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第2章

 二日の晩は菜摘姉ちゃんの家に泊まった。手作りのごちそうがずらりと並ぶ。太一とパパとかるた遊びをして、夜には菜のはなでカラオケを歌って。幸せな心地で眠りに就いた。夜中に一度揺り起こされて、見ると太一だった。

「みお姉ちゃん、今何時」

「んー?」枕元の時計を見る。

「…二時半だよ。まだ朝じゃないから寝てていいよ」

「みお姉ちゃん、朝になったら帰る?」

「そうだなあ。お昼くらいかなあ」

「お昼までいる?」

「いるよ」

「わかった。お昼までね」

 太一はおとなしく横になった。話し声で起きたのか、襖が細く開いて菜摘姉ちゃんが「太一、やっぱりママと一緒に寝る?」と顔を覗かせた。太一は私のパジャマの袖を掴むと、黙って首を横に振った。姉ちゃんと二人、はははと笑った。

 私の肩に頬をつけて眠りに入る太一の頭を撫でた。太一は恥ずかしそうに小さく笑うと、頭を動かして私の肩に顔を伏せた。

 ───どこかで見たな、このしぐさ。

 声を殺して笑った。そうして次に、胸がきゅっと痛んだ。

 こんなふうに寄り添うことが、どれだけ必要なことか。

 それを教えてくれたのは東さんだった。私は太一の頭に頬を寄せて目を閉じた。





 朝起きてすぐ、太一はかるたを持ち出して私に「読んで」とせがんだ。菜摘姉ちゃんに呆れられながら、結局お昼までかるたやお絵かきをして遊んでいた。太一はかるたの絵が気に入っているらしく、絵札の真似(模写か)をして何枚も描いた。

「太一、大きくなったら絵描きさんになる?」

「ううん。運転手さんになる」

「何の運転手」

「チンチン電車」

 渋いなあ、と皆で笑った。

「夕方までいればいいのに」と菜摘姉ちゃんが言うのを聞いて、太一が私の手を取った。小さい手をきゅっと握り返した。

「明日から仕事だし……それに初詣まだなんだ。こっちまで来たから湯島まで足延ばそうかなと思って」

「わざわざ湯島まで行くの?」

「うん。勉学に励む友達がいるのでお守りなんぞいただきに」

「ふうん」

「太一に似てるのよ、その子」

「どんな子よ」

「こんな子」

 つないだ手を軽く挙げると、姉ちゃんは「懐かれてるわけね」と笑った。太一はきょとんとして私を見上げている。「太一の分も買ってあげるからね」と手を放した。

「見てみたいわ。今度連れて来てよ」

「うん。絶対笑えるから」

 ラジオは笑いのタネか。


 ≪正直言うとわからない……。ここまで来て何言ってるんだろう≫


 ───何となく、元気なかったよな。

 医者を志して頑張って来て、周りに「向いてない」と言われてばかりでは自信もなくすだろう。決して彼が医者に不向きなのではなく、他にもっと向いていることがあると思われるから皆はそう言うのだと思うが───

 ずっとやりたいと思っていた、と彼は言った。だから頑張って欲しいのだ。

 道路の端には溶けきらずに凍った雪がまだ残っている。湯島天神は受験シーズンを目前に控え、参拝客で賑わっていた。長蛇の列に加わり、背中を押されながら前へ進む。賽銭を入れ、柏手を打って、ラジが童顔でもいい医者になりますようにと自分でも何だかよくわからないお願いをした。

 お守りを買って、今度会う時に渡そうと思いながらバッグに入れた。立ち並ぶ色とりどりの幟や屋台が参道を賑わせている。屋台をひやかしながら駅へと向かい、お好み焼きでも買って帰って夕飯はそれで済ませてしまおうかな、と不精なことを考える。けれど屋台の食べ物ってどうしてこうもおいしそうに見えるのだろう。ハッカパイプを買って、太一と来れば良かった、と思った。


 ───


 耳鳴りがして足を止めた。何だろう、急に………


 ≪それはほんとのおまえじゃない───≫

 ≪───僕は君が本物の───だと思ってる≫


 ───誰?

