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第5章

「ギター弾く以外にこんなことしたの初めてだった」

 緊張した、と苦笑するラジオ。その顔は、緊張が解けていつもの子供っぽさを覗かせた。

 撮影はあっという間に終わった。元々ラジオが消極的だったというのもあるが、伊野さんが一発でOKを出したのだ。彼が惚れ込むのもわかる。本当に、初めてとは思えない程の表現力だった。

「ギター弾くの?今度弾いてるとこ撮らせて」

「いえ、もう勘弁してください」

 スタジオから徒歩で伊野さんの事務所に移動して、今は暗室の中。三人はさすがに狭い。AIMの会期は来月に迫っているのだ。ハガキに使う写真を決めるために急ぎ現像することになった。現像するところを見たいとラジオが言い出し、隣室で一人待つのもつまらないので私もくっついてきた、というわけだ。

「全然ないの?学芸会で劇の主役とかやってそうだけどな」

「どうしてですか」

「学級会で配役決める時にさ、クラスの女子が」

「学級会…」とラジオ。

「女子…」と私。

「逢坂君がいいと思う人は手を挙げてください。はーい。って女子ばっか手ぇ挙げんの。そんで男子に嫌われる」

「………」

 ラジオは声を立てずに肩を震わせて笑っていた。

「…いえ、僕クラスで全然目立たなかったんですよ」

「嘘ッ!」

 思わず、伊野さんと同時に叫んでしまった。

「小さい頃は体が弱くて、しょっちゅう休んでたし体育は見学するしお腹壊すから牛乳残すし。あ、そういう意味では目立っていたかも」

「ははは。その割に背伸びたな」

「中学でぐんと伸びましたね。…まあ、要するになかなかクラスに馴染めなかった。女子にも人気がなかった」

 ───それが今や、バイト先には女子高生がラブレターを持って来て、電車に乗れば痴漢に遭うまでに成長した、と。

「ミオさん何か言った?」

 そんな感じがしたのね、と思いつつ「それが今やモテるようになった、と」

「そんなことないって……あ、出てきた」

 現像液に浸した印画紙に後ろ姿のラジオが浮かび上がる。

「モノクロだったんだ」

「うん。いろいろ試したっつったろ。それで色が邪魔だったつーか」

「ああ、色が与える印象ってありますね」

「それもあるけど何つーかな。仁史撮るならモノクロかな、と」

「どうしてですか」

「勘」

「野性の」と私が付け足した。ラジオはふふと笑った。





 伊野さんのおごりで出前を取って昼食を済ませた。「AIM楽しみにしてます」と挨拶して事務所を出るとラジオは縁なしの眼鏡を掛けた。度の入っていない伊達眼鏡。レンズが彼の瞳の輝きを隠してしまう。優れた耳も髪に隠して───

 我が社の売れ筋のコートにリーバイス。定番モデルのスニーカー。服の趣味もギターが好きなのも、ごく普通を装っているのではなく気負わずに好きな物を身近に置いているということが、普段の話しぶりから窺える。

