第一話「橋本君と桜井さん」
白い壁。
防音素材のそれには無数の穴が規則正しく並んでいる。その空間にぽっかりと浮かぶように、黒いグランドピアノが置かれていた。奏者は、ぱりっと糊のきいた真新しい夏服に身を包む黒髪の少女。
校舎の4階、西の果てに位置する音楽室の窓からは県下で一二を争う広大な校庭が一望できた。まだ完全な夏服には移行せず、長袖のシャツをぐるぐると折り曲げた少年が、窓を横切るアルミの落下防止柵に身を預けて下を見ていた。グランドの砂が夏の日差しに焦がされ、目も眩むばかりに白い。
白と黒の空間で白と黒の鍵盤をたたきながら、少女は窓辺でだるそうにする少年に言う。
「いやぁ、音楽って素晴らしいね。橋本君」
「『きらきら星』しか弾けないお前が言うな」
少女の名前は桜井静真。
少年の名前は「橋本君」といった。
「なに言ってるの、橋本君。『きらきら星』は誰もが知ってるポピュラー音楽じゃないか。これフランス民謡なんだよ、知ってた?」
「へー、これフランスの歌なんだー。知らなかったわー。……いや、そうじゃねーよ!」
「あべしっ!」
ド・ド・ソ・ソ・ラ・ラ・ソ♪ を無限に繰り返し続ける桜井さんの後頭部を橋本君が勢いよく叩いた。
その勢いに流されて、ビャリャリャオン、というような愉快な音を発しながら彼女の頭は鍵盤の上を滑っていった。なお、橋本君のフルネームが明かされていない理由については長い経緯があるため、ここでは割愛させていただく。
「おい、ふざけるなよ桜井。いきなり音楽室に呼び出されたから何かと思ってきてみたら、お前の『無限きらきら星大会』じゃねーか」
アルミ柵に死んだ目をしてもたれかかっていた橋本君はぐおっと勢いよく身を翻し、うなるような声で文句を言いつつ桜井さんに詰め寄った。貴重な昼休みを妨害されて彼のテンションは(ストレス的な意味で)MAXであった。
「え? もしかして橋本君てば
『いきなり呼び出したりしてごめん……。実は私、橋本君のことが……』
とか期待してたわけ? ないないない。私は基本的にイケメンしか受け付けないから」
「誰がお前との恋愛フラグなんか回収するか! 俺だって可愛い子と恋愛したいわ!」
「ひっどい! 橋本君酷い! 私だって本気出せば七つの龍の玉だって集められるんだからね!」
「意味わかんねーよ、何をお願いするんだよ」
「そりゃぁ、『橋本君の顔面を矯正してください』って」
「うぜぇぇぇ!」
橋本君は床に拳を叩きつける勢いでやり場のない怒りを発散すべく膝を屈伸させてしゃがみこんだ。
対する桜井さんは、飄々とした態度できらきら星を弾き続ける。血管のキレそうな彼の怒号を適当にあしらいながら、ファ・ファ・ミ・ミ・レ・レ・ド♪ を響かせた。本気とおふざけの区別が付かない彼女を相手にコントのようなやり取りを続ける橋本君の姿はいっそ健気でさえある。
「そんなに怒るもんじゃないよ、橋本君。音楽は人の心を豊かにして人生を楽しくするらしいよ。楽しみなよ」
「きらきら星程度じゃ俺の人生は変えられねえよ」
もうつかれた、と言って橋本君はピアノの横に椅子を引いてきた。正しい座り方とは逆の方向に座り、背もたれの部分に肘をつく。あれだけハイテンションで叫べば疲れるのは当然である。彼が最近高血圧で医者に運ばれたという噂は本当かもしれない。
「仕方ないじゃない、ピアノなんて習ってなかったんだから」
……ポーーン……
無限きらきら星大会に飽きたのか、橋本君をからかうことに飽きたのか、桜井さんは鍵盤を弾く指を止めた。最後に強く叩いたドの音が、空間に余韻を残して消えていく。波状に広がった音波はやがて耳鳴りのする静謐を呼び、それが完全に静まってから、桜井さんはスリッパをぼとぼとと床に落として丸椅子の上で膝を抱えた。
息を吐いて天井を仰ぐことしばし。
その姿は星を探す船乗りのようでもあった。
「はー、なんか面白いことが起こらないもんかね」
「馬鹿か。非日常も続けば日常だ」
「なるほど、正論だ」
学生生活に夢を見ている。橋本君も桜井さんも、クラスメイトの水野さんも岡本君も。
学生であれば無条件に輝けると信じて、制服に袖を通した。
よっこらせとオッサンくさい掛け声をかけて桜井さんは足を下ろす。昼休みの終わりを告げる予鈴がもうすぐ鳴る。橋本君もちらりと腕時計に目をやって、背伸びをしてから椅子を片付けた。
無駄に広大なこの学校で、チャイムギリギリの行動は命取りだとようやく慣れた学生生活の中で彼らは学んでいた。
「五限ってなんだっけ?」
「数学」
「橋本君、私のノートも取っておいて。今から頭痛で保健室に行くね」
「ふざけんな」
「やだ。だって予習してきてない」
「知らねーよ」
「嫌だあああああ今日は出席番号的に当てられるんだああああ」
教室へと急ぐ生徒と教師によって廊下というのは狭くなる。
ほこり舞い散る階段を下り、廊下の途中で桜井さんは校舎一階の保健室へと方向転換しようとした。実際には彼らの教室は長い廊下のさらに先、一年生校舎の上空の最果てである。
予鈴がなった。階段を走って上がらなければ間に合わない。橋本君は絶望の嘆きを叫びまくる桜井さんの首根っこを掴み、周囲から奇怪な視線を向けられながらも教室へ急いだ。
「自分で歩けよ!」
しばらくして、自分に全体重を預けて引きずられるままになっている彼女に怒鳴りながら。
――これは面白いことを探すちょっぴりサディスティックな女の子、「桜井さん」と、その友人である(はずなのになぜか不憫な扱いを受けている)可哀そうな男の子「橋本君」の日常を切り取った、緩やかな戦争の物語だ。