚼し、友人にはマジかと言われることもあるほどの、僕にとっての適量の砂糖が入ったコーヒーを飲む。ああおいしい。
さて食後のおやつにと思ったところでケータイのアラームがなる。ちなみに多機能携帯ではない。そろそろ家を出なければならないようだ。ああごめんなさいと言いながら、スヌーズ機能×時間差アラームにより生み出された不可思議なリズムに不快感を育まれながら中身はすでに整えてある鞄を肩に掛け、昼食用に作り置きしてある弁当を冷蔵庫から取り出して風呂敷に巻いて鞄に縛り付けると靴下を履くことを思い出して窓を閉め、靴下を履く。ニット帽は部屋着の一部だから出かける前にとることを忘れない。
玄関で運動靴のひもをきつく結び、外に出てから施錠を確認。ポケットにつっこんだ鍵についた小さな鈴の音を聞きながら、駅まで走る。別に走らなくとも次の電車には余裕で間に合うし、そのまた次の電車でも始業時間には余裕で間に合うのだけれども。ただし遅延していなければと続くのだ。そして僕の利用するこの路線はよく遅延するし、側を走る別の線はない。
改札の向こうの掲示板に運行情報は特になし。平常通りということか。定期券で改札を通り正面にある階段を駆け上がる。左が、行きに利用する列車の到着するホーム。右は帰りに利用する列車が到着するホーム。この駅は2本の線路に挟まれた島が一つだけある。左を向くと人はまばら。右を向くと気持ち多めに人がいる。少しばかり乱れているのかもしれないと思いつつ、いつも利用している乗車位置へと移動し、鞄から文庫本を取り出す。購入した書店の紙製カバーが掛かっているそれは、最近気に入っている作家の著書。挿し絵はないが表紙のイラストが好みでつい購入してしまったものだ。
数分後、列車到着を予告するメロディが響くと文庫本の表紙をなで回すことをやめて鞄にしまう。反対方向の列車がホームのカーブに沿って速度をゆるめ、やがて停止する。いくつかのドアは開いて、中から数人が出てくる。そのうちいくつかのドアは閉まる。このあたり、ドアの開閉はボタン式だから開かないドアもある。僕の目の前にもだいぶ速度のゆるまった列車が横から滑ってきてやがて停止する。今日は誰も降りないようなので開くボタンを自分で押して乗り込むと、ドア脇に立っていたサラリーマンぽい男性がすかさず閉まるボタンをかちりと押し込み、背後でドアが閉まった。まもなく発車する。ホームを挟んで反対の列車も少しばかり遅れて発車した。ドアの脇に立ってもう赤くない朝日とにらめっこをしながら、外を眺める。自分の足は止まっているのに、世界が動き出す。始めはゆっくりと、徐々に速度を増して。
目の前を通り過ぎる窓は近くて、きっとこの扉がなかったら、手か足をいっぱいに伸ばせば触れられる。遠くの木は小さくて、でも実際にそばで見たときにはあまりの大きさに嬉しくなった。なんでか、嬉しくなった。両腕を伸ばしても胴を包みきることは絶対にかなわないようなスギの巨木が、そこには他から離れてひとつだけあった。見慣れた大きくない墓地の中に、今日は参る人がいた。そうこう眺めていると、世界の動きは緩慢になる。車両が徐々に速度を落として、やがて停止する。隣の駅に到着したんだ。ドアの開閉を伝えるメロディと人が動くと揺れる足下。この駅ではすぐに発車する。また動き出す世界。そして変わり映えのしない光景の中の少しの変化。そしてまた世界は止まる。
それを何度か繰り返すと、声をかけられた。
「おーい菜っ葉」
電車通学組の同級生からだ。この駅で出会うのは珍しい。
彼は部活用具の詰まっている大きなバッグをどかっと足下に置くと、僕の立っている場所のすぐ脇の空いていた座席に腰を下ろして足を投げ出す。車内はそれほど混雑していないから、まあいいかと僕は注意やなんかしない。
「ハヨーせっちゃん」
僕の名前は明日葉という。誰がつけたのかは知らないが、ありふれてはいない名前である。誰がってそりゃ親だろうと思うかもしれない。でも僕の今の親がこの名前を付けたわけではない。それだけはたぶん確かだ。と言うのも、僕は両親の養子だからで、今の親に引き取られる時には既にこの名前があったらしいからだ。まあそれはおいておいて、アシタバという植物がある。だから菜っ葉。いつから誰がそう呼び始めたのかは覚えていないけれど、特に否定も嫌がりもしなかった為か定着している。
「最寄りここだっけ?」