 だからラジオのそばは居心地が良い。波長が合うというだけでなく。多くの友人達がそうであるように。

 駅に向かう道すがら、私は訊ねた。

「…どうしてモデルを引き受ける気になったの?」

「ん?」と彼は振り向き、前を向いて「んー…」と少し考えた。

「遠山さんの絵を見に行ったから、かな」

「え?」

「僕は絵を描かないから。…ちょっとらくがきしたりはするよ、電話しながらメモ帳に描くような。絵が好きで、でも自分じゃ上手く描けない。だから絵を描いてみたかった」

「…絵を?」

「うん。撮るのが伊野さんというのも僕には魅力的に思えた。写真ではあるけど、被写体になることで描けるものがあるんじゃないかと思ったんだ。僕自身が描く絵」

 ───絵になる。

 彼のいる所が一枚の絵に見えると伊野さんは言う。彼自身にそのつもりがなくとも───その彼が、描こうとする絵。

「そうすることで僕は少しでも絵に近づけるんじゃないかって」

「…うん」

 絵を描きたかった、という彼の気持ちがわかった。絵画への素直な憧れと感動を自分で表現してみたい───そんな気持ちが。

 駅の切符売り場に着いて、これからどうしようかと路線図を見上げた。

「六角屋へ行く?」

「…今日は…行けないことになってるから…」

と、彼はその先を目で言った。今日は十四日。若葉ちゃんと顔を合わせられないのだろう。

「ラジ男パソ子が行くなら秋葉原かな。そっちの方なら上野動物園なんていかがでせう」

 せう、と彼は発音した。

「…さみしいわね。バレンタインに動物園デートの相手が私で」

「お互い様だし」

 波長の合った似た者同士。切符を買って地下鉄に乗り込んだ。

「余計なことかもしれないけど……どうするの、若葉ちゃんのこと」

「………」

 ドアの脇に凭れて立つラジオは「ふにゃん」と言ってうなだれた。久しぶりに見る子犬のようなしぐさ。耳と尻尾を垂れて俯く頭に「ふにゃんじゃない」と軽く拳をぶつけた。

「この前何だって?返事するのが嫌で私をひっぱり回して逃げるんなら怒るからね」

「そんなことしません」

 顔を上げたラジオは唇を尖らせた。

「別に何も言われてないもの。普通にしてるしかないでしょう」

「そっか…。それならいいの。変なこと言ってごめん」

 考えてみれば、バイト先の書店で知らない女子高生に押し付けられたラブレターにもきちんと返事をする奴なのだ。そんなところが信用出来るが心配でもあり。二つ目の駅で、空いたシートに並んで座った。

 ───別れた彼女ってどんな子だったのかな。

 波長が合うという私のことは、「自分に似ている」と最初から言っていた。そして実際その通りだ。性格は違うけれど、共感出来るものを彼は持っている。───彼女はどうだったのだろう。


 ≪近づき過ぎると駄目みたい≫


 もし、彼が耳のためにそう思うなら───

 ふいにラジオが頭を私の肩に寄せた。「疲れた?」と訊くと「少し」と答えた。

「無理しないで、帰って休んだ方がいいんじゃない?」

「うん。でもミオさんといると楽だから」

 ───波長を私に合わせてるのか。私は黙って頷いた。

「気が楽なんだよ」

「聞こえてるんじゃない」

 周囲の乗客に聞かれないように小声で言った。制御しきれていないということだ。彼は眼鏡の下でまぶたを閉じて微笑んだ。

「そんな感じがするだけ。……そんなに僕の耳のこと気にしないでよ。お願いだから」

「………」

「ミオさんは悪くないよ。心配してくれてありがとう」

 ───『そんな感じ』は筒抜けだ。

「それにこうしてるとね……」

「…うん」

「肩凝りに効くんだ……」

 ぐぐぐ、とラジオの頭を押して肩から引き剥がした。





 東京駅で山手線に乗り換えだ。

「ラジは動物何が好き?」

「サル」

 そんなに嬉しげに即答しますか。

 ラジオは笑顔を全開にして───犬耳をぴんと立て尻尾をぶんぶん振って───「可愛いし。賢いし。類人猿はもっと好き」と早口で言った。

「犬なのに?」

「え?」

 ホームに車両が停まった。乗客がどっと降りてくるのを避けて乗り込む人々の列に並んだ。


 ───


 やだ、また───混んでるから?耳鳴りが───

 ざわめきと発車メロディが遠くなる。

「痛っ……」

 両手で耳を塞いだ。


 ≪ちゃんと見ろ≫


 ラジオが素早く眼鏡を外した。辺りを見回す。右から左から乗降客に肩や背を押されて私は身動きも出来なかった。ラジオは私の肩に手を掛けて、空いた方へと人混みから連れ出した。

「───が閉まります。ご注意下さい」

 音が戻った………

 黒いコートの袖を掴んでそこに顔を伏せた。私の肩の上の手に力がこもる。

「……駄目だ、見えなかった」

 溜息を吐くラジオの肩が揺れた。「もう行ったみたいだよ。大丈夫?」と耳元で低く囁く。声も出せず、頷くのがやっとだった。彼は私を近くのベンチに座らせると眼鏡を渡して「ちょっと見てくる」とホームを駆けて行った。

