歯車のぼくたち
ああ、ぼくは、誰だ。
ずっとさ迷ってきた。ずっと、人の道を離れて歩んできた。この世界に生を受けてから、人の道の中にいたことがない。
風が生ぬるい。ざらざらとした砂を巻き上げて通りすぎるそれは、すれ違い様にぼくの頬に砂粒を叩きつけていく。
もう何十日、何百日、何千日歩いたのかわからない。人と言葉を交わした記憶もとうにない。
最後に食事をとったのはいつだったか。それも記憶から抜けてしまった。誰かと食卓を共にしていた気がするが、それは一体誰だったのか。最後にとった食事は……
目を閉じた。素足をぬるく焼く砂の感触だけが、虚ろなぼくをこの世界に繋ぎ止めている。視界のすべてを埋め尽くす砂が真なる闇に変わるこの瞬間、ぼくは、ぼくが目指す世界を見ることができる。
ああ。
再び目を開くと、そこには再び、命の枯れた砂の世界。生も死もない、無機質な世界。その世界に飲まれたぼくは、果たして生きているといえるのだろうか。
足元に詰まれた砂の山に足をとられて、ぼくは地面に顔をつけた。砂を吸ったようだ。咳き込みながら、その山を手で掻き分けた。山の中から出てきたのは、片方しかない小さな靴。赤茶けた染みがついたそれを再び砂に埋もれさせて、立ち上がった。
ぼく自身が生きているのか、死んでいるのかすらもわからない。ぼくが今いる世界のなかで、意思を持ち存在しているものがぼくだけになってしまった可能性が捨てきれない。しかしそれでもなおぼくが足を止めないのは、心に決めた思いがあるから。
再び歩き始める。
この世界はぼくに冷たい。この世界をただただ歩き続けることだけが存在意義であるぼくに、無情にも夜を贈る。真っ暗闇のただ中をひたすら歩かされて、ぼくは自分の生死がなおさら判別できなくなった。それでも、ぼくは歩く。ひたすら、ぼくは死ぬまで歩く。ぼくは死に場所を探しているのかもしれない。歩き始めたときは、そんなつもりは微塵もなかったというのに。
持ち主を失った靴を見つけてから何十回目かの夜が明けたとき、ぼくはそれを見つけた。それからつかの間、頬に久しく味わっていなかった砂以外の感触を得て、そこで初めてとうに枯れたはずの涙を流していたことに気が付いた。
それは古びた、大きな城だった。砂ぼこりと死に支配されたその城内に、居住者はいるのだろうか。居住者の存在にたいしての絶望と期待からなる焦燥感に駆られながら、腐り落ちた木製の扉を押し開く。
死にかけた扉のか弱い悲鳴だけが、その空間にこだました。
埃と黴の臭いに満たされた冷たい空間。その中央に、動く影がひとつ。この瞬間を待ちわびて、ぼくは何十年、何百年と歩いてきた。
影が、口を開いた。
「もう、手遅れだ」
埃を被った玉座に座したそれは、埃にまみれてもなお美しかった。いつか見た揺れる炎のように赤い瞳がこちらを見ている。それは長い睫毛に彩られた目を伏せて、言葉を次いだ。
「あまりにも遅すぎた。人の世の時間というのは、わたしたちには短すぎる」
血の色をした目が、再びこちらを見た。生気のないその虚ろな瞳の奥で、絶望の色だけが厭にぎらぎらと輝いていた。
赤い虹彩に見つめられて、ぼくは自分の肩に手をやろうとして動きを止めた。背に大剣を負っていたのはどれ程前のことだろうか。とうに記憶からも捨て去った物の存在を思い出してしまうほど、混乱している。
「もういいだろう。わたしも、お前も」
ゆらり。影が玉座から立ち上がった。その動きのなんと流麗なことか。玉座に積もった埃が、落ちる。
「十分に待った。十分に歩いた。互いに、孤独と戦ってきた」
影の赤い目が、まぶたの裏に隠れた。瞬き。再び影が目を開くのと同時に、室内には光が満ちた。
光のなかに現れた姿と対峙して、ぼくは再びうろたえた。ぼくと同じ色をした瞳のなかにぼくと同じ感情を見つけて、悟る。今この瞬間に、空回りしていた歯車が噛み合ったのだ。お互いに同じ思いを抱いている。求めていた解放を、ようやく手に入れることができる。
影の、埃の中にまみれた黒髪が揺れた。それは砂ぼこりにまみれた僕の黒髪とよく似ていた。似ているのは髪だけではない。擦りきれていたんだ衣服も、傷だらけになった肌もよく似ている。ぼくたちは光と影であるというのに皮肉なものだ。鏡のように向かい合って佇むぼくたちの間を、影の声が裂いた。
「決着をつけようか、勇者」
「魔王」
人ならざるぼくたちの、最後の決着。しかし皮肉なことに、どちらが死んでも世界が救われたりはしない。もう、滅んでしまった。しかし戦うしか他にない。ぼくたちは、戦うために産まれたのだ。戦って死ぬしか、他にないのだ。
からん。魔王がこちらに寄越した剣が、冷たい石床に転がる。ぼくは拾ったそれを、魔王は新に生み出した剣を手にし駆け出す。一対の剣が互いの心臓を貫く瞬間、ぼくは自身が欲してやまなかった世界を見た。ぼくより先に、ぼくが守るべきものが行った世界だ。ぼくと同じ色を瞳に灯した魔王も、きっと同じ世界を見ただろう。
ぼくたちが倒れた音も、息絶えた音も、朽ちていき塵になる音も、もう誰も聞くことはなかった。ぼくたちの終焉を包むのは、冷たい静寂だけ。