せっちゃんは芹という。菜っ葉どうしで気が合うのか、初対面の時から今まで共に過ごす時間は多い。
「寝坊」
その応えにああと納得する。このあたり、列車の本数は多くない。乗る予定だったものに乗り遅れて、いくつか次の駅まで親に送ってもらうとかは珍しいことでもない。駅と駅の間隔が広いから、自力でたどり着くのは至難の業だしバスも本数が限られている。タクシーなんて使うくらいなら次の列車を待つんじゃないだろうか。親の方の都合がつくならいっそ学校まで送ってもらうような臑齧り(?)もいることだし。
「眠そうだね」
僕は外の世界に向けていた目をせっちゃんに向けた。彼は欠伸をし終わったところだ。
「部活?」
「ゲーム」
せっちゃんらしい答えについ笑う。ゲームで夜更かし。もしかすると徹夜。今もスマホをじっと睨んで指を動かしている。
「何かイベント?」
「時間のやつ」
僕はゲームをしないからその辺に疎いのだけれど、長くプレイしてると何か特典がもらえるようなイベントはよくあるみたいで、授業中にも機器をこっそり操作している人をよく見かけた。せっちゃんは少しマジメというか、そういうことをしないで、休み時間とかをつぎ込む。もちろんというか、昼休みも係りっきりだったりするけれど、部活にもちゃんと顔を出しているみたいだし、まぁ趣味は人それぞれなので僕が口を出すことじゃない。
それっきり会話もなく、せっちゃんの乗った2つ次の駅で乗換のために降りて、列車の到着を待って自動で開いたドアをくぐり、せっちゃんは座って僕はその脇に立った。ここからはボタン式じゃないから、とりあえず通行の邪魔にならなければ位置取りを気にしなくていい。そして学校の最寄り駅で降りて、せっちゃんは自転車なので駐輪場へ向かい、僕は歩きなのでそのまま学校へ向かって足を動かす。空は蒼い。殆ど同色にも見える雲が途切れ途切れに広がり、足下には枯れ葉の葉脈がこびりついた煉瓦が敷き詰められている。毎朝店の前の落ち葉を掃きとっているクリーニング屋のおばちゃんと洋菓子店の男性に挨拶をしつつ、乾燥した空気を肺いっぱいに吸い込んでむせる。ここまでがいつもの流れ。ちょうど通りかかったせっちゃんが大丈夫かーと声をかけてくれるのに手を振って盛大に咳き込んでから、目尻に涙を溜ながらホントに平気?との言葉に頷く。
「心配ない。」
「そう?」
じゃー行くからな。とペダルを踏み込むせっちゃんの後ろで、重そうな鞄は自転車の荷台に括りつけられている。
大根の葉っぱに霜がおり、水たまりの表面には氷が張っているような、そんなある寒い日だった。まあ冬はいつでも寒いけれども。
昼休み、僕は公園にいた。学校のすぐそばの。
道を挟んで向かいにはチェーンの飲食店があって、その裏手にあるから直接学校からみることはできないのだけれど、舗装された道と植えられた植物だけがあるそこは僕のお気に入りの場所。夏は緑の陰にはいると涼しくて、冬はそんなことしたら寒すぎて死にそうになるから芝生広場でひなたぼっこ。まあ芝生は白茶いけど。そこでお弁当のサンドイッチをもしゃもしゃ。中身はポテトサラダという体の、ゆでたジャガイモをつぶしてマヨネーズとバターを投入してとにかくつぶしただけのもの。他の日は白菜とかキャベツや人参やマカロニやブロッコリーや、とりあえずあるものを混ぜていることの方が多いのだけれど、今日はそうでなかった。作り置きなのでパンが水分を吸ってもっちり。噛みちぎりづらいのは僕の顎が弱いのだろうか。寒いけれども太陽はあったかい。この言を理解してくれる好き友人はせっちゃんくらい。今日は部活の方で何か予定があるらしかったけれど、そうでなくても別にわからなくもないけど俺はつき合わないから。と言われてしまっている。
普段は一人で食事を終えて腹ごなしに散歩しつつ太陽の力を補充してから午後の授業に望むのだけれど、今日はお仲間さんがいた。
長い黒髪を黒いゴムで雑にまとめただけの女の子が、僕が両腕を伸ばしてなるべくいっぱいの太陽を受け止めようとしていると隣で同じようにした。誰だろうと顔を向けると相手もそうしてきたので目があった。授業中に姿を見かけたことがあるようなないような。
笑ってみる。
笑い返してくれる。
「どこかで会ったことあったっけ?」
彼女に訊ねたのだけれど、曖昧に首を傾げたら腕をおろしてどこかへ行ってしまった。
気分次第で連載になります。