牡丹の咲く
息抜きに。
「先輩、私を描いて」
先輩は呆けた顔で私を見ていた。
先輩の小さな安アパートのアトリエで、幾枚もの出来損ないに囲まれて、私は待っていた。永いこと待っていたのだ。
黒目がちの瞳だけがぎょろぎょろと動いた後、それは私の晒け出した肌の上を滑り落ち、やがて右手の辺りで止まった。
包丁を持っている右手に。
思わず笑い声が漏れると、先輩は歯を食いしばり、拳を握りしめた。
椅子から立ち上がり、肩に掛けた白の着物が落ちないよう左手を添える。
先輩の額から一筋の汗が顎へとつたう。
「無理、だ」
いつものようにはきはきとしたものではなく、耳を澄ましていなければ聞こえないような幽かなものだった。
「どうして?」
と、問う。
そして、継ぐ。
「『茉莉江』のように描いてほしいだけ。同じようにして欲しいだけなの」
「無理だ!」
先輩は頭を抱え、膝を折った。
私より一回り大きな体は震えていた。
小さなため息をつき、自分の髪が顔にかかるのを払って、その顔を覗き込む。
少し前に切ったらしい黒髪が、汗のせいで額にはりついている。俯いているので、表情は見えない。けれど、どんな顔をしているのか、よくわかっていた。それをぼうっと眺めていると、ぼそぼそと先輩が喋る。
「どうして、わかったんだ」
「どうしてって」
私は口の端を上げた。
「私、先輩の絵が、とても好きだから」
弾むような私の声に先輩は顔を上げた。
こちらを見る先輩の顔は予想通りで、私はまた笑った。
大学で一つ年上の先輩。
先輩の絵は確かに巧かった、奇麗だった。けれど、それだけだったのだ。
包み込むような温かみも、拒絶するような冷たさも、はっとするような奇抜さも、迸るような熱情も何もなかった。
とどのつまり、感情を感じなかったのだ。
惜しい、と私は思った。
何か一つでも感情が入っていれば、人の心に残るものになったのに。
そう思っていた。
ただ一つ、例外が有った。
それが『茉莉江』。
初めて見た瞬間も目を奪われた。
青い着物を着た少女が畳の上に横たわっている。
大きな黒い瞳はこちらを見据えているようにも、ただ開いているだけにも見えた。
着物は完全にはだけていて、白い肌が惜しげなく晒されている。
そして、心臓の辺りに三本の朱い椿を咲かせた少女『茉莉江』。
今までの先輩の作風とは全く違うそれに、私は思ったのだ。
先輩は、この光景を見たのだと。
先輩の耳元に唇を寄せる。
「もう一度、描きたくはない? 『茉莉江』を」
先輩が体をびくりと震わせた。
最後にもう一言。
「私、牡丹が良いわ。お願いね、先輩」
そういって、包丁を先輩に手渡した。
――数年後
とある日本画展で、無名の新人の作が大賞に選ばれた。
黒い着物を下敷きに、畳へ横たわる少女。
長い黒髪が流れるように畳に広がり、裸体を晒した美しい少女。胸に咲くは大輪の牡丹。
『燈子』