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第3章

「……高畠先生にはかなわないな」

 守屋画廊を後にして暫く沈黙していたラジオはふいにそう言った。歩きながら、ショーウインドウに映る彼に答えた。

「あれはやっぱり…、ラジの耳が人よりいいって気が付いてるってことよね」

「うん。『聞こえる』のか『見える』のかについては知らないだろうけど……長年親しくしていた空木秀二も娘の梢子さんもそうだから、気付くのも当然かな……」

 かすかな溜息。振り向くことが出来なかった。

 高畠先生の話しぶりでは、野宮君も梢子さんもこのことには気付いていないようだ。

 ラジオ程には敏感ではないが、時に人の心に浮かんだ映像を見ることのある梢子さん。父親の空木秀二はその力が強く、目に見えない様々なものを見ていたのではないかと言われている。そして、それを知っている野宮君。彼らに自分の力のことは話せないとラジオは言う。

「『見えてしまう』ことで梢子さん自身が傷ついて来たし、そばにいる野宮君も悩むでしょう」

「それはそうだけど……でも、似たような人が他にもいたら、心強いんじゃないかな」

 ラジオが足を止めたので、ようやく振り返ることが出来た。彼は目を伏せて笑い、「そうだね」と答えてまた歩き出した。

「でも話す必要はない。梢子さんには野宮君が理解しているだけで充分なんだよ」

「山崎君は?高校からのつきあいなんでしょう?」

「知っているのはミオさんと遠山さんだけだよ。…あ、あと高畠先生と守屋さんか」

「話してないの?」

「うん。……山崎はね、わかりにくいけれど、あいつは優し過ぎるから」

 風に消え入りそうな小声。

「悲しむような気がして……」

 ───悲しむ……?

「僕は平気なのにね」とラジオは微笑した。

「幸い僕は聴覚を調節できる。だから僕が今聴いている音の範囲は、ミオさんに聴こえている音とさほど変わりはない筈だよ」

「その、聴覚の調節って、どうやるの?」

「聴かないようにしようと思う」

「それだけ!?」

「それだけ」

 晴海通りに出た。喧噪───行き交う車の音、通りを往く人々の足音、話し声、それらは混じり合って通りを川のように流れている。有楽町駅の方へと曲がって、彼はふいに軽く背を丸めると顔を寄せ、小声で「何かあったの?」と言った。

「…え?な、何で」

「だってミオさんが僕の耳のこと知って半年も経ってるのに、今頃そんなこと訊くんだもの」

 ご明察。

「…いやあ…。今、ふーっと素朴に疑問がわいて…」

 目をそらした。それは本当だったが、ただ知りたかっただけではなかった。

「それだけー?なんてあからさまにがっかりした顔するし」

「う…。それは失礼なことを…」

「そんな感じがするし」

 そんな感じがするだけ。聞いてはいないけれど、聞こえているのと同じなのだ。世間一般で言う『察する』というやつである。

「ミオさんが聴覚を制御してみようと思うなんて…」

「聞いてるんじゃない!」

「聞いてないってば」

 彼は真顔で振り向いた。空木秀二と同じ目で───心を見透かす眼差し。

「……興味でそう思ったんじゃないのよ」

「わかるよ。少し足を延ばそうか」

 地下鉄の入口を通り過ぎて高架下を抜ける。どこへ行くのと訊ねると「日比谷公園」と答えた。確かに、人の耳のある所で出来る話ではない。ラジオは歩きながら淡々と語った。

「『耳を澄ます』。同時にいろんな音が聞こえていても、その中の一つを選んで意識をそれに集中させれば聞き取れるものでしょう。反対に、例えば本を読むのに夢中になっていると『ごはんよ』っていくら呼ばれても聞こえなかったりする」

「あ、うん。覚えがある」

「誰でもやってる。……それで充分」

 そう言ったラジオの横顔は、この前伊野さんが撮った写真を思い出させた。

 ───走り去ろうとするラジオ。

 彼は否応なしに多くの音を聞かされているのだ。そのために必要な聴覚の制御。

「……ごめん」

 それで充分、の一言が痛かった。私が俯くと彼は足を止め、自販機に小銭を入れた。ガタンと落ちた缶コーヒーを取り出して一本差し出す。彼は「わりかんね」と微笑んだ。





 日比谷公園のベンチに腰を落ち着けて、私は正月の出来事をかいつまんで話した。お参りをした帰りに突然耳鳴りがして人の声が聞こえたこと。複数の声が同時に聞こえたこと。───誰の声とは言わないでおいた。