 誰かと誰かの声が重なり合って聞こえた。

 一人は東さんだ───間違える筈がない………何て言ったのか聞き取れなかった、本物の───何て言った?

 耳が痛い。

 指で耳を押さえて顔を上げた。その時、向こうに───

 同じように左手で耳を押さえて振り向く人があった。

 ベージュのダッフルコートがやけに背を高く見せ、人混みの中で目を引いた。右手に持っているのはカメラだろうか。黒縁眼鏡の奧から固い視線を投げつけて来るその顔に見覚えがあった。その人の名を、名刺の活字で思い出した。

 和泉───諒介。

 耳鳴りが大きくなり、周囲の音が遠くなった。和泉さんは左目をぎゅっと細め、眉間に皺を寄せた。私も似たようなものだったろう、両手で耳を覆って顔をそらした。ゆっくりと目を上げる。彼も耳が痛いのか、左手は耳を塞いだままだ───険しい目をこちらに向けている。私はバッグを抱えて走り出した。天神様に向かう人達の肩にぶつかりながら大通りへ転がり出ると、耳鳴りが止んだ。

 空いた電車のシートに座り、車窓に頭を凭れてぼんやりとした。

 ───幻聴………

 疲れているのかもしれない。だけどあの声の低く静かなトーンや柔らかさは印象に残っている。和泉さんの声によく似ていた。───あれは何だったのだろう。

 いくら考えてもわからなかった。お好み焼き買いそびれた………深い溜息を吐いて電車を降りた。





 休みが明ければそこはもう『日常』だ。春夏のカタログ発行に向けて仕事は最終段階に突入し、終電で帰宅することもしばしば。「今月さえ乗り切れば」というのが部内の合い言葉のようになって、部屋に戻ればボロ雑巾のようにくたくただ。

 正月以来、メールを見る他にはネットに繋ぐこともなく、六角屋に寄る暇もなかった。そんなこんなでラジオと顔を合わせたのは約ひと月半ぶりになる。

 ───相変わらず目立つ奴。

 有楽町の百貨店前といえば待ち合わせのメッカなのに、労せずして彼を見つけることが出来る。二十代半ばの男性が着るのはどうかと思われる水色のダッフルコート。背筋を伸ばして立っているだけなのに、彼のいるひなたはそこだけ空気が違うみたいに明るく見える。彼は私に気づくと軽く右手を挙げて微笑した。

「お待たせしました」

「いえいえ、さっき来たところです」

 ぺこりとお辞儀。守屋画廊に向かって歩き出しながら、私はバッグからお守りを取り出した。「何これ」と首を傾げて訊ねるラジオのしぐさが子供みたいで、先日の太一を思い出した私は笑いそうになった。

「湯島土産」

「…わ、ありがとう」

 彼は紙袋からお守りを出し、にこっとした。コートの前を開けてジーンズのポケットから何やら取り出す。手のひらに収まるくらいの小さな巾着袋だった。口を締める紐がやけに長いと思ったら、ベルト通しにくくりつけてある。年季が入って薄汚れたその袋に彼は湯島のお守りを入れた。

「…何それ」

「お守り袋」

「…お守り袋をお守り袋に入れるの」

「うん。お守り専用に作った」

 お守り好きなのか。

「そんな怪訝な顔しないでよ」と彼は俯いて苦笑した。

「亡くなった僕のおじいさんが『肌身離さず持っていなさい』ってくれたお守りがあって、なくすといけないから」

「ああ、なるほど」

 おじいさんの形見か。

「肌身離さず、か。ラジのこと可愛がってたんだね」

「うん」

 ラジオは軽く唇を噛んで頷いた。

 それを本当に肌身離さず持ち歩くラジもまた………私も軽く俯いて笑いを堪えた。

「ここだよ」とガラス戸を引く。ふわりと暖かい空気にほっと息を吐いた。入口からやや奥の応接スペースに五十代くらいの男性が二人、ソファに腰掛けていた。ラジオは彼らに「こんにちは」と深くお辞儀をした。私も慌ててそれに倣った。

