社畜ファンタジー
それほど広くはない室内にデスクが整然と並んでいる。デスクにはスーツを着用した男女が着席し各々パソコンと睨み合ったり、書類を睨み付けたり、むかつく上司をこっそり睨み付けたりするなどして過ごしている。
会社だ。どこにでもある普通の会社。何の面白みもない普通の会社だ。
室内に篭った熱気で曇った窓の外は、朝の天気予報通り雨が降っていた。昼から降り続く雨。明日の朝まで降り続く予報。
天気予報を見ずに出社した一部の社員は『上司の傘パクって帰るか』そんなことを考えていた。現在時刻は16時59分
。普通の会社ならあと1分で退社時間だ。時計の長針が12時をさす。
『17時になりました。皆様お疲れ様です』
室内に備え付けられたスピーカーから、ノイズ混じりの声が聞こえた。
気の早い社員は鞄を手に取り、帰宅の準備を……しなかった。誰一人として。変わらず業務に勤しんでいた。
『帰宅する人は気をつけて帰ってください。帰れるものなら……ね。クックック……』
スピーカーから水晶玉で勇者一行を監視するタイプの魔王のような笑い声が漏れた。
『ククク……帰れるものなら――帰りたい! も、もう嫌です! おうちに帰して! 終電の時間を気にしながら仕事をするのもうやだぁ! シャワー浴びたい! ゆっくりお酒飲みながら溜め込んだテレビドラマが見たいよぉ!』
悲痛な声。聞くものに涙を強制させる哀れな声。
だがそれを聞いてる社員の中に、涙を浮かべている者は一人もいなかった。憐憫の表情すらも。それよりも早く自分
の仕事を終わらせて少しでも早く帰りたいのだ。
『か、帰る! もう私かえ――』
『おい。放送の時間は終わりだ、さっさと仕事に戻れ』
『やだぁ! やだのやだの! もう3日も家に帰ってないんですよ!? ペットのチロちゃんが! チロちゃんが死んじゃう!』
『チロちゃんは大丈夫だ。いざとなったら、隣に住む親切な住民が――』
『この間チロちゃんが、その隣の親切なお婆ちゃんが飼ってたワンちゃん食べちゃってから険悪なんてもんじゃねーんですよ!? 一触即発なんですよ! 回覧版とかに毒塗られるようになったんですよ!?』
『だからお前の弁当、毒消し混ぜご飯が……』
『だからあのお婆ちゃんにチロちゃんが殺される前に――』
『それとこれは別だ。さあ、今からこのよく分からない書類を300枚コピーしろ』
『もうよく分からない書類を大量のコピーするのは嫌です! だ、誰か助け――』
ブツンと放送が切れた。
窓の外には変わらず雨が降っていた。
この会社は普通の会社だ。普通の一般的な……ブラック企業だ。
■■■
「……3日も家に帰ってない、か」
放送を聞いた男が呟いた。
男の名前は佐藤アルス。よくある苗字とよくない名前が組み合わさった、どこにでもいる普通の会社員だ。
そのどこにでもいる普通の顔には、目の隈が深く刻まれていた。何日も眠っていない人間の証。
アルスもまた家に帰っていなかった。
「俺なんて今日で2週間家に帰ってないつーの」
日にして14日。アルスは家に帰っていなかった。
同居している妹から1日毎にあった着信は1週間前に止まった。携帯の電池が切れたのだ。
心配して会社を訪ねてきた妹だが、恐らくは会社の門番……もとい受付に阻まれて自らの元に来れないのだろう。
「フフフ……俺いつになったら帰れるのかなぁ? ていうか終わらせた仕事より新しく増えた仕事の量の方が多いってこれ……永遠に帰れないんじゃないの? へ、へへへ……ヒヒヒ……」
絶望的な考えが頭をよぎり、精神を蝕んでいく。アルスの様に危険状態にある社員は珍しくない。実際アルスの正面に座るゴブリン族の男性社員は彼の家に代々伝わる大切な棍棒を口に咥えながら仕事をしていた。あまりに過酷な状況に精神が退行し、棍棒を母親の乳房に見立てているのだ。有体に言って病んでいた。
「へへへ……こんなに連勤が続くのも、あのクソ上司のせいだ。……そうだ。バット……は危ないから、空気清浄機で頭を殴ってその隙に逃げよう!」
アルスの頭はかなり危険な域まできていた。
立ち上がり、連勤でハイになったテンションにより足が軽い。スキップをしながら上司の席に向かった。
「部長!」
「はぇ?」
アルスがデスクを叩いた音に、書類に目を落としていた部長が頭を上げた。
小柄な少女だ。一見学生にしか見えない。それも小がつく学校の。
オーダーメイドされた小さなスーツに、御伽噺に出てくる魔女のような三角帽子を被っている。
「あー……はいはい。アルス君、何か用?」
「家に帰らせて下さい」
「家かー。あたしも帰りたいなぁ」
届かない夢を見るような視線が宙をさ迷う。
少女――役職部長。彼女の名前はミータス。今はこうして会社に勤めているが、かつては錬金術を生業としていた。
帽子もその頃の名残だ。
関係ないがこの部署の勤務体制については彼女が管理している。アルスが連続勤務する羽目になっているのも、彼女の采配によるものだ。彼女が持つ、社員に連続勤務を強いる手腕は見事であり、社員からは主に畏怖を込めて『連勤術士』と呼ばれていた。