「それ以来、耳鳴りも幻聴もないから、気にしてはいなかったんだけど……さっきの話で思い出して、それで」

「うん」

 あの時聞こえたのが和泉さんの声に似ていたから───そしてその時に和泉さんがそこにいたから、気になるのだ。そうでなかったら、疲れてるんだな、で終わっていただろう。

 もしかしたら、これがラジオの言う人の発する波動───音。

 ラジオは膝に肘を突いた手に顎を載せ、眉を寄せて少し考え込んでいた。

「何て言っていたのかは覚えてる?」

「二人同時だったからよく聞き取れなかったけど…」

「二人。誰の声かはわかる?」

 ───痛い指摘。黙り込む私に、ラジオは「重要なことなんだよ」と静かに言った。

「一人は亡くなった私の婚約者で東さん…」

 ラジオに東さんの話をするのは初めてだった。聞こえたのは多分東さんの遺言であると話した。

「部分的にしか聞き取れなかったけど、東さんの言った通りなら『それはほんとのおまえじゃないんだから』……恥ずかしい……キザなんだからもう……」

 急に暑くなって汗が噴き出そうだった。ラジオは目を細めて笑っている。

「実際に言われたことがあるんだね。うん、もう一つは?」

「えーっと…『僕は君が本物の』っていうのは聞こえたんだけど…」

「『僕』。男性の声だったの?」

「うん。『本物の何とかだと思ってる』…だったかな。本物の何なのかはわからない」

「共鳴したかな」

「共鳴?」

「うん」とラジオは煙草に火を点けた。ふーっと煙を吐いて、煙草の先で宙を指し示しながら話す。

「音が振動しているのは知ってるでしょ?そこへ同じ振動数の音がぶつかる、つまり振動する力が加わると振幅が大きくなるんだ。それを共鳴と言う」

 そうだ、あの時───和泉さんも耳を塞いでいたんだった!

「幻聴じゃないと仮定すると、…お正月の湯島なんて人出があるし、その混雑の中でたまたま同じ振動数の波動にぶつかったと考えられる」

「たまたまかあ…。なあんだ、ほっとしちゃった」

 すっかりぬるくなった缶コーヒーを挟んだ両手の中で転がした。ラジオは「幻聴じゃないならね」と念を押すように言った。

「大丈夫よ。あれから一度もないし。本当にたまたまでしょ?」

 あの時の和泉さんの様子から見てもそうだろう。けれど確かに心の声が聞こえてしまうのは気分が良くない。心の中を覗き見してしまったようで───

 山崎君が悲しむかもしれないと言うラジオの気持ちが何となくわかった。

「また声が聞こえることがあったら話してください」

 彼は苦笑混じりに言ったかと思うと眉を寄せて私を真っ直ぐに見た。

「幻聴だった場合にも原因はあるし、幻聴などの幻覚は進行する。ちゃんと話してくれないとだめだよ」

「…うん」

 四つ年下のファニーフェイス。太一そっくりの甘えん坊。───と思いきや、今ここにいる彼は精神科医(の卵)の顔をしている。

「毎週木曜の夜は六角屋にいるから」

 うん、と頷きながら………話すべきか迷った。左手で耳を押さえ、険しく私を睨んだ和泉さんの声。

 人の心が聞こえてしまうから、ラジオは心の耳を塞いでいる。今もそうしている。でなければとうに見抜かれている。

 話した方がいい───

 わかっていたが、言えなかった。和泉さんの心を覗き見てしまった、そんな罪の意識が私の上に重くのしかかっていた。





 春夏号が完成した(厳密には印刷製本を残すのみとなった)。その瞬間、

「休もう…。とにかく休もうよ…」

 部内の誰もがデスクに突っ伏してうわごとのように繰り返した。

 ───地獄絵図。

 というのは冗談にしても、ようやく休暇が取れたのが一月末のことだった。金曜と月曜に休みを振り分けた大ボーナス(のような気がする)。私は金曜に休みを取って、前日の木曜、久しぶりに定時に退社した。娑婆の空気はうまい。

 ………六角屋へ行こうかな。木曜ならラジオも来るし、何より遠山さんに守屋画廊へ行ったことを話したいと思った。ふうん、とあっさりかわされるのもわかっているけど。

 通りに面した地下への階段。入口には看板代わりのイーゼルに立てたメニューの額。六角屋は営業中。ほっとすると同時に、ますます絵の話がしづらいかなとがっかりした。廊下の黒い絵をちらっと見て、入口から「こんばんは」と声を掛けた。

「よう、パソコ」

 毎度変わらぬ挨拶が懐かしい。遠山さんはデニムのシャツにトレードマークの黒いエプロンをしてカウンターの上を拭いていた。私がいつものカウンター席に着けば、遠山さんは私専用の葡萄柄のカップを手に取る。何も言わなくても出て来るのはモカ。気楽で、ほっとして、懐かしい。この居心地の良い空間を、この頃は人に話す気になれない。隠れ家、そんな感じなのだ。