 高級そうなジャケットをラフに着こなした人が私に「守屋です」と自己紹介した。一方の、黒い物が混じった白髪頭(言い回しが妙だが)の華奢で小柄で地味な人は………

「ミオさん、こちらが高畠深介先生」

「えっ」

 ───普通のおじさん。

 という印象のこの人が、日本画の大家。あの派手な山崎君の師匠。

「石崎です…」と下げる頭も低くなる。高畠先生はニコニコして「邪魔だったかね」と言った。

「さっき、空がまーくんと一緒に来てね。帰ろうかと思った」

「先生もまーくんって呼んでらっしゃるんですか…」

 ラジオの笑顔がひきつった。先生は平然として「だってまーくんだろう」と言い切った。私は、やっぱり山崎君の師匠だ……と思った。

「私達に構わず、ゆっくりご覧になってください」と守屋氏。はい、と会釈して奧へ進んだ。

 『夜の幻想展』。その名の通りの絵画が並ぶ。しかしテーマやモチーフは様々で、作家の個性が窺えた。静謐の青。闇の黒。炎の赤。光と影の対照に浮かび上がるそれぞれの世界。覚えのある画風のエッチングに行き当たって足を止めた。

 六角屋の通称『絵の廊下』に掛けられた三枚の版画は黒一色で刷られている。だがここにあるのは黒と黄色を主に定めた線が躍動感に満ち、混じり合う二色が生み出すグラデーションが妖しさを醸し出す。いずれも約二十センチ程の小さな正方形に緻密に描き込まれた───夜の魔物達。彼らは闇に蠢き、折れ重なり、ある者は仲間の肉を喰らい、ある者は手足を絡め、ある者は───

 小さな画面に夥しい数の魔物が息づいていた。その気配に、私は知らず息を止めて見入っていた。はあ、と深く息を吐く。

「六角屋の絵と全然違う……」

「うん」

 ラジオは絵から目をそらさずに頷いた。

「ミオさんも気が付いてると思うけど、六角屋の絵は『北天』を除いて全部が黒を基調に色数を抑えている。特に、中央の星の赤とそれに似た彩度の高い色は一切使っていない」

「……全然気付いてなかった」

「『北天』を正面にした時の左右の壁に絵を掛けているのは、壁の白い部分を減らして『北天』の白い弧と雪の結晶を強調するためだよ。同時に、左右に絵を並べることで奥行きが生まれる。店の入口から視線が『北天』に誘われる仕組みになってるんだ。気が付かないのも無理ないよね」

 彼は小さくふっと笑った。

「そうして雪の結晶という微小な物を拡大したダイナミックな……言い換えると単純な絵から目を移した時に、他の絵の緻密さが引き立つ。逆も然り。六角屋は僕らの目の中で伸び縮みをするという空間でもあるんだ」

「伸び縮みする空間……」

「そう。『北天』が最初からあの壁のために描かれたことからも、空木秀二が空間を意識していたことは間違いない。左右の壁の絵を集めたのも空木だし。遠山さんはあの通り、店では画家の顔をしない人だからね」

 ゆっくりと背筋を伸ばして、ラジオは遠くを見るような目をした。

「夜にあるのはエロスとタナトス。あの巨大な眼を思わせる『北天』は、六角屋という空間に集まる人々を見ている。愛、性、そして死。人を描き続けた空木の作品の風景は大抵黒で描かれて、夜であることを表している。だけど───」