「アルス君今日で何勤だっけ?」
「14日ですよ! 2週間ですよ!? いい加減死ぬわ! つーか帰らせないとそこにある空気清浄機で部長の頭を殴って、その隙に逃げます!」
「こ、怖いこと言うなぁ……。ちょっと落ち着きなよ。あたしが作ったこの栄養剤でも飲んでさ」
ミータスが帽子の中から瓶を取り出した。中に入った紫色の粘性を持った液体が揺れた。
「それ飲んだら記憶ぶっ飛ぶじゃん! 気づいたら3日とか経ってたりするじゃん! つーか俺が文句言いに来る度にそれ飲ませられて……いい加減に気づくわ! それ明らかにやばいお薬じゃないですか!?」
「あ、流石に気づいた?」
「絶対副作用とかあるでしょ? 寝ずに3日も働ける薬とか……後々絶対クるやつでしょ?」
最近髪が薄くなってきたアルスだが、原因はこの薬だと思っている。学生の頃、友人に『お前髪薄いよなぁ』と何気なく言われたアルスだが、それは全く関係ないと思っている。人それを逃避という。
「えへへ」
「笑ってんじゃねーよ! 可愛いなおい!」
やっていることは悪鬼の所業。だがミータムは可愛らしい少女の風貌を持ち、仕草も愛らしいので誰も強くは言えないのだ。実際アルスの胸にふつふつと沸いていた怒りも、彼女を見ると消沈していった。
「ね、アルス君。もうちょっとだけ頑張ってよ。もう少しでこの忙しいのも終わるからさ。あ、そだ! 今日の晩御飯はあたしが奢っちゃうよ! 出前だけど好きなもの頼んでいいよ!」
「……す、好きなもの?」
ここ数日はインスタント食しか食べていない。ミータムの提案は非常に魅力的なものだった。
「何にする? お寿司? お肉?」
「肉……寿司……」
その言葉だけで空腹を刺激される。口内に涎が溢れる。
何か大切なことがあったはずだが、本能的な感情を上書きされた。そもそも長期の勤務により思考力が鈍っている。
「あ、じゃあ今日はお寿司にしよ。んで明日の晩御飯はお肉ね。そうだ、明後日はサンドイッチにしよ! ね、決定!」
次々と差し出される魅力的なフードの数々。食に関する嗜好に飢えていたアルスは半ば本能的に頷いた。頷いてしまった。
「よしよし。じゃあ頑張ってお仕事しよ!」
「あ、はい」
パンと手を叩く音を聞き、自分のデスクに戻るアルス。
あしらわれていた。軽くあしらわれていた。アルスは気づいていない。最低でもこれから3日間勤務が上乗せされた
ことを。
ミータムは聡い。相手の望む物を見通して餌を用意する。故に『連勤術士』。
アルスはその術中に簡単に嵌っていた。こんなやり取りが2週間続いていた。
席に戻るアルスと擦れ違うように、何人かの社員が帰って行った。
自分の仕事を終わらせたのだ。彼らの勤続年数は長い。ミータムの連勤術に対応する術を持っている。
アルスはまだ勤続年数的にまだ新人という肩書きが抜けない。そして単純だ。まだまだミータムの術に抗う術を持っていない。
そしてそんなアルスや僅かな社員のみが室内に残った。現在時刻は19時。外は暗い。
「アルスさん」
デスクに戻り仕事をしていたアルスに、隣の席から声がかけられた。
視線を向ける。
街を歩いていたら10人中9人は振り返るであろう容姿の整った女性がいた。
「まーこさん? どうかしました?」
「私コーヒー淹れてきますけど……アルスさんもいかがです?」
アルスの隣の席で仕事をする『まーこ』は気遣いの出来る美人であった。知的な顔に眼鏡が似合う。何より胸が大きい。アルスの好みであった。ぶっちゃけ付き合いたいが、それができない理由があった。
「ありがとうございます。お願いしてもいいですか?」
「はいっ。じゃあ少し待っててくださいね」
まーこが椅子から立ち上がる。
――瞬間、何日も風雨に晒された自転車を思い切り漕ぐような、不快な音が響いた。転倒したバイクがコンクリートを滑る音と例えてもいい。
「……っ!」
そんな音を響かせながら立ち上がったまーこの顔が、熱湯をぶちまけたかの様に真っ赤になった。
「ち、ちがっ、い、今のは!」
弁解するようにわたわたと手を振るまーこ。その動きにも件の音が追従する。
アルスはぽりぽりと頭をかいた。
「……まーこさん。何日家に帰ってないんですか?」
真っ赤な顔で俯くまーこ。
「……1ヶ月ほど」
「そりゃ体も錆びますよ! 無理し過ぎでしょう!?」
「だ、大丈夫ですよ。ほら、私……ロボットですし」
まーこ改め汎用人型奉仕機械参型mkⅡは笑いながら言った。
ロボットですら体を壊す勤務体制。
はたして俺の体は持つのだろうか、アルスは思った。
「あ、あのあの! 私コーヒー淹れる前に、その……えっと、お化粧直してきますので、ちょっと時間下さい!」
ガリガリと何かが削られる音を発しながらトイレへ向かうまーこ。
オイルを指しに行ったんだろう、アルスは察した。
しかし上には上がいるものである。2週間の自分なんてまだまだ甘い。
そう考えるとやる気が出てくるアルスだが、その時点でブラック企業特有の黒さに毒されていることに彼は気づかない。