 彼はホームの端まで見て来たらしく、程なく戻って私の横に座った。

「まだ、耳痛む?」

「ううん。もう大丈夫……」

「今日は帰った方が良いね。送ってく」と言いながら私の膝から眼鏡を取って掛けた。次の電車がホームに入ってくる。私は首を横に振り「いいよ、ラジも調子悪いし」と断った。彼は私の手を引いて立ち上がらせ、電車に乗った。

「今ので調子が狂って正常になった」

「え?」

「妙に頭が冴えてる。混乱してるんだけど、いろんな考えがぽこぽこ浮かんでくる」

 彼は自分の顳かみを指差し、その手を吊革に掛けた。車窓の外を見て黙り込む。

 どんな考えだろう。聞いてみたいと思った。だが電車の中では話せない。私も黙って、先刻聞こえた声を思い出そうとした。

 はっきりと重なった二つの声。

 そのために、それぞれの声を聞き取ることは出来なかった。けれどわかる、一人の声は紛れもなく東さんだ。

 もう一人は───

 私は小さく頭を振って目を閉じた。ラジオが小声で「大丈夫?」と訊ねた。気分が悪かった。胸がもやもやする。

 ───幻聴だったのだろうか。

 だとしたら私の頭はどうなってしまったのだろう。

 もう一人の声は誰なのかわからない。あの混雑で、また見知らぬ誰かと共鳴するなんて有り得るだろうか?なぜあんな声が聞こえるの───

「ミオさん」

 目を開けて、横に立つ彼をゆっくりと振り向いた。彼───≪ラジオ≫は二つの瞳にやわらかな光を湛えて私を見ていた。彼はふっと微笑んだかと思うと私の肩に手を回して「うさぎ」とだけ言った。





 乗り換えの駅でも私の部屋の近くの駅でも「ここまででいい」と言ったのだが、ラジオは「この前のお返し」と言って結局部屋までついてきた。ドアの前で「じゃ、これで。またね」と帰ろうとした彼を引き留めた。彼の考えを聞きたかったし、この前私が送った時にはお寿司もごちそうになったし。

「いいの?部屋に入っても」

「ラジの話を聞いたらすっきりするような気がする。はっきりしないと…」

 不安、の言葉を呑み込んだ。彼は「わかりました」と静かに言った。お医者さんの口調だ………そう思った。

 どうぞと促してこたつとストーブを点け、お茶の用意をする。彼は脱いだコートを丸めて置き、こたつにあたって部屋を見回した。ベッドの枕元の香水ボトルに目を留めて「いっぱい持ってるね」と言った。

「ラジはいつも同じの着けてるね」

「……うん」

 ───言ったらまずかったかな。

 間を置いて答えた声が低かった。東さんがそうだったように、彼女に貰ったのがきっかけで着けるようになったとか。こたつに紅茶とシュガーポットを運んで、「彼女に貰ったの?」と訊いてみた。案の定、照れ笑いで頷く。

「でも彼女に対する気持ちとは別。気に入ってるから使ってるんだよ」

「うん」

「さて」と彼は眼鏡を外してこたつに置いた。膝で立ってこたつをベッドに寄せる。私に、ベッドに寄り掛かって座るように言った。

「何で?」

「楽な姿勢で話す方が良いから」

 言われた通り、こたつとベッドの間に座って背中を凭れた。

「もうちょっと楽に…。足も崩していいよ」

「本当にお医者さんみたいね」

「お医者さんごっこ」

 あははと笑った。私も笑う。彼は目を細めた。

「さっきのことを話してください」

 歌うように調子をつけた、穏やかな声。

 私は先刻のことを順番に整理しながら話した。まず耳鳴りがして、他の音が遠くなったように感じ、『ちゃんと見ろ』と二人分の声がして、人垣を抜けると耳鳴りが止んだ。

 他に何があったろうか───病院で診察を受ける時のように、私は自分に起きたことを全部話さなければならないと感じていた。ラジオは無表情に見えたが、「うん」という相槌のゆったりしたリズムと静かな声に、私は少しずつ気が楽になっていった。