「この前、守屋画廊へ行ったよ」

「知ってる。ラジオから聞いた」

 両手で頬杖を突いて、正面の遠山さんを見る。ギリシャ彫刻みたいな美形。ドリッパーにお湯を注ぐ彼は手元を見たまま、話題には無関心にしている。けれど決して冷たい感じはしない。彼はいつも微笑んでコーヒーをいれる。

「…ちょっと…怖い絵だった…ね」

「そう?」あっさり。

「うん。部屋にあったら夜中にトイレ行く時怖いみたいな」

「ははは」

「てゆーか他の人の絵がね、部屋に飾るような感じで、遠山さんのは…しまっておいて、時々出して見るような」

「パソコはあれか、今時流行の癒し系の方がいいか。何か言葉がついてるやつ」

「説教くさいからヤ」

 ───やっぱりはぐらかされてしまった。

 しまっておいて、時々出して、じっと眺めて、ゆっくり考えたい。そんな絵だと思ったのだ。と、言いたかったのだが。

 今ここにいるのは画家の遠山和樹ではなく六角屋のマスターなのだ。画家の顔をした遠山さんに会えた時に話そう。

 テーブル席の学生達が出て行ったのと入れ替わりにラジオがやってきた。遠山さんは「よう、ラジ」と声を掛けて小さなコーヒーミルをカウンターに置くと店を出て行く。脱いだコートを空いた椅子の背に掛けて、ラジオはカウンターの中に入った。手を洗い、豆を計ってミルに入れる。看板を抱えて戻った遠山さんが近くのテーブル席に着いた。私は、コリコリと豆を挽くラジオの手元を覗き込んだ。

「いいなあ、私もやってみたい」

「今度やらせてやるよ」と遠山さん。ラジオは楽しげに豆を挽いた。客扱いはしてもらえないが、こんな特典もある。いつもの萩焼のカップを自分の席に置いて、彼は店内の照明を半分消した。

 カウンター席と『北天』の上にだけ明かりが灯る。途端に───伸縮する空間、六角屋は宇宙に浮かんだようになる。

 ラジオは椅子を横に向けて腰を下ろした。カウンターに背を凭れて遠くを見るように目を細め、『北天』を見つめる。誰も何も言わなかった。静寂の中でじっと『北天』を見つめていると、星の運行を示す白い弧は回転しているように見え、中央の赤い星と巨大な雪の結晶は遠ざかったり目の前に迫ったりした。私は軽い疲れを感じて目を閉じた。

 ゆっくりと、囁くような、かすれた声。

「少しわかりかけてきたんだ。この絵の意味が」

「…意味?」

「守屋画廊で『夜』の様々な絵を見ながら思ったことは、それらの絵が『眠りに支配されている』ということ」

「違うこと言ってなかったっけ」

「それは結論。眠りは夢に結びついている。古来、人は夜の闇に恐れとロマンを抱いてきた。眠りはそれを育む揺りかご。目を閉じれば闇が訪れ、眠りは死に近く、夢は昼間見ることのない世界を見せる。眠りは夜の闇であり意識の闇でもある。その中で、目覚めていると感じられたのは遠山さんの絵だけだった。眠りの闇に見る夢、同じ闇を意識の光で照らした幻視、狭間の夢想、現実の記憶、本能、感情」

 ───記憶、本能、感情………

 梢子さんが「自分に見えるのは人の記憶」と言ったのを思い出した。

「空木秀二の描く空は薄曇りの淡い青空か夕焼けよりも赤い空。背景は殆どが夜を表しているのに、彼が夜空を描かないことが僕は不思議でならなかった」

「…うん」

「空木秀二は娘の梢子さんを『空』と呼んでいたと高畠先生から聞いた時、彼の『空』という呼びかけへの愛着、つまり彼が『空』と呼ばれていたのではないかと思った。誰かに……」

 ふう、と軽い溜息が聞こえて、私は閉じていたまぶたを開いた。

 先程より明るさを増した『北天』の星々。

「彼にとって『空』は特別なんだ。空と人。空という名前。空の色。共に歩き描き続けた空には空木秀二の生と心がある。……けれどここには、彼が他の空に描かなかったものだけ。取り憑かれてるってみんな笑うけど」

 ラジオはくすっと笑って踵を椅子の縁に載せ、膝を抱え込んだ。

「僕にも『北天』の空は特別なんだ……」

 その声は消えそうな程にかすれた。『北天』を見つめる彼の黒い瞳に、小さな光が揺れていた。


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