 何か言いかけて、彼は苦笑した。

「ごめんなさい、遠山さんの絵を見に来たのに」

「いやあ…。六角屋といえば『北天』だし……それに」

 私は絵に目を戻した。

「遠山さんの意外な一面を見てちょっと驚いた…」

「うん」

 ラジオが後ろに向き直った。私も振り向いて見ると、高畠先生が少し離れて立っていた。「もう終わりかね、逢坂君」と言われ、ラジオは照れて苦笑いした。

「もう全部見たかね。…そう、それならコーヒーを用意するから飲んで行きなさい」

「いえ、僕らはこれで」

「やっぱりおじさんは邪魔か…」

「えっ…。そんなことありません。というか…ねえ」

 見るからに肩を落として溜息を吐く高畠先生に、ラジオは困惑の顔を私に向けた。私も何を言って良いかわからない。

「ああ、守屋がもうコーヒーをいれている。まあどうせ近所の店から毎日配達される物だがね。私はもう二杯も飲んでるが」

「いえ、せっかくですからいただきます」

「いいんだよ無理に年寄りにつきあわなくても。う、ごほごほ」

「先生……」

 苦笑でふにゃりとうなだれたラジオの背を押して、高畠先生は私を振り返った。

「ミオさんだったね。空から聞いたよ。空木の絵を気に入ってくれてるらしいね。さあ、掛けなさい。面白い物を見せてあげよう」

 私達はソファに腰を下ろした。向かいに先生と守屋氏が座る。先生はテーブルに置いてあった古いアルバムを開いた。

「暮れに倉庫を整理していたらこれが出て来てね。今日、ここに野宮君が来ると聞いていたから持って来たんだよ。随分古くて驚くだろうが、ほら」

 先生はアルバムをくるりと回して私達の前に置いた。古い、モノクロ写真だ。写っているのは若い男性が二人。帽子を被り、ネルのシャツにベストを着て、大きなリュックを背負っている。眼鏡を掛けた方の人の横に軽く手を添えて「こちらは高畠先生ですね」とラジオが言った。

「隣は……空木さんですか」

「うん。それは登山口で撮った物でね。まだ元気だろう。これが下山した後だと疲れた顔をしている」

「…はは…」

「どうだね」

「お顔を初めて拝見しました」

 これが空木秀二───

 頬骨が高く、少し痩けた頬に細い顎。大きな目。目尻は少し上がっていて、真っ直ぐにこちらを見る視線が鋭い。───他の人の目には映らない何かを見つめていた目。

 ラジオがくすっと笑った。

「野宮君に似ていますね」

「私はね…」と言いながら高畠先生はアルバムのページをゆっくりとめくった。

「君と野宮君が初めて家に来た時、どちらが空の言う『野宮君』かと迷ったんだよ。二人とも空木に似ていると思ったから」

 山頂で撮影したらしい一枚。山並みの稜線を眼下に、大きく広がる空の下で、斜に振り向いた空木秀二。

「僕が…ですか」ラジオの声が掠れた。

「顔立ちや雰囲気は野宮君に似ているね。一目見てそう思える。君は空木とは全然違うのに何でそう思ったのかな、と不思議だった。けれど君が書斎で『空と歩く』について話していた時に、ああやっぱりと思ったんだよ」

「………」

「あの時、私が何て言ったか覚えているかね」

「……目をほめていただきました」

「君は空木と同じ目をしている」

 写真の空木秀二は顔だけ真っ直ぐにこちらを向いている。陽射しを遮る物が一つもない場所で、被った帽子のつばが落とす目の上の影だけが深く濃い。その影の中からこちらを見つめる瞳には、強い輝きがあった。この光はどこから映っているのか───

 まるで目の中に瞬く星を宿したように。

「この写真は空にもまーくんにも見せていないよ」

「そうですか」

「君のことも話していない」

「……ありがとうございます」

「今日、君に会えて良かったよ。君に言いたかったんだ。何かあったら遠慮なく私の所へ来なさい。力になれるだろう。この守屋も」

「……はい」

 ラジオは頭を下げたまま目を伏せ、しばらく動かなかった。


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