「耳鳴りがして、耳が痛くなったんだね?」

「うん」

「耳鳴りを感じたのはいつ」

「えーっと…、電車から人が降りて来た時…」

「うん。約一分間くらいだったかな」

「…ラジにも聞こえた?」

「うん」

 言わなければならないこと───もう一つ。

「二人のうち一人は東さんの声だった」

「うん。彼に『ちゃんと見ろ』と言われたことはある?」

 ある。

 両親を亡くしてから一人で生きなくてはと気を張って、私は心の余裕や周囲に対する優しさを失っていた。だから東さんは『自分をちゃんと見ろ』と言ったのだ。

「自分を、ね」

とラジオは繰り返し、唇を噛んで頷いた。

「東さんと上野動物園に行ったことはある?」

「ううん。ない」

「ないのか…。上野じゃなくても動物園には?」

「ないの。あ、しながわ水族館とサンシャイン国際水族館と葛西臨海水族園ならあるよ」

「魚が好きだったんだ」

 彼はくすっと笑った。私も思い出して笑い、「うん」と答えた。

「何でそんなこと訊くの?」

「あの時に東さんを思い出していたかどうか」

「ううん」

 そんなことはない………と思う。あんなことがあっては自信がなくなってくる。

「……ラジはどうだったの?」

「僕も同じようなものだけど……耳鳴りと言うよりはノイズが入ったという感じ」

「ノイズ?」

「耳がキーンとする感じはなかったってこと」

「ああ、うん」

「僕は耳が痛くなかった。違うのはその点だけ。二つの声が聞こえたし、一人が東さんなのはすぐにわかった。ミオさんから聞こえていたから」

「………」

「もう一つは、別の誰かの声なんだ。あの時あそこにいた誰か」

「………」

「前にこんなことはあった?東さんが……いや、御両親が亡くなってからでも」

「ううん…。なかった…」

 ラジオは頷いて目をそらし、どこか一点を見つめて何か考えているようだった。やがてこちらを向いた彼は、医者ではない、力の抜けた普通の男の子の顔をしていた。

「僕のせいかもしれない」

「え?」

「僕が波動の話をしたから。これまで共鳴することはあっても感じ取ることが出来なかっただけで、ミオさんが波動を意識するようになってから聞こえるようになったのかもしれない」

「………」

 彼はかすかな溜息を洩らして微笑した。

「お薬を出しておきましょう」

 薬?

 キッチンで手を洗って戻った彼は鞄から手帳を出してページを繰り、白紙のページを一枚破り取った。それをこたつの上に置き、シュガーポットの蓋を開けて、グラニュ糖をスプーンの先でほんの少し掬い取った。紙の上にさらさらと載せる。

「まさか、それがお薬?」

「うん。お医者さんごっこだもの」

「ははは……」

 思わず笑いがひきつった。だが───

 ラジオはそこに軽く指先を押し付けた。その手を返して指先についた砂糖を見せる。

 ───おまじないだ。

 目の前に手がすーっと伸びてくる。唇に触れた固い指先を舐めると、彼は目を細めて手を引いた。

「…そのおまじない、なあに?」

「僕が小さい頃、おじいさんがよく僕にこうした。結構効くんだよ」

「……効くの」

「効きます」

 彼はまた手帳から紙を破り取って、そこに砂糖を載せた。人差指の先で螺旋を描くように軽く砂糖を撫でると、紙を折って砂糖を包んだ。三包の薬の出来上がり。

「共鳴が起きた時の頓服です。一回一包。指に付けて舐めてください。口の中でじっくりと溶かしてね。飲んじゃだめだよ」

「……はあ」

 甘いお薬。ごっこ遊びのお医者さん。

「僕が出した分だけにしてね。服用し過ぎると太ります」

 おい